ニュージーランド移住記録「西蘭花通信」

人生の折り返しで選んだ地はニュージーランドでした

年女の年の11月

2022-12-02 | 人生・老後・夫婦
ほぼ1年ぶりの更新です。
これこそ元気になった証拠なのか?

他覚症状のない、自覚症状だけの不調と渡り合うのは大変なのを実感しました。


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今年も12月に入り、はっきり感じているのが「ひと山超えた」ということ。長く生きてくる中で、自分が年女の年は試練の年になることを実感してきました。今年はトラ年で、私は2月に還暦を迎えた年女。誕生日後の2月下旬頃から、小さいながらも様々な問題が身の回りで起き、そのひとつひとつの対応に追われながら、心身ともに疲弊していくのを感じる期間が続きました。それが11月でふと終わった気がします。

思い返せば、年女の年の試練は11月で解消されてきました。さすがに12歳の11月は思い出せませんが、24歳の11月ははっきりと思い返せます。フランスにいた私は1年間の留学予定を早めに切り上げ、11月の暗く寒く、テロが頻発する危険なパリを脱し、底抜けに明るくはちゃめちゃで、元気はつらつな香港に飛びました。街中に漂う干し魚や香辛料などほのかな中華の匂いをかぎ分けつつ、「前向きさ」と「安全」がこうも貴重なものなのかと、骨身にしみる思いで街を闊歩していました。

36歳は仏心から香港に進出していた日本企業の資金繰りを助けるため、ほんのつなぎ融資のつもりで資金を貸与したところ、返済してこないどころか、私たちがその会社の資金を持ち出したと言いがかりをつけられてしまいました。ネット上で根も葉もない黒い噂を流され、彼らの弁護士から返済を迫る手紙が届く事態となりました。私たちの手元にある借用書は「でっちあげ」、資金は私が「株で運用している」という荒唐無稽の作り話。こちらも弁護士を立てて争い、全額返済されたのは10~11月頃のことでした。

48歳は大過なく過ごせましたが、不思議なことに11月に入るや、3日3晩「ご先祖さま」だか「守護霊」だか「ガーディアンエンジェル」だかの訪問を受け、歯がきしむほどの悪寒と金縛りの中で何時間も「説教」を受け、人生をリセットする事態となりました。そうでなければ私の健康か命が危ぶまれる状況だったそうです。本人に危機意識がまったくなかったので晴天の霹靂でしたが、貴重な体験を得ました。あまりにも説明不能な状況なので、覚えている通りにブログに記録しておりご興味があればご覧ください。

では60歳の今年の試練はなんだったのか。今振り返ると、メンタルでした。何がなんでも生きて行こうとする健全な精神状態から程遠い、朝、目が覚めたときが1日の最悪で、「もうどうでもいい」「人生が今日で終わっても構わない」という無気力な状態を一定期間経験し、今また健全な状態に戻ってきたように感じます。

無気力は周到に用意されていました。ここ最近、私は血糖値が不安定になっていたため、3月中旬まで週10~15kmぐらい走って健康管理に努めていました。ランニングができることは私にとって重要なバロメーターです。しかし、3~4月にかけての1ヵ月間、長年の変形性股関節症をこじらせてしまい、歩くのもままならない日々が続きました。ちょうどその頃、前庭整備を依頼していた業者が突然仕事をおりると言い出し、別の業者にあたって一から計画を練り直す事態になりました。

6月に再び血糖値が高く出たので、糖を尿から排出する薬SGLT2阻害薬に相当する薬を処方され、3ヵ月以上服用しました。ちょうど自宅の前庭整備だけでなく、床の研磨や借家のリノベーションも重なって立て込んでいた時期でした。しかし、その間の経験したことのない疲労感、だるさ、無気力は、自分の心身を乗っ取られたかのようで「これは自分ではない」と思いつつも、それを否定すべく動き出せない自分に不信が募りました。私の訴える不調を信じ、黙って耐え忍び、自分もストレスにさらされながら業者と話を進め、労わってくれた夫のおかげでなんとか乗り切れたように思います。

体調だけでなくあまりにも精神状態が変わったことから、薬の副作用を疑い始めました。SGLT2阻害薬は低血糖を起こすリスクが低いとされおり、私が経験したのは低栄養だった可能性があります。薬は1日あたり最大300~400kcalのカロリーを尿から排泄するのでカロリー不足に陥り、日々の生活に心身が追いつかなくなり、結果的に自分を追い詰め、逃げる気力もないほどすべてを諦めるという無力感を経験したようです。休薬したとたん笑ってしまうほど元気になり、いつもの自分が戻ってきました。

11月で還暦の試練が終わった気がしたのは、オーストラリアへ行ったからです。オーストラリアではコロナ前の2017年に投資物件を購入するほど気に入ったヌーサ、旅行で行った2018年のパース、2019年のケアンズなどで、滅多に経験しないほどの解放感を覚え、積年の仕事や子育て、人生そのものの疲れから解き解かれていくような思いをし、「これが幸せというものなんだろうか」と感じたものでした。しかし、今年の無気力に苦しんだ期間には「もうあんな思いはしないんだろう」と感じ、7~8月に行ったヌーサも心からは楽しめませんでした。それが11月にメルボルンからグレートオーシャンロードでアデレードまでクルマで走破し、コロナ前の感覚が蘇りました。


(※グレートオーシャンロード
の名所のひとつ、十二使徒)


ぬか喜びは禁物ですが、還暦の試練を乗り越え、これから次の年女までを生きていく覚悟ができた気がします。またコツコツとやりながら、できる限り走り続け、夫や家族と仲良く、自然や動物を慈しみ、心身を養っていきたいと思います。


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編集後記「マヨネーズ」
何度か経験した底なし沼に引き込まれるような無力感は、なんとも言えないものでした。長年自分の身体に耳を傾け続けたおかげで、医者に否定されながらも、「原因は薬」と突き止めることができました。今日もとりあえず6kmラン

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人生の10年周期

2002-12-04 | 人生・老後・夫婦
玄関のベルが鳴り、ドアを開けてみると隣のご主人でした。ご主人と言っても夫の元同僚で、家族ぐるみのお付き合いをしている友人でもありました。そもそもシンガポールで3軒目となったそのマンションに越してきたのは、彼らの家に遊びに来ているうちに気に入ったからです。それは1992年のことだったと思います。

「せっかく早く帰ってきたのに、うっかり鍵を忘れて家に入れなくて・・・」
と、言う彼にお茶を出しながら2人で世間話を始めました。いつも2組の夫婦として会うので、こうして2人だけで話したことは後にも先にもあの時だけでした。今から思うと、あのひと時はまるで神様が授けてくれたような一刻でした。

「人生に周期があるって知ってた?」
突然、彼が切り出しました。こちらが反応しかねているのを見て取ると、
「ある日、何でこう何もかもが上手くいかないんだろう、って考えてたんだ。そうしたら急にわかったんだよ。"俺には7年に1度、運のいい年がある"って。」
と、言い出しました。彼は当時、脱サラして自分で事業をしていました。
「"だから、あと1、2年でこの難局も乗り切れる"ってわかったら急に気が楽になってね。最近はちょっと調子がいいんだ。」
と、嬉しそうに語りました。

じきに外で音がして奥さんが帰宅したらしく、彼は強い余韻を残したまま帰っていきました。話していたのはせいぜい20分ぐらいなものでしょう。しかし、私にとっては人生の啓示にも匹敵する貴重な時間でした。1人になってから彼のアドバイス通り、思い出せる限りの記憶を辿り、その年の一番印象に残る出来事を思い出し、それがプラスだったのか、マイナスだったのかを判断して周期を探してみました。2、3歳の記憶が一番古いものの生活の断片でしかなく、はっきり甲乙がつくのはやはり小学校に上がってからのものでした。ちなみに私は2月生まれの早生まれです。

8歳=特に印象はなく中立
9歳=友人関係で苦労してマイナス
10歳=転校生と仲良くなりプラス。担任の先生からも大きく影響を受ける
11歳=その継続で中立

12歳=中学生になり新たに女ともだちに苦労しマイナス
13歳=男子が急に大人びて、いい友だちとなりプラス
14歳=受験勉強に専念し中立

15歳=第1志望校に入ったものの受験校の中で平々凡々な成績。片思いで鳴かず飛ばずのマイナス
16歳=片思いが実り一気にプラス
17歳=クラブの女子の先輩が入った大学を第1志望校に決め、クラブもやめて受験勉強突入で中立

ここからが大学生で、大人の生活のスタート。
18歳=一番入りたかった大学に入学したものの学科が第2志望で目標が定まらずに冴えない1年でマイナス
19歳=初の台湾訪問で突然、台湾に開眼。中国語に本腰を入れ始めてプラス。実家を出て女友だちと共同生活開始
20歳=独り暮らしを始め、バイトと台湾と映画に専念して中立
21歳=ゼミの担当教諭が客員教授として渡米。指導教授不在のまま卒論を書き終えややマイナス気分で卒業

ここからはいわゆる遊学(今のプー?)時代。
22歳=大学卒業後1週間で台湾へ。嬉しくて道を歩いているだけで涙が出るほどバラ色の毎日。仕事、友人にも恵まれる
23歳=その継続で中立
24歳=渡仏したはいいけれど、アジアが恋しく即後悔。でもせっかくなので1年は居ようと思い直すが気分はかなりマイナス
25歳=香港で職探し。誕生日直後に仕事が見つかり絶好調
26歳=その継続で中立
27歳=天安門事件勃発で中国ビジネスが中断しマイナスに。すべてを仕切り直したく退社して香港を離れる

28歳=シンガポールへ。直後に夫に知り合い婚約、転職して金融業界へと、大きな変化がプラスに出た年
29歳=結婚

こうして見て来ると、私は3年周期なのが良くわかります。好転した年の次の年もまずまずで、その次に冴えない年が来ます。でもそこを乗り切ると、次の年にはまた好転・・・この繰り返しが約20年続きました。ところが、結婚以降はこの3年ごとの大波小波が均質化し、プラスとマイナスが良くわからなくなってしまいました。結婚を通じて運気が完全に変わってしまったようです。

その代わり、もっと長期の10年周期がはっきりとしてきました。19歳の台湾初訪問、中国語、アジアとの本格的な出会いで、その後10年間のアジアの時代が幕を開けました。実家を出たのも大きな転機でした。29歳では結婚と金融業界での仕事という、これまた子育てや転職などその後の10年間を左右することがスタートしました。そして迎えた39歳。かなり確信的に何かが起きるのを待っていましたが、どっちの方向から、いつ何が起きるのか皆目見当もつきませんでした。でもそれがNZ旅行中のオークランドで、雷に打たれるように突然判ったのです。
「ここだ!これだったんだ」

移住は運命です。


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編集後記「マヨネーズ」  
お慕いする香港の風水師ケン・リー先生によれば、人生は数え年で回っているそうで、私が19、29、39歳で転機を迎えているのは20代、30代、40代での変化ということで、非常に理に適っているそうです。

面白いことに転機の予兆は1年前に既にあるのですが、本人が気づいていないことです。大学の第二外国語で中国語を習い始めて中国に行ったのは18歳でしたし、28歳で夫に出会い、大学の先輩に声をかけられて銀行に転職しました。38歳にはビーズのアクセサリー作りを始め手作りに開眼しているので、40代は「NZ」と「手作り」がキーワードになりそうです。

そして大きな変化が2月の誕生日以降、2、3月辺りに集中しているのも興味深いです。ですからその直前の新年をどツボ状態で迎えたことが何度あったことか・・・💦


後日談「ふたこと、みこと」(2022年8月)
20年前に自分で書いたものを読み返している今はまた、60歳という10年周期の節目を迎えたところです。58歳で予期せず突然仕事からリタイアし、38歳の香港で始めたものの、その後ずっと塩漬けだったビーズアクセサリー作りやリメイクを本格的に再開し、年間3、4,000点を寄付するまでに。周期は今でも生きていると思います。

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