ニュージーランド移住記録「西蘭花通信」

人生の折り返しで選んだ地はニュージーランドでした

夢日記番外編:眠っている間の大冒険

2013-12-07 | 夢日記・夢関係
グレートバリア島という、オークランドからフェリーで5時間ほどかかる離島に行っていました。トレッキング三昧のはずが、連日の雨でロッジに缶詰でした。晴天しか頭になかったので、ビーチに寝転びながら読もうと何冊か本を持参したのは幸いでした。その中の1冊がアメリカの著名サイキック(霊能者)シルビア・ブラウン氏の「スピリチュアル・ノート」でした。


(部屋からの眺め。着いた日と帰る日以外はずっとこんなでした)


出掛けの早朝6時に本棚から適当に引き抜いた数冊のうちの1冊だったので、この本を持ってきたこと自体、何かの思し召しだったのかもしれません。数年ぶりに読み返してみると、意外な記述に目も手も止まり、同じ本でもこちらの受信状態によっていく通りものメッセージを受け取れるものだと思いました。

スピリチュアル・ノートは精神界といった、ざっくり言えば「あちら側の世界」を分かりすく解き明かした教科書的な本です。彼女のサイキックとしての何十年(確か執筆時で47年)もの長い経験を通じて、何千人ものクライアントを診てきた豊富な実績に基づいて書かれており、これでもかこれでもかと引用される体験は、「目に見えるものしか信じない」「科学で証明できることしか受け入れない」という人生がいかに痩せっぽちな、人間の持つ可能性の多くを切り捨ててしまうものであるか、ということに気づかせてくれます。

正直な話、20代からスピリチュアル系の本をぽつぽつ読んでいた私にとり、スピリチュアル・ノートを初めて読んだときに、「人生が変わる!」というほどの衝撃はありませんでした。それでも今回読み返してみて、何度もハッとしました。内容を忘れていたというよりも自分の経験が年齢とともに深まり、引用されている例にピンと来るものがいくつもあったのです。中でも小児科医で臨死体験の研究者メルビン・L・モース博士が序文で紹介していた、交通事故で「溺れかかった」子どもの体験には、目が釘付けになりました。

『車が水でいっぱいになって、突然何もなくなっちゃったんだ。そしたらね、僕、大きなヌードルの中にいたんだよ。だけど、ほんとのヌードルじゃないと思う。だって、ヌードルだったらその中に虹が出たりしないものね。もしかしたらトンネルだったのかもしれない』
少年は、そのトンネルを旅して、動物たちの天国と、人間の天国を見たのでした(「スピリチュアル・ノート」の序文より)

少年は「ヌードル」「トンネル」と呼んでいますが、私は同じものを「チューブ」と呼び、1年半前に配信したメルマガ~夢日記:チューブ~で取り上げていました。博士は少年が語ったような体験を臨死体験と捉え、研究の対象にしています。ということは、緑の濃い有機的な液体がたまっていたチューブをくぐった私も、臨死体験をしたのでしょうか?

結論から言えば、私の場合、夢の中にあっても目覚めている時間を支配している顕在意識が強すぎ、夫や他のチューブ体験参加者(?)が口々に言っていた、
「あんなにキレイなものが見られるなんて!」
という体験はできませんでした。メルマガでは夫以外に、中学時代の同級生が、
「まさか、龍が見られるなんて!」
と言ったことを取り上げましたが、他にも何人もが「美しかった」「素晴らしかった」と賞賛していたのです。何も見えなかった私はみんなの会話に入れませんでした。

私の夢の記憶は、
「翌朝の新聞には、アメリカ人研究者3人が昨晩の探検から戻らず死亡したと報じられていました」
と続きます。あれを書いたときには意味がわからなかったものの、覚えていたとおりに書き残したおかげで(さもなければ、こんな夢の断片などとっくに忘れていたことでしょう)、
「あの『探検』は臨死体験だった」
と自分の中で結論付けることができました。もちろん、少年の「ヌードルの中にいた」という言葉が全てのスイッチをオンにしたのは間違いありません。体験者ならではの表現だと感じました。

スピリチュアル・ノートには「夢が語ってくれる多くの真実」という1項がありますが、ここ最近、「これは『夢』ではなく『体験』だ」としか思えない、眠っている間のリアルな体験を通じて、私は徐々に夢の大切さを学んでいます。これまでメルマガにしたものだけでも、
~チューブ~での臨死体験
~座敷童子~での幽体離脱
~夢の教訓~での「心にないことはしてはいけない」という教え
~生と死~での自分の死のバーチャル体験
(これはその日に予定外の生理を引き起こすほど心身ともに衝撃的な体験でした)
~死の淵~では夫の死を経験し、「子どもたちのために」この世にとどまる決心をしていました。

こうして羅列してみると、眠っている間の大冒険を通じて、人生の真実、生きることの深遠へと導かれているように感じます。これらの冒険は自分が描き出す想像力など到底及ばないほどリアルな世界で、目くるめく状況が次々に起こります。瞬きもできなければ、息もつけないほどで、究極の体験の中で必死に「次の一手」を探し出そうとします。その判断はまさに目覚めているときの私のもので、もしも同じ状況に遭遇したら、私は間違いなく同じ覚悟をすることでしょう。それこそが「『夢』ではなく『体験』だ」と思える根拠であり、夢を通じて学習しているという実感なのです。

雨のリゾートもまた愉しからずや。


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編集後記「マヨネーズ」
公共の電気も水道もない島。電気はソーラー頼み、水は雨頼み。そんな場所ですから大雨ともなれば、外の仕事の大半は休み。飛行機も欠航。鳥の姿もありません。1日1回クルマで15分ほどの最寄りのカフェにコーヒーを飲みに行くのを愉しみに、ひたすら静かに過ごしました。心身ともにたっぷりエネルギー補給ができたので、年末まで、もうひとがんばり!


後日談「ふたこと、みこと」(2022年7月):
2012年のチューブから本格化した夢見スト歴もとうとう10年 始めたときはそれに何の意味があるのか判らなくても、「何でも記録しておいくべきなんだ」と、記録魔はつい手前味噌に思ってしまいます。


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