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縄文人(見習い)の糸魚川発!

ヒスイの故郷、糸魚川のヒスイ職人が、縄文・整体・自然農法をライフワークに情報発信!

ヌナカワ姫が逃げた「塩の道」・・・猫鼻の湯

2021年06月30日 07時39分03秒 | ぬなかわ姫

国道148号線の新潟・長野の県境を越えたとたんに、プ~ンと硫黄泉の匂いが漂い「猫鼻の湯」の看板があらわれるが、この不思議な名前の温泉の由来がやっとわかった。

越後と信濃の境を姫川が流れる地形が、猫の鼻っ先の三ツ口に似ているからだそうだ。
教えてくれたのは温泉オーナーの清水英雄さんで、私がヒスイ職人だとわかると「三種の神器の勾玉は糸魚川ヒスイだか?どれくらいでかいだ?ヒスイは今でも拾えるだか?」と矢継ぎ早に質問されて、入浴前に一時間以上も懇談。
「家からみえる山はあるだか?」と聞かれたので黒姫山だと答えると、色紙に「黒姫山山頂よ里 鶴千羽 五条松を含み 七福神を引き連れて 山田修家乃 門に入留」と書いて贈ってくれた。
屋根のある湯舟と二つの露天風呂があって入浴料500円!
 
達筆でスケベな話しが好きなスキンヘッドなので、親鸞聖人みたいですね!お坊さんですか?と言ったら、禅宗のお坊さんだそう。
年中無休24時間営業なので、無人になる夜に泥棒に入られたこともあるようだが、清水和尚は意に介さないのは、衆生へのお布施のつもりなのか?書道家としても有名らしい。
ここは千国街道(ちくにかいどう・松本街道、糸魚川街道ともいう)に位置する集落で、中世以降には「塩の道」とも呼ばれたし、縄文時代には黒曜石ロードやヒスイロードではなかったか?
 
出雲から逃亡したヌナカワ姫が、このあたりで追っ手に捕まりそうになり、再び糸魚川まで帰えり、拙宅裏の稚児ケ池でお隠れになった伝説にも出てくる土地でもある。
 
清水和尚の父親は糸魚川市青海区の「油屋」の出身で、私の母方の先祖はすぐ近くの「大海屋」という造り酒屋だったから、ご先祖同士は顔見知りだっただろう。
おまけに私の父親の先祖は、塩田を持つ塩問屋だったから、何かと縁を感じる。
 
ヌナカワ姫を崇拝しているという近所の常連さんからも、小谷村の歴史を教えてもらった。
 
小谷村には出雲から逃げて来た姫が、姫川の「姫ケ淵」に入水自殺して以来、姫川と呼ばれるようになったという伝説があり、この淵が実在することを知った。
 
後日に検証してみたら、武田勝頼の夫人が入水自殺した伝説と、武田勢に敗れた当地の武将の姫君が入水自殺した伝説が、ヌナカワ姫伝説と混じっているようだ。
 
拙宅からバイクで40分。息抜きにちょうどいい距離、場所、面白い人々。もちろん温泉もいい。
 
 
 

渡辺義一郎さんの「ヌナカワ姫三部作」完結

2021年03月24日 06時02分15秒 | ぬなかわ姫

渡辺義一郎さんから「ヌナカワ姫三部作」の完結本が贈られてきたので、翌日の会社経営者の会合で頼まれていた講演のメインテーマを縄文からヌナカワ姫に変更した。

「古代越後・奴奈川伝説の謎」を30代前半で出版した渡辺義一郎さんは御年76歳になるらしいが、ヌナナワ姫の著作も3冊目となり、足掛け43年の及んだライフワークが完結。
 
*渡辺さんは一般的な表記である「奴奈川姫」と漢字表記されておられますが、「出雲國風土記」以降に当て字れるようになった漢字の奴は、たとえひらがなの「ぬ」、カタカタの「ヌ」に対する当て字であったにしても、文字の由来は「捕らわれた女奴隷」を表す象形文字とあっては姫があまりにもお気の毒なので、私は敢えて奴奈川姫とは表記せず、ヌナカワ姫、ぬなかわ姫としております。
 
「ヌナカワ姫と八千鉾神とのラブロマンス」が語られ始めたのは1970年代以降で、海岸部の市役所に設置されたヌナカワ姫の銅像は、昔は市街地、そして子供の建御名方神が鎮座する諏訪大社の方角の南を向いていたが、平成の市役所移転に伴い、出雲のある西に向きが変えられてからは「ヌナカワ姫は遥か出雲を望んで八千鉾神を偲んでおられる」という文言が登場し、観光客誘致活動が顕在化するようになった。
子供の頃は南を向いていたのに、Uターン帰郷したら西向きになっていたヌナナワ姫の銅像。西向きに変えた関係筋に聞いたら、「銅像のすぐ北を走る国道バイパスのドライバーに尻を向けるのは無礼である!」という理由だったらしいが、何で西向き?糸魚川市民に尻を向けても無礼ではないのかな?要するに出雲の方角に向けてラブロマンスの広告塔にしたかったのね・・・セコくね?( ´艸`)
古代のラブロマンスが語られるようになった70年代には、青森の五所川原村(現在は五所川原市)が古代の津軽に王朝があったとする謎の古文書「津軽外三郡誌」を郷土史に組み入れて観光客誘致活動を始め、一定期間は大盛況であったようだが、偽書と報道されて以降は熱気が尻すぼみとなり、今や関係者の誰もが口を閉ざすようになった。
 
考古学的な検証抜きの「古代のラブロマンス」だけを喧伝すると、規模は小さくとも五所川原の轍を踏む可能性もあるが、「とにかく興味を持ってもらって、糸魚川に来てもらうことが大事」とする考えも聞く。
 
しかし悲劇の口碑を記述した渡辺さんや清水友邦さんの著作の読者が、ラブロマンス一辺倒の糸魚川に来たらどんな感想を持つだろうか?
 
あるいは糸魚川に来てから興味を持って、自分で調べて口碑を知ったら?
 
ガッカリとかビックリしない?
岩手在住の清水さんは、縄文や抹殺された女神を世に出す活動をする著述家として有名な方。「よみがえる女神」の表紙は、長者ヶ原考古館に置かれているヌナナワ姫象。数年前に糸魚川フィールドワークのガイドをした縁で意気投合、私の兄貴分のようになった。
 
私を訪ねて来た観光客をフォッサマグナミュージアムに案内すると、入口で流れる「古代のラブロマンス」のビデオと、私から聞いた口碑のギャップに「観光のために歴史を捏造していいの?観光客を騙してまでお金が欲しいの?!」「伝説とは逆のラブロマンスにつくりかえるなんて女として許せない!ヌナナワ姫がかわいそう!」といった反応が返ってくる。
 
冷静に考古学的な考察をすると悲劇の口碑に現実味が増していくばかりだし、町おこし団体がキャッチコピーにしている「世界最古のヒスイ文明のまち」は明らかな誤りだし、文明と文化を取り違えているので日本語として如何なものか。
 
またマスコミに情報提供したり、市民講座で教えていたらしい「ヌナナワ姫は出雲の八千鉾神と結婚して連合国家を樹立して、北陸一帯から山形まで支配していた」という説は、学術的な根拠もないトンデモ説。
 
弥生時代に国家は存在せず、それほど広範囲な地域を支配していたなら卑弥呼に匹敵する権力者であるのに、糸魚川には大型墳丘墓も青銅器などの威信材の出土はなく、出雲勢力の進出が伺える四隅突出型墳丘墓の北限は富山市。
 
地域の歴史や文化を観光に利用するなら、Cool headとWarm heartを併せ持ち、ことによると1,700年近くも子々孫々と語り継がれてきた口碑を蔑ろにせず、考古学にも興味を持って欲しいものですと講演を終えたら、「いやぁ、知らなかった・・・」と何度もつぶやいて、ショックを隠せない人もいたようだ。
 
ウケさえすれば何でもアリという考え方は後から恥ずかしいことになるのデス。COOL!
 
 

 


ヌナカワ姫からのメッセージ・・・みやれいこさんからの贈り物

2020年09月29日 07時40分25秒 | ぬなかわ姫

天才イラストレーターの宮れいこ嬢から、素敵なプレゼントが届いた。

勾玉を下げた笹を肩にかつぐ童子は、わたしだと思う。
 
能のシテ方(主人公)が、笹を手に持つのは物狂い(狂乱状態)した女であるという約束があり、その型を「狂い笹」と呼ぶ。
 
笹に勾玉を下げているのはヒスイ加工に物狂いしているのであり、歩く童子姿なのは天真爛漫で純粋な気持ちでヒスイ加工に邁進しなさいというヌナカワ姫からのメッセージが、彼女に「降りてきた」絵であると受け取った( ´艸`)
 
彼女が「狂い笹」を知ってか知らずか、こんな絵を私のために描いてくれたのは、巫女的なインスピレーションに違いない。
 
(後で知らなかったと教えてもらったが、ホンモンの巫女イラストレーターの証しですな!)
こちらは印刷だが、ミントの葉っぱを自分でなく、犬に差し掛けている童子の絵からは、仏教的な捨身(しゃしん)の慈悲を感じる。
フキの葉っぱを傘にする童子の絵も、まさしく宮沢賢治の童話の挿絵のようだ。こちらも印刷。
 
筆ペンを持って紙に向かうと、自然と描きたいモノが「降りてくる」という彼女の絵には物語りがある。
 
石川梵さんの写真と同じ。
 
誰が観てもシットリ、シミジミ、ホッコリと優しい気持ちになる絵を、工房の目立つところに飾った。
 
加工を始めると鬼研磨ヤマダとなる私が、娑婆に戻ってくる黄泉比良坂(ヨモツヒラザカ・この世とあの世をつなぐ洞窟)の出入口が、この絵なのでR!
 
 

天才イラストレーターが描いたヌナカワ姫の姿・・・悲劇のヌナカワ姫伝説

2020年09月06日 08時07分23秒 | ぬなかわ姫

お上品な天才イラストレーターと、いつかは天才香司(現在修行中)が来訪し、意気投合。

天才イラストレーターは、名前だけしか知らないヌナカワ姫の絵を描いてきてくれたのだが、よほどに文献を調べないと解らないはずの姫の特徴がきちんと描かれていて驚いた。筆を持ったらフッとイメージが湧いてきたのだそうだ・・・ほんまの天才ですな。

「おう、これからはきょうでい分(兄弟分)の付き合いをしようぢゃねえか!なぁ、おう!」と、たちまち縄文人(見習い)化したのは、ヒスイの魔力かヌナカワ姫の霊力か・・・。

右がいつかは天才香司(現在修行中)の女性・・・香司とは、お香を調合する職人ですな。
親不知は、鏡のうような海に雲が映っていた。
土木遺産の親不知のレンガトンネルで、冒険ごっこ!
 
ぬなかわヒスイ工房の顧客には、霊能方面で著名な方がけっこういるし、女性客にも巫女的な鋭い感性の人が多いのだが、ヌナカワ姫がお隠れになった「稚児ケ池」や奴奈川神社に案内すると、ヌナカワ姫ってこんな人ですか?と各自が感じ取った特徴を聞かれることがよくある。
 
10人いれば10人なりのヌナカワ姫像を感じ取ってくれるのだけど、背筋がブルッと来るような指摘をされることがよくある。
 
糸魚川市は、天才イラストレーター「みやれいこ」に仕事を発注しなさいっ!( ´艸`)
 
 
 

神界で神様同士がユニット結成!?・・・物部彩花さん初糸魚川ライブ

2020年08月29日 07時31分40秒 | ぬなかわ姫

なんと突然全ての歯車がかみ合って、物部彩花さんの糸魚川ライブが決定しました。

彼女はデビュー時に、その歌唱力から美空ひばりさんの楽曲を歌うプロジェクト歌手に抜擢されたそうですが、自らソウル歌手に転向して独立。
 
自衛隊や外国領事館のイベントで、国家の独唱を依頼されるほどの歌手なのですが、現在は琴とダルシマーの女性3人のユニットを結成しました。
 
彼女とは3週間前に石笛の問合せを頂いて、その数日後にわざわざ「ぬなかわヒスイ工房」まで訪ねて来てくれて以来、一度しかお逢いしていないのですが、異常に研ぎ澄まされた感受性がヌナカワ姫や縄文、ヒスイとの縁を感じて糸魚川ファンになってくれました。
 
特にこれからは女神の時代と、ヌナカワ姫に大変な興味を持ってくれています。
 
本来は8月19日に新ユニットの初ライブを都内で予定していたそうですが、残念ながらコロナの影響で中止。
 
そこで急遽、糸魚川でのお披露目になったのです!パチパチパチ(拍手の音)
昨夜、諸星大二郎の「妖怪ハンター」を読んでいて、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が登場するページを開いた途端に・・・
糸魚川ライブ決定の知らせがあり、ビックリ。
 
饒速日命は物部氏の始祖神ですので、なにやらヌナカワ姫と神界でユニットを組んで何ごとかを企んでいるような気配を感じます(笑)
「妖怪ハンター」面白い!
 
ライブまで3週間。少しづつ情報をアップしていきますので、是非とも聴きに来てください!
 
 

出雲と戦った鬼の伝説・・・悲劇のヌナカワ姫伝説

2020年08月03日 08時05分29秒 | ぬなかわ姫

ヌナカワ姫にまつわる鬼の伝説がある。

出雲が攻めて来た時、夜星武(エボシタケル)という鬼が抵抗した。
一度は出雲勢力を撃退した夜星武が喜んで踊った場所が、糸魚川市街から東に15キロくらいにある能生町の鬼舞(きぶ)という地名の由来。
正攻法では敵わぬと考えた八千鉾神が、たくさんいる妃の一人を夜星武に嫁がせる懐柔策に出て、次の戦いで勝利、夜星武が降参した場所が鬼伏(おにふし)の地名の由来。
 
戦国史によくでてくる、和議、そして骨抜きにして征服するパターンそのものだが、古事記の英雄譚にせよ、スサオノやヤマトタケルなどは強敵を騙し討ちで破っているので、歴史は卑怯者が勝つことになっているのですね( ´艸`)
鬼舞と鬼伏は国道8号線沿いに並んだ小さな漁村で、現在は鬼舞漁港の上に「両鬼橋」がかかっている。
 
夜星武の一族が住んでいた山が、能生町の「烏帽子岳・エボシダケ」で、山の名前はエボシタケルに由来するとの口碑があるが、「あんな高くて険しい山に人が住める訳がない」という人がいた。
 
しかし口碑とはそういったもので、出雲に追われてヌナカワ姫が糸魚川方面から逃げてきた際に鉾を納めた「鉾ケ岳」、ヌナカワ姫が生まれた「奴奈川姫の産所」、新婚時代の八千鉾神とヌナカワ姫が暮らした洞窟などなど、ヌナカワ姫伝説に登場する土地は、人が住めない峻険な環境ばかりなのは、後世の人が地元の深山幽谷や奇岩、洞窟に伝説をシンボライズさせ、また中世以降に両部神道や白山修験の影響なども受け、時代と共に変容していったからだろう。
 
地域ごとのヌナカワ姫伝説を並べると矛盾点や重複が多いのは、こんな理由からだと思う。
 
糸魚川市街地から西と信州にかけては、出雲との戦いと敗残の伝説、能生町から西の中越地方にかけては出雲から逃走する伝説が多く、八千鉾神とヌナカワ姫が仲睦まじく暮らした伝説は、上越市の海岸部のみ。
 
両鬼橋(鬼舞漁港)の西側が、上越方面の鬼舞、西は糸魚川方面の鬼伏なので、夜星武一族が上越方面から侵攻してきた出雲と戦い、そして破れた伝説と符合がいくのは偶然か?
 
そんな地域ごとの伝説のプロットに、考古学の出土状況を重ねて俯瞰すると、上越に橋頭保を築いた出雲勢力が、東から西にヌナカワ郷に侵入してきた形跡が読み取れる。
 
東日流外三郡誌がなんの検証もなく地域振興策に取り上げられ、後から大恥をかいた3つの自治体の轍を踏んではいけないし、文献史学だけに頼ると、思わぬ落とし穴があることを忘れてはいけないのだ。
 
 

 


八千鉾神は大国主命にあらず?・・・出雲の痕跡が観えない考古学

2020年06月02日 22時13分36秒 | ぬなかわ姫
ヌナカワ姫伝説を考古学から読み解くと、残念ながら「八千鉾神との古代のラブロマンス」の可能性は、極めて低いのデス。
 
八千鉾神=大国主命とするならば、14柱もの奥さんと182柱の子供がいたとされる大国主命だから、ヌナカワ姫とだけに「古代のラブロマンス」もないもんだが( ´艸`)
上越市の関川河口左岸の丘陵の居多神社には、奴奈川姫と大国主命が祀られるが・・・。
居多神社境内の奴奈川姫と大国主命の石像。奴奈川姫が抱いているのは建御名方神なのだろうが、大国主命は巨大なアスパラガスを抱いているのか???(笑)
 
糸魚川と同じく、上越市と妙高市の斐太遺跡群からも山陰系の「四隅突出型墳丘墓」や、青銅器などの威信材が出ておらず、山陰系の土器の破片が少し出ているだけなのだ。
斐太遺跡公園の管理棟の展示は、国指定遺跡にしては淋しい内容ですなぁ。
こちらは斐太歴史資料館の展示。
山陰系の土器とは、山陰の影響を受けた他地域の土器のことであり、可能性としては北陸地方から運ばれてきた可能性が高い。
 
口碑に、ヌナカワ姫は能登から糸魚川に逃げ帰って来たともあるので、古事記の求婚譚の八千鉾神とは、能登に拠点を置く北陸方面司令官、或いはその傘下の豪族ではなかったか?
例えば、東映の大ヒット実録シリーズ「仁義なき戦い」での、好色で狡猾な呉の山守組組長(笑)
山守組長役は、金子信雄さん!
 
「わしゃぁよぅ、出雲(神戸)から盃もろうとるんでっ!わしに任せておきんさいっ!悪いようにはせんけんのぅ!のっ!ウワハハハッ!」と、出雲の権勢を借りてやらしく迫ってきたので、ヌナカワ姫は逃げた・・・。
 
余談だが、山守組組長のモデルになった実際の山村組長をよく知る、山口組三代目の田岡組長は、あまりにも金子信雄さん演じる山守組長が実物通りなので、「ありゃホンモンだ。」と唸ったそうだ( ´艸`)
 
東頚城地方には、八千鉾神から言い寄られたヌナカワ姫が、八千鉾神が醜男だったので嫌って逃亡してきたとの口碑がある。
 
例えば十日町市の松苧神社には、八千鉾神は祀られておらず、ヌナカワ姫のみが祀られている。
 
それは柏崎市の黒姫山に「黒姫神」として祀られるヌナカワ姫にも言えることなのだが、八千鉾神の侵攻に敗れ去り、生き残った人々が逃亡した先々で、敗残の哀れとヌナカワ姫の運命を嘆いた痕跡なのかも知れない。
 
例えばヌナカワ姫の巫女集団や、闘い破れた戦士たちによって・・・。

弥生時代の上越は出雲だった!?・・・斐太遺跡群と斐太神社の関係

2020年05月31日 08時39分51秒 | ぬなかわ姫

二千m級の山が急激に落ち込み、海に至る糸魚川の地勢は、狩猟採集に適して縄文文化が栄えた土地だが、お隣の上越市は稲作に適した広い扇状地を持ち、弥生文化が栄えた。

八千鉾神とヌナカワ姫を夫婦神として祀る神社が、沿岸に数社あるだけという点に疑問を持ち、祭神の分部を調べて気付いたのが、ヌナカワ姫を祀らず、出雲系の大国主命・事代主神・建御名方神だけを祀る斐太神社の存在。

ヌナカワ姫が八千鉾神と連合して、北陸一帯から山形まで支配下に置いていたとする説を唱える人たちは、なんで国内最大級の玉作遺跡にヌナカワ姫を祀っていないのかを考えたことあるのだろうか?私はここが気になる。
斐太神社のある丘こそ、弥生時代最大級の玉作遺跡の斐太遺跡群(吹上遺跡・斐太遺跡・釜蓋遺跡)の中心的な斐太遺跡がある場所!
 
そこで以下のようなストーリーを考えている。
 
東征をする出雲勢力は、天然の良港のない糸魚川を通り越して、最初に上越市の居多ケ浜から関川を遡って弥生時代中期頃に吹上遺跡で稲作を広め、越後方面統治の橋頭保とした。
 
糸魚川の河川は急流で暴れ川であるに対し、上越市の関川は緩やかな大河だから舟で内陸に入りやすい。
現在の関川河口部から高田平野を望む。ちなみに関川河口は、人買いに騙された「安寿と厨子王」が舟に乗った場所であり、上杉謙信の軍港もあった場所であるらしい。
魏志倭人伝の「倭国大乱」の時期に相当する弥生時代後期に、政治的緊張が高まり、吹上遺跡の主体は斐太神社のある丘に高地性の環濠集落を築いた。それが斐太遺跡で、ヒスイ原産地のヌナカワ郷に進出して、一連の悲劇のヌナカワ姫伝説が生まれた。
 
ちなみにこの丘は、上杉謙信の居城、春日山城の信州側に備える支城であった「鮫ケ尾城」があったことから分るように、高田平野の重要拠点でもあった。
 
糸魚川から遠く離れた斐太地域では、ヌナカワ姫を祀る必要がなく、反抗勢力が存在した沿岸部に、八千鉾神とヌナカワ姫は夫婦神であるとして宣撫プロパガンダとした。
 
上越市の沿岸部に位置する居多神社に、八千鉾神とヌナカワ姫を夫婦神として祀ったのは、律令時代の国分寺のような役割であったのではないか?ただし斐太神社の創建が平安時代となっているので、決定的証拠という訳にはいかない(笑)
 
しかし、奇しくも江戸時代の終りの大地震で倒壊した居多神社を遷座した場所が、少し内陸の丘に位置する五智国分寺すぐ近くというのも面白い。
戦乱の収束に見通しがたった頃に、現在の新幹線駅のある平地の環濠集落である釜蓋遺跡に移った。
 
やがて古墳時代になり、支配者は出雲から大和勢力にとってかわり、斐太神社の周辺には、140基を超える観音平・天神堂古墳群がボコボコできた。
 
この説にはまだ不備があり整合性は付いていないが、ラブロマンスだけでない、ヌナカワ姫伝説の諸説を考古学的見地と織りなしたホームページを作り、多くの人に知ってもらう所存。
 
すでに10年くらい前に作った縄文とヒスイに関した「縄文時間」というホームページを持っていて、それなりに人気があるらしいのだが、ヌナカワ姫の部分にも重点を置いてリニューアルします・・・暇だから(笑)
 
 

 


奴奈川神社は柳形神社だった!・・・「糸魚川市史」

2020年05月29日 07時21分37秒 | ぬなかわ姫
現在の八千鉾神と奴奈川姫の二柱を祀る「奴奈川神社」は、延喜式に記述される以前には、奴奈川彦と奴奈川姫の二柱を祀る「柳形神社」で、江戸時代には「柳形明神」と呼ばれていたという主旨の口碑にやっと辿り着いた。
なんと、私が小学6年の時に出版された「糸魚川市史」に詳しく出ていて、納戸から発掘した(笑)
 
青木重孝先生の監修による自然科学から人文科学までが詳細に書かれた大変な労作で、40年前の糸魚川市の文化行政の熱量に驚くが、多方面の人材が揃っていたということだ。
 
また感心するのが、現在のように観光収入増大が望めるなら何でもアリ!というノリではなく、学術的にきちんとした物を残さないと後世の恥である、といった感じの著述者たちの気骨を感じる処。
 
ヌナカワ姫伝説の多くは、後世の両部神道や白山修験の影響を受けているので鵜呑みできない旨を青木先生も指摘しておられるが、私もあくまで考古学的な考察の肉付けとして捉えている。
 
ヒスイ再発見の経緯から、「長者ケ原遺跡」や拙宅下の「笛吹田遺跡」など、主だった遺跡の発掘資料なども紹介されていてる。
 
市民にも分かりやすく書かれているので、12歳当時の私はこの本で郷土史のお勉強をしていたのですな。
 
興味ある人は糸魚川図書館で借りれられるし、自宅のどこかで眠っているかも?

口承文化が廃れる時、それは文化の砂漠化

2020年05月17日 07時38分31秒 | ぬなかわ姫
私が小学校に入った頃、近所の子供同士で遊んでいて下級生が転んで泣いたりすると、上級生は「これくらいで泣かれん!むかし、木口小平は弾が当たって死んでもラッパを離さなかったぢゃ!」と諭していた。
 
ちなみに私は東京オリンピックの年に生まれております。
「ラッパマークの正露丸」のラッパは、小平が「死んでも離さなかったラッパ」を商標化したもので、戦前は対ロシアへのプロパガンダとして「征露玉」と表記していたこと、日本海海戦の勝利は大胆不敵な敵前大回頭「T字戦法」によるもので、連合艦隊司令官の東郷平八郎は外国でも偉大な提督と尊敬されているのだということも、上級生から教わった。
小平は日清戦争で戦死したラッパ兵で、戦前は国民学校の教科書で紹介されていたと、母から教わったのも小学生の時。
 
子供時代の私の周辺で明治のことが最近のことのように語り継がれていたのは、老人が孫に昔話をする文化が残っていたからだと思う。
 
私と同世代であっても、多くの人は木口小平を知らないと知ったのは大人になってから( ´艸`)
 
20年くらい前に祭りでおよばれした古い農家の仏間には、立派な仏壇の上に明治天皇と東郷平八郎の肖像写真が飾ってあり、「すごいね、これ!日露戦争の頃からずっと飾ってあるんだろうな!」と言ったら、友人から「えっ、家の先祖を知ってるんですか???」と驚ろかれたのだが、あろうことか歴史上の人物を戦争で手柄をたてて勲章をたくさんもらったご先祖だと思っていたそうだ(笑)
東郷平八郎元帥閣下の御真影であられます!嗚呼、明治は遠くになりにけり!
 
甥っ子と話していて方言が通じなかったりすると寂しいもんだが、大人であっても新潟には方言はなく、みんな標準語で話していると勘違いしている人は結構多い。
 
育った環境に昔話をする老人や親族がいなかったのか、自分が喋っている方言に気が付かないのでしょうな。
 
あるいは家族も含めて地域の年長者たちと会話するより、テレビを観る時間が長がい子供時代を過ごしてきた人かな?
 
その点では、私の育った環境は豊かだったのだと思う。
 
ことによると子々孫々と1,700年近くも語り継がれてきたかも知れない悲劇のヌナカワ姫伝説を知る人も急激にいなくなり、最近になって観光交流人口拡大を目的として、古事記の記述を拡大解釈して恣意的に創作された古代のラブロマンスを史実のように思いこむ糸魚川市民が増えてきた。
 
方言や物語りの口承は、歴史と文化の継承。
 
言葉に地域特性が無くなっていくという事は、地域文化が廃れていくと同義だと思う。すなわち地域文化の砂漠化。
 
テレビを消して、もっと老人たちの言葉に耳を傾けましょうよ・・・。