ニュージーランド移住記録「西蘭花通信」

人生の折り返しで選んだ地はニュージーランドでした

夢日記:どちらの国ですか?

2015-11-01 | 夢日記・夢関係
初夏を思わせる日差しの中、「私」は夫と思われる誰かと海が見えるカフェでブランチをとりながら寛いでいました。やや高台の店からはビーチが見えず、沖合いにある山でできたような三角の島が目の前に迫るようでした。オークランドで言えば、ミッションベイから見たランギトトと言った構図ですが、島は泳いで渡れそうなほど近く、カフェからは見えないものの土橋で陸地とつながっていそうでした。小一時間もあれば一周できそうな大きさで、木が茂り、実際とは違うもののNZ北島東部のマウントマウンガヌイにいる気がしました。
        
その時突然、島の中央の山頂が噴火を始めました。カフェの客や店の周辺にいた人たちが一斉に見上げています。音もなく水蒸気が出てくるだけで、なぜか「危険はない」と感じました。それは他の人も同様だったようで、驚きながらも誰も逃げようとはせず、珍しい光景を見つめているばかりでした。しばらくすると火口から泡立てたクリームのように白っぽいものが、歯磨き粉でも搾り出すように行く筋にもなって山肌を流れてきました。     



(イメージとしてはこんな場所)



「逃げたほうが良さそうだ。」
その時になって「私」は初めてそう感じ、席を立ちました。流れ出てきたものは溶岩流のようですが熱そうではなく、島とカフェの間には海があるので、噴出さない限り高台のここまで流れてくるはずはなかったのですが、柔らかく粘着力が強そうな得体の知れない物質が薄気味悪く、さらに高い所へ逃げることにしました。

カフェを飛び出すと、目の前は一直線に高台へ延びる立派なアスファルトの車道でした。どこに続いているのか上が見えないほど急な坂で、クルマで上るのも大変そうな傾斜でした。道にはクルマの往来がまったくなく、避難を始めたのかたまたま歩いていたのか、4、5人が話をしながらゆっくり坂を上っていくのが見えました。

「あの"白いマグマ"がこちら岸まで到達したら、この坂道の下に溜まって押し上げられ、道を遡上してくるかもしれない。」
と非理論的なことを理論的に考えつつ、脇道から行くことにしました。ちょうど裏手には車道と平行する細い急な上り坂があり、両側が家になっていました。道には人っ子一人おらず、
「こっちから行こう!」
と決めました。

気がついたら知らない家の中で、誰か若い女性と一緒にいました。女性は知り合いの誰かのようでしたが、声と気配がするだけで視界には登場しません。家は打ちっ放しのコンクリート造りの簡素なもので、ドアと窓、引き出しの付いた小さなチェスト、テーブルと椅子がなければ、ガレージと見まごうような場所でした。
「ここまで上って来たし、コンクリートの中だし、ここは安全かもしれない。」
と思い、唯一の持ち物だった財布をチェストの引き出しにしまい、椅子に腰掛けました。

しかし、不安は拭えず女性と相談してもっと上まで行くことにしました。外の様子が分からないのでドアを開けるのは危ないと判断し、押し開けるタイプのガラス窓を押してみると、ぎりぎりで外に出られるぐらいの幅が開いたので、雑草の生えた庭に降り、さらに上に向かいました。窓から出るときに靴下が引っかかって脱げてしまい、チェストに財布を入れたままだったのに気づいたものの先を急ぐことにし、素足のまま小走りで上っていきました。

少し行くと
「警察だ!」
と思う数人が見え、近づいていくと救助活動をしている若い軍人たちで、みな薄いカーキ色の制服を着ていました。ここまで来ればもう安全で、この先のもっと上った所に避難所があることを知らされ、財布の話をすると取りに行くために付き添ってくれました。周囲には避難する人たちが三々五々坂を上っていましたが、思ったほどの人数ではなく、みな落ち着いていました。恐れていた"白いマグマ"は見えません。

「私」は上って来た細い道ではなく、幅の広い車道を軍人たちと一緒に下り、坂道の途中の赤いドアの家に入りました。中は「私」がたった今までいた家で、チェストの中には自分で入れたプラダの財布(ここだけはなぜか実際の持ち物と同じ)が、そのまま入っていました。ずっと「私」に付き添ってくれていたのか、家の中にいたのか、連れの女性に「あってよかったね」と言われ、「私」も緊張が解けるのを感じました。

次のシーンでは、四角いクリーム色の公民館のような建物が坂の上に見えて来ました。どうもそこが坂道の頂上のようでした。建物の前に出ると、観音開きのガラスの自動ドアの向こうにいくつか机が出ているのが見え、机には女性が1人ずつ座っています。入っていくと一番手前の机の短い金髪の女性が、
「どちらの国ですか?」
と声を掛けてきました。彼女の外見に、
「ヨーロッパの人だな。」
と思いながら、
「ニュージーランドです。」
と答えると、彼女は座ったまま左後方に身を引き、「あちらです」という仕草をしました。

NZの机に行き、別の女性がファイルを取り出して手続きをしていると、奥の部屋から女性数人の大きな笑い声が聞こえてきました。聞き覚えのあるボランティア仲間の声で、リーダー格のケイトの声をどっと湧き起こる笑いの輪が飲み込み、ボランティア先の休憩室そのままの雰囲気が手に取るようにわかりました。手続きを待ちながらも、安堵と今にも笑いの輪に飛び込んで行けるという嬉しさでニヤニヤが止まりませんでした。


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編集後記「マヨネーズ」
「天国への階段」ならぬ「天国への坂道」なのか?

聞き覚えのある仲間の声は先に逝っていたから?みんな20歳ほど年上なので、私がしんがりか(笑)?いつもは夢の中でも夫が一緒か、家に帰ろうと焦って目が覚めることが多いのですが、今回は違いました。不思議なことに数日前に財布を失くす夢を見たばかり。今回は見つかりました。


後日談「ふたこと、みこと」(2022年7月)
この夢での学習効果なのか、4年後にやはり坂道を上って天国に向かう夢、~死後の下見:天国への坂道~を見ました。いつか「どうやら自分は死んだらしい」と気がつくことがあったら、とりあえず坂道を探して上って行こうと思います(笑)


夢日記:夢の中のうつつ うつつの中の夢

2014-06-17 | 夢日記・夢関係
間が開いてしまいましたが、5月末に配信した~夢日記:夢かうつつか~の続きです。前回、
「夢かうつつか判然としない、目覚めたときに、『本当にそこにいて、この経験をした』と実感できるような、やたらに映像が鮮明で、話としても往々に脈絡のある夢を見るようになったのは、東日本大震災がきっかけだったように思います」
と書きました。

その中で、震災直後に大きな赤いリュックを背負い黒いズボンを履き、なぜかシンガポール人旅行者だと思った、背の高い男性を助ける夢を見た話を紹介しました。この夢をいつ見たのかまでは覚えていないのですが、ブログ「さいらん日和」で2011年3月27日の記事にしているので、地震後2週間以内にみていたことになります。曖昧な記憶ですが、震災後数日だったように思います。

瓦礫の間にできた道のような場所を通過しながら、何度も振り返っては「こっち、こっち」と心か頭の中で呟くたびに、男性は顔を挙げ神妙な表情で前を見るものの、「私」を見ているわけではありません。彼には「私」の姿は見えないようです。「私」の呟きは彼の頭の中で、単なる閃きとして浮かんでは消え、消えては浮かぶだけだったのではないでしょうか。「私」はそこに居ながらにして、居なかったのです。

それを確信したのが昨年末に数年ぶりに読み返した、アメリカ人サイキック(霊能者)シルビア・ブラウン氏の「スピリチュアル・ノート」の中で、"あちら側"の定義として、
「この世界に重なるようにしてある違う次元。だいたい地面から90センチぐらい上がったところにあります」
という記述を目にした時でした(この話については、~90cm上の世界~でどうぞ)。 これであの時の「私」と彼の位置関係が理解できました。

圧倒的な高さとありとあらゆる物が積み重なった、この世のものとは思えない瓦礫を見上げながら、「私」はその間を通過していました。しかし、地面がどんな風になっていたのか全く記憶がありません。物が散乱し、本来は道ではない偶然できた隙間なので、さぞや歩きにくかったでしょうに、歩いていた感覚がないのです。どうやら90cm上の世界を漂っていたようです(笑) 「私」が「こっち、こっち」と呟くたびに、180cmはありそうな彼が顔を挙げ、遠い目をしていた意味をリアルに理解するところとなりました。

こうした細かいディテールを思い出すことで、『本当にそこにいて、この経験をした』という実感が深まってきます。幸いチラっとでもブログに状況を書き残しておいたので、震災から2年半以上経って読み返した本の記述に、あの時の状況を思い出すことができました。そうでなければ夢の欠片など、どうがんばってもかき集めることはできなかったことでしょう。

しかし、何よりも『本当にそこにいて、この経験をした』と感じたのは、テレビでは決して見ることのなかった、すぐ近くから見上げるようなアングルの瓦礫、さらに、なんとも形容しがたい深く強い臭い、そして想像を超える重い重い空気でした。肺が下がってくるのではないかと思うほどの重さで、不純物だらけの中からなんとか酸素を吸収しようと、内臓がのた打ち回っているような息苦しさに見舞われました。臨場感という一言でさらりと片付けることができない、身体の記憶として残っています。

興味深いことに夢に出てきた、
「運動会の招待席のように小さなテントを張り、積み上げた段ボールに白い布をかぶせて机代わりにした外国人支援カウンター」
に近い映像を、私はNHKで見ていました。自分も外国に暮らす身。どこにあっても、誰であっても「外国人」と呼ばれる人の存在はとても身近です。

あの夢を見たのが、テレビでの映像を見る前だったのか後だったのか今では思い出せませんが、前だったとしたら、夢の中の私は支援カウンターの存在をすでに知っていたのでしょうか?後だったとしたら、旅行者らしいシンガポール人をなんとかそこまで誘導しようとしていたのでしょう。どちらであっても、あの映像をテレビで目にしたとき、
「自分たちのことで精一杯なときに、外国人のことまで。」
と支援者に感動し、印象に残りました。

こうなると夢かうつつかではなく、夢の中のうつつ、うつつの中の夢ともいえ、前回取り上げた、
「夢と現実がシームレスにつながった、夢かうつつか判然としない体験」
がより自然に感じられます。起きている間の肉体のある状態と、眠っている間のスピリットだけの状態が、記憶の中でどんどん地続きになり、そのうち、
「あれ?これってホントにあったんだっけ?夢だったんだっけ?」
ということになりそうな一抹の不安も。そんなことを言い出したら、誰にも相手にされなくなりそうです(笑)


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編集後記「マヨネーズ」
前回の話から早半月。
「書かなきゃなー」
と思いつつ、次男の青春の記録を優先していたら、昨日の朝になってこれまたリアルな、実際の知り合いを巡る、ドラマのワンシーンのような夢を見ました。
「ナホアパイ!ナホアパイ!」
と、マオリ語の名前を呼びながら目が覚めました。多分、本当に声に出して呼んでいて(傍目には100%寝ぼけた状態・・・笑)、その声で目が覚めたようです。


(一番右の大きな男の子がナホア
パイ。その隣が当時10歳の長男
ご近所のパジャマパーティーで
もうあれから10年!)


「こりゃ、続きを書かねば!」
と、夢に背中を押されるように仕上げました。夢のようなうつつのような体験は、これからどんどん増えていきそうで、いつかは自分が夢の中にいることをわかった上で、スピリットとして翌朝までの時間限定の大冒険に出て行きそうです。


後日談「ふたこと、みこと」(2022年7月):
旅と夢限定の別ブログ「みたび」で夢関連記事を挙げるために、メルマガで取り上げた夢関連の話をHPからここに移行させているうちに、あまりのリンクの多さに移行が止まらなくなってしまいました~💦

ナホアパイなんてこの写真の3年後にはパパになり、2007年に生まれた長男ドンチョイはもう15歳のはず。


夢日記:夢かうつつか

2014-05-31 | 夢日記・夢関係
すーっと吸い寄せられるように建物に近づくと、古い洋風の木造の「家」に不釣合いな、ガラスの自動ドアが建物の内側に向かって開き、「私」はまっすぐ泳ぐように、吸い込まれるように家の中に入りました。ホッとしたと同時にふわっと浮き上がるような感覚を覚え、その瞬間に目覚まし時計が鳴りました。

つい先日の朝の出来事でした。初めて夢と現実がシームレスにつながった、夢かうつつか判然としない体験をしました。まるで私の体内時計が目覚ましの時間を知っていて、幽体離脱していたスピリットがオンタイムに身体に戻ったかのようです。さらに厳密に言えば、目覚ましが鳴る一瞬前に私は目を開けており、時計の文字盤が見えなかったにもかかわらず、音が鳴り出すのを知っているかのように時計を見ていました。

「家」は住んでいる家に似ていましたが、外壁が白い横木を重ねたウェザーボードと呼ばれるもので、我が家ではありませんでした。玄関から真っ直ぐに伸びる廊下、その横が仕事部屋になっている造りは我が家の通りで、夢の中の「もう1人の私」は仕事部屋の自分の机から、玄関ドアではなくガラスの自動ドアからすーっと水平に、つまり宙に浮いた状態で両手を後ろに伸ばし、髪の毛さえも後ろになびかせながら「私」が入って来るのを見ていました。まるで、自分が帰ってくるのを知っているかのようでした。

壁が違っても「家」はこの家であり、かつ私の「身体」の象徴だった気がします。眠っている間の大冒険に出たスピリットが(この話は以前のメルマガ~夢日記番外編:眠っている間の大冒険~でどうぞ)、私が目覚める時間ギリギリに帰ってきたのでしょう。その辺の「帰らなくちゃ、帰らなくちゃ」というスピリットながらの必死の思いは、今までの夢の中で何度も経験しています。


「早く夫のところに帰らなきゃ!」
と、「私」は本来の目的を思い出し焦り始めました。 次のシーンでは、私と「誰か」はグングン空を飛んでいました。両膝をお腹にくっつけるように身体を丸めてから脚を思い切り後に蹴り出すと、面白いように前に進みました。
「なんだー。こんな方法があったんだー。早く言ってよねー!」
と誰にともなく言いながら、私たちは伸びたり縮んだりしながら真っ青ななんの目印もない空の中、家路を急ぎました。夫が起きる気配で目を覚まし、
「戻ってたんだ!」
と思ったぐらいなので、その直前まで夢を見ていたのでしょう。(~夢日記:座敷童子~より)


この夢を見たのは2年前で、あの時は「両膝をお腹にくっつけるように身体を丸めてから脚を思い切り後に蹴り出す」と言っているので、数日前のように「すーっと吸い寄せられるように建物に近づく」ほどスムーズに移動できるようになったのは、我がスピリット、かなり上達したようです(笑) それだけ毎晩毎晩、あちこちほっつき歩いているのでしょうか?
「まるで猫だなー」
と思うそばから、そういえば猫ドアと夢に出てきたガラスのドアは似ています。透明なものがスっと開いて、瞬間に家に入れるところは一緒です。うーん、猫と暮らして学んだのか?

(※今の家の猫ドア)


夢かうつつか判然としない、目覚めたときに、「本当にそこにいて、この経験をした」と実感できるような、やたらに映像が鮮明で、話としても往々に脈絡のある夢を見るようになったのは、東日本大震災がきっかけだったように思います。直接経験していなくても、あの衝撃の出来事は私の中の何かを目覚めさせたようです。地震の後に赤い大きなリュックを背負った東南アジア系の男性を助ける夢を見たのが、その最初でした。

男性は黒いズボンを履き、身長が180cmはありそうなすらりとした人でした。会話をしていた記憶がないのですが、なんとなく「シンガポール人の旅行者かな?」と思いました。不慣れな外国で被災し、地理も言葉もわからず困っているのを「私」が見つけ、誘導しようとしていました。彼は神妙な表情をしていましたが、「落ち着いている」と感じました。

私たちは津波で水が引いた後の瓦礫の間を、大勢の人たちと一緒に移動していました。雪かきをした後のように道らしいものができていましたが、元々の道ではなく、いろいろなものが水平に重なり合った無数の層でできた、垂直の壁の間を進んでいました。みんなが一方向に歩いている訳ではなく、行く人もあれば戻る人もありました。人数の割りには辺りはしんとしており、みなうつむきがちに黙々と歩いていました。

「こっち、こっち。」
「私」は何度も何度も男性を振り返っては、誘導していました。その度に男性は顔を挙げ、相変わらず神妙な表情で前を見るものの、「私」を見ているわけではありませんでした。そのうち私たちは、運動会の招待席のように小さなテントを張り、積み上げた段ボールに白い布をかぶせて机代わりにした受付のある、外国人支援カウンターを出している人たちのところに着きました。中国語が耳に入り、ハングルの表示が見え、
「もう大丈夫。」
と思ったところで夢が終わりました。

(つづく)


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編集後記「マヨネーズ」
10年前の今日5月31日にNZへの移住認可が下りました。翌年の5月31日には永住権を取得しました。同じ日になったのは偶然ですが、私たちには一生忘れられないダブル記念日になりました。

そんな今日は、夫はラグビーのレフリーへ。私はボランティア先のチャリティーショップの助っ人へ。NZへの感謝が愛着に変りつつあるのを感じる今日この頃です。10年前の当日の話は~第7天国・第9積雲~でどうぞ。


後日談「ふたこと、みこと」(2022年7月):
自分のHPからこのブログへのメルマガ移行をしながら、「私のメルマガはリンクが多い~💦」と思いつつ、リンク先も一緒にお引っ越し(笑) なのでなかなか進みませんが、ライフワークのつもりでがんばります💪


夢日記番外編:眠っている間の大冒険

2013-12-07 | 夢日記・夢関係
グレートバリア島という、オークランドからフェリーで5時間ほどかかる離島に行っていました。トレッキング三昧のはずが、連日の雨でロッジに缶詰でした。晴天しか頭になかったので、ビーチに寝転びながら読もうと何冊か本を持参したのは幸いでした。その中の1冊がアメリカの著名サイキック(霊能者)シルビア・ブラウン氏の「スピリチュアル・ノート」でした。


(部屋からの眺め。着いた日と帰る日以外はずっとこんなでした)


出掛けの早朝6時に本棚から適当に引き抜いた数冊のうちの1冊だったので、この本を持ってきたこと自体、何かの思し召しだったのかもしれません。数年ぶりに読み返してみると、意外な記述に目も手も止まり、同じ本でもこちらの受信状態によっていく通りものメッセージを受け取れるものだと思いました。

スピリチュアル・ノートは精神界といった、ざっくり言えば「あちら側の世界」を分かりすく解き明かした教科書的な本です。彼女のサイキックとしての何十年(確か執筆時で47年)もの長い経験を通じて、何千人ものクライアントを診てきた豊富な実績に基づいて書かれており、これでもかこれでもかと引用される体験は、「目に見えるものしか信じない」「科学で証明できることしか受け入れない」という人生がいかに痩せっぽちな、人間の持つ可能性の多くを切り捨ててしまうものであるか、ということに気づかせてくれます。

正直な話、20代からスピリチュアル系の本をぽつぽつ読んでいた私にとり、スピリチュアル・ノートを初めて読んだときに、「人生が変わる!」というほどの衝撃はありませんでした。それでも今回読み返してみて、何度もハッとしました。内容を忘れていたというよりも自分の経験が年齢とともに深まり、引用されている例にピンと来るものがいくつもあったのです。中でも小児科医で臨死体験の研究者メルビン・L・モース博士が序文で紹介していた、交通事故で「溺れかかった」子どもの体験には、目が釘付けになりました。

『車が水でいっぱいになって、突然何もなくなっちゃったんだ。そしたらね、僕、大きなヌードルの中にいたんだよ。だけど、ほんとのヌードルじゃないと思う。だって、ヌードルだったらその中に虹が出たりしないものね。もしかしたらトンネルだったのかもしれない』
少年は、そのトンネルを旅して、動物たちの天国と、人間の天国を見たのでした(「スピリチュアル・ノート」の序文より)

少年は「ヌードル」「トンネル」と呼んでいますが、私は同じものを「チューブ」と呼び、1年半前に配信したメルマガ~夢日記:チューブ~で取り上げていました。博士は少年が語ったような体験を臨死体験と捉え、研究の対象にしています。ということは、緑の濃い有機的な液体がたまっていたチューブをくぐった私も、臨死体験をしたのでしょうか?

結論から言えば、私の場合、夢の中にあっても目覚めている時間を支配している顕在意識が強すぎ、夫や他のチューブ体験参加者(?)が口々に言っていた、
「あんなにキレイなものが見られるなんて!」
という体験はできませんでした。メルマガでは夫以外に、中学時代の同級生が、
「まさか、龍が見られるなんて!」
と言ったことを取り上げましたが、他にも何人もが「美しかった」「素晴らしかった」と賞賛していたのです。何も見えなかった私はみんなの会話に入れませんでした。

私の夢の記憶は、
「翌朝の新聞には、アメリカ人研究者3人が昨晩の探検から戻らず死亡したと報じられていました」
と続きます。あれを書いたときには意味がわからなかったものの、覚えていたとおりに書き残したおかげで(さもなければ、こんな夢の断片などとっくに忘れていたことでしょう)、
「あの『探検』は臨死体験だった」
と自分の中で結論付けることができました。もちろん、少年の「ヌードルの中にいた」という言葉が全てのスイッチをオンにしたのは間違いありません。体験者ならではの表現だと感じました。

スピリチュアル・ノートには「夢が語ってくれる多くの真実」という1項がありますが、ここ最近、「これは『夢』ではなく『体験』だ」としか思えない、眠っている間のリアルな体験を通じて、私は徐々に夢の大切さを学んでいます。これまでメルマガにしたものだけでも、
~チューブ~での臨死体験
~座敷童子~での幽体離脱
~夢の教訓~での「心にないことはしてはいけない」という教え
~生と死~での自分の死のバーチャル体験
(これはその日に予定外の生理を引き起こすほど心身ともに衝撃的な体験でした)
~死の淵~では夫の死を経験し、「子どもたちのために」この世にとどまる決心をしていました。

こうして羅列してみると、眠っている間の大冒険を通じて、人生の真実、生きることの深遠へと導かれているように感じます。これらの冒険は自分が描き出す想像力など到底及ばないほどリアルな世界で、目くるめく状況が次々に起こります。瞬きもできなければ、息もつけないほどで、究極の体験の中で必死に「次の一手」を探し出そうとします。その判断はまさに目覚めているときの私のもので、もしも同じ状況に遭遇したら、私は間違いなく同じ覚悟をすることでしょう。それこそが「『夢』ではなく『体験』だ」と思える根拠であり、夢を通じて学習しているという実感なのです。

雨のリゾートもまた愉しからずや。


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編集後記「マヨネーズ」
公共の電気も水道もない島。電気はソーラー頼み、水は雨頼み。そんな場所ですから大雨ともなれば、外の仕事の大半は休み。飛行機も欠航。鳥の姿もありません。1日1回クルマで15分ほどの最寄りのカフェにコーヒーを飲みに行くのを愉しみに、ひたすら静かに過ごしました。心身ともにたっぷりエネルギー補給ができたので、年末まで、もうひとがんばり!


後日談「ふたこと、みこと」(2022年7月):
2012年のチューブから本格化した夢見スト歴もとうとう10年 始めたときはそれに何の意味があるのか判らなくても、「何でも記録しておいくべきなんだ」と、記録魔はつい手前味噌に思ってしまいます。


夢日記:死の淵

2013-11-07 | 夢日記・夢関係
クルマを降りると、水田が広がっていました。その向こうに目指す高校があります。そこでキャンプに参加している日本からの留学生グループを迎えに行くよう、夫が誰かから頼まれたのです。学校までは田んぼの中の畦道しかありません。

畦道の左側は稲を刈った後に水が溜まった状態で、右側の一段低くなった場所は水田というよりも泥沼のようになっています。ごく最近、ショベルカーか何かで畦道を崩し入れたらしく、沼はコーヒーのように真茶色です。水の濁り具合、土が沈殿していないところをみると、崩したばかりなのでしょう。

「なんでこんなことになってるんだ?」
数日前に留学生を送りに来ていた夫は、その変わりように驚いていました。実際、残った畦道はごくわずかで、これ以上崩れないよう黒いビニールシートに包まれ、シートが飛ばないよう、ところどころ幅の太いゴムのようなもので留めてあります。歩ける場所はシートの上だけです。

残った畦道は幅20cmほどで、道というよりも段差のある左右の水田をかろうじて分けている程度でした。大雨でも降ったら決壊してしまいそうなほど、柔なものでした。ずっと先まで黒い山脈のようにシートが続いており、もはや平らな道はありませんでした。幸いシートの下の土が柔らかいので歩くと平らになり、シートのおかげで足が土に沈むこともありませんでした。非常に歩きにくいですが、「とにかく迎えに行かなければ」という思いで、夫の後ろについて用心深く歩き始めました。

「あっ!」
前を行く夫が一声発し、一瞬にして右側の泥沼に滑り落ちてしまいました。驚いたことに、水田だと思っていた場所は本物の沼だったようで、落ちた瞬間に夫の姿が見えなくなりました。突然の展開と考えてもみなかった沼の存在に身体が強張り、声も出ませんでした。長身の夫が完全に沈んでしまうとは、どれだけの深さなのか。ぶはぁーっと大きな息を吐き、夫が水の中から飛び出てくるものとばかり思っていましたが、出てきません。それどころか落ちた場所の水面には揺れ一つなく、泡粒一つ上がってきません。

「私」はとっさに、持っていた料理用のお玉を水の中に入れました。水中からグッと引っ張られ一緒に落ちそうになるのを、つかむところもないまま必死に踏ん張っていると、お玉がスポンと手から抜け、銀色の柄が光を受けて煌めきながら水の中に吸い込まれていきました。大の大人を飲み込んだ沼は再びお玉を飲み込み、何ごともなかったかのように沈黙しています。

石のように固まり、心臓が口から飛び出そうだった「私」に戦慄が走りました。
「助からない。」
初めてそう思いました。「こんな田んぼ、ぬかるみに足を取られているだけ」という常識的な可能性はかき消され、目の前の泥沼が底なし沼であることを認めざるをえませんでした。お玉を通じて感じたズシりとした重みは、まさに命の重み。夫は生きようと必死にすがったにもかかわらず、さらに沈んでいってしまったのです。

「飛び込んでしまおうか。」
一か八かでも助けられるかもしれない。夫は気を失っているだけで、沼はそんなに深くないかもしれない。でも、助けられず2人とも沈んでしまったら?
「それでもいい。」
正直そう思いました。夫のいない人生など、2度と朝の来ない世界のようなもの。それがどんな場所なのか、知りたいとは思いませんでした。

「でも、子どもはどうなる?」
2人の姿が思い浮かびました。その瞬間も、夫の後を追って飛び込んでしまいたいという衝動にかられましたが、理性が「私」を踏みとどまらせました。「逝ってはいけない」と心の中で呟きながらも、「逝けない」と思うと初めて涙がこぼれました。あったのは親としての責任感だけで、自分の命を惜しむ気持ちはこれっぽちもありませんでした。生とはこんなにも脆く、あっけないものなのでしょうか。「私」は茶色の沼を呆然と見下ろしていました。

そこで目が覚めました。身体に強張りが残ったまま隣を見ると、寝ているはずの夫がいません!一瞬冷やりとしましたが、夫はNZ留学中の知人の息子さんを送るために、朝6時台から出かけていました。出て行く夫と言葉を交わした後、夢を見たようです。じきにクルマの音がし、夫は外にいた猫に声を掛けつつ、何事もなく帰ってきました。


(いつも庭を警戒してくれている
らしいクロとコロ。でも花火の
音にはすっ飛んで帰ってきます)



私が見下ろしていたのは、まさに死の淵でした。夢の中とはいえ、あの恐怖や戦慄。脳も心臓も持てる能力の限界までフル回転し、あらゆる可能性を瞬時に検索していました。そして残った選択肢が、「この世にとどまる」ことでした。覚悟は本物でした。実際に同じ場面に遭遇しても、同じ覚悟をしていたことでしょう。

9月に配信した「夢日記:生と死」では、夢の中で自分が死ぬ可能性を初めて経験し、
「夢と現実がつながった不思議な経験でしたが、死をリアルに垣間見たことで、生のありがたみもまたリアルに実感することができました。夢の教えや導きはまだまだ続くようです」
と締め括りましたが、今回はかけがえのない人を失う可能性を知りました。導かれているとしか思えないこの展開。バーチャルな臨死体験を経ながら、いつの日か本番を迎えるのでしょう。


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編集後記「マヨネーズ」
たかが夢、されど夢。うたかたの体験のなんと饒舌なことか。百聞は一見にしかずで、「夢だから」と片付けられない、現実とのしっかりとした絆を感じます。夫を失う可能性の実感はこれからの人生を生きる、大きな糧となることでしょう。まずは本人を大切にしなくちゃ!

ついでに言うと、NZには水田がなく、私はお玉を待ち歩いたりしません(笑)


後日談「ふたこと、みこと」(2022年7月):
自分が死ぬ可能性といい、かけがえのない夫を失う可能性といい、10年前の夢見スト初級者だった頃は、重~いテーマの夢を見ていたものです。目が覚めた時に『生還』を実感する思いもしました。その辺を経た上で、今は「この世」と「あの世」の境目に多大な興味を注いでいるようです


夢日記:生と死

2013-09-07 | 夢日記・夢関係
大きな買い物袋を腕にたくさん掛け、やじろべえのようにゆらゆらしながら道を行く「私」。何をこんなに買ってしまったのかということは頭になく、ただただ歯を食いしばって帰ろうとしています。大通りに出ました。香港の繁華街コーズウェイベイと下町ワンチャイの中間辺りで片側2車線の広い道です。

そんな道でも時間帯によってはさほど交通量が多くないのと、脇道からひっきりなしにクルマが出てきたり、ガードレールがないのをいいことに人が渡るのとで、クルマはスピードが出せません。100mほど先に横断歩道が見えるものの、荷物の大きさと重さに手を焼いていた「私」は迷うことなく、目の前の通りを横切ろうとしました。周りでも2人連れの若い女性、日傘の年配女性、配達途中らしいランニング姿の日焼けした中年男性などが、三々五々道を渡っていきます。


(イメージとしてはこんな場所
渡ろうと思えば渡れます)


クルマが来ないのを見計らって通りに出ました。片側を渡り終えようとしたとき不意に猛スピードのクルマが後ろを通り過ぎ、風圧で足元がふらついて倒れそうになりました。両腕の荷物で手の自由が利かず、倒れないように足を踏ん張るのが精一杯でした。その時、再びスピードを出したクルマが目の前を走り去って行きました。今度は靴先20cmほどのところを通過していきました。全身から血が引く思いでした。

「早く渡り終えなきゃ。」
と焦れば焦るほど、足がもつれて前に出ません。まるで靴底がアスファルトに貼りついてしまったかのようで、靴の中で足が動くばかりです。その間も前や後ろを容赦なくクルマが走り抜けていき、いつの間にか道にいるのは「私」だけになってしまいました。あたかもどこかの赤信号で止まっていたクルマが、青信号に変わって一斉に飛び出してきたかのようでした。

「どうしよう。歩けない。」
一歩も踏み出せず前にも後ろにも進めないまま、疾走するクルマに挟まれ、「私」は生まれて初めて死の恐怖を味わいました。歩道を行く人が見えるのに誰も「私」に気づきません。走り抜けていくドライバーにも「私」が見えないようです。こんなにたくさん荷物を提げているのに!どれか一つでもクルマに引っかかったら引きづられてしまいます。死の淵にいる怖さで身体が強張り、さらに動けません。

苦しさで目が覚めました。目覚めた瞬間、私はベッドの中で仰向けになったまま、つま先をピンと立て必死で歩こうとしていました。時は冬。1年で一番重たい掛け布団は足先で押したぐらいではほとんど動かず、「歩けた!」と思うほど持ち上がろうはずもなく・・・・
「なんだ、夢だったのかぁ。」
とホっとして苦笑するような場面ですが、恐怖感に圧倒され笑ってすますことができず、私は乱れた呼吸を整えていました。

その日、突然生理が始まりました。2週間前に来たばかりだったので驚きました。年齢的には更年期のど真ん中にいますが、いまだに生理は順調でズレても1、2日のことだったので、2週間に2回目というのは経験したことがありませんでした。私はすぐに夢との関係を疑いました。あの死の恐怖は夢の中とはいえ本物でした。
「あれが生理を引き起こしたのでは?」
ふと20代の頃の友人の話を思い出していたのです。

彼女は1人で海外旅行をしていたとき、危うく強姦されそうになりました。何とか難を逃れ、通りがかったクルマに助けられて警察へ。そこで急に生理になってしまったのです。強姦は未遂だったので出血する理由はなかったはずですが、友人は、
「私だけでなく子宮も死ぬほど怖かったんだと思ったら、自分の身体が愛おしくなった。」
と言っていました。話を聞いたとき、彼女の感じたことは真実なんだろうと思いました。

「身体というものは極限の状態に追い込まれると、子孫をを残すための余力を捨て、自分の身を守ろうとするのではないだろうか?」
と思い当たったのです。卵子を抱き続けることは、ある意味で『余裕』なのかもしれない―――そう思いながら待つこと28日。果たして次の生理がきっちりと、正確に正常にやってきました。
な・る・ほ・ど!

夢と現実がつながった不思議な経験でしたが、死をリアルに垣間見たことで、生のありがたみもまたリアルに実感することができました。夢の教えや導きはまだまだ続くようです。


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編集後記「マヨネーズ」
本当に恐ろしい夢で目が覚めて水を一口飲んだ後も、再び横になる気になれず、しばらくベッドに座っていました。眠ったら同じシーンに引き戻されそうで怖かったのです。その後数日間は寝るのが恐ろしく、仰向けではなく横向きにエビのように丸まって寝ていました。ずっと「死ぬのは怖くない」と思ってきましたが、この夢で「死ぬまでは怖い」ということを知りました。願わくはぽっくり逝きたいものです。

その直後に聞いた話。友人の娘が結婚した相手は、先妻を30代前半の若さで亡くした人でした。先妻は子どもができないことを悩み、専門医を尋ねていました。
「異常なし。次はご主人が来診するように。」
という結果をもらったものの、彼が専門医のドアを叩く間もなく彼女は病に倒れ、亡くなってしまいました。

若さも元気もあるその年齢での急逝が、いかに特別なことかはおわかりでしょう。残された夫は「自分には一生子どもができない」と覚悟して再婚したにもかかわらず、2人の子どもを授かりました。先妻の身体は妊娠できる能力を持ち合わせながら、本人が気づく前に極限まで追い込まれていたのではないだろうか、と思わせるエピソードでした。


後日談「ふたこと、みこと」(2022年7月):
9年ぶりに読み返しても、あの時の恐怖で呼吸が速くなります。泡沫の夢も記録として残せば、その経験は消えないのだとつくづく思います。

夢の中で「自分の姿が人に見えていないのかも?」と、気づき始めた夢でもありました(いつもそうとは限りませんが)。移住から9年も経っていたのに、当時は移住前の香港が舞台になることもよくありました。

夢日記:夢の教訓

2013-07-03 | 夢日記・夢関係
旅行中に十数年ぶりに会う友人一家を訪ねました。大きくてモダンな家。壁はコンクリートの打ちっ放し。家の中にはいくつも段差が設けられていて、自分が1階にいるのか2階にいるのかよくわからないまま、あっちへ案内されこっちへ案内され、広々とした家の中を見せてもらいました。

全面が窓になったダイニングルームには、ゆうに10人以上が座れる細長いテーブルがあり、テーブルランナーの中央には豪華な花。その両脇にはオードブルやサラダ、チーズプラトーやパンの大皿が置かれ、ワインにワイングラス、ミネラルウォーターにグラスと、ガラス器も林立しています。これからランチが始まるところです。

招待されていたのは私たちだけではなく、他にも数組の夫婦がいました。息子たちは友人の子や招待客の子たちと一緒に家の中を走り回っていて、テーブルには寄ってきません。どこかに子ども用のテーブルも用意されているのでしょう。大人だけのワインと談笑の食事となりました。

食後は三々五々となり、子どもたちのドタバタを離れて夫と一緒に庭に出てみると、突然クルマの音がしました。音がした方角を見ると、大きな黒塗りの4WDが今しも敷地内から出て行くところでした。運転席と助手席には友人夫婦が乗り、後にも人が乗っているようですが、窓ガラスが暗くて中が見えません。

「出かけたの?私たちに何も言わないで?」
驚いて室内に戻ると、相変わらず子どもたちが追いかけっこをしているばかりで、大人の姿がありません。友人の娘を見つけて事情を聞くと、
「パパとママはみんなのパパとママを送りに行ったの。」
と言います。

宴の後。ついさっきまでの大人だけの和やかなひと時が雲散霧消し、その後には黒雲が垂れ込めてきました。なんという後味の悪さ。
「私たちもホテルに帰らない?」
と夫に言うと、
「でも、『泊まっていって』って招待されてるからなー。このまま帰っちゃっていいのかな?」
と良識的です。そこにひょこっと11、2歳の長男が現われ、
「今日この子たち全員お泊りなんだって!」
と嬉しそうに言いました。

ザっと見ても子どもだけで10人以上います。息子たちにとっては遊び友だちがこんなにいて楽しくて仕方ないところですが、「私」にしてみれば、
「いくら大きな家だといっても、これだけの数が全員泊まれる?」
と、ますます心の黒雲が厚くなり、この場を立ち去りたくなりました。
「ボクたちが帰ったら、家の中に大人が1人もいなくなるなー。いいんだろうか?」
夫はどこまでも良識的でした。

「どうしよう、どうしよう。」
というところで目が覚め、夢であったことに心からホッとしました。同時にいまや連絡がなく、お互いどこでどうしているのかも知らない、かつての友人一家のことがリアルに思い出されました。きっと彼らは夢に出てきたような生活を送っているのでしょう。そんな雰囲気を好む夫婦でした。

私たちには共通点がいくつかあり、親しくなりそうな要素がありました。一緒に外出したり食事をしたりしていた時期もあります。子どもたちは喜び、仲の良いファミリーフレンド(家族付き合い)という感じでした。しかし、帰ってからの心身ともに感じる疲労感は格別でした。子どもが小さいうちの外出は疲労困憊するものですが、それとはまた違う心身の重さがずしりと来る、自分が疲弊していることをリアルに感じる疲れでした。これは無理をした証拠です。「子どものために」「お付き合いもあるし」と、私らしくなく「社交辞令的に」「常識的に」頭で考えて動いた結果に、心身がついていけなかったのです。

夢の中で心に広がってきた黒雲の正体は不信感です。
「私たちがいながら、黙って出て行くってどういうこと?」
「歓迎されていなかったんだろう。やはり来るべきではなかった。」
と、本当は気が進まなかったのに旅行のついでに声をかけたこと、多分、先方もお義理だったのであろう招待を受けてしまったことを、夢の中ですら反省していました。

「心にないことはしてはいけない」
それが夢の教訓でした。価値観にズレがあることは、お付き合いをしている頃から分かっていました。心の底から愉しめないのであれば、それが一般的にまかり通っても「してはいけない」と心に刻まれるようでした。仕事のように個人よりも全体が優先される場では社会常識のような共通のルールが必要で、報酬を受け取っている以上、私もルールに従って考え行動し、企業という全体の利益を追求します。

しかし、こと個人のこととなったら話は別です。もっともっと自分を掘下げ、深く、豊かに、正直に生き、愉しむこと、幸せであること、心身ともに健やかであることに真摯に取り組み、生を受けたことへの感謝を生きていかなくてはいけないのだと思いました。気づくためにも、軌道修正のためにも、「上手くいかないこと」は必要なのです。


(2012年のクライストチャーチ旅行で、
友人が連れて行ってくれたカシミヤヒル
からの市内の夜景。自分たちだけでは決
して訪れることがなかった場所なので、
貴重な旅の思い出になりました。彼らと
の友情は今も続いています)



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編集後記「マヨネーズ」
「どうしよう、どうしよう」という焦燥感と夢だと分かったときの安堵感の対比には、自分でも苦笑してしまいました。あまり上手くいかなかった、何年も前の交友関係という「忘れていたこと」。でも「終ってはいなかったこと」だったと気づき、今回の夢で本当に「完」となりました。

経験上、「上手くいかないこと」を演じる役者は、役目を終えると舞台から消えていきます。彼らが立ち去るタイミングは自分の気づき次第で、「上手くいかないこと」を相手のせいにして自分が変わらないうちは、ずっと居座るようです


後日談「ふたこと、みこと」(2022年7月):
書き記しませんでしたが、4WDが出ていくとき、「私」は運転していたご主人の横顔を見ていました。怒りをかろうじて抑えたような仏頂面で、ハンドルを切って逃げ去るように敷地内から出て行きました。「自分たちがこんなにも疎まれている」と感じたのは夢の中でも衝撃的で、両家の交友には社交辞令以外1cmも先がないのだと思いました。


人生には始めることも重要ながら、終えることもまた重要なことが多々あると、年を重ねるごとに感じます。

夢日記:座敷童子

2012-08-26 | 夢日記・夢関係
長い長い夢でした。夢の中でさえ、
「えーっと、どことどこへ行ったんだっけ?」
と記憶を整理していたぐらい、長くて複雑なものでした。「私」は小柄な「誰か」(思い出せませんが、女性のような気がします) と、迷子になってしまいました。

帰り道を探しているのに見つけられず、いろいろな国のいろいろな場所に行き、思いがかけない経験をし、ますます焦っています。それも、ただ帰れないのではなく、自分の身体から抜けてしまった意識か魂が、残してきた身体に戻れなくなってしまったように感じました。

そもそも夢というものは意識や魂が一時的に肉体を離れる幽体離脱の一種らしいですが、「私」は夢の中でもぼんやりとそれを自覚していました。それゆえに、
「早く帰らなきゃ!」
と荒唐無稽な経験の中で、どこか冷静に考えていました。

いくつかのハラハラドキドキの思い出せない冒険譚を終えた後、「私」と「誰か」は家の中に居ました。木造の洋館でヨーロッパのどこかのようでした。家には誰もおらず、ホッと一息つくやいなや外から人の声が聞こえ、ドアが開いて女性が3人が入ってきました。驚いた私たちは一瞬にして大きな食器戸棚の上に身を隠しました。

隠すといっても戸棚と天井の隙間に縮こまっているだけで、姿は丸見えです。
「どうしよう!?」
と思っていると、キャメル色の起毛コートを着た、女優のシガニー・ウィーバーに似た女性がつかつかとこちらにやって来ました。

「私」と「誰か」はこれ以上小さくなれないほど縮こまって、心臓が口から飛び出そうになるほどドキドキしていましたが、彼女は私たちに気付きません。リビングにいるらしい2人の女性と、何語かでおしゃべりを続けながら戸棚のドアを開け、うつむいてティーカップか何かを取り出しています。

「気がついてない!」
50cmと離れていない彼女の亜麻色の髪を見下ろしながら、そう思いました。彼女たちが話しているのはデンマーク語で(そう思っただけで、私はデンマーク語がどんなものかは知りません)、何を話しているのかは全く分からなかったものの、たわいもないおしゃべりのようでした。

その時、ふと彼女が頭を上げ、狭い隙間に固まっている私たちを見ました。
「気がついた!」
「私」は観念しました。しかし、彼女は無表情のまま、すぐに視線を落としました。
「私たちが見えないんだわ。」
「私」は背後で震えている「誰か」に心の中で囁きました。

「見えるわよ!」
その時、突然、彼女はしっかりとこちらを見上げ、「私」にも理解できる言葉ではっきりと答えました。
「ねぇ?」
と彼女が同意を求めると、いつの間にか部屋に入ってきていた2人の女性も、ちょっと離れたところでうなずいています。驚いて言葉も出ないでいると、
「あなたたちはエンジェルなんでしょ?」
と、言われました。




エンジェル?




戸棚と天井の隙間で小さくなって怯えている私たちが、エンジェル?!しかし、彼女は相変わらず無表情で、天使に遭遇したからといって特に嬉しそうでもありません。どうやら私たちの会話を可能ならしめている一種の自動翻訳機のようなものが「エンジェル」と訳しただけで、
「彼女にしてみれば、私たちは座敷童子なんだ!」
と気付きました。

部屋の隅にいる妖しげな存在。悪さをしなければそれでよしとされる存在。喜ばれも疎まれもせず、気がついても無視される存在。泥棒と間違われて大騒ぎになるよりはましでしたが、なんとも居心地が悪く、
「早く夫のところに帰らなきゃ!」
と、「私」は本来の目的を思い出し焦り始めました。

次のシーンでは、「私」と「誰か」はグングン空を飛んでいました。両膝をお腹にくっつけるように身体を丸めてから脚を思い切り後に蹴り出すと、面白いように前に進みました。
「なんだー。こんな方法があったんだー。早く言ってよねー!」
と誰にともなく言いながら、私たちは伸びたり縮んだりしながら真っ青ななんの目印もない空の中、家路を急ぎました。

夫が起きる気配で目を覚まし、
「戻ってたんだ!」
と思ったぐらいなので、その直前まで夢を見ていたのでしょう。
「あー、よく寝た。今日は洗濯しないよ。」
と、起きた瞬間から洗濯の心配をしている洗濯魔の夫の一言で、私のいつもの1日が始まりました。


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編集後記「マヨネーズ」
「正直な話、人の夢の話を聞くことほど、ある意味つまらないものはないと思います(中略)シリーズ化しないように気をつけます(笑)」
と言ってから1ヵ月半(前回の話はコチラで)。またまた不思議な、「あの世」と「この世」がつながる夢を見ました。

「枕元にメモを置いて夢日記をつけて・・・」などというマメな事は相変わらずしていないので、大半の記憶は失ってしまいましたが、
「見えるわよ!」
と言われた衝撃のシーンの前後だけは、ショックが大きかったのか覚えていました。女性の部屋の中の様子や清々と飛んだ青い空まで、はっきりと思い出すことができます。しかし、なぜか夢の中でも夫がよく出てきます(笑)


(こんな夏色の空でした)



後日談「ふたこと、みこと」(2022年7月):
小柄な「誰か」(思い出せませんが、女性のような気がします) と書いていますが、夢の中での設定は「妹」でした。しかし、実在の妹ではなく、ヒトでもなさそうな、うんの小さな精霊のような存在でした。夢の中でさえ「私」は彼女の姿を見た記憶がなかったので、「妹」と書き記す勇気がありませんでした。しかし、夢日記を残しておいたおかげで、10年後の今でも「妹」とされながらそれを書き記さなかった自分の迷いを思い出すことができます。


夢日記:チューブ

2012-07-04 | 夢日記・夢関係
「夢日記をつけた方がいい。」
本で読んだり、何人かの人にアドバイスされて早幾年。どうも記録の手間と効果のほどの相関関係がピンとこない現実主義者。しかし、昨朝の夢はそんな疑念を霧消させるような、不思議で鮮やかな夢でした。そして何より目覚めたときに、これは「見た」のではなく、「経験した」と強く自分で信じることができた夢でした。

いくら鮮明でも夢は夢。目覚めた瞬間から指の間を水がこぼれていくように消えてしまいます。枕元にメモ帳を置いて、夢から覚めるたびに覚えている限りを記録していくとだんだん記憶力が鍛えられるそうで、それも夢日記をつける目的の一つというのもわかるような気がします。前置きはこれぐらいにして、思い出せる限り昨日の夢を記録してみます。

夜。場所は香港随一の怪しげな場所、九龍城。私たち一行はバスに乗ってやってきました。7、8人、いやもっといるでしょうか。薄暗くてよく見えません。白人数人とアジア人数人のグループのようです。

いつの間にかボロボロのビルの中の薄暗い部屋に来ていて、部屋の隅、窓の下に丸くて浅い五右衛門風呂のようなものがあります。窓の外は近代的なビルの一部と、街灯が道を照らしているのが見え、香港らしい眺めですが九龍城っぽい立地ではありませんでした。

五右衛門風呂の中は緑の濃い有機的な液体がたまっていて、なんとなく温かいように見えました。まるで藻が茂ったかのようで透明度は全くなく、どろどろとしているように見えます。そこに一緒にやってきた人たちが足からスルっと飛び込んでいきます。

部屋の中のはずなのに、飛び込んだ人の姿は液体の中に消え、次々に人が入っていき、誰かが「この先はオーストラリアに通じている」と言っています。とうとう夫まで行ってしまい、私も慌てて鼻をつまみ、目をつぶって足から飛び込みました。

五右衛門風呂はチューブのようで、私は落ちるというより滑るように深く深く潜っていきました。あまり怖くはなく、苦しくもありません。体温のように生温かい感じがしました。中で目を開いたように思いますが、緑が濃く暗くて何も見えません。正確に言うと無我夢中で見る余裕がなかったようです。

なんとなく苦しくなってきたと思うや、気がつくと暗い部屋に戻り、五右衛門風呂の横に横たわっていました。身体が濡れてしまったせいか薄ら寒く、部屋には私は1人で、「どうしよう」と思った瞬間に、夫が風呂の中から出てきました。
「いや~、あんなにキレイなものが見られるなんて。」
と感動しています。私は何も見えなかったものの、あまりの脱力感から「何が見えたの?」と聞くのも億劫で、「そうね」と話を合わせました。

何人かが次々に戻り、床に横たわっています。私も含め身体が緑の濃い液体でどろどろしているようですが、よく見えません。その時になって、「よく潜水具もつけないで潜れたな。ボンベもゴーグルもなかったのに」と思いながら、ダイビングをしていた頃の道具が一つ一つ頭に蘇ってきました。その時、おもりだけは腰につけていたのに気付きました。

不意に日本人の女性に声をかけられ、
「まさか、龍が見られるなんて!」
と彼女は興奮していました。暗い部屋で夫の顔さえ見えなかったに、なぜか彼女の顔は明かりが当たっているようにはっきりと見え、
「高垣さん!」
と驚きました。彼女は中学生のときの同級生で天然パーマといい、つるりとした肌といい、当時のまま大人になっていました。

翌朝の新聞には、アメリカ人研究者3人が昨晩の探検から戻らず死亡したと報じられていました。なぜか私たちもその場に居合わせたことは書かれていませんでした。赤毛にそばかすのある、いかにも研究者風の細身の若い男性と話をしたことを思い出しました。内容は思い出せませんでしたが、彼は底まで潜る意義を説いていたようです。

研究者とは戻ってから話したように思います。彼は新素材風の軽めのスポーツジャケットを羽織りピタピタの細身のパンツをはき、緑の液体が付着していなかったので、底まで行かなかったのでしょう。いずれにしても新聞を読んでからとても危険なことをしたのだと気付き、夫とともに無事戻ってこられてよかったと思いました。

目覚めた瞬間、纏わりつくような緑の濃い液体の感覚がまだ身体に残っていました。手足は動いてもなんとなく重く、スローモーションになってしまうのです。液体はベタっとしていましたが、特に嫌な感じも不潔な感じも、匂いもありませんでした。その感覚が残っていたので「経験した」と思えたのです。逆に、「あっ、あれ(液体)がなくなってる」と思い、「そうか夢だったんだ」と現実に引き戻されました。  


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編集後記「マヨネーズ」
正直な話、人の夢の話を聞くことほど、ある意味つまらないものはないと思います。当の本人は夢ならではの荒唐無稽な経験を感情豊かに語るのですが、辻褄の合わないハチャメチャな話は本人にしかわかりようのない世界で、聞いてるこちらは感動の外に置き去りにされたままです。

それがわかっていながら今回の配信に踏み切ったほど(10秒ほど考えましたが)、不思議な目覚めでした。シリーズ化しないように気をつけます(笑)



(これは香港・湾仔の雑居ビル。夢に出てきたのはこれよりもっと古く、怪しげなビルでした)



後日談「ふたこと、みこと」(2022年7月):
これが記念すべき最初の夢日記だったと思います(部分的にどこかに書いていたとしても)。あれから10年。夢見ストはだいぶ進化を遂げ、4年後には夢日記と旅行記限定のブログ「みたび」を立ち上げ、「シリーズ化しないように気をつけます」どころではなく、6年後の今も続いています


夢を「見た」のではなく「体験した」と強く感じ、その衝撃から書き残した最初の夢日記。その意義の大きさは後になればなるほど実感でき、なぜ人から「夢日記をつけた方がいい」と勧められたのかがわかりました。このチューブ体験は臨死体験だったのだと、後から推しはかられるところとなったのも記録しておいたおかげでした。