がんばれナラの木

震災にあわれた東北地方の皆様を力づけたくて
The Oak Treeを地方ことばに訳すことを始めました

苦難 2022年

2022年08月04日 | エッセー
この詩に出会ったのは2011年のことですから11年が経ったことになります。その時間が実感とあっているようにも、そうでないようにも感じます。一つ言えることは、あの災害もその一つかもしれませんが、「本当に現実なのだろうか」と思うことが、その後立て続けに起きたということです。とりわけ世界を一変させたと言えるのが、コロナの猛威とロシアのウクライナ侵攻です。
 感染症の流行は自然現象の一つと言えるかもしれませんが、それでも人が野生動物と接触したことから始まったのでしょうから、現在ほど人が自然に働きかけをしなかった時代にはなかったもののはずです。
 ロシアのウクライナ侵攻は、良識というより、常識を破壊するものです。独立国に軍事介入する、一般市民、それも病院や学校を攻撃するばかりか、それをウクライナ軍の攻撃だとする、合意したことを破る・・・こんなことが現実に行われ、もし「ロシアの勝ち」となるようなことがあれば、強いものは何をしてもいいということになりかねません。そんなことが現実に起こるなど、思いもしませんでした。
 福島の原発事故も、地震は自然現象ですが、事故は人為的なものです。排水を海に流すことが決まりましたが、全く納得できません。タンクに貯めたは有害であるからのはずです。それが時間と共に満杯になるのは小学生にもわかることで、そうなったらどうするかを考えないで始めたのでしょうか。そして方針を変えて流すことにした。これは自分の家から出たゴミを撒き散らすことであり、自国だけで決めていいことではありません。そのことは国際倫理、あるいは地球倫理として許されません。もう一つはこの「決定」は国民に説明されていません。国の判断、意思決定は民主的な手続きを経てなされるべきです。汚染行為そのものと、その意思決定の双方に納得ができません。
 「ナラの木」は苦難をうけたものを励ます詩ですが、私たちの苦しさは、苦難を受けることにではなく、加害することにあります。

8年目 2019.3.11

2019年03月11日 | エッセー
あの日から8年が経った。
昨日、NHKで「震災8年の真実」という特別番組をしていた。すばらしいというより - いやすばらしいという評価は違いないのだが - 重すぎて、番組の評価よりも内容そのものに衝撃を受けてしまった。
 先祖伝来の土地に新しい立派な家を建てた我々世代の人が子供たちは帰ってこないと知りながら、かと言ってその家を処分することに決心がつかないでいたが、期限を迫られてオーケーを出した。決心はしたもののいざ重機で家が無残に壊されるのを見て
「気持ちが悪いから」と言ってその場を立ち去った。
気持ちが悪いというのはおそらくその人の心をうまく表現できなかったと思われた。私などにはわからない、先祖代々の土地への思い。そこに若い頃から働いて立派な家を建てて、ついの棲家と決めて、穏やかに暮らそうとしていたはずだ。その家が、大工さんが瓦を下ろし、板を外すというものではない、ショベルカーのような重機で文字通り「破壊」されるのだ。その理不尽さに、その人の心の中に激しい動きがあったに違いないが、それを口に出せば「気持ちが悪い」としか言いようがなかったのであろう。
 家が大きく損なわれたが、仮設住宅よりはよいと思い、応急手当てをして暮らしていたが、痛みがひどくなったので仮設住宅に申し込もうとしたら、役所からは「家がある人は入れません」と心無い断り方をされた。あるいはアパート式の建物に一人暮らしの住人がいたが、死後かなり経ってから遺体が発見された。孤独死であった。住民は同じような例が他にもあるのではないかと心配し、住民の確認をしようと役所に問い合わせたら「個人情報は提供できません」と断られた。一体、行政は住民の良い生活のために仕事をしているという感覚があるのだろうか。
 一人暮らしさの虚しさにアルコール依存になった人が「死んでしまえば何も考えなくていいからその方が楽なんでないかなあ」と力なく語った。

 これらの人は何も悪いことをしていない。ただまじめに働き、平和に暮らし、穏やかな老後を楽しもうと思っていただけだ。人を傷つければ傷害という犯罪となって償いを求められる。当然のことだ。だが、原発事故によっておびただしい無実の人が人生を破壊されたのに、事故を起こした会社も原発を進めてきた国も罰されることはない。それはどう考えてもおかしいだろう。
 これだけの仕打ちを受けた人々は、しかし、その思いを怒りには向けない。ただ自分の心に押し込んで、苦しみ、悲しみ、泣くことさえしない。それは人として立派なことなのかもしれない。権力に抗うことの虚しさを知っているのか、それはしてはいけないことと思っているのか、そのエネルギーを持てないでいるのか。

 大越キャスターの優れた取材と編集による作品は、私の心の深いところにどす黒い液体のようなものを流し込んだ。その作品は、私に言葉や詩が被災者の力になるものではないことも思い知しらせ、現実はそれほどに過酷なものであることを教えてくれた。

 不思議なことに、このサイトには今でも100人ほどの人が訪問している。コメントは何もない。その意味ははかりかねるが、しかし、この詩が力を持っていることは間違いないようにも思う。これを読んで被災から立ち上がるよう頑張ってくださいとは言うまいと思う。それを期待するのは傲慢でもあるだろう。そうではなく、純粋に作品として、人のプライド、力を信じる者への力を与えるものとして読んでもらえばよい。その中に被災した人がいることもあるかもしれない。そう思った。

2019.3.11


どういうことでしょう

2018年06月01日 | エッセー
2018年6月です。私の心の中にはいつでも「ナラの木」のことはあるのですが、待っている「地方訳」は届かないので、私自身がこのサイトをあまり訪れなくなっています。ですから、訪問する人もないと思っていたのですが、最近見たら、随分たくさんの人が訪れてくださっていることがわかり、嬉しくもあり、でも不可解な感じもしています。何か徐々に噂のようなものが広がっているのでしょうか。
 「ナラの木」を読んで心を動かされたら、うまい下手は気にしないで、自分の言葉だったら、「ナラの木」はこんな感じかな、という作品を送ってもらえたらありがたいです。黙って訪問して、覗くだけで何も言わずに去るというのは、なんだか妙な気持ちなんですよ。


6年目(2017年3月)

2017年03月05日 | エッセー
6年目のあの日が近づきました。このブログは低調になってしまいましたが、私自身の気持ちは変わっていません。正確に言えば少し変容してはいます。しかし、「ナラの木」の精神を被災された方に届け、勇気を持っていただきたいという根本的なところはまったく変化していません。もし、「ナラの木」を読んで、「自分の地方のことばにしてみたい」という方がおられましたら、いつでもお送りください。
 さて、2011年のときの気持ちがそのままでないということについて。「ナラの木」を訳し、紹介したとき、3年もすれば復興するだろうと楽観視していました。それは認識の甘さということになるかもしれませんが、関西淡路大震災などの前例を考えれば、そう考えても不思議ではないと思われます。しかし現実はそうではありませんでした。放射能汚染というものの底知れぬおそろしさは私たちの想像をはるかに上回るものだったし、誰にも想定ができないことだったと思います。しかし、それ以外の、津波で物理的破壊を受けた地方の復興は可能であると思っていました。それが大幅に遅れ、見通しも立たないということについて、私は理由がわかりません。
 なぜこれだけ長い時間が経つのに仮設住宅から出ることさえできないのか。私は事情があって宮城県のある仮設住宅に何度か泊まることがありました。粗末な立て付けで、狭く、換気や防音も悪く、1泊だからなんとか耐えるけども、ここにずっといると思うと気が滅入りました。そこに6年もいるということの肉体的精神的苦痛はいかばかりか。しかも、若い家庭が次々と出て行く、あるいは老人でも子供に引き取られて出て行くという中で、身寄りもなく取り残された老人は文字通り希望を断たれ、絶望的な気持ちでおられるのではないでしょうか。これは明らかな行政の不備ではないでしょうか。
 個々の行政担当者が努力しているのはわかるのですが、組織としての行政に限界があるのは明らかです。そういうやりきれなさもありますが、何より哀しいのは、人の心のもつ宿命です。人の脳は忘れるようにできていて、そうでなければ生きることができないということを聞いたことがあります。確かに昔のことはよい思い出のほうが残るように思います。苦しい思い出は事実の記憶はあっても、心をふさぐような気持ちというのは不思議にやわらぐような気がします。そうした心の性質としてでしょうが、6年という時間は頭で事実を思い出しはしても、どこか遠くの問題のようになっていることを正直に認めなければなりません。行政の組織的な問題や、財政的な制約とは違う、私たちの心の限界が、問題を解決できないものがあるのは間違いありません。
 人の心の問題はそれだけではありません。ただでさえ、苦しんでおられる被災者の人々、とくに子供が、心ない子供にいじめられていたということが明らかになりました。それを聞いたとき、にわかには信じられませんでした。自分の学校に福島で被災して困っている友達が来たと聞けば、みんなで元気付けようとするのがふつうのことのはずです。実際、多くの子供たちはそうしたのだと思います。しかし、そうでない子がいた。その事実に本当に心が塞がる気がします。
 家をなくし、逃げるようにして見知らぬ土地にひっこすことの不安。親の仕事の不安。自分の将来への不安。そういう不安をもっている子供は、友達が暖かく迎え入れてくれたとしても、それでも心から笑うことはできないはずです。私も小学生のときに転校生だったから、そのことはよくわかります。ところが、その友達であるべき子供が、あろうことか、ことばや暴力やお金をせびるという形でいじめをしていたというのです。しかも特殊事例ではないとも伝えられました。ことばもありません。
 いじめられた子供は、地震という天災によって故郷を離れるという悲しみを味わいました。それは避けることのできないことでした。しかし子供のいじめは天災ではないし、味合わせる必要のなかったことでした。人としていたわりをもつ、それだけでよいことなのに、なぜできなかったか。私はそこに現代社会の病理を感じないではいられません。
 そうした重い気持ちが、私にこのブログにどれだけの意味があるのだろうと考えさせてしまいます。でも、私の気持ちなどは被災された方々の気持ちに比べればなにほどでもありません。私にできるのは「ナラの木」の心を伝えることだけです。そのために、なによりの力になるのは、「ナラの木」を読まれた方が自分のことばの地方訳を送ってくださることです。6年目のあの日を迎えるにあたり、に改めてお願いいたします。


エッセー

2017年03月01日 | エッセー
  Oakとカシとナラ
  詩を訳すということ
  魂のスパーク
  「東北弁」という言い方
  トマトとトメート
  とても
  とても 2 
  「瓦礫の街」と「自然の猛威」
  「生まれ来る子供たちのために」を聴き直す
  カーソンのことば
  ケセン語ー山浦玄嗣先生のこと,1
  ケセン語ー山浦玄嗣先生のこと,2
  ケセン語ー山浦玄嗣先生のこと,3
  ケセン語ー山浦玄嗣先生のこと,4
  遠望すれば
  緑の波
  もうひとつの津波
  花火禁止  
  ナラの木と土と工 
  福島の米作り  
  一本松:  マツとナラ 
  年の初めに:科学する精神 
  一年が経った
  茶碗、箸、防潮堤 
  胸に染みる空の輝き 
  ごめんね ー 七歳になった君へ
  松を立てる 
  原発ゼロ
  関東と東北 
  恥ずかしがるな! 2013.1.5 
  美しい日本を 2013.1.6 
  「がんばれナラの木」との出会い、齋藤史夫 2013.1.23
  2年 2013.3.13

Oakとカシとナラ 

2011年04月20日 | エッセー

ドイツの小さな町で教会に行った。庭に二抱えもある大きなオークの木があった。数百年のものだろう。思わず手をあわせたいような気持ちになった。「畏敬」ということばが湧いて出た。
「これがオークだな」
と思った。
 Oakはよくカシと訳される。そして樫の字があてられる。その字からも強くて堂々としているというイメージがあり、そのような翻訳がよくされてきた。しかしオークは落葉樹であり、カシは常緑樹である。日本にはシイとカシという常緑のオークがあり、おもに西日本から南日本の暖かいほうに生える。種類もたくさんある。だがヨーロッパにあるオークは基本的に落葉であり、これは日本ではナラといわれる。ミズナラやコナラがその代表だが、クヌギやアベマキなども同じ仲間だ。
 そういうわけでこの詩は「ナラの木」と訳した。

詩を訳すということ 

2011年04月20日 | エッセー

 私は長いあいだ詩を訳すというのは無理だと思って来た。私たちの世代はビートルズ世代だから、当時のアメリカのフォークソングなどをよく歌った。歌詞の意味を知ろうと思って辞書を引いた。ただ、意味はわかっても、それを日本語にしよとは思わなかった。それは「英語のほうがかっこいいから」というだけでなく、歌のもつ大きな要素である、ことばの響きが死んでしまうからである。
 サイモンとガーファンクルの「スカボロフェア」という歌がある。歌詞と歌詞のあいだに背景のように「パセリ、セージ、ローズマリー、タイム」と香辛料の名前が入る。当時はこういうハーブ類もなく、なんのことだかわからなかったが、なんとなく響きがいいと思った。
 香辛料の名前を訳しても、意味がわかっても、歌の魅力は伝わらない。そもそも食文化が違うのだから、こうした香辛料の名前を聞いて、味や匂いを連想することが、「スカボロフェアに行くところなのかい?」という歌詞とメルティングして歌になるのだろう。醤油と味噌の食体系に生きるわれわれにはその気分はわからないに違いない。
 だから詩を訳すなんて乱暴なことだと思って来た。
 でも、The Oak Treeを読んだとき、どうしても訳したいと思った。葉を失い、枝を折られ、樹皮さえ剥がされたナラの木はどうなるのだろうと思っていると、根には触らせないぞと意地をみせ、最後に感謝までして完全に風を打ちのめす。そのことが東北の人のみせる強さとやさしさと重なって、こみあげるものがあった。そして、うまく訳せなくても、その心は伝わるような気がした。
 不思議な体験だった。

魂のスパーク 

2011年04月20日 | エッセー
 「ナラの木」を訳したら、それをきっかけに東北の各地から実にさまざまな地方版が届いた。
 私がほとんど衝動的ともいう感じで訳したのだが、これでいいのだろうかという不安はあった。しかしそれが媒体となって東北の人に届いた。その届きようはまことに驚くべきもので、私の媒体を通り越し、直接、詩の魂に高圧電流がスパークしたかのごときであった。
 それはおそらく方言が心に近いからだと思う。私は鳥取の出身だが、私たち地方人にとって、「標準語」といわれることばは、心と距離がある。生活に不十分さはなくても、微妙な心の動きは伝えきらない。それに、抽象的な詩はいざしらず、木のこと、風のこと、という自然のことは都会人よりよほど身近な存在であり、それを表現することばもはるかに充実している。
 東北のことばはやさしく、力強いと思った。

「東北弁」という言い方 

2011年04月20日 | エッセー
「河内弁」とは言っても「東京弁」とはいわない。それは東京言葉は「弁」ではないという意識があるからだ。「弁」とは「方言」ということであり、それは「訛っており」したがって、「わかりにくい」とされる。
 東京人に言いたい。あなたがふつうの日本人の英語力で、アメリカに行ってしゃべったときに「お前の英語はさっぱりわからない」といわれたらどう感じるだろうか。もとより言葉に優劣はない。違いはあり、長短はあるが、優劣はない。にもかかわらず、日本という国においてのみ、ある地方のことばが「正しく」て、それ意外のことばが「正しくない」とされる。
 東北や九州・沖縄で自分のことばを使った生徒が、一回使ったら札をひとつ首からかけられ、それが10個になったら廊下に立たされたという事実は、さほど遠くない過去に実際おこなわれたことである。そういう誤った教育が言葉にありもしない優劣をつけることになった。
 東北の人はやさしいから黙して語らないが、東北にはあるが、東京にはないことばや表現がたくさんある。もちろんその逆もあって、それはどこのことばの間でもしかりである。
 繰り返すが、言葉に優劣はなく、もちろん正邪はあるはずがない。だから、私はその「匂い」のある「東北弁」ということばを好まないので、使わない。その意味で「津軽弁」とはいわず「津軽ことば」といい、詩には「津軽版」とした。

 「東北弁」といういいかたが嫌いなもうひとつの理由は、津軽、南部、会津と、それぞれの地方に多様なことばがあるのに、ひっくるめて「東北弁」とすることが粗雑だと感じるからである。もちろんこれは「関西弁」や「九州弁」にもある。福岡ことばと薩摩ことばはまったく違うはずだ。

 少なくとも「ナラの木」の翻訳には東北のことばが驚くべき力を発揮したこと、それがいかに豊かな表現力をもっているかは、多くの読者が認めるところであろう。そのどれがすぐれているということではない。ひとつひとつがありがたいほどにすばらしい。

 もうやめようではないか。東京のことばが「標準」であってもよいが、それ意外のことばが「わかりにくい」とか「正しくない」という言い方は。それはただの無知と想像力の欠如であるにすぎない。

 私にとってこの訳詩作業は、そういう東京偏重へのプロテストの意味も持ち始めている。
 

トマトとトメート 

2011年04月20日 | エッセー
若い頃ジャイアントパンダの調査でアメリカやベルギーやイギリスの研究者と、当時は未開地といってよい中国四川省の奥地で過ごした。アメリカの若手のクマ研究者は奥さん同伴だった。彼女はとても明るい人で、よく歌をうたっていた。その中に、歌そのものは覚えていないが「君はトマトというけれど僕はトメートという、でもどちらも同じだね」「あなたはポタトというけれど、私はポテートという、でもどちらも同じよね」という意味の歌があった。順序は逆だったかもしれない。たあいのない童謡にすぎないかもしれないが、私はこの歌詞を考えた。
 きっとイギリス人がアメリカ英語を「訛っている」と馬鹿にしたのだと思う。だいたい古いほうが新しいものを馬鹿にするものだ。この歌はイギリス人が作ったのが、アメリカ人が作ったのか知らないが、そういう違いで相手を「違う」と考えないようにしようと子供の頃から教えているのだと思った。
 人間というのは異質なものを発見し、区別したがるもので、我々生物学者は分けることにはなはだ敏感で、分類学というのはそういう精神が発達させたものだといえる。微細な違いを見いだすのはヒトの本質なのだと思う。だが区別することと差別すること、とくに蔑視したりすることはまったく違うことである。しかし違うことが蔑視を生み、異質なものをさげすみ、憎しみを増幅させるのは人の歴史で常にあったし、今もある。
 日本では言葉という、人にとってはなはだ大切なものに「統一」という功利主義をとりこみ、差別を助長し、それを「近代化」と読んだ。ひるがえって英米ではその違いを認識した上で、それが差別につながらない配慮をした。
 長い山での生活を終えて成都のホテルについたとき、エレベーターにアメリカ人が乗ってきて短い会話をした。そのあと部屋に入ったとき、その夫婦は「彼、テキサスよね」といってニヤッと笑った。訛りを聞き分けたのだろうが、違うということが、差別にはつながっていないことがわかった。

「とても」

2011年04月20日 | エッセー
「とても」 

最近の若い人は「むっちゃ寒い」などというが、去年くらいは「チョー寒い」というのをよく聞いた。この「強調」はつねに変化し新しいものが次々と生まれてくる。ことばが生きていることの証拠であるとともに、古い世代が不機嫌になることでもあるが、これは明治時代以降でもずっと繰り返されてきたことだ。
 「ナラの木」の方言訳をみると、場所的にも変異が大きいようでおもしろい。わずか18の事例であるにもかかわらず、以下のようであった。

すごい系:すごぐ(庄内)、すんげえ(会津)、すげえ(中通り)、すーごい(相良)
ずいぶん系:ずんぶ(津軽1)、ずいぶんと(仙台)
たまげた系:たまげで(八戸)
うんと系:うんと(盛岡1、遠野)
たいした系:てえした(盛岡2)
まず系:まず(村山)
何だって系:何だって(置賜、浜通り)
やたら系:やだら(いわき)
その他:うだでぐ(津軽2)、えがい(茨城1、茨城2)、ごうぎな(長岡)

 これをみると共通だったものが2つあるだけで、ほとんど場所ごとに違うといってよいほど変異が大きいことがわかる。これらは北日本に偏っており、日本の方言は愛知あたりで大きく分かれるから、西日本の訳があればこの違いはさらに大きくなるに違いない。
 同じことばのなかに、変化の激しいものと安定したものがあるのはおもしろい。この、形容を強調する「とても」にとくに変化が大きいというのは、ことばの性質を考えるヒントになるように思う。同時に英語ではそういうことがないように感じるが、ほんとうにそうなのであろうか。もし英語では不変であるとすると、その違いはどこから来るのか、日本語の性質を考えるきっかけにもなるかもしれない。

2011.5.22


とても 2

2011年04月20日 | エッセー
「ナラの木」の地方訳が18集まったとき、冒頭の「たいそう」つまり「とても」ということばの表現が変異が大きいことに気づき、その意味を考えてみました。いま(2012年5月)でその数も28になり、当時ほとんど東日本でしたが、九州まで各地のものが集まりましたので、もう一度集計してみました。

すごい系5:すごぐ(庄内)、すんげえ(福島会津)、すげえ(福島中通り)、すーごい(相良)、すごう(長崎)
たいした系4:たいすた(秋田県北)、たいした(秋田横手)、てえした(盛岡2)、してえ(岩手岩泉)
えらい系3:えがい(茨城1、茨城2)、どえれえ(岐阜美濃)、でぇれぇ(岡山)
ずいぶん系2:ずんぶ(津軽1)、ずいぶんと(仙台)
何だ系2:何だって(山形置賜、福島浜通り)、なんだもねえ(宮城唐桑)
うんと系2:うんと(盛岡1、遠野)
たまげた系:たまげで(八戸)
まず系:まず(山形村山)
やたら系:やだら(福島いわき)
とても系:とーって(大分)
その他:うだでぐ(津軽2)、ごうぎな(新潟長岡)、こじゃんと(高知)、わっぜが(鹿児島指宿)

 前回は違いが大きいことに印象づけられました。その印象は変わりませんが、複数あったものが増えました。全体の数が増えたので当然かもしれません。「すごい系」だけは東北から九州までありました。「えらい系」もそうなのですが、「えがい」と「どえれえ」が本当に同じ系統かどうか少し自信がありません。「その他」にある、うだでぐ(津軽2)、わっせが(鹿児島指宿)、こじゃんと(高知)は対応するものがなく、子供の頃に聞いていないと実感としてわからないものです。長岡の「ごうぎな」も聞いたことはありませんが、「剛毅な」などに関係があるかもしれず、なみなみならぬということでしょう。

「瓦礫の街」と「自然の猛威」

2011年04月20日 | エッセー

 私は音楽が好きで下手ながら歌をうたうことも嫌いではない。野山を歩いているときは、無意識に鼻歌をうたっているようだ。
 あることを契機に、歌詞がそれ以前と違う意味合いを持ち始めることがある。私は孫に恵まれたが、幼い子が歌を覚え、自分がその頃に歌ったのと同じ歌をうたうのを聴くと不思議な感動がある。
 「大きな古時計」は私の好きな歌で、子供の頃に聴いて、ヨーロッパの古い家の部屋を想像し、白髪で白髭のおじいさんを思い浮かべた。子供が生まれてこの歌をうたったときは、そのおじいさんを私の父と重ねていたが、今や私自身になってしまった。私が死んだあと、我が家に古い時計はないが、たとえば私の書斎にある昆虫標本を見せてくれとせがむ孫は、昆虫標本を見て、私のことを思い出すだろうか、などと想像する。そう思うと、この歌のことばのもつ意味が違って響いてくる。
 私のレパートリーは乏しく、昔のフォークなどで、いまどきの歌はほとんど関心がない。それでも、一年にひとつか二つくらいではあるが、ときどき心にひっかかる歌がある。そうした中に「to U」という歌がある。Salyuという若い女性ボーカリストの演奏が飛び抜けてよい。夜更けにふと一息ついてギターをとりだして歌い始めて、歌詞にドキリとした。

瓦礫の街のきれいな花 健気に咲く その一輪を「枯らす事なく 育てていける」と誰が言い切れる?

何度も歌っていたはずなのに、これまでは漠然とヨーロッパの都市をイメージしていた。

また争いが 自然の猛威が 安らげる場所を奪って
眠れずにいるあなたに 言葉などただ虚しく
雨の匂いも 風の匂いも あの頃とは違ってるけど


 若い男女の恋情をうたった歌ではあるが、今この歌詞を噛み締めると、あの大震災そのもののように聞こえる。そして、自分の体を動かして支援ができないもどかしさと、言葉で支援したいと思うことは「ただ虚し」いのではないかという思いが、気持ちを沈める。


2011.6.1

「生まれ来る子供たちのために」を聞き直す

2011年04月20日 | エッセー
「To U」という歌のことばが今回の震災を経験してからまったく違って聞こえたという話を書きました。それとは違う意味ですが、この歌詞も今聞くと違って響きます。
 私はオフコース時代から一貫して小田和正を聞いています。実は仙台の東北大学で同じ時間を共有しています。彼が一学年上で、私が理学部、彼は工学部なので、合同の自然科学系の講義は同じ教室で聞いた可能性があります。メロディや声の透明感が好きですが、それ以上にがんことも言える歌詞が好きです。「生まれ来る子供たちのために」というのは、あの時代、そして今でも絶対ヒットするような歌詞ではありません。後に小田が語っています、確か「さよなら」のヒットのあと、レコード会社は同類の再ヒットを狙った歌を求めたが、彼はそれを断り、人が聞いてくれるようになった今だからこそ、自分たちが歌いたい歌を作ったのだと。私はそういう小田が好きです。
 さて、その歌詞ですが、

多くの過ちを僕もしたように、
愛するこの国も戻れない、もう戻れない


 あの時代、そして今でも「愛するこの国」などということばを歌詞にするでしょうか。このときの小田はまったく計算をしていません。「もう戻れない」は、今聞くと、エネルギーの浪費的な生活様式と聞こえます。原発に頼るような生活から、「もう戻れない」と響きます。歌詞は続きます。

ぼくはこの国の明日をまた想う

メロディはここで収まります。そして

ひろい空よ、僕らは今どこにいる

と続くのですが、歌詞とともにメロディも胸が広がるように高揚感があります。

頼るもの何もない。あの頃へ帰りたい

 この歌は小田が33歳のときに発表されたものです。戦後に育った私たちは大人とは違う社会に生きているという前提で大きくなっていきました。「大人」という、自分たちとは違う時代に生きた人たちがいて、私たちは「こういう大人になる」というモデルなしで育っていきました。後年、私はアメリカやモンゴルの若者に接して、自分たちの受けた教育が非常に特殊なものだったことに気づきました。ふつうの社会には「ああなりたいという大人」がいて、子供はその階梯を登ってゆくことに歓びを見いだすものなのに、戦後の日本にはそれがなかった。「僕らはどこにいるのだろう」「頼るものは何もない」そういうことを考えないで遊んでいた子供の頃に帰りたいという気持ちは、少なくとも私にはありました。
 珍しいことに、歌いながらの歌詞ではなく

-生まれ来る子供たちのために何を語ろう-

 というせりふが入り、またメロディにもどって

何を語ろう

と続きます。当時ビートルズやサイモンとガーファンクルの歌にラジオのニュース音声が挿入されるというようなことがあったので、そうした影響かなと思いますが、なんといっているのかわからないようなボソボソ声でせりふが入るので、却って聞き耳を立てます。
 世代が続く限り、私たちは大人から学び、そして子供たちに伝えるべきものです。それに値するものを私たちは持っているだろうか。何を語るべきなのだろうか。時間は流れ、好むと好まざるとにかかわらず、私たちは大人になり、親になり、愛する家庭を持ちました。

君よ、愛するひとを守り給え

どちらかといえばシャイな小田には信じられないほどのストレートな表現です。ヒットさせたいというような邪心は感じられず、作りたいというより、作らずにはいられなかったという気持ちだったのではないかと想像します。
 空を歌う小田の声はあくまで透明で、そこに抑制のきいた冒頭のメロディで続きます。「真っ白な帆」という歌詞に、本当に純白が見えます。

真白な帆を上げて、旅立つ船に乗り、
力の続くかぎり、ふたりでも漕いでゆく。
その力を与え給え。
勇気を与え給え。


 人がなんといおうと、自分は信じるものを貫く。これはその後実際に小田が実践することです。しかし、誰にも見通しがあるわけではなく、自信もありません。音楽という、リスクがあり、才能だけに頼らなければならない選択をした若き小田は、すなおに力を与えてほしいと訴えます。それはほとんど敬虔な信仰者のようで、レドミレドという最低限の音の動きで着地します。まるで賛美歌でもあるかのようです。
 子供の将来を考え、彼らに語るべきことを知るための努力をし、そのためには社会の無理解があるかもしれない。でも孤立しても自分は愛する人とそう生きる。その決意を歌っています。
 福島の大地が汚染され、子供達が外で遊ぶのを止めないといけない。それが浪費的な私たち大人が作った社会の結果であったのなら、それを見直し、もっと質実な日々を送るべきではないか。劇的で、胸躍らすようなことばかりを追求せず、何事もない平穏な日々こそが尊く、ありがたいということを子供たちに伝えたい。この歌は今の私にそう語っているように思えるのです。

2011.6.7

カーソンのことば

2011年04月20日 | エッセー
 大学の講義で動物生態学の話をしたあと、応用的な側面として保全生態学でしめくくるようにしている。そのときにレイチェル・カーソンのことばを紹介する。ひとつは「国の豊かさは自然にこそあるのです」、もうひとつは「地球は人間だけのためにあるのではありません」である。その説明をしながら、同じことばなのに今年はまったく違って響いた。
 彼女が「沈黙の春」を書いたのが1962年。ジョン・F・ケネディの時代である。私は中学生だったある日曜日にテレビから「ケネディ大統領暗殺」という手書きの文字の画面が出て驚愕したときのことを鮮明に覚えている。そのケネディは「沈黙の春」を読んで衝撃を受け、ただちに農薬禁止に動いて翌年には立法化したと伝えられる。
 私は学生に、「国の豊かさは自然にこそある」ということばは、日本がいかに豊かな自然に恵まれているかということを伝える意味で説明する。まちがいなく日本列島は自然にめぐまれている。その豊かな日本列島を経済発展のために破壊してきたことを反省すべきで、その比較として、中東の経済的に豊かな国が大金をかけてスプリンクラーで植物を育てていることなどと対比すれば、豊かに存在する森林を伐採することがいかに愚かなことであるかというような説明もしてきた。だが、いま福島のことを考えれば、その自然を放射能で汚染したことの罪深さを思わずにはいられない。それは木を切るとか、動物を狩猟で殺すということ以上に、土地そのものを汚染したという意味で自然へのしうちの深さを感じるからである。
 「地球は人間だけのためにあるのではない」ということばはいわば土地倫理のことであり、これは学生には「キリスト世界では人間が世界を責任もって支配せよと教えられ、地球は人間だけのためにあると考えているから、そうでなくほかの生物のことも考えるべきだというカーソンの考えが衝撃的だったのだよ」と説明する。アジア人としてはむしろそのほうが不自然だと思うのだが、そのことを、例えばアメリカ人が自分たちの考えを世界中に強要し、「なぜわからないの?」という感覚と共通なのだと説明する。宇宙に行くことを「ミッション」ということなどにも低通することであろう。アジア人は土地は人間だけのためにあるのではないと感じるから、カーソンのいうことが正しいのだということを確認するような感じである。だが、いま人への放射能の直接的な影響だけではなく、大地の土壌の一粒ずつにまで汚染がいたっていることを知らされたとき、このことばの意味するところが違って響いて来た。おのれの「便利さ追求」のため、不夜城のような街をつくり、電動の階段や台所を使うような生活を求め、その電気を作るリスクを地方に押し付けてきたという、どう考えてもおかしな生活様式の結果、福島の土地を汚染してしまったという動かしがたい事実を目の当たりにしたとき、「地球は人間だけのためにあるのではない」ということばはじかに胸につきささる。そしてこれまで学生にしていた説明が観念的にすぎたという反省がある。
 これらのことばは板書しないでスライドで紹介するのだが、正直にいえば、この部分は昨年と同じものを使った。さらに正直にいえば、これを紹介しながら、ふと大震災のことを思った。説明しながら、昨年の説明とは違う意味があると思ったのだ。準備不足と言えばそうに違いないが、同じことばが読む状況が違えば違う意味をもつということの例であろう。
 ちなみに学生に安全技術を開発しながら原発維持をすべきか、もうこりごりだから節電してでも原発は反対かの意見を聞いたところ、大半が後者であり、意外なような安堵したような気持ちであった。

2011.6.17