goo blog サービス終了のお知らせ 

オーソレ、何それ?

私、o_sole_mioが好きな歴史、旬の話題、
賞味期限の切れた話題等を
適当に書きつづります。

中国地方の戦国武将2:戦国屈指のマキャベリスト

2004-09-10 00:34:19 | 戦国時代
先日、三村元親について書いたが、元親の最大のライバルが宇喜多直家であった。宇喜多直家は、宇喜多一族は後醍醐天皇を院庄で奪還しようした児島高徳の末裔と言われている。直家の祖父能家は、備前国守護代浦上氏の重臣として力を持っていたが家臣間の争いにより討たれた。その息子興家は父の敵を討つどころか、門前町西大寺の豪商に居候する身に安住した。つまり直家は、居候の息子から備前美作の太守に成り上がった人物である。 . . . 本文を読む

中国地方の戦国武将:線の細かった三村元親

2004-08-31 00:09:06 | 戦国時代
知勇に優れ、かなりの勢力を持ちながら、線の細さが災いして乱世を生き抜くことができなかった人物がいる。例えば項羽、個人的な戦闘力は群を抜いていたが、兵を率いて乱世を制する器量に欠けていた。劉邦との政治的な駆け引きに敗れ戦いに勝ち続けながらいつの間にか追い詰められて滅んでしまった。 戦国時代に備中を支配した三村元親は実力がありながら線の細さのため滅んでしまった武将の一人である。三村元親は、備中松山( . . . 本文を読む

福岡と黒田長政

2004-08-23 00:02:07 | 戦国時代
九州最大の都市、福岡市。その中心地は博多と呼ばれ古くから商業都市として栄えていた。今なお東京や大阪と一線を画した独自の文化と地域性を保有している。今回は福岡の地名の由来を紹介したい。 筑前の地に「福岡」の名が使われるようになったのは、黒田長政が関が原の合戦の功で筑前52万石に移封になってからである。黒田長政の父は戦国屈指の策士として有名な黒田官兵衛である。黒田氏は近江の出と言われているが官兵衛の . . . 本文を読む

吉川と宇喜多

2004-06-30 00:02:07 | 戦国時代
吉川広家の妻が秀吉の弟秀長の養女だが、宇喜多家から出ていた。秀長は秀吉の唯一無二の腹心として、秀吉の天下統一の事業を裏から支えた人物として評価の高い人物である。宇喜多家は備前(岡山県東部)、美作(岡山県北部)57万石の太守で、宇喜多秀家は秀吉からことのほか可愛がられ、5大老に任じられた。宇喜多秀家は西軍副将(総大将は毛利輝元)として、関が原へ出陣し、孤軍奮闘した。 広家の妻がもっと長生きし、吉川 . . . 本文を読む

毛利家の重鎮

2004-06-27 00:04:51 | 戦国時代
関が原の合戦以後、毛利家中で重きを増したのは、関が原の合戦で毛利軍の総大将だった秀元である。彼は関が原の合戦後、大坂城に立てこもって雪辱戦を主張したり、戦後の吉川広家非難の急先鋒となったりするなど、「武闘派」ぶりを発揮していたが、輝元が隠居し、秀就が家督を相続した際に後見人として藩政を托される。また江戸時代に毛利宗家の嗣子が絶えた時、秀元の子孫である長府毛利家から養嗣子が出ていることも間接的ではあ . . . 本文を読む

毛利と関が原

2004-06-22 00:04:45 | 戦国時代
 関が原における毛利家の動きは、複雑かつすっきりしないものがあった。  毛利の当主輝元は、表向きは外交僧として家中に重きをなし後に大名の地位に上った安国寺恵瓊と石田三成のラインを通じて、西軍の総大将として各地から大名を集め、自らは大坂城へ陣取った。  一方で、輝元の従兄弟で一族の重鎮的存在であった吉川広家(毛利元就二男吉川元春の二男)が実懇であった黒田長政を通じ輝元の本領安堵を条件に不戦の約を . . . 本文を読む

住んでいるところの話4

2004-06-18 22:30:18 | 戦国時代
清水宗治という戦国時代の武将がいた。羽柴秀吉の備中(岡山県西部)攻めで、毛利方として水攻めで名高い備中高松城の守将を務め、毛利家の安泰と城兵5000人の命と引き換えに切腹し生涯を終えた人物である。その終わり方と高潔な人柄で歴史ファンの間では人気の高い武将の一人であるが、ここはその清水宗治に所縁のある土地なのである。もっとも清水宗治自身は生前に光を訪れたことはない、と言うのは江戸時代に入ってから、嫡 . . . 本文を読む

スローライフと宇喜多秀家

2004-06-17 00:03:45 | 戦国時代
最近スローライフという言葉がもてはやされている。 厳しい競争社会から、抜け出して少々貧しくてものんびりゆったりと暮らすということだろう。 この言葉を聞くと宇喜多秀家を思い出す。彼は望んでそういった生活としたわけではないが、彼も違った意味で苛烈な戦国時代の勝者だったのかもしれない。 宇喜多秀家は、備前美作57万石の大名で豊臣政権の五大老に任じられた人物で、関が原の合戦で敗れ、流人として八丈島で . . . 本文を読む

住んでいるところの話3

2004-06-16 00:22:05 | 戦国時代
今住んでいるところの隣町の旧熊毛町(現周南市)に毛利元就の歯を祭っている廟がある。元就の墓所は広島県の郡山城址にあるのだが、なぜここに遺歯が祭られている理由は以下の通りである。 毛利元就の七男に元政という人物がいた、元就には9人の男子をもうけたが、最初の正室との間に生まれた3人(隆元、元春、隆景)ほど他の子供達は世に知られていない。前に述べた通りこの3人にあてた手紙の中でも、4男以下は「虫けら」 . . . 本文を読む

毛利元就と家族への気遣い

2004-06-13 22:15:46 | 戦国時代
毛利について少しずつ書き進めていこうと思っているが、始めるにあたっては元就について触れざるを得ない。 毛利元就といえば、有名な戦国武将で西日本の覇者であり、改めて紹介の必要もないがここでは家族に対する細やかな気遣いについて紹介したい。 元就は筆まめで子供達に手紙をたくさん書いている。特に長男の隆元、次男の吉川元春、三男の小早川隆景については3人が心を合わせるよう腐心していた内容が残っている。実話 . . . 本文を読む