ニュージーランド移住記録「西蘭花通信」

人生の折り返しで選んだ地はニュージーランドでした

クリスマスはいらない

2020-11-10 | NZ生活
最近知り合った友人と話しているとき、
「クリスマスはどうするの?」
と、この季節であれば軽い挨拶代わりの質問をしてみると、
「うーん。特に予定はないわ。」
という、ちょっと意外な答えが返ってきました。彼女は敬虔なキリスト教徒が大勢いるヨーロッパの国からの移民だったので、てっきり「クリスマスぐらいは教会に行かなきゃ」とか「家でパーティーよ」という答えが返ってくるものとばかり思っていました。彼女が普段は教会に行っていないことは知っていました。

「みことはどうするの?」
「どうもこうも!クリスチャンでもないアジア人にとってクリスマスはただの休日よ。子どもが小さい時はパーティーとかしたけど、今はなにもしないでのーんびりするだけよ。」
という、あまりにもぶっちゃけな答えにお互い大笑い。弾ける笑い声の後にふと彼女が真顔になり、
「私はクリスマスが嫌いなの。」
と静かに言い切りました。

「わかると思うけど、私の国では宗教がすごく大事で、特に地方の暮らしはそれがすべてなのよ。両親も熱心なクリスチャンで、小さな頃から「これはするな」「あれをしろ」と口うるさく言われて育ったの。常識的な理由で「これはするな」「あれをしろ」と言われるなら納得できるけど、宗教の理由で「これはするな」「あれをしろ」の連続は、その教えを信じられなかったら毎日が地獄よ。クリスマスは信仰の象徴だから、私はずっと嫌いなの。」

彼女の話は私にとっての正月に重なりました。暮れの大掃除から始まり、お節作り、親戚一同集まっての新年会、書初め・・・それらが私にも苦痛の連続でした。早く大人になって新年を自由に過ごしたいという想いは、お年玉で帳消しになるようなものではありませんでした。正月は私にとり、家族の歪みの象徴でした。

今にして思えば母はホーダーでした。「捨てられない」「片付けられない」でどんどんモノを溜め込んでしまう、溜め込み症とも言われる精神疾患です。今年2月に父がホームに入った後に実家を片づけながら、それが紛れもない事実であることを確認しました。立ち眩みがするほどの異常な量のモノ、モノ、モノ、モノ、モノ、モノ。26年前に建て替えた注文住宅は驚くべき収納スペースの箇所と広さでしたが、そのすべてにモノがぎっしり詰まり、さらにタンスやチェストなど新たな収納場所が追加されていました。

子どもの頃の大掃除はそうした母の収納品を引っ張り出して棚を掃除し、新しいビニール袋に入れ直して収納し直すといった、途方もない作業が続きました。中でもゆうに100体以上の人形が飾られた人形ケースの掃除は何年も姉妹2人の仕事でした。人形といっても高価なものではなく、景品でもらったようなものもたくさんありました。朧げな記憶の中、太陽銀行(1968年創設)の支店開設でもらった人形まであり、その時点で銀行が太陽神戸銀行(1973年合併)になっていたことは子どもでも知っていました。

お節作りも新年会も母だけでなく、周囲の大人から「あれをしろ」「これをしろ」の連続で、男たちがどっかり座り込んで酒を酌み交わしている中、女たちは給仕や子どもの世話に追われ、いとこの中で年長だった私にも小学生の頃から指示が飛びました。年齢の違う普段は顔を合わせることのない子どもたちを束ねることは容易ではなく、台所の手伝いもさせられました。さらにお節作りの最中から新年会の後まで続く、母の親戚一同に向けられた執拗な愚痴を聞かされることも、新年を黒塗りにしていくものでした。

「人はみな罪を背負って生まれて来て、教会に通って善行を続けて善人になるなんてバカげてるわ。人を恐怖で宗教に縛りつけ、教会に通わせようとしているだけよ。NZに来てみたら、みんな自由じゃない。教会に行ってもいいし行かなくてもいいし。誰も「これはするな」「あれをしろ」なんて言わないし、それでもいい人がいっぱいいるじゃない。原罪なんてでっち上げよ。今でも両親は『あなたのために祈ります』って言うけど、私のためじゃなくて神に祈ってるのよ。そんなのノーサンキューだわ。」

「だから私にはクリスマスはいらない」
と言う彼女に、私も心の中で
「新年が来ても、私には正月はいらない」
と同意していました。お互い大人になり、自分の意思と力で自立し、生い立ちからの呪縛を逃れ、祖国を出てNZに出会いました。私よりずっと若い彼女のきっぱりとした一言で、私の中できちんと「新年」と「正月」の整理がついたように思います。今年もまたクリスマスがやってきて、その後に新年を迎えますが、コロナに翻弄された2020年が行き、2021年が訪れることを心から祝おうと思います。

こんなことをしていたのも今は昔



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「マヨネーズ」
宗教観、家族観、そもそもの価値観は人それぞれ。正解も不正解もありません。今年7月に91歳で苦しむことなく大往生を遂げた父の旅立ちは、私にとっては哀しみよりも祝福でした。自分も後に続けるとは到底思えないほど完璧な人生の終え方でした。なので私の中に喪中という発想はありません。自分がこの世を去ったときも、家族には前向きであってほしいと願っています。(まぁ願わなくても自然にそうなるでしょうが)
今年だけでもコロナで思いがけず命を落とした人が世界で130万人に迫る中、元気に生き伸び、普段通りの生活が送れるだけでもありがたく、祝福に値すると思っています。

西蘭みこと

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