ニュージーランド移住記録「西蘭花通信」

人生の折り返しで選んだ地はニュージーランドでした

最後の淑女

2021-01-30 | NZ生活
「葬儀はヘラルドの死亡欄で。場所はピュレワ。」
と、元ボランティア仲間から突然メールが来たのが数日前。同じく元ボランティア仲間で最年長だったバーバラが危篤という悲報でした。ヘラルドはNZの全国紙。頼めば葬儀社が家族のメッセージを添えて葬儀の日時などを知らせる死亡広告を掲載します。ピュレワは葬儀場兼火葬場で、人類初のエベレスト登頂を果たした故エドモンド・ヒラリー卿もここで荼毘に付されました。

「娘さんがお葬式の用意をしていて驚いたけれど、家族といものはそうすべきなのね。」
と言ってきた仲間によると、容態はここ2ヵ月で急速に悪化し、1週間前に見舞った時には心の中で「さようなら」と告げるしかなかったそうです。メールの翌日にバーバラは召され、家族の用意周到な準備でその3日後には葬儀という運びになりました。

バーバラは私の父と同じく、1929年にこの世に生を受け91歳でこの世を去りました。日本で言えば昭和4年生まれの昭和一桁世代。第二次大戦を経験し、堅実で、勤勉で、努力と忍耐が当たり前だった世代。戦後の平和と経済成長をもたらし、懸命に生きた果実としてそれらを謳歌した最初の世代ともいえます。

私がバーバラを知ったのは、ボランティアを始めた2006年でした。誰よりも高齢でありながら、誰よりも美しく、気高く、「奥方」という言葉が相応しい淑女でした。物静かで上品な語り口とは裏腹に、抜群のユーモアでみんなを卒倒させるなど朝飯前で、誰からも一目置かれ、慕われる、天性のリーダーでした。コロナがなければ、自分で運転してずっとボランティアに来ていたでしょうが、ここ1年は前々から入所していた老人ホームの戸建てのコテージでご主人と過ごしていました。

彼女の醸し出す気品は目に見えるオーラのようでした。たかがボランティアに来るのでも、きちんと化粧をし、髪のセットときたらたった今、美容院から出て来たかのようでした。これを出勤前に自宅で1人で90代になっても続けていました。服装も常にカジュアルスマートで、本物のジュエリーと香水をまとい、「どこぞにお出かけ?」という姿で、寄付の品が山積みになった倉庫のように雑然とした場所に優雅に毅然と現れるのが常でした。

アートや銀器への造詣が深く、園芸の知識でも並みいるガーデン好きの中で抜きん出た存在でした。何よりも彼女の料理の腕前は誰もが認めるところで、実際に食べたことがなくても、朝日が東から昇るようにそれは仲間内で当たり前のことになっていました。その立ち居振る舞いや尽きない知識から、「いい家の出の令嬢で、いいところの奥様」で、日頃から銀食器やボーンチャイナで食事をし、バラやシャンデリア、絵画やベルベットのソファーに囲まれて暮らしている、というのが仲間が思い描いていたイメージでした。しかし、お葬式で明かされた彼女の生い立ちは、私たちが知らないものでした。

バーバラはオークランドに生まれ、父親は戦争に行き、一時はステートハウスと呼ばれる国有住宅で暮らし、公立校を出て秘書過程を終えて16歳から働き始めました。自分で収入を得ることは、自由闊達で独立独歩な彼女の視野を大きく広げたようです。合唱団に入り、水泳もサーフィンもし、ネットボール(英連邦で人気の主に女子がするバスケットボールのような競技)を楽しみ、ダンスホールでご主人と知り合ったそうで、ごく普通の家庭に育ち、キウイらしく活発で社交的な生活を送っていたのです。

成長の過程で彼女は料理を学び、母親の料理を疑問視するようになっていきました。裁縫、園芸、芸術、クラッシック音楽、オペラ、アンティークや高級品への造詣も自分で深めていき、その中で優美な気品を身に着け、彼女の強さ、公平さ、惜しみなく与えて分かち合う天性の性格と相まって、バーバラは揺るぎない淑女になっていったのです。親や結婚相手の七光りではない自力で培った品格は、いくつになっても色褪せることなく、むしろ輝きを増していきました。

6、70代の多いボランティアの中で90代になってからも、美しさと誰よりも若々しい肌を保っていたバーバラ。その秘密を知りたいと、
「どうしたらそんなに綺麗な肌でいられるんですか?」
と、武骨にも単刀直入に聞いてみたことがありました。返ってきた答えは意外にも、
「いいものを食べなさい。」
でした。
「添加物のない、自分で作った季節の物を食べるのよ。」
という言葉は、医食同源を信じる私の心にストンと落ちました。健康なくして美肌もないと思っています。

いったい何人の女性に、「彼女のようになりたい」と思わせたことか。長い人生でその数は何百、何千だったかもしれません。もちろん、私もその1人です。「100歳までは生きたくない」とはっきりと言っていたこともありました。思い描いた人生を努力と運で切り開いていった91年。「人生のドライビングフォースだった」と語るご主人。英語のドライビングフォースには『推進役』や『原動力』という意味がありますが、なんとバーバラを言いえた一言か。圧倒的な愛と優しさに裏打ちされた力強さと優美さ。激動の時代を生き抜いた最後の淑女。もう彼女を超える人に出会うことはないでしょう。


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編集後記「マヨネーズ」
いつ、誰のお葬式に行ってもNZのお葬式は温かく、正直で、胸に迫るいいものです。笑いあり、涙あり、最後はみんなが笑顔で締めくくれる、理想の人生のような式は、故人の人生の縮図でもあるのでしょう。

R.I.P バーバラ。安らかに。



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ティワイポイント

2021-01-19 | 経済・家計・投資
夏休みにNZ最南端のサウスランドに行ってきました。2019年に就航したオークランド=サウスランドの玄関口インバーカーギル間の直行便は、コロナの影響にもかかわらず定期便として定着しています。国内線では最も長い路線で、飛行時間は2時間。

インバーカーギルには2018年に1度行きました。市の南端、その先は南極というブラフは、有名なブラフオイスターの産地で毎年5月にはブラフオイスター・フェスティバルが開催されています。NZ航空がチャーター便を飛ばしてツアーを催行しているので、フェスティバル参加に日帰りで訪れました。それ以外は移住前に観光客として、クルマで2回訪れたことがあります。

最果ての地で風光明媚な分、観光業、特に外国人観光客への依存度が高い地域だけに、コロナの影響など再訪で思うことはいろいろありましたが、その中で非常に印象に残ったのが意外にも、ティワイポイントでした。ティワイポイントとは英豪資本の鉱業資源メジャー、リオティント(出資比率79.36%)と、住友化学(20.64%)の共同出資で1971年に開業したNZ唯一のアルミニウム精錬所のある場所です。

オーストラリアで産出した原料をわざわざここに運び込みんで精錬しているのには、訳があります。アルミの製造には大量の電力を必要とするため、水力発電で安く十分な電力が賄える、NZ最南端の地に半世紀前に白羽の矢が立ったのです。

精錬所建設はNZにとってまさに国家プロジェクトでした。政府は1971年にフィヨルドランド国立公園内のマナポウリ湖に地下水力発電所を建設し、精錬所への電力供給を保証し、同年にティワイポイントが開業しました。以来50年が経過し、生産の90%が輸出されているため、アルミはNZの主要輸出品目の一つでもあります。大半の仕向け先は日本です。現在、ティワイポイントだけで全国の電力消費の実に13%に達し、サウスランド経済の10%に相当しています。

しかし、精錬所は新型コロナのロックダウンが開けて間もない2020年7月、電力費用の値上がりとアルミ業界の見通し悪化を受け、2021年8月をもって操業を停止すると発表しました。2008年のリーマンショック後にも同じような計画が持ち上がりましたが実現には至りませんでした。しかし、今回はコロナもあり状況がさらに深刻です。

発表が政府への圧力であることは明白でした。電力供給を行うメリディアンは国有電力会社で、大量の電力を必要とする以上、電力価格が採算性を大きく左右するため、大手といえども一外資民間企業が政府に大幅な値下げか、撤退かの選択を迫ったのです。操業停止となれば、直接雇用や関連業種で2,600人が職を失い、サウスランド経済が大打撃を受けることは必至で、政府は操業延期への交渉に乗り出しました。

奇しくも今回の滞在中に、精錬所と政府は電力料金の見直し等で合意し、2024年12月までこれまで通りの操業を続けることが決定しました。50年前の国家プロジェクトは首の皮一枚でつながりました。関係する自治体も国に対し交渉を強く要求していたため、従業員や関連業者、自治体にとっても操業延期は遅れてきたクリスマスプレゼントになりました。

ブラフヒルという見晴台からティワイポイントがよく見え、「行ってみよう!」と急に思い立ちました。岬の先端全体が敷地となっており、一般道から入っていくや道の両脇に鉄塔がズラリと並ぶ異様な光景は圧巻で、まるで鉄の鳥居を時速100キロでかいくぐっていくようでした。全国の電力の13%がたった1ヵ所に向けて、2日前に見たばかりの地下水力発電所から日夜送られているのがにわかに実感できました。


すでにサウスランドをあちこち回ってきた後だったので、何本もの太い電線と並行して走りながら、これだけの経済がこの地で失われることの意味が急にリアルに感じられました。サウスランドの人口は2020年で10万人超。労働力人口比率が60%だとすれば労働力人口は6万人。2,600人はその4.3%。従業員の家族も含めればどれだけ多くの人たちの生活に影響が生じることか。

政府が一民間企業に屈することには賛否両論があるにせよ、今ここで4年の時間を“買った”ことは、従業員にも、自治体にも、政府にも大きな意義があるように感じました。しかし、交渉はこれを最後とすべきでしょう。業況の悪化と雇用の確保は別物で、ティワイポイントが栄光の歴史に幕を下ろすときは確実に迫っている、とも感じました。



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編集後記「マヨネーズ」
国有企業ですがメリディアン・エナジーは上場企業なので、株価は1月7日の史上最高値9.40ドルから急落して、19日は7.44ドル。20%超安。2020年前半はコロナ禍の中で4ドル台のもみ合いが続いていたと思うとまだまだ高いですが、
「電力株が高くて手が出ない💦」
と嘆いていた投資家たちが動き出すのか否か。電力料金だけでなく送電費用など、いくらで手を打ったかによって収益性に大きく反映されそうです。

NZの最南端でいろいろな事が起きており、今回行ってみて改めて興味が湧いてきました。

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20年前の自分と出会う

2021-01-04 | お知らせ・ブログ化
年末年始にかけて暮れのボランティア疲れ(笑)が出たのか、体調が優れなかった私。
「省エネでもできることは?!」
と思い立って始めたのが、2002年から始めていたメルマガのこのブログへの移行です。2019年5月に『メルマガからブログへ』というお知らせを出しておきながら、なかなかエンジンがかからず延び延びになっていました。あの時「17年前の過去から現在を目指す」と言っていたのが、1年半以上が経過してかれこれ19年、メルマガの内容によっては20年前の過去から現在に追いつくための、落穂ひろい的な作業を再開しました。

今日現在2002年6月まで来ました。こんなことでもなければ19年も前に書いたものを振り返る機会などほとんどなく、読み返してはため息。
「これってブログ化してまで残しておくべきもの?」
と自問しながら(笑)、黙々と作業をしています。移行ついでにその後の展開を記す、後日談「ふたこと、みこと」というものを追加している回もあります。

こうして出会う20年前の自分のなんと青臭いこと(爆) 「移住」「移住」で頭の中がいっぱいだったのがよく分かります。すべての道はNZへ続くといわんばかりに、仕事でも、スーパーでも、子育てでも、生活のあらゆる面がNZに、新生活に向いていました。青臭さは実直さでもあり、若さでもあり、エネルギーでもあり、まだまだそこから成長し、発展していく気満々の、恐れを知らない暑苦しい自信でみなぎっています💦

「アラフォーってこんなモンだったのかー」
と、かつての自分に遠い目になるアラカン。『1粒のダイヤよりも』を読んで、21年前には当時住んでいた香港の離島ラマ島に、友人とクラフトの店を出す計画があったことを思い出してビックリ仰天。NZ移住計画が持ち上がる以前の話で、完全に忘れていました。もしも店を持っていたら、月‐金のサラリーママ業とどうやって両立させていたのでしょう?無鉄砲にもほどがある~(笑)

『株はインフレがお好き』はタイトルとは裏腹に、為替の話。2002年にNZドルが主要通貨の向こうを張って世界の大舞台にテイクオフしていくのを、1997年に売却した香港のマンションの売却益という全財産を賭けて見つめていた頃。メルマガでは当たり障りなく書いていましたが心の底では、
「来る、来る、来る、来る、絶対来る!南半球が来る!!」
と信じていました。

『私的21世紀の暮らし方』で書いていたように「より豊富に、より高級に、より便利にと変わっていくことが、幸せにつながると信じられていた20世紀」はもう終わり、21世紀は「より少なく、より等身大に、よりひと手間かけたことが幸せにつながる」と思い始めていた頃でした。そんな暮らしの追及に人口の少ない南半球ほど相応しい場所はないと信じ、NZドルの本格上昇の始まりを目にしたことは密かな感動でした。

長年相場の世界に身を置き、けっきょくのところ「相場を動かすのはヒト」ということを嫌というほど思い知らされてきたせいか、
「世界には南半球の可能性を嗅ぎ分けている人たちがいるんだなー」
と思いつつ、日々チャートを見つめていました。その後、“Less is More”と自分の感覚を代弁してくれる言葉と出会い、翌2003年には中国から持ち込まれた謎の肺炎SARSの流行で肝を冷やし、香港の世界屈指の人口密度の中で「より少ない」ことの価値を噛みしめていました。今回のコロナ禍で主要国中、NZが最も感染を封じ込められた決め手の一つに、人口の少なさがあった事は否定できないでしょう。

同時に香港の将来への憂いは、中国返還から5年しか経っていなかった当時ですら、心の中に芽生えていました。『それぞれの6月4日』『それぞれの6月4日 その2』で漠然と感じていた「いざとなったら天安門の悪夢が繰り返される」という懸念は、幼子を持つ親として決して頭から拭い去ることができませんでした。香港は民主化運動の高まりを受け、2020年7月1日より「香港国家安全維持法」を施行し、50年が保障されていたはずの「一国二制度」はなし崩し的になってきています。

一方で、『深いビーズの泉にて』だの『1粒のダイヤよりも』だのと言っていたことが、『58歳のリタイア』へとつながっていくのは、20年近い歳月を経なければ自分でも思いもつかない展開でした。リタイアにまでなる背景には、私の古いモノ好きが高じた、リサイクルでは飽き足らない筋金入りのアップサイクル志向があります。その片鱗はすでに『アンティークショップは宝の山』に記され、移住後2年で生活が安定したのを機に、こちらでOPショップと呼ばれるチャリティーショップでのボランティアを始め今年で15年目に。これがリタイアの直接要因でもありました。

20年前の暑苦しい自分に対面しつつも、考え方や方向性というものはそうは変わらないということにも気づきます。当時ですら、
「なんのためにこんなに買っているんだろう?」
と思いながらも買い続けたビーズやパーツが、今になって役に立っているこの妙。やはり「ブログ化してまで残しておくべきもの」なのかもしれません。


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編集後記「マヨネーズ」 
それにしても当時のタイトルのセンスのなさ💦『さまよえる氷河』だの『パイの逆襲』だの『株はインフレがお好き』だの。再読するまで自分でも内容が思い出せませんでした。登場する息子たちが、“ちゃんと子ども”なところがなんとも和まされます。

(※2002年のテカポでの2人)


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