雑記 夜更かしの毎日

働く主婦の日々のこと。
大好きなお芝居や音楽、その他もろもろ。

7/11 「キレイ」 -神様と待ち合わせした女ー シアターコクーン

2005-07-19 | LIVE S
またこんなに遅くなってしまった…
だってー、7月の上旬は仕事忙しいんだもん。(言い訳

夕暮れの渋谷はいつも通りのすごい混雑。人並みに逆らうように東急Bunkamuraへ。
「キレイ」長いからなー、少しなんか食べておかないと途中でお腹がなり出しそう…。あんまり時間がなかったので通り道のファーストフードに大急ぎで寄り道。
東急に入った途端、駅前の喧騒とはうって変わった大人の落ち着き。さすがにシアターコクーン、S席9000円だよねー。
1800円のこれまた立派なパンフレットを購入してパラパラ目を通しながら開演時間を待つ、ドキドキ。

ついに始まる待ちかねた舞台。オープニングの「ケガレのテーマ」ですでに泣きそう…。最近、ホント涙腺弱ってるなー、トシのせいかしら。でも、「ケガレのテーマ」は本当に名曲。もうこの曲こそがこの舞台そのものを体現してるとも言えるぐらい。

お芝居の舞台は、日本。現代のようでもあり、遠い未来のようでもあるこの日本では、もう100年もの間内戦が続き、人々は否応もなく疲弊しながらも戦場の日常に慣れてしまっている。
その戦場の荒野に突然と現れた過去をなくした少女、ケガレ。
ケガレは戦場でひたすら逞しく生き延びる死体回収業者、カネコ一家に拾われ行動を共にすることとなる。
戦場で生き残る術をカネコ一家の主、キネコに学びながら、つかの間の安住の時間を過ごすケガレ。
彼女は常に何者かの呼び声と、自分を見下す神様の視線から逃れることができずに苦しみ続けることとなる…

人間が生きていくのはそれだけでもう、どうしようもなく罪深い。数え切れないほどの命のイケニエを必要とし、様々な犠牲を他に強いる事となる。食物連鎖を上げるまでも無く、人間にあるいは生き物として生まれた以上、たとえ赤ん坊であってもその忌まわしい関係性から、生きている以上逃れる事はできない。それ故に知性を持ち合わせてしまった人間は「ケガレ」から目を背け、「キレイ」ごとに現を抜かす…
松尾スズキさんのお芝居は、誰もがあえて目を逸らしている「イケニエ」の部分を、いつもあからさまにしてしまう。だから、いつも舞台の後は気持ちがザワザワと落ち着かない。普段は意識しない罪悪感がチリチリして痛む。なのにどうしても、また観たいと切望してしまう…。観た後にすっきりしたり、楽しい気分に満ち溢れたり、ってことはないんだけど、不思議なほど心惹かれて。やっぱりスゴイなぁ。

運命に翻弄されるケガレに生き延びるとはどういうことか教える、キネコ役の片桐はいりさんが良かった。戦場でともかく自分と自分の子供達が生きていくために、手段を選ばずにのし上がって行くさまは逞しく、いっそすがすがしいほど迷いが無い。
その2人の息子、ジュッテンとハコリナは肉体的に欠陥を持つ事によって、母親の庇護のもとでそれなりに安定した生活を送っているが、その欠陥を失ったときにそれぞれの運命が動き出していくのも興味深い。
受動的で限定的な幸福と、自ら切り開く不幸。
その狭間にまた色濃く染まっているカスミの、分裂した自己の不可解な行動の愚かしいいじらしさ。掴み所がないようで、やたらと印象の深い秋山菜津子さんはさすが!

そして、ケガレの不幸の原因を作り出してしまうマジシャンの自分勝手な暴走。自分の存在価値を見出すために幼い少女をイケニエに選びだす。他にイケニエを求める手段を学ぶことなく育ってしまったケガレは、自分の過去を犠牲に選び出してしまう、重い不幸の連鎖。したり顔でただ見つめる事しかしない、神様の不確かで纏わりつくような存在感。
劇中の登場人物ほど過激な人生送っている人間は、そうそういるはずも無いけど、人間ならば誰もが少しずつそれぞれの一部分を身の内に抱えているようで…
そして、そんな人間と対照的に戦場で戦って死に食料となる、まさにイケニエとなることが生きがいのダイズ兵の人生観の躊躇いのなさに感じてしまう、なんとも言えない居心地の悪さ。その中でさらに深い矛盾を持たされることになるダイズ丸の満ち足りた悲劇。

本当に本当にスゴイ舞台でした。3時間半の長さが少しも気にならない。ステージからちょっと遠い席だったのが幸いしたのか、歌の歌詞も割合と聴き取りやすかったし。
カーテンコールでは宮藤さんが「明日は休演日です。やってません!」とひとこと。これだけ重量感のある舞台を連日こなされる役者さんたちは、本当に大変だろうなー。
最後の最後まで、体を二つに折り曲げるように深々と客席に頭を下げていた蘭々ちゃんに精一杯の拍手を送り、コクーンを出たらもう10時半過ぎ。やっぱ、ちょっとだけ長いかな~。
でもとっても満足、素晴らしい舞台でした