ニュージーランド移住記録「西蘭花通信」

人生の折り返しで選んだ地はニュージーランドでした

キウインド

2002-06-29 | アクセサリー作り
NZではどの街に行っても、かならずビーズ屋を捜すことにしています。クルマで流している時にチェックを入れたり、モーテルのイエローページで探したり、ツーリストインフォメーションで聞いたりと、短い滞在でもできる限りのことはしてみます。その結果、今のところ4軒のビーズショップを覗くことができました。

そのうちの1軒がオークランドのポンソンビーにある「ビーズ&ピーシーズ」。近くのブティックホテル風、洋館3軒ぶち抜き(2軒だったか?)B&B「ザ・グレート・ポンソンビー」に泊った時、
「この近くにビーズ屋ってありませんか?」
と宿のおネエさんに聞いてみると、
「あるある!私も買ったことがある」
と、紹介してくれた店でした。チェックインが済むや否や、そそくさと出かけてみました。

こぢんまりとした店内には一通りのものが揃っていて、全体的に日本より大粒のものが多く、好みのものがかなり見つかりました。日本製でも彼らのチョイスにかかると、日本とはずい分違った品揃えとなり変った色や形が結構揃っています。さらに大好きなインドビーズを大量に見つけてしまい、クレジットカード片手にもう買いまくり・・・♪

香港のように"おたま"ですくって買えるわけではないので(香港のビーズ事情はコチラで)、50粒、100粒と買う場合でも1粒ずつ数えなくてはいけないのです。香港人はスワロ(フスキー)のキラキラにイチコロで、あまり手作りのぬくもりに価値を見出さないせいかインドビーズは手に入り難く、「香港に帰ったらそうそう手に入らない」という脅迫観念もあってか、数えに数え、とうとう千粒単位という途方もないことに。最後はほとんど寄り目&涙目でした。

うつむいたきり顔を上げない不思議な東洋人に、店番をしていたキレイなアルバイト風のおネエさんたち2人はちょっと引いていて、遠巻きに見ているだけでした。でもビーズトレーと言われるネックレス形に楕円の凹みがついたプラスチックトレーを、1人で何枚使っていてもイヤそうな顔もせず(確かに客らしい客もいませんでしたが)、放っておいてくれたのには感謝。うっかり「Can I help you?」なんて声をかけられたら、どこまで数えたのかわからなくなり、「また最初から」なんてことになりかねないところでした。

レジにたどりついた時にはもうヘトヘト。頭もク~ラクラ。さすがにおネエさんたちも数え直すのはヤだったみたいで、すべて私の自己申告通りにレジを打ってくれました。ところが、色と形に分けて何枚かのトレーに乗せて運んだのに、会計が済むやいなや、「あっ!」という間もなく、それらは紙袋にザザ~~と一気に流し込まれ、すべて一緒くたに!「あんなにきっちり分けた私の努力は?!」と一瞬思いましたが、これこそが
「簡易包装、ゴミ減量への第一歩!」
と一介の主婦としてすぐに気を取り直し、たった1袋となってしまった大切なビーズ袋を抱えて店を出ました。

あれから1年半。もちろん使い切っていないので(もったいなくて使えないのがいっぱいあります)、まだ数百粒はあるであろうインドビーズがジャムビンの中に賑々しく納まりながら、他のビーズと一緒に西蘭家の窓辺に並んでいます。こんなガラスの粒にまで手作りの息遣いというものは残るらしく、インドビーズだけつなげてもなんとも趣のあるアクセになりますが、天然石やパールといった自然のものとの相性もまた抜群です。そして1粒でも使うたびに思い出す、あのポンソンビー界隈。どんなデザインでもNZの思い出つきで、作った時の思いがけない出来栄えの良さは、まさにキウインド・マジック。


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編集後記「マヨネーズ」 
後から「ビーズ&ピーシーズ」は日本語のガイドブックでも紹介されているのを知りちょっとビックリ。NZ移住の師レディーDによれば、オークランド在住の日本人奥様御用達ということです。ということは、それ以外にオークランドにはビーズショップがないってことになるのでしょうか?

そうでないことを祈りますが、ひょっとしたら移住後は本当に店を出さないと自分で作る物の材料にも事欠くかもしれません。天然石、珊瑚、淡水パール、ターコイズあたりがもっとザクザク欲しいです。まさか飛行機に乗ってクライストチャーチのビーズアンリミテッドまで買い出しに行くわけにもいかないし。これは商社をやっている女友だちのところで丁稚奉公させてもらって、LC(信用状)の開き方から何から貿易のイロハを勉強した方がいいかもしれません。株なんか薦めている場合ではなさそうです。そして、NZの人にも是非、ビーズを粒で買うのではなく、"おたま"ですくって買う楽しさを味わって欲しいところです。

そう言えば、オークランドでは手芸屋でもビーズを買いました。クイーンストリートのクイーンズアーケード内にある「ホームワークス」という店です。数は少なかったけれど、ビーズを見つけたのが嬉しくて、少し残っていた色も形もばらばらなチェコを在庫一掃状態で買いました。・・・と言っても8粒とか13粒といった単位ですが。いくらビーズを持っていても、どこで買ったかは不思議と忘れないものです。特にホームワークスからのは数が少ないので、手に取るたびに店番をしていた、老眼の鼻めがねで優雅にビーズを数え、
「残りのご旅行を心からお楽しみください。」
と声をかけてくれた、老婦人を思い出します。


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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
たった18年前の話でも隔世の感。まず当時は世界的に空前のビーズブームで、ビーズ屋とか手芸店でのビーズやパーツの扱いが今では考えられないほどたくさんありました。なので時間の限られた旅行中でもビーズ屋巡りが気軽にできました。

さらにインターネットの発達で世界中から気軽にモノが買える時代が、こんなに早く訪れるとは、想像だにできなかった頃。やっとアマゾンがオンライン本屋を脱し始めた頃の話です。

ビーズ&ピーシーズもホームワークスもすでにありませんが、ザ・グレート・ポンソンビーはザ・グレート・ポンソンビー・アートホテルとして、今でも営業しています。

(※B&Bからホテルに昇格)



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移住脱毛

2002-06-26 | 移住まで
「すべての道はニュージーランドに続く!」を完全に地で行っている昨今の私。とうとうこの度、100万円近くかけて永久脱毛に挑戦することにしました。女性にとってワキ毛の処理は永遠の課題。剃っても抜いても絶対生えてくるし、"まるで生えてないように"ツルツルであるのが理想であっても、どんな処理でもなかなかそうはならないのは、女性だったらよくご存知のはず。ノースリーブで電車のつり革にいつでも思いきり捉まれる人ってそうはいないのでは?

とは言ってもワキだけなら20万円もしないのですが、説明を聞いているうちにだんだんその気になってしまい、とうとうこんな金額に。その代わり襟足や額の生え際を好きな形にするとか、顔の産毛だの、脚だのといろいろ注文いっぱいの完全テーラーメイド型となりました。日本だったらいくらになるのか全く知りませんが、お店の人と意気投合したこともあり決めました。保証期間が2年なので移住前には完全に終わっているはずで、これも私にとっては立派な移住準備の一環です。

別にワキ毛があろうがなかろうが移住には差し支えないのですが(笑)、決定に至るにはクライストチャーチで見た光景がなんとなく脳裏にありました。あれは香港に帰る前日の夕刻でした。最後のひと時をボタニックガーデン(植物園)で過ごした私たちは、クルマを停めていたカンタベリー博物館の方に向かって、既に人気がなくなった庭園内を歩いていました。

その時、ふと木立の影に白いものがフワリと通り過ぎ、なんとなく
「天使かな?」
と思ったら、本当に妖精のドレスを着た小さな女の子でした。その子1人ではなく、他にもきれいにメイクした7、8歳の女の子たちがドレスの裾を翻しながら気持ち良さそうに裸足で走り回っています。

真っ赤な付け鼻をしたピエロが一輪車の練習をしていたりもします。
「ショーがあるんだね」。
と話ながら出入口の方に向かって歩いていくと、音響セットが見え始め、子供たちを引率をしている先生が木の下で台本片手に最後の稽古をつけているのに出くわし、楽器の音も聞こえてきました。

それが幾重にもなった夕暮れの濃い緑の中で、現れては消え、消えては現れして、なんとも幻想的。そして出入口正面の芝生の上には真っ白なテーブルクロスの裾が風にはためく円卓がいくつもできていて、リボン付のシャンペングラスが並んでいます。同じく真っ白な制服のボーイが忙しそうに行き来し、来賓はグラスを片手に一塊になって話に花を咲かせているところでした。月並みですが映画のワンショットのように美しい眺め・・・

きっと子どもたちの保護者や学校関係者なのでしょうが、盛夏の夜のひと時をこんな風に過ごせる贅沢と、こういうことを企画してしまうキウイたちのセンスに心から脱帽しました。集まった人の服装はスマートカジュアルがほとんどで、男性は蝶ネクタイからトラッドな半ズボンまでいろいろ、女性もワンピースからエレガントなパンツルックまで思い思いのスタイルながら、どこかに本人たちなりの正装を感じさせるものでした。

そんなシーンの片隅をエキストラのように通り過ぎようとした時、ふとライトアップされた一角の中に、背中がV字型に開いた白っぽい細身のイブニングを着て、髪をゆるくアップに上げた人の姿を見たように思いました。実際にはそんな人はいませんでしたが、その後ろ姿は紛れもなく私自身だったのです。こんな風に、頭の中のイメージなのかこの目で見たことなのか判然としないようなシーンが、パッと頭の中に広がることが時々あります。そしてそれが何年も後、自分でも忘れた頃に実現することもたまにあります。

私は白っぽいイブニングを持っていないし、襟足の形が嫌いなので髪をアップにしたこともありません。でも、いつか短い夏の終わりを、湿り気を帯びた夜気の中、グラスのリボンを夜風に泳がせて、弾けていくシャンパンに身を委ねながら過ごす時が来ないとも限りません。
「今はエキストラでも、いつかはあのライトの当たっている人たちの中にいるのかもしれない・・・」
そう思うと何だか嬉しくなりました。本当にNZというところはいくつもいくつも白昼夢を見せてくれます。

イブニングだったらワキの処理は完璧でなくてはいけないし、髪もアップにしないと垢抜けないし、背中が波打っているなんて言語道断。それが一気に永久脱毛となるのは、あまりにも飛躍した話であることは重々分かっているものの、私の中ではそれほど突拍子もない話ではなく、
「移住のためにも脱毛しよう!」
とあいなった訳です。そしていつか周りの緑を吸い込んだように少しグリーンを帯びた白っぽいイブニングも探さねば・・・


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編集後記「マヨネーズ」 
「信じられない・・・」
脱毛の金額を聞いて夫は唖然。

「ワキぐらいオレが剃ってやるよ。毎日ヒゲ剃ってるから上手いぜ。一生でもいいからさぁ。」
と、早速説得攻勢に。私がなびかないと、
「その金額だったらNZを何往復もできるよ。」
と、私の急所と思ってるらしいところを突いてきたり、
「そんなに気にしてたの?オレは全然気にならなかったけど・・・」
と下手に出たり・・・

でも結局は彼が一番良く知っているように、すべては馬耳東風。私は昔から誰にも相談しない代わりに、一度決めたら自分の気が変らない限り、どんなに周りに説得されても平気のヘイさで実行してしまう質なのです。100人のうち99人が「辞めとけ」ということを断行してしまうことなど朝飯前で、台湾留学やマンションの転売など、周りの反対や嘲笑を買ったことの方が後々結果を生むこともままあり、逆張り人生まっしぐら。これで行くと周りで誰も憧れないNZ移住も上手く行きそうです(笑)


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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
がっつり稼いで、がっつり遣う。結婚以前からの私の基本方針。夫と2人、必死で働いて得た報酬や投資の利回りは家族を養い、自分の英気も養っていくものだと思ってきました。なので自分で自由にできる資金で、家族に迷惑をかけない限り、フォスターペアレントになろうが、脱毛しようが自由という考え方。2人で経済力を持つことは、夫婦円満の大きな要素でもあると信じています。

いざ移住してきたら、イブニングを着る機会など全くなく、一度友人の結婚式で着ただけで、逆に手持ちのものを全部寄付しました。永久脱毛はやって正解でした

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お勝手口から失礼します

2002-06-22 | 移住まで
夫と行ったイタリアンレストラン「ダルッカ」で大好物のアーティチョーク料理を見つけ、すっかりご機嫌のホロ酔い加減で帰って来た時でした。
「やっぱり粗塩で焼いたに限る」
とブツブツ言いながら頭の中は何層にもなった分厚い皮に包まれたアーティチョークでいっぱいの私のところへ、パソコンを立ち上げメールのチェックをしていた夫が、
「ごめん、つい読んじゃった・・・」
と、ちょっと深刻な顔してやって来ました。

「寝る前に読んでおいた方がいいと思うよ」
という夫の一言に従ってフラ~とパソコンのある部屋に行ってみると、メールボックスに届いていたのは、ニュージーランド移住の師と仰ぐレディーDからの私宛のメールでした!
「なんて、ラッキーな日♪」
と、読み始めると・・・・

「更新されたNZ移住のパスマークのことはご存知ですよね?オットは"そのページを添付して差し上げなさい"と言うのですが、もう目を通されていますよね?通常5週間前の通達のところが、今回はなんとたった1週間前!18日からは3ポイントアップの28ポイントとなり・・・」
「何のことかしら?28ポイント?パスマーク?」
そして次の瞬間、ワインの回った頭にも何のことだか理解でき、
「ねぇねぇ。大変~」
と、とっくに何が起きたのか理解していた冷静な夫を呼ぶ羽目に・・・

NZ移民局が今月11日出した通達によれば、まさに私たちには「このカテゴリーしかない!」という「一般技能部門」での移住申請に必要とされるポイント制のパスマークが、従来の25ポイントから18日以降は一気に28ポイントへと3ポイントも引き上げられることになったのです。

3ポイントがどれほどのものかと言うと、「同一職種で6年以上の業務経験」に相当します。大学院卒でも大卒より2ポイント多いだけだし、配偶者が博士号を持っていようが、移住資金で1,200万円用意できようが、どちらも2ポイント追加になるだけです。ですから3ポイントはゆゆしき事態。

通達を読み進めると、昨年10月に年間移民上限数が従来の3万8,000人から4万5,000人(+/-10%)にまで拡大されたにもかかわらず、「一般技能部門」での申請件数比率が予想以上に増えてしまったことに対する対策だということがわかりました。ダルジエル移民相は、
「ここ1年で申請は急増しており今年度は5万3,000人が認可される見込みで、移住需要が下火になる兆候はまったく見られない」
と現状を説明しています。

ここまで読み進めて妙に納得してきました。
「そりゃそうだろう。こんなにファンダメンタルズ(経済の基礎的条件)が整っていて、世界的な景気不振の中でピカピカの経済を維持して、物価も安く、安全で、自然も豊かで、自給自足度が高くて・・・」
自分がこんなに行きたいのだから、世界中に同じような考えの人が5万3,000人ぐらいいても、不思議ではありません。

更に「Clearly New Zealand is an attractive migrant destination・・」(NZが魅力的な移住先になっていることは明白だ)と続きます。
「そうだ!そうだ!」
と思わず合の手。そして「資格やこれまでの業務経験に関連する仕事を確保している人には今回の変更は影響しない」とはっきりと断言し、こうした仕事が確保できた人には従来の5ポイントに3ポイント上乗せした8ポイントを認めるとしています。つまり今回引き上げられる3ポイント分をこれで相殺しようと言う訳です。

裏を返せば、"今までのキャリアに関連する仕事を見つけられた人のみ受け入れる"ということになるのでしょう。ですから美容師や看護師といった手に職がある人は影響を受けないのです。

「素晴らしい!」
手に職のない自分たち勤め人にとってはめちゃくちゃ狭き門となってしまったことは棚に上げ、私はホロ酔い気分もすっかり覚めて心底感心していました。この迅速にして明確な政策決定、しかもその決定過程のディスクロージャー(情報開示)の完璧さ(ご丁寧に8月からは申請条件を毎月見直すと予告してますから、これからどんどん条件が厳しくなる可能性大)。

同時に国にとって必要と思われる人材への適切な対応・・・「国家運営とはかくあるべし」というお手本を見せつけられたようで見事な政治手腕に舌を巻き、ますます惚れ直しました。
「こんな国の国債買いたい。こんな国に税金納めたい・・」
本気でそう思いました。ブラジル生まれの人に国籍をとったからと言って「三都主」を名乗らせるのとは、大違いの大局感ではないですか!

しかし、よくよく考えたら西蘭夫婦はどちらの名義で申請しても自己診断では24ポイントで、もともと1ポイント足らなかったのです。
「移住コンサルタントに相談すれば1ポイントぐらいどこからかひねり出して来るんだろうか?」
などと、呑気に構えつつ何もしてこなかった私たち。それが仇になって(?)この度いよいよ門前払い状態に。まあ、1ポイントだろうが4ポイントだろうが足りないことには変わりないので、私たちには残念がったり悔しがったりする理由は特になかったのです。

「表玄関があるなら必ずどこかに勝手口もあるさ・・・」
移住への夢はますます熱く・・・


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編集後記「マヨネーズ」  
ワールドカップ・サッカーは、
「あれだけボロボロに言われていたトルシエ監督への餞にも、決勝トーナメントで1回ぐらい勝てたら・・・」
な~んて軽く思ってましたが、そんな感傷でどうかなる甘い世界ではありませんでした。私たちは日本に住んでいないし、ここでもスポーツ新聞をとっていないのに、「トルシエ解任か?」という大見出しを何度も見た気がします。それだけ恒常的に出ていたってことでは?

ともあれ、日本を離れて18年。日本人として日本をこれほど誇らしいと思ったことはこのW杯が初めてです。心から「ありがとう!」


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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
たかが4ポイント、されど4ポイント。移住前に仕事が決まっていない限り、ほぼ移住できなくなったのはこの2002年の決定が最初でした。それまでは「大卒」か「10年の業務経験」があればかなりの確実で移住前に永住権が取得できるという、今思えば夢のような時代でした(笑) でも、NZの移民政策は経済政策と完全に表裏一体なので、どの政権にとっても重要な政策課題。

私たちの移住は移住サイクルのまさに谷間にあたってしまいましたが、サイクルということは谷の次は山が来る?!大奮闘の末、その後2年で移住が実現しました。

(※オークランド着陸直前の朝焼け)


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キウイのコミットメント

2002-06-19 | 移住まで
オークランド空港。私たちは香港に帰るべく、クライストチャーチから到着した国内線ターミナルから国際線ターミナルに移動するため、空港内のシャトルバスに乗っていました。前の座席には大柄な年配女性2人が座っていて盛んにおしゃべりをしています。空港関係者らしく制服を着て1人は手にトランシーバーを持っており、交信の声が盛んに漏れてきます。

全行程5分前後の短い距離でしたが、途中の唯一のバス停で何人かが降りていきました。その時、前の2人も立ち上がったかと思うと、やおら私たちの方に向き直り、
「どちらまでですか?ターミナルはおわかりですか?」
と、とても丁寧に話しかけてくれました。

「ありがとうございます。香港まで参りますので次で降ります。」
と、こちらも思わずかしこまって答えると、
「おわかりでしたら何より。それでは・・・・」
と、その後に「ごきげんよう」とでもつきそうなクラシカルな挨拶で締めくくるとバスを降りていきました。

ニュージーランドで数限りなく受けるこうした対応を、何と表現していいのか長い間わかりませんでした。「丁寧さ」「フレンドリーさ」「優しさ」「責任感」「思いやり」「おせっかい」「人懐っこさ」「野暮ったさ」・・・人によっていろいろな印象があることでしょう。

高い人口密度の割に他人とは異常に距離を置く都会暮らしにどっぷり漬かっている人間には、見ず知らずの人が頼んでもいないのに自分にかかわってくるということは、かなり珍しく、戸惑うことで、嬉しかったり、面倒くさかったりするものです。

しかし、私はキウイのこうしたさり気ない気遣いが非常に心嬉しく、その度に反省させられることしきりです。「他人を他人と認めるのが良識」とばかりに知らない人と徹底して没交渉でいるうちに、都会に住む人は他人とのかかわり方を忘れ、道を聞く以外、声をかけることすらできなくなっているのではないでしょうか?それどころか、明らかに助けが必要とされる状況でも、故意に見なかったことにして通り過ぎてはいないでしょうか?

ある日、同僚のキウイとNZの不動産市況の話をしている時に、彼が何気なく"コミットメント"という言葉を使った時、私の頭の中でパッと電球が灯りました。
「これだ!」
英辞郎によれば、「献身、参加(意欲)、かかわり合い、肩入れ、義務、責任、約束、方針、公約、交際すること」等、4項目に分かれた解釈がありますが、これらすべてがこの1語にギュッと凝縮されており、それがまたキウイと他者との関わりを端的に表現しているように思えたのです。

まるで謎解きのパスワードが分かったみたいに、
「そう言えば、あそこで会ったあの人も・・・」
「あの時のこの人も・・・」
と、旅先で会ったキウイたちがコミットしてきてくれた場面が、次から次へと蘇ってきました。

オークランドで水族館のケリータールトンに行った時のこと。チケット売り場で、
「大人2人、子どもが・・・」
と言いかけた私たちに、
「その人数だったら・・・」
とファミリーチケットを薦めてくれたアルバイト風の若いお兄さん。彼にとっては一期一会の私たちがいくら払って入場しようがどうでもいいはずですが、その一言で私たちはNZの行楽地には家族向けの割引チケットがあることを知り、以来、どこに行ってもチケットを買う際には確認するようになりました。

日曜日だけ運行している蒸気機関車に乗ろうと、ティマルから少し入ったプレザントポイントに行った時には、
「子連れだったら丁寧に頼めば、機関室に入れてもらえるかもしれませんよ。ウチは先月、入れてもらったんです。」
と、駅前のカフェのウェイターに声をかけてもらったこともあります。私たちが彼の忠告に従ったことは言うまでもなく、親子でとても楽しい、特別な思い出ができました。

(※ボランティアによる手弁当の運行)


たくさんのキウイ達から教わった"コミットメント"は、今では"継続は力なり"と並ぶ、私の生きる指針になりました。知らない人や事に関わっていくことは、面倒だったり、気恥ずかしかったり、
「厚かましいと取られはしないだろうか。」
と心配だったりで、結局、「ま、いいか」と流してしまう方が圧倒的に多いことでしょう。でも、最近の私は「ま、いいか」の直前で多少は踏み留まれるようになりました。この勇気はキウイたちからもらいました。移住前でもキウイ生活への小さな一歩を踏み出しています。


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編集後記「マヨネーズ」  
先日、ご近所に誘ってもらい、家族で行った小学校の学園祭。子どもたちが通うイギリス系インターナショナルスクールの系列なので、親しみがあり毎年のようにお邪魔しています。校庭を走り回っていた長男が、
「ママ!"ママ・ティナ"のお店がある!」
と教えてくれました。"ママ・ティナ"とは、ベトナムやモンゴルでストリートチルドレン支援を行っている、自らもアイルランドでストリートチルドレンだった経歴のあるクリスティーナ・ノーブル氏のことです。

行ってみると、クリスティーナ・ノーブル子供基金の香港支部がブースを出していました。ずっと活動が気になっていて、インターネットで調べればすぐにでも連絡先がわかることを十分承知していながら、何もして来なかった私の前に忽然と現れたブース。

座っていた白人とインド系女性2人と挨拶しパンフレットをもらい、家に帰ってからはベトナムの子どもの里親になるために小切手を切り、買ったきり積読していたノーブル氏の著書を改めて手にしました。以来、少しずつ読んでいます。その後、基金の方から丁寧なご連絡ももらい、私の"コミットメント"は後戻りできないところまで既成事実化しました。

ここまで来れば大丈夫。躊躇いを乗り越え自分以外の人を巻き込んだので、あとは前に進むだけ。そう言えば、ずっと見つけられずにいたノーブル氏の著書2冊は、NZ旅行の際にオークランド空港の本屋で、新刊書を押しけ店頭にズラっと平積みされていたものでした。とことん、キウイつながり♪


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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
基金を通じてベトナムの女の子の里親になりました。当時11歳でした。赤ちゃんには里親候補がすぐ見つかっても、大きい子にはなかなか見つからないと聞いて手を挙げ、大学卒業まで支援しました。

(※トランちゃん)


支援終了後は16歳の別の女の子の支援に切り替えましたが、その子が進学を諦めて働き始めたので10年以上続いたベトナムへのコミットメントはそこで終了しました。今はNZとオーストラリアでできることを息長く続けています。


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それぞれの6月4日 その2

2002-06-15 | 香港生活
2002年6月4日。

私は真昼の陽の暖かさが残る、ビクトリア公園のグランドの上に直に座っていました。隣には8歳の長男もいます。私たちの前には真っ白なカサブランカをまとったように、上向きに白い紙の笠がついたキャンドルが一本置かれています。こうしたキャンドルが夜風に炎を揺らめかしながら、光の絨毯のように何万本も並んでいます。香港随一の繁華街であるコーズウェイベイのビクトリア公園に集まった数万人の人々は、キャンドルの炎を見つめながら13年前の記憶に思いを馳せていました。

天安門事件13周年記念追悼集会。主催者側によると今年は4万5,000人が集まったそうです。毎年6月4日に開催されるこの集会に、私は時間が許す限り出ています。子どもを連れて来たことも何回かありますが、彼らにとってはいつもより夜遅くまで外にいられるのが嬉しいという程度のことでした。でも今年、長男は自分の意思でついて来ました。自分が生まれる前に起きた"中国人が中国人を殺したこと"について、中国人でもある香港人に囲まれている環境の中で、知りたくなったようです。

集会では大きな屋外スクリーンに、当時テレビで何度も繰り返された映像が流されました。
「最後の1人になっても民主のために闘おう!」
という学生たちのスピーカーごしのシュプレヒコールに重なるように、ダダダッダダダッダダダッダダダッダダダッダダダッダダダッという無機質な銃声の音が等間隔で流れたかと思うと、あとには怒声と悲鳴がないまぜになった、あの頃耳の奥から離れなかった声、声、声・・・が響き渡りました。

遠くの方にかろうじて見えるスクリーンの映像を追って、事の展開を長男に説明しましたが、記憶が蘇ってくるにつけ胸が締めつけられるようでした。
「なぜ放水や催涙ガスではいけなかったのか、なぜ実弾でなくてはいけなかったのか」
という誰かの叫びが胸に刺さります。普段は思い出すことすらない気持ちが、毎年このひと時だけはほとんど風化することなく、原型のまま蘇って来るようです。

事件後数日間は誰も仕事が手につかず、香港全体が喪に服していました。「ゼネストに入る」という未確認情報も流れ、「明日は会社も休みか」というところまで来ていました。しかし「中国政府を刺激し過ぎたら、境界線を越えて香港にも戦車が入ってくる」という観測がまことしやかに流れ、当時はそれが全く荒唐無稽な話には聞こえなかったせいか、ゼネストは幻になりました。

その代わり、その後数週間は100万人規模の週末デモが続き、経済政治の中心であるセントラルから追悼集会会場となっているビクトリア公園までの数キロが人で埋め尽くされました。私も香港人に混じって数回デモに行きましたが、最大だった時には香港中のあちこちで行われたデモに計200万人以上が参加したと言われ、当時の人口の約3分の1が参加した計算になります。でもそれが大袈裟に聞こえないほど、街中が沈み、同時に何かをしなくてはという焦燥にかられていたのです。

そんな中で香港人が精を出していたことの一つに、「命のファクス」がありました。これは知っている中国のファクス番号に香港での報道のコピーを手当たり次第に送ると言うもので、取引先、友人、公共機関を問わずできるだけ多くの番号に送り、報道管制が敷かれていた中国の人に何が起きたのかを知ってもらおうという動きでした。ただし、送ったこちらの身元も出てしまう会社のファクスは使いづらく、家にファクスがある時代でもありませんから、皆が安全に送れるファクスを探していました。

そんな時あるところから、
「取引先に日系大手家電メーカーがあったでしょう?ファクス貸してもらえないかな?」
という問い合わせを受けました。その取引先は事務機器も扱っていたのでもちろんファクスもあり、早速、親しくしていた修理部門の香港人責任者に問い合わせてみると、いつもジョークで笑わせてくれる彼が、
「下取りした中古品は既にしかるべきところに貸し出している」
と真顔で打ち明けてくれました。みな居ても立ってもいられなかったのです。

1989年9月。

事件から3ヵ月後。まだ事件の記憶が生々しく、誰も中国を好き好んで訪れたりはしない頃、プライベートで北京に出かけてみました。事件の片鱗を伺わせるものが全くなくなり、テレビに連日映っていたのと同じ場所とは思えないほどきれいに片付けられた天安門広場。物々しい警備の中、カメラを下げた観光客に混じってポケットに手を入れたまま歩きながら黙祷を捧げました。献花の一つも許されず、ただ無表情に通り過ぎていくしかなかったのです。頭上には青く広い秋の空が無限に広がっているばかりでした。


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編集後記「マヨネーズ」 
「外国朋友、これを見てくれ。」
私が外国人とわかったらしい中年の男性に天安門から帰る途中で呼び止められました。彼が指差したものは街路樹の幹に水平に刻まれた銃弾の跡。広場からかなり距離があったので、広範な銃撃を改めて思い知らされました。

「カメラを持っているんだろう。これを写真に撮って国へ帰ったらみんなに見せてくれ。」
そう言うと、彼は足早に去って行きました。その後も胸の高さ辺りについたその手の跡を何ヶ所かで目にしましたが、彼に教えられなければ見過ごしていたかもしれません。その時は、バスに乗っても人混みでも、
「対不起」(すいません)、「謝謝」(ありがとう)
という二言を本当によく耳にしました。いつも我先で、めったにそうした言葉を交わさない当時の中国人たちが、耐え難い共通の痛みから立ち直ろうとする中、短いながらも弔いと慰めの暗号で見知らぬ同士を励ましあっているかのようで、事件の陰をそこ見た気がしました。

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パイの逆襲

2002-06-12 | 移住まで
「ねぇ、どうどう?」
ある日曜日の昼ご飯。そうめんをリクエストしていた夫を振り切って出した、ミートパイ。最近凝りまくっているパイ作り。梅雨入りして天気が悪いのをいいことに、朝からキッチンにこもって作りに作った、掌サイズのアップルパイ、ミートパイ20個!焼きたてのアツアツのパイがあるのに、そうめんなんて・・・

「美味しい!」
食べ物全般OKの、最近めっきり質より量になっている長男が真っ先に反応。

「ま、いいけど。」
と大のご飯党の次男。彼には炊き立てのご飯が一番のご馳走で、それ以外の食べ物はきのこ類がやや好物という程度で、たいした順位はないのです。

リクエストを没にされた夫は黙々と食べてましたが、
「美味しいじゃない。結婚12年目にして初めて家でパイが食べられるとはね~」
と、ちょっと遠い目でしみじみ。何もそこまで感慨に耽ってくれなくても。確かに今までこういうものが食卓に上がったことはなかったけれど・・・

4月に同じマンションのイギリス人家族が帰国前のガレージセールをやり、そのリストの中に「パイメーカー $50(約800円)」とありました。一応主婦なので料理はテキトーにするものの、私はデザート系が全く作れないため、移住準備の一環に3月から職場の同僚に先生になってもらい、月イチのケーキ教室を始めたばかりの超初心者。ですからパイメーカーと言われても、想像もつきませんが「$50って安くない?」と思い、すぐに訪ねていきました。

なんと息子の学校の先生だったという奥さんは、掌サイズの美味しそうなパイの写真がついた30cm×40cmくらいの箱を指してきて、
「カンタンよ~」
と店員状態。
「私でもできるかしら?」
と言うと、
「モチロン!」
と力強く言ってくれるではないですか!

しかし、箱から出てきたのはビニールに入ったどう見ても新品。
「実は私も買っただけで、その~忙しくて1度も作ったことがないの。」
そ、そんなぁ。私にもできるって言ってくれたじゃないの・・・💦

「でもここにレシピもあるし、友だちもこれで上手に作ってたから・・・」
と、来週にも香港を離れる奥さんは一生懸命。たったの$50だし、何より美味しそうな写真に魅かれ、「何とかなるだろう」と買うことに。

その後、オーブンで焼く習いたてのアップルパイを復習がてら焼いた時のこと。中に詰めるりんごが余ってしまい、とうとうパイメーカーのお出ましに。要は電気ホットサンドメーカーの穴の部分がパイ型になったもので、指定の大きさに切ったパイシートにフィリングを入れて焼けば、6分でこんがりきつね色のアツアツ、サクサクのパイが失敗なく(これが大事!)できるという、魔法のようなもの!これですっかり病みつきに。ポテトパイ、洋ナシパイ。そして、とうとうミートパイにもチャレンジ・・・

(※かなり使い込んでからの写真)


ペロッと平らげた夫が不気味な微笑みを浮かべながら、
「こうやってボクたちを洋食漬けにして移住に備えようって訳だね、キミの魂胆は大体わかってるよ・・・フフフフ」
と意味深な発言。妻の料理のレパートリーが広がってもウレシくないのか、そうめんが出なかったのがよほど悔しかったのか、発言の真意はナゾ。

「そんなに和食が食べたいのなら・・・」
と、私は再びキッチンへ。その日の夕食は野菜に鶏肉やきのこを加え、ちょっとリッチな味噌仕立ての純和風、具だくさんの「すいとん」。野菜の多さに腰が引けた息子たちも、口当たりのいいすいとんは気に入ったようで、パクパクパクパク。夫は夫で、
「いいねぇ、たまには。すいとんなんて久し振りだ~♪」
と和食メニューにご満悦。

全員が食べ終わった時に、
「ところでこのすいとん、何で作ったと思う?」
「お餅」
「お米」
と息子たち、イイ線行ってるがもちろん外れ。夫は無言。どうもこの手の物が小麦粉だというのもご存知ないらしい。
「そうめんが何でできてるか知ってるのかな?」
と思いつつ、満を期して、
「パイよ!」
と留めの一撃。3人とも
「?????」

四角いパイシートを丸くくり抜いていくと、どうしても角のところが無駄になってしまい、もう一度集めて麺棒で延ばしてみたりしましたが、どうも「コレッ!」という方法がなく、特に20個も焼けばその余った部分もかなりの量に。これを何とか活かせないかと思っていた矢先に、夫のナゾの発言。

前にしゃぶしゃぶのお店で、「食べ終わったあとの鍋にご飯を入れて作る雑炊の隠し味はチーズ」と教えてもらったことがあったので、和風でもごった煮系はちょっとした油分が風味になると思ったので、油分を含んだパイ生地が立派な和食になることには勝算がありました。果たして、腰があり、歯ごたえもよく、煮崩れず、無駄も出ないという、「一石四鳥すいとん」のでき上がり・・・。これから西蘭家では「パイ+すいとん」が定番になりそうな気配。


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編集後記「マヨネーズ」  
先月から香港のスーパーの店頭に並び始めたNZ産のちびリンゴ。普段はNZ産フルーツはキウイしかお目にかかれないので、なんともウレシい限り。このリンゴ、"安い、旨い、カワイイ"と三拍子揃ったスグレ物で、8個の袋入りで180円ぐらいですから断トツな安さ。現地で買ったら一体いくらなんでしょう?

皮を剥いてお砂糖とレモンで煮て、シナモンやラムを振りかけてパイ生地に入れて焼けば、あっ~という間に美味しいアップルパイに!しっかりした果肉のせいか、"煮ても焼いても食えるヤツ♪"なのです。最近はスーパーに行くたびに、ちょっとドギマギ。冬の国から来るちびリンゴたちがいつまで店頭に並んでくれるか、早くも心配になってきました。こちらは連日30度を越える真夏日です。


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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
パイメーカーのパイ作りは移住後も続き、学校行事やラグビー関連での集まりがあると、巻き寿司に並んでよく作っていました。

オーブンで焼いていない両面ツルツルのパイはよく不思議がられましたけど(笑)


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それぞれの6月4日

2002-06-08 | 香港生活
1989年6月4日。13年前の私は香港で暮らしていました。日本はバブル経済の絶頂期で、「海外で働く日本人女性」なるものがまだ物珍しがられた頃でした。独身の身軽さもあって今日はこの店、明日は誰それと・・・と、公私共に忙しく、ノー天気に暮らしている頃でした。香港もアジア4匹の龍の1匹に数えられ、韓国、台湾、シンガポールとともに、上り龍の勢いを謳歌しているところで、身の回りは景気のいい話であふれていました。

その頃の中国は改革開放路線が軌道に乗り始めていたとはいえ、まだまだ緑の人民服に自転車のイメージが色濃く残る眠れる大国でした。当時の私は完全週休2日の金融機関に憧れながら、土日出勤も厭わない広告代理店勤務でした。その頃の香港では中国語(中国の公用語である、いわゆる普通語、北京語のこと。香港の公用語は広東語)を話す人がまだ少なかったこともあり、日本人の私の中国語でさえ重宝がられる状態で、私はかなり頻繁に中国へ出張していました。

89年4月。すでに失脚していたものの穏健で学生に人気の高かった胡燿邦総書記が死去すると、彼の死に哀悼の意を捧げる北京大学の学生などが天安門広場に集まり出しました。始めは小さなニュースで胡燿邦もその時点では過去の人だったのですが、それを聞きつけた地方の大学生までもが列車や徒歩で天安門に向かい始めたあたりから話が大きくなってきました。それでも学生達に同情した鉄道が無賃乗車を認めただの、ほのぼのとしたもので、胡燿邦は口実で学校をサボって北京へ物見遊山という学生もかなりいたはずです。

ところが学生の数が日増しに膨れ上がるにつれ、問題が政治化し始め、胡燿邦の名誉回復という現政権には受け入れがたいものになっていきました。ばらばらだった学生もハンストに入ったり、政権トップの辞任を求めるなど民主化を求める方向で足並みが揃ってきました。さらに賛同する一般市民も加わり、大きなうねりができていくのに1ヵ月もかかりませんでした。数万から十数万人にまで達した天安門に集まった人たちを北京市民の炊き出しが支え、地方都市でも学生を中心に似たような動きが起きるなど、うねりのすそ野は燎原に火を放つように広がっていったのです。

こうした動きは報道の自由が保障されている香港では逐一見聞きできましたが、中国では共産党機関紙「人民日報」や国有テレビが真実の報道を封じてしまったため、実際に天安門で何が起きているのかが国民に知らされないままいろいろな憶測が飛び交い、緊張感は高まっていくばかりでした。

そして6月4日。人民解放軍の戦車が天安門広場に入り、丸腰の学生達に銃口を向けるばかりか、その銃口が火を噴くという悪夢のようなことが現実となってしまったのです。逃げ惑う人々。「救急車を!」という絶叫。すでに息がなさそうに見える負傷者を扉に乗せて荷車で押して行く人々。映画でしか聞いたことがなかった絶え間ない実弾の音。学生達が精神のより所として作った自由の女神を模した「民主の女神像」がゆっくりと倒されていくスローモーションのような映像・・・香港の私たちどころか、世界中の人々がその衝撃をつぶさに目撃したのでした。

香港人の衝撃はこれを遥かに越えるものでした。内戦時でもない平和な時代に、中国人が中国人を殺すという現実は彼らを立ちすくませ、8年後に迫った97年の中国返還への不安が一気に噴き出しました。
「彼らと同じになる・・・」
その思いは香港人にとって答えの出せない究極的な選択への回答を、即座に求めるものでした。学生と同じように犬死するのはとんでもないが、彼らに銃を向けることを肯定することも到底できない・・・しかし、自由がない以上、そのどちらかを選ばなければならないとしたら・・・・・

彼らの将来への懸念は想像を絶するほど大きくなっていきました。そうでなくても返還を嫌って海外へ移民していく人が後を絶たない頃だったので、この事件が残った人々の背中をさらに押し、
「どこの国でもいいから・・・」
と、市民を海外へ向かわせることに拍車をかけたのは言うまでもありません。

現に身の回りでも、
「私たちは絶対移民しない。どうなっても香港は我が家」
と言ってはばからなかった親しい友人や同僚たちが、異口同音に、
「私たちはどうでもいいの。でも子どもには将来があるから」
と言い残して、1人また1人と去っていきました。天安門で犠牲になったかなりの人がまだ社会に出ていない学生だったということは、年齢は違っても子を持つ親には居ても立ってもいられないことだったのかもしれません。(つづく)


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編集後記「マヨネーズ」 
ワールドカップが始まり、中国-コスタリカ戦があった時などはオフィスは閑散、その日は香港株式市場の出来高も落ち込むほどでした。世界中で4年に1回の一大イベントに身も心もそぞろになっている人たちがあふれているのでしょう。これを書いている7日夜もイングランド-アルゼンチン戦があり、イングランドが1-0で勝利を収めたので、喜び勇んだ旧宗主国イギリス人達が街に繰り出しています。試合が終わった数時間後の今でも、普段は静かな住宅街である近所でさえ、試合観戦からそのままパーティーへと流れたらしい楽しそうな歓声があちこちのベランダから響いてきます。

世界の感動が一つになっている一方で、アフリカでは1,500万人が飢饉に苦しみ、まさに生きることに懸命の努力を続けているかと思えば、カシミールを巡ってのインド・パキスタン情勢の緊張も続いています。W杯の報道が全面に広がる中で、脇へ脇へと押しやられて相対的に小さくなっていくこの手のニュースがつい気になってしまうここ数日です。


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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
天安門事件から31年、メルマガを書いてから18年の2020年。コロナ禍の中での民主化運動の果てに、香港では7月1日より「香港国家安全維持法」を施行。最高刑は無期懲役、非公開裁判もありうるなど、計14年間暮らし、私を育てた街は完全に変わってしまいました。


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株はインフレがお好き

2002-06-04 | 経済・家計・投資
面白い展開になってきました。前からお伝えしているように、世界的な米ドル安局面の中でNZドル高が急速に進んでいます。年初のもみ合いを経て、3月以降はまさに右肩上がり、一本調子の上昇で、あらゆる目先のテクニカルラインを突き抜ける、青天井状態に突入しています。今年に入ってからの上昇はたった5ヵ月でな~んと16%!

これは1月1日に100万円持っていた人が、銀行にも入れないでタンス預金していただけで「116万円になってしまった!」というのと理論的には同じこと。これを銀行に預けていれば、さらに利息がついて118万円ぐらいの価値になっていた計算になります。
「そんなことってあっていいのかっ?」
って感じですが、これが外貨の玉手箱…。しかし、開けた箱がパンドラの箱ならば、100万円が84万円に値下がりすることもあるし、金融不安が吹き荒れているアルゼンチンなら年初の100万円はたったの28万円にまで暴落しています。

同じく5ヵ月間で豪ドルは12%高、南アフリカのランドは18%高ですから、やはりラグビーの世界最強リーグ「スーパー12」開催国である、これら南半球3カ国の通貨高は突出しており、「通貨のスーパー12」の強さは圧倒的です。ちなみに今年に入って5月末までの日本円は6%高(それでも日本政府は円高阻止に必死の介入に出ています)、ユーロは5%高止まりです。

世界の主要通貨がこれだけ上がっているということは、米ドルの一人負けということになります。でも、アメリカは世界最大の消費国で米ドルが弱くなると、輸入品が割高に感じられるので、海外からあまり買ってくれなくなります。彼らの財布の紐が固くなることはアメリカを最大の「お得意さん」とする輸出国とっては非常に困ることで、米ドル安・自国通貨高は諸刃の剣なのです。

NZも酪農品など一次産品への輸出依存度が非常に高い国ですから、自国産品が割高になれば輸出が苦しくなってきます。カレン財務相も5月23日の予算案発表後のインタビューで、「NZドルが輸出業者に悪影響を及ぼす水準にまで上昇することは好ましいことではない」と発言し、直後にNZドルどころか豪ドルまでが反射的に売られる局面がありました(笑) 確かにこれだけ急激に上昇すれば怖くもなるし、「少し利食って利益を確定しておきたい」という気にもなるでしょう。

しかし、南半球通貨はこの手の要人発言程度ではよろめかないほど、強い上昇サイクルに乗っています。このメルマガで取り上げただけでも、4月13日の「8ヵ月ぶり高の1NZドル=0.4445米ドル」、5月21日の「22ヵ月ぶり高の1NZドル=0.46米ドル」、そして今回の「2年ぶり高の1NZドル=0.48米ドル」と、まさにあれよあれよという間の上昇です。

しかし、ほんの2年前の2000年には、年初の0.50米ドル台から年末にかけての0.40米ドル割れまで1年以内に最大25%も急落していたこともあるので、今年に入ってから5ヵ月間で16%上がったからと言って、腰を抜かすほどのことではないでしょう。NZドルは2001年には丸々1年かけて0.40米ドル近辺で値固めをし、9月の米国同時多発テロを経ていよいよ底値が固まり、今年3月に「本格的にテイクオフ!」と、なったわけです。

通貨がこんなに上がると輸出にマイナス影響が出てきますが、一方で株高になることが多いのです。株はインフレの匂いに非常に敏感で、新聞に「○○が値上げ」なんて記事が並び始めると金利動向を睨みながらもジワジワ上がってきます。今年に入ってからのNZ株は1月3日の大発会が742、4月30日が739と、全く動かない眠気を誘うような相場でしたが、5月に入ってからは顔つきが変わり、1ヵ月で5%高の775になりました。

「なあ~んだ、5%ぐらい。株だったら10%、20%といかなきゃ!」
と思われるかもしれませんが、この775という水準は2000年以来約2年半ぶりの高値となれば話は別でしょう。しかも外国人投資家は、株の値上がりと保有期間中のNZドル高の双方から値上がり益(含み益であっても)を手にしているはず。NZのような小さい市場に世界各地から資金が集まってくれば、簡単にフワッと持ち上がってしまう可能性もなきにしもあらず・・・。そう思いながら、「ニュージーランド・ヘラルド」のサイトを開いたら、
「6月からビール値上げ!」
とデカデカと出ており、
「おぉぉぉ。来た来た・・」
という感じ。やっぱり株はインフレがお好き♪


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編集後記「マヨネーズ」
昨今の証券会社の株式レポートの下にくっついてくる断り書きからのパクリ。
"このメルマガは投資勧誘を目的として作成したものではありません。銘柄選択、投資判断の最終決定は、皆様ご自身のご判断でなさるようにお願いいたします。このメルマガは信頼できると考えられる情報に基づいて作成されていますが、その正確性に関して責任を負うものではありません。ここに記載された意見は、配信日における判断であり、予告なく変わる場合があります。提供されました情報はご登録者限りでご使用ください。云々くんぬん・・"

まだまだ本当はこの3倍ぐらい長い文章が続きます。要は"投資はご自身のご判断で"ってことです。これは証券会社の訴訟対策への厚いガード以前に、投資の基本でもあります。利益を取りにいくためにリスクも引き受ける覚悟があるかどうか。「ここまでのリスクは取ろう!」と決めたら、あとは情報収集してレッツゴー。相場の前にプロも素人もありません。勝てば官軍。


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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
こんな細かい相場の話を今になって読み返してみても、何がなんだか(笑) でもチャートを紐解いてみると、確かにNZドルは2001年に丸々1年かけて0.40米ドル近辺で値固めをし、その後は本格テイクオフ!以来、NZドルはリーマンショックだろうがなんだろうが、2度と0.40米ドルをつけていません。

その後、多少の高下はあっても2008年第1四半期まで上昇サイクルが続き、倍の0.80米ドルまでいった出発点がまさにこの頃でした。
「来る、来る、来る、来る、絶対来る!」
とせっせとNZドルを買っていた頃です。


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1粒のダイヤよりも

2002-06-01 | アクセサリー作り
「ニュージーランドに行って何するの?」
移住、移住と言っていると、何回も同じ質問を受けます。私はかの地で暮らすことを夢見ているので、"住むこと"が一番の目的です。だから、
「何するって、生活するのよ!」
というのが最も正直な答えですが、そんなことを言おうものならケンカを売っているとも取られかねず、返答に窮します。

質問するほとんどの人は、
「何の仕事をするのか?」
「どうやって暮らしていくのか?」
もっと端的に言えば、
「食っていけるのか?」
と聞きたいのでしょうから。

ケンカを売るつもりはさらさらないので、2番目の選択肢として、
「ビーズ屋さんかなぁ」
と答えると、チカラない笑いとともに、
「そうよね、まだビーズにハマってるのよね~」
とのお返事。

今度はテキトーな冗談ではぐらかされたと思われたようで、
「いいわねぇ、夢があって。で仕事は?」
と、また振り出しに。
「え~っと、だからビーズ・・・・」
と口ごもっていると、
「ま、ゆっくり考えれば。」
と、聞いてきた本人が話を締めくくり、聞かれていたこちらはポツネンと取り残されることも・・・。

実は一昨年、「店を出すかも・・・」という期待が一気に膨らんだ時期がありました。知り合いの知り合いが、ラマ島という今では毎週のようにガラス工芸を習いに行っている離島で、自作の陶器を売る小さな店を持っていたのです。しかし、彼女が香港を離れることになり、それを聞きつけた私が知り合いに頼みこんで紹介してもらい、やはり陶芸をやっている友人と2人で、店を譲ってもらえないかと直談判に赴いたのでした。

店は1坪もないこぢんまりしたもので、入り口には色とりどりの花があふれんばかりに置いてあるのに、一歩中に入るとお手製の棚に落ち着いた色の和食器が品よく並んでいました。友人と2人一目で気に入ってしまい、瞬時に共同オーナーになることを決心しました。

それからしばらく頭の中は離れ島の店のことでいっぱいでした。
"外は明るいのに南国らしい大粒の雨が降っている。通りの人通りが引く。少し暗い店の中ではみことが小さなランプで手元を照らしながら1人でアクセサリーを作っている。静か。"
という、芝居のト書きのようなシーンが頭から離れなくなり、誰も来ない雨の日に店番をしている自分を何度も遠くから眺めた気がしました。

結局のところ、店は私たちのものにはなりませんでした。家主が自分で経営していくことに決めたからです。内装には手を入れずに、どこかで買ってきたらしい陶器がしばらく並んでいましたが売れないらしく、そのうちキーホルダーだの携帯ストラップだのといったお土産アイテムが並びだし、何屋か判然としないほど見境なく何でも売る店になってしまいました。それでも上手くいかなかったと見えて、今では店先にジューサーを並べたジューススタンドに衣替えしています。

今でも店の前を通りかかるたびに、
「あの時借りられていたら・・・」
とチラリと思ったりもしますが、縁がなかったのだから仕方ありません。でも"誰も来ない雨の日の店番"というイメージはいまだに私の中にあり、遠のくどころか心の奥に深く深く根を下ろし、
「これがデジャヴュになる日が来る・・・」
という漠然とした思いが静かに堆積しています。だから私の「ビーズ屋さん」は決して荒唐無稽な話でもないのです。本当に、1粒のダイヤより1トンのビーズを!


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編集後記「マヨネーズ」  
長男のイギリス人クラスメートのママから電話をもらい、
「今度の日曜に船を出すけど家族で来ない?」
という気さくなお誘い。香港というところは貧富の差が物凄く激しいので、こうして自家用クルーザーを持っている人もいれば(NZとは比較にならない維持費でしょう)、1ヵ月に3万円ちょっとの生活手当で何人もの家族が暮らしていたりと、ピンからキリまであらゆる階層の人がいます。

なのでどの辺をして中流と言うのかも難しく、どんな金持ちも貧乏人も実に堂々としています。それぞれが
「金持ち(or 貧乏)でなにが悪い?」
という訳なのです。子どもたちのクラスメートにはマンション3階分を吹き抜けにして使っている家に住んでいたり、運転手・テレビ付きBMWの送迎で遊びに呼んでくれる子もいます。お誕生パーティーともなれば高級ホテルや会員制クラブで盛大にやり、持たせたプレゼントよりも高価なお返しを持って帰されます。

こうなると、同じようにすることは到底不可能です。そんな時は心をこめてアクセサリーを作ることにしています。本物のブルガリやカルチェでジャラジャラ状態のママたちなので、手作りアクセを贈るなんて勇気がいることかもしれませんが、私にできるのはそれくらいなので怯みません。

結局クルーズに誘ってくれたママには、大振りのチェコ、ソロバン型のスワロ(フスキー)に淡水パール、黄緑がきれいな天然石のペリドットにラウンドカットのスワロを、それぞれチェーンのところどころに散らした3連のネックレスをプレゼント。パールと天然石以外はすべてパープルにしてみました。

「本当に作ったの?信じられない!」
お世辞でも喜んでもらえれば嬉しいもの。
「何色が好きだかわからなかったから、あなたのことを思い浮かべながらテキトーに組み合わせたの。」
と正直に言うと、彼女は驚いたように、
「My favourite colours!」
とクイーンズ・イングリッシュならではのスペルを連発し、サッと手の甲をこちらに向けて腕を見せてくれました。

それぞれの腕には素晴らしいカットの濃紫のアメジストのブレスと、鮮やかな黄緑のエナメルベルトにアンティークの高そーな時計がはまった腕時計が・・・。

キンコンカンコン♪キンコンカンコン♪キンコンカ~~ン♪♪
のど自慢のあの鐘が、私の中で鳴り響く瞬間!


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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
あれから18年経ち、「ビーズ屋さん」はアクセサリーの寄付のためにリタイアすることで、形を変えて実現しました。収入があるかないかの違いで、アクセサリーを作るという点では一緒で、対価には全くこだわっていません。逆に言えば、こうなるには18年の長い年月が必要だったのです。


今になって読み返し、「店を出すかも・・・」という遠い遠い計画に思わず笑顔に。『むかしの夢はいい夢。かなわなかった遠い思い出』というフレーズが、映画「マディソン郡の橋」にありませんでしたっけ?一緒に店を出そうとしていた友人も、もう忘れていることでしょう。今度聞いてみよう


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