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縄文人(見習い)の糸魚川発!

ヒスイの故郷、糸魚川のヒスイ職人が、縄文・整体・自然農法をライフワークに情報発信!

「赤毛のアン」好きだから屋根はモスグリーン!・・・ぬなかわヒスイ工房増築プロジェクト

2022年06月18日 06時27分30秒 | ぬなかわ姫

工房の屋根と破風・鼻隠しの色をモスグリーンにしたのは、「赤毛のアン」家をイメージしたからと言うと意味がわからない人の方が多いが、知人の奥さんが「グリーンゲイブルズのアンですね!」と即答してくれた。

我がぬなかわヒスイ工房は切妻屋根ではなく、色んな理由から片流れ屋根だけどネ( ´艸`)

現在の金属屋根は、ガルバリウム鋼板の横葺きが主流だが、屋根職人さんが雪の重い糸魚川には瓦棒が一番いいと薦めてくれたので、プロの意見に従った。

原作のAnne of Green Gables(緑の切妻屋根のアン)を読むような人となら、趣味があって意気投合。雑談してたら、かっては夫婦そろって松竹大船撮影所の美術で働いていたことが判明して映画にもやたら詳しいではないか。
 
 
 
つくりたい工房のイメージは、この部分はあの映画からと映画談義に興じた。工房が完成したら、招いて映画談義をしたいですナ。
窓の位置は、実際に観えるであろう風景を想像しながら決めているので時間がかかっているが、外壁の下地ベニアを張ってから丸ノコで切れば早いのに!という屋根職人さんにあきれられた。
わかってはいるが、作業効率優先より、居心地や使い勝手を考えながら、納得できる家つくりをしたいこそのDIYな訳。
部分的だが外壁下地ができてサッシが嵌ると、急に家らしくなってきた。
 
来週にはサッシが全部はまって、その翌週からは内装工事だ。
 
 

考古学はモノガタリの骨格です・・・企画展「モノで読む古事記」第3章 高天原から出雲へ

2022年05月21日 07時22分10秒 | ぬなかわ姫

ヒスイや神話に興味のある人は、國學院大學博物館のオンラインミュージアムがクールでオススメです!

企画展「モノで読む古事記」第3章 高天原から出雲へ

 
あまたある古事記の解説は、スピリチュアル目線の我田引水的なものが多いのだが、モノから読み解く考古学は、モノガタリに骨格を与えるのであり、その骨格に肉付けできるモノガタリを探るというのが、私の考え方。
 
骨格のない肉付けはフニャフニャして心もとなく、好きかってなトンデモ説を産み出す余地になる訳ですな。
 
その典型が、「弥生時代後半の糸魚川のヌナカワ姫は、出雲の八千鉾神と連合国家を樹立して北陸から山形を支配していた」とする、観光客誘致のために創られたヌナカワ姫の古代のラブロマンス説。
 
糸魚川からは出雲勢力が進出してきた証となる四隅突出墳丘墓どころか、銅鏡や銅鐸といった威信材が出土しておらず、とても弥生時代に大きな勢力を持っていたとは考えられないのだが、官民挙げて宣伝している骨格なきフニャフニャ説を史実と思い込む糸魚川市民がけっこういるのだ。もっともお隣の上越市をはじめ他地域の人からは眉唾でしょ?と言われることも多い。
 
文献史学の大家、三浦祐之先生から、古事記のなかの三種の神器のうち、詳細な由来の説明があるのは草薙の剣だけで、これは当初は鏡と勾玉だけの「二種の神器」であり、後から剣を加えたからであろうという解釈を聞いたことがある。
 
このオンラインミュージアムでは、天の岩戸開きに使われた祭器が、榊に結びつけた銅鏡と勾玉であったことが、出土品の紹介とともに説明されており、三浦先生の解釈に骨格を持たせることになりはしないだろうか?草薙の剣は銅剣!鉄剣!と諸説あるが、以上から、私は鉄剣説に一票!
 
しかし國學院大學博物館の内川先生、ヒスイや勾玉、石笛のことをもっと取り上げてくださ~い!縄文時代には石笛と推測される出土品があるのに、弥生以降はないのは何故だろう?断絶期のある石笛が、現在でも修験道や古神道系の宗派にだけ鎮魂儀礼に使われているのは何故だろう?世界に類例はあるのか?
 
調べるほどにわからないことが増えて謎は深まり、勾玉や石笛を作っているのに何も知らない自分が情けない。
 
 

極楽カリー様一行ご案内!・・・悲劇のヌナカワ姫伝説に共感する人々

2021年10月16日 08時31分01秒 | ぬなかわ姫

夏に石笛を買ってくれた鎌倉のカレー屋さん「極楽カリー」の順平さんが、店の常連さんを連れて遊びに来てくれた。

ヌナカワ姫の慰霊に稚児ケ池で奉納演奏をしたいと申し入れがあったので稚児ケ池に案内したら、篠笛、石笛、のど歌(シベリア地方の倍音唱法)の即興演奏が実にお見事で、独学と聞いて驚いた。
 
以前はヌナカワ姫に関して漠然とした興味で訪ねてくる人が多かったが、最近はピンスポットでヌナカワ姫の慰霊をしたいという人が増えてきた。
 
70年代以降に官民挙げて観光客誘致のために創作されて情報発信され続けてきた「ヌナカワ姫と八千鉾神の古代のラブロマンス」を史実のように信じ込む人も増えているが、私が口碑や考古学的考察から客観的に導びきだした「悲劇のヌナカワ姫伝説」もジワジワと広まりつつある。
 
ラブロマンスと悲劇のどちらが創作で真実なのか?とジャッジするのは不毛で、どちらに共感できるかという個々の感受性の問題だろう。
長者ヶ原遺跡は気分がいい場所。
 
私と丁々発止と落後の話しができるほどの落語好きには滅多に出逢わないのだが、順平さんとは落語談義に花が咲き、しかも私と同じく柳家さん喬師匠が贔屓と知った。初対面でこれほど気が合う人も珍しい。
 
一日に20人限定のこだわりのカレー屋さんは、鎌倉在住の友人も常連のようだ。
 
元はエスニック物品販売チェーン店の「チャイハネ」のバイヤーとして海外経験も豊富だから、話題は尽きない。
 
同行のミュージシャン絢一郎さんが、個展で買った横尾忠則の画集をなぜか土産に選んでくれた。
 
私が保育園児からの横尾ファンと知る人は少ないのに、趣味嗜好を知らない初対面の私への土産に横尾忠則の画集を選ぶ淳一郎さんの感受性は常人離れしているといっても過言ではなく、もしや宇宙人ではないか?と疑っている(笑)
 
はやくも次回は家族や友人を連れて来たいという話が出ているが、長者ヶ原遺跡で縄文キャンプ、真冬の日本海で荒れ狂う怒涛体験、春の「けんか祭り」、夏の海遊びの旅もありだ。
 
楽しいねぇ。ヒスイ職人になってエカッタ!
 
 
#鎌倉のカレー屋さん極楽カリー #悲劇のヌナカワ姫伝説 #ヌナカワ姫がお隠れになった稚児ケ池で奉納演奏 #長者ヶ原遺跡 #糸魚川ヒスイ #ヒスイ石笛 #ぬなかわヒスイ工房

 


ヌナカワ姫伝説で「ブラカトリ」・・・ブラタモリ糸魚川版のガイド

2021年10月03日 08時02分29秒 | ぬなかわ姫

ヌナカワ姫伝説で「ブラカトリ」

夏のカヌーイベントでパドル扱いが上手な青年が参加して、なにものですか?と聞いたら、学生時代は探検部に属したラフティング競技の日本代表選手、南極観測隊にいたこともあるツワモノの香取拓馬さんで、なんとフォッサマグナミュージアムの学芸員!
 
すごい人物が行政にいたもんだが、こんな人は地域の宝。
 
地質学からみた歴史や民俗学にも興味があるとのことなので、「ヒトと地形の物語」の探求をやりましょう!と、ヌナカワ姫伝説の稚児ケ池にご案内。
口碑だけでなく、稚児ケ池は教育委員会の遺跡地図でも「奴奈川神社史跡」と「三十三塚遺跡」と載っている史跡なのだ。
稚児ケ池のすぐ南の丘の上には「奴奈川と眷属の寓居あり」との口碑があり、実際に山城の曲輪のように平になっている・・・果たして人為的な平地なのかが疑問だった。
香取さんの観察は、何十万年も前に姫川の氾濫がつくった「高地段丘」ではないかというもの。
 
糸魚川市街地は姫川と海川の扇状地で、その後背地に標高70~90mの京ヶ峰の丘が東西に連なり、その丘上に稚児ケ池と長者ヶ原遺跡は位置する。
 
氾濫が多発した暴れ川の姫川は、重いヒスイを上流から海へと押し流した糸魚川のヒトの歴史の母ともいえる。文字通り糸魚川はフォッサマグナが作った街。「ブラカトリ」面白い。
海からみた糸魚川の「ブラカトリ」、町並みの「ブラカトリ」、延喜古道の「ブラカトリ」も面白いネと興味は尽きない。
 
ヨットマンとして有名なタモリさんの人気番組「ブラタモリ」がロケに来たら、快活な海の男香取さんは案内役に最適。
 
その前に香取さんをエズキズム号に乗ってもらわんと。
 
江塚オーナーは新潟大学医学部時代にボート部に属していたから香取さんは大学の後輩でもあるし、南極の話も面白がって聞くだろう。
 
それとなく江塚オーナーに香取さんの情報を伝えたら、ぜひともエズキズム号に!と誘ってくれた。
 
 
#NHKはブラタモリ糸魚川はブラカトリ #糸魚川のヒトと風景の物語 #ヌナカワ姫伝説でブラカトリ #フォッサマグナミュージアム #地質学で読み取る糸魚川の歴史

 


姫川西岸から出土した弥生人の人骨?・・・ヌナカワ族の謎に迫る

2021年09月19日 14時57分59秒 | ぬなかわ姫

金沢市出土の古墳時代の人骨が縄文や弥生とは違い、現代の日本人に近いDNAタイプだったとの報道があり、ぜひとも解析して欲しいのが糸魚川市「本田浜遺跡」出土の弥生時代の頭蓋骨。

昭和30年前後に姫川西岸で建設用砂を採取していて、地表から10m下に「扁平な川原石を敷き並べた上に屈葬した状態で遺骨が出土し、完全な頭蓋骨が6体分あった」と1966年版の「青海 その生活と発展」にある。
糸魚川市の遺跡位置が検索できる「eまっぷいといがわ」で位置を調べると、海岸から280mに位置する現在の須沢児童公園付近。
 
副葬品がないらしいが、どういう根拠で弥生時代の遺構と判断できたのかなどの詳細が記述されていないので報告書を探しているのだが、いまだ発見できていない。
 
学芸員さんに質問するのが早いが、余計な仕事をさせるのも申し訳なく、とりあえず調べるだけは調べている。
面白いのが、著者の青木重孝氏(郷土史家・当時青海教育委員長)は、弥生人を(やよいびと)とフリガナを付け、出雲や大和に服属する以前の蝦夷人(えぞびと)的なのであると推論しているところで、なにやら昔話みたいでほほえましい。
 
この人骨のDNAが縄文人(じょうもんびと)に近い物だとすると、ヌナカワ姫伝説にも面白い発展が期待できるのではないか?
古代ヌナカワびとの実相に迫れる可能性がある。
 
興味ある方は、青海・糸魚川・能生の図書館に収蔵されているので読んでみて欲しい。
 
#糸魚川の弥生人人骨 #糸魚川本田浜遺跡 #ヌナカワ族のDNA解析の可能性 #縄文人見習いの糸魚川初 #ヌナカワ姫伝説

 


ヌナカワ姫には、信州の男神の夫がいた・・・悲劇のヌナカワ姫伝説

2021年08月01日 21時55分15秒 | ぬなかわ姫
神話の研究をしている、奈良在住のいやさか祥平さんの一家を「稚児ケ池」にご案内。
 
子供連れの奥さんの姿が、往時のヌナカワ姫とダブって見えた。
 
糸魚川に出雲の八千鉾神が来た時に、「ヌナカワ姫の夫神である松本の神が戦いを挑んだが、破れて首をはねられ葬られたのが将軍塚」というような口碑があり、その類型譚も幾つかある。
 
また黒姫山山頂に祀られているのが、ヌナカワ彦・黒姫・ヌナカワ姫の三座であり、黒姫はヌナカワ姫の母神、黒姫はヌナカワ姫ともあるので、ヌナカワ姫は女系社会の世襲制の族長ではなかったか?という自説を説明したが、糸魚川市史や青海町史を編纂した郷土史の大御所の青木重孝先生も同じ見解だったようだ。
生まれて初めてイヤリングをつけた祥平さん。共通の友人が多い。
 
かっての松本は深志と呼ばれていたので、松本の神というのは中世以降の追加と思われ、縄文以来、黒曜石とヒスイを交易していた信州方面の勢力との長年に渡る婚姻関係があったことを示唆しているのでは?
 
だからヌナカワ姫の子供は建御名方神のみならず、他にもいた可能性は大いにある・・・。
 
観光客誘致のために70年代から始まった、官民挙げてのヌナカワ姫と八千鉾神のラブロマンスに違和を感じ、本当はどうなのですか?とわざわざ県外から訪ねてくる人が増えているのは、喜ばしい限り。
 
 

#悲劇のヌナカワ姫伝説 #ヌナカワ姫には信州の男神の夫がいた


ヌナカワ姫の稲刈り鎌!・・・新潟県埋蔵文化財センター企画展「新潟の米の歴史」

2021年07月30日 08時57分16秒 | ぬなかわ姫

新潟県埋蔵文化財センターの企画展「新潟の米の歴史」が面白く、多くの県民に観て欲しい欲しい内容だった。

糸魚川市民には、拙宅近くの「姫御前遺跡」出土の稲の刈り取りに使ったらしい貝殻状剥片がイチオシで、位置と時代、遺跡名の由来になった小字から、ヌナカワ姫と関係があるのではないか?と睨んでいる。
この遺跡の真南300mに位置する拙宅の「笛吹田遺跡」、さらに真南2キロの丘の中には、天津神社社伝に「ヌナカワ姫の寓居あり、眷属と歌舞を楽しむ」「ヌナカワ姫がお隠れになった」というような記述がある稚児ケ池があるのですよ。
 
ヌナカワ姫が、この貝殻状剥片で刈り取った米を食ったのかも?と想像すると楽しい。
 
郷土愛が強い信州の人なら「ヌナカワ姫の稲刈り鎌」とネーミングしそうだ(笑)
 
埋文の縄文コーナーの5割くらいが糸魚川の「六反田南遺跡」の出土品で占められていて、改めてこの遺跡の特異さを認識。
 
ヒスイの展示法も、逆光と順光を5秒間隔くらいで交互に照らして、透過光を見せているところが心憎い。
 
 

 


出雲と戦ったエボシタケルと大和と戦った沼奈川長者・・・能生の鬼伝説

2021年07月16日 07時51分13秒 | ぬなかわ姫
能生地区の沿岸部にはヌナカワ姫伝説がみられず、鶉石、島道、平、川詰、柵口といった内陸部に多いことが疑問だったが、「能生町史」を読んで納得。
鶉石地区には延喜古道、つまりは奈良時代の北陸道の駅があり、古代の交通の要衝だった訳だ。
 
ただしヌナカワ姫伝説は弥生時代後半くらいと比定されているが、当時から内陸の山越えルートがあったかは不明。
 
沿岸部では海の匂いのするエボシタケルも、内陸部の江星山の麓に住んでいたとの口碑もあるが、エボシタケル以外にも外来勢力に抵抗した豪族の口碑がある。
 
その名は沼奈川長者(ぬなかわちょうじゃ)で、ヌナカワ姫の子孫の蝦夷の首長とされている。
沼奈川長者の姿は残っていないので、「道の駅マリンドリーム能生」のレストランのデイスプレイされた舞楽面の陵王で代替。
 
蝦夷ですよ!実のところ、北海道であった不思議なアイヌ民族の女性から、山田さんはアイヌだよと言われて、周りの人に新潟アイヌの山田と紹介してもらい、「私はヌナカワアイヌです!」と自慢したことがある(笑)
 
沼奈川長者が戦った相手は、出雲の後の覇者、大和政権が蝦夷平定のために派遣した四道将軍のひとり、大彦命(おおびこのみこと)。
 
沼奈川長者は抵抗虚しく、「鬼の洗濯岩」で首をはねられている。
 
海にエボシタケル、山に沼奈川長者と、能生には鬼にされた二人の豪族の伝説がある。
 
ヌナカワ姫の夫神であるヌナカワ彦も八千鉾神に首をはねられているが、古代の糸魚川の偉いさんは首をはねられてばかりですなぁ。
新潟から秋田の沿岸部に点在し、川詰にもある越王神社(古四王神社)は、蝦夷平定をした越王、すなわち大彦命を祀った神社。
 
大彦命の後を引き継いだのが子孫とされる阿倍比羅夫で、秋田では在来神の齶田浦神(あぎたのうらのかみ)と武御雷神を併祭して蝦夷の鎮撫をしたとあるが、後に齶田を秋田としたとする説もある。
 
阿倍比羅夫は、日本海沿岸の蝦夷と粛慎を平定しつつ北海道にも渡ったことを伺わせる記述が日本書紀にあるので、「水嶋白山縁起」にあるエボシタケル粛慎説と関係があるのかもしれない。
 
 
#ヌナカワ姫伝説 #奴奈川姫伝説 #出雲から逃走した奴奈川姫の伝説 #悲劇の奴奈川姫伝説 #出雲と戦った夜星武と大和と戦った沼奈川長者の伝説

 


能登から逃げてきたヌナカワ姫・・・「西頸城郡誌」

2021年07月14日 07時45分23秒 | ぬなかわ姫
ヌナカワ姫は八千鉾神と仲睦ましからず、または何故か、たったお一人で能登から逃げ帰ってきた・・・と「天津神社伝」にあるが、姫が逃げ帰って来た場所が出雲ではなく能登という所に注目している。
当初は能登の気多大社あたりに、出雲の北陸前線基地があったことを示唆しているのか?と推測していたが、昭和5年に発行された最古のヌナカワ姫の口碑が記述された「西頸城郡誌」を読んだら、どうも七尾市の能登国國玉比古神社(気多本宮)付近あたりが怪しい。
 
本書には中世に石動山の白山修験衆が糸魚川に与えた影響もあってか、付近の気多本宮に関した記述が幾つかあることと、対岸に新潟方面が望見できる能登半島に北側に位置すること、石川県有数の古墳群がある地域なのだ。本書を読みながらグーグルアースで位置関係や地勢をチェック!
 
この本は中古本で8万円もする貴重な本なので読むことを諦めていたが、能生町図書館に収蔵されていて歓喜。
 
著者は明治期の糸魚川小學校校長、後に糸魚川市長となる中川直賢で、清書と補充が鬼舞の廻船問屋であった伊藤助右ヱ門。
 
編纂期の大正時代には、縄文土器をアイヌ式土器と言っていた鳥居龍三の影響もあってか、「アイヌ・ヤクート・オロチョンなどの蝦夷が居住する北陸地域が、出雲勢力の北陸征服により、集落を意味するアイヌ語のコタンが気多と変化して日本海沿岸に点在している」という壮大な、そして21世紀の私からみたら独善的な見解が書かれている。
 
また方言集の項目でもアイヌ語と糸魚川地域の方言の類似の項を設けて比較しているが、こちらの解釈にも相当な無理がある。
 
この本の影響もあってか、能生町の郷土史にも地名の由来をアイヌ語で解説する試みをしている。
 
この当時は考古学調査も少なく、文献と口碑だけに頼った著作であるので無理からぬ処。
 
好ましいのは、「伝説と史実を混同してはいけない」と意味のことを中川も自戒を込めてか注意深く書いている姿勢。
 
忘れられつつある口碑は残したから、考古学的な考察は後世の人たちに任せたよ、というメッセージと受け取った。
 
現在のように観光客誘致を至上目的として、都合の悪い口碑を黙殺した創作すらも厭わないヌナカワ姫伝説の活用ではなく、純粋に郷土史を探求して後世に伝えようとする姿勢がクール。
 
ちなみに「西頸城郡誌」は文語体、旧漢字、旧仮名遣いで書かれた難解な本でございます( ´艸`)
 
何度か読み重ねると、意味が浮き上がってくるのが不思議。
 
ネット検索でお気軽に情報を仕入れることができる時代だが、根拠が曖昧なガセ情報も多い。
 
一次資料を読まなきゃ話にならん。
 
#ヌナカワ姫伝説の一級資料は西頸城郡誌 #後世に残すべき西頸城郡誌 #ヌナカワ姫は出雲に行っていない #ヌナカワ姫は能登から逃げてきた

 


まつろわぬ粛慎、あらぶる鬼、その名は国津神エボシタケル・・・出雲と戦った鬼

2021年07月10日 07時55分20秒 | ぬなかわ姫

出雲の八千鉾神と戦った糸魚川の国津神のエボシタケル(夜星武)の類型譚で、鬼舞、鬼伏、江星山とエボシタケルに由来した地名を残す能生地区だけが、エボシは粛慎(しゅくしん・ミシハシ)としていることが長年の疑問だった。

本来の粛慎とは、シベリア沿海州地方の狩猟民の一群をさす中国語で、例えば黒澤明監督作品「デルス・ウザーラ」の主人公、デルスのような民族。

正体不明ながら、日本書紀には佐渡の海岸に粛慎が住んでいたとあり、もしかしたら沿海州地方からの漂流民や、北海道の日本海側でオホーツク文化を作っていった異民族であったのかも知れない。

ワシラは粛慎で~す!なんて自分から名乗らないだろうから、異原語の北方異民族を中国の文献に準じて粛慎と呼んだのだと思う。

デルスさんはこんな人。粛慎は雑多な民族が入り混じっているシベリア東部から樺太方面の非漢民族の総称であるらしい。漫画「ゴールデンカムイ」にも、ニブフとか色々出てきますな。
 
「能生町史」「おらが村の昔語り」を併読したら、エボシタケル粛慎説の一次資料にやっと辿り着いた。
「能生町史」に、文明十年(1478年)に池田正連なる人物が書いた「水嶋白山縁起」の抜粋に、夜星武は粛慎とあった。「水嶋白山縁起」は「白山縁起」の能生版であるらしい。
 
エボシタケルは内陸部の江星山に住んでいたとする口碑の他、興味深いのは鬼舞・鬼伏・小泊といった沿岸部の口碑では、エボシタケルは海中の「夜星くり・夜星堆」に住む鬼であり、菊理姫に退治されたとする口碑。
郷土史好きな能生の女性に教えてあげたら、面白いと驚いていたのが「おらが村の昔語り」
 
くり(堆)とは漁礁を意味する古語なので、漁民と関係があるような???
 
例えば鬼舞・鬼伏と隣接する木浦川河口を母港として、能登方面と密接な関係のある海洋民?
 
室町時代後半から、日本海沿岸をカワサキ船で縦横無尽に行き来していたカワサキ衆は、ルーツこそ越前であったものの行く先々の河口(川崎)を拠点にしていたからこそ、カワサキ衆と呼ばれた。
木浦川河口。左岸が鬼舞で右岸が木浦。木浦の右隣りが能生地区の中心地の小泊。
海を見下ろす高台に鎮座する鬼舞の五社神社の鳥居と狛犬には、嘉永二年に広島の尾道から持ってきたと彫られている。現在は大邸宅が重要文化財指定になっている鬼舞の船主、伊藤家のご先祖が寄進したものか。ちなみに嘉永はペリー来航のあった年間ですネ。
 
また現在は往時を偲ぶべくもないが、江戸時代~明治期までの鬼舞は、新潟県内屈指の北前貿易拠点であった。
五社神社から見下ろす鬼舞と鬼伏の集落。江戸時代だかに大地震で崩落と隆起があったそうで昔の港の姿はイメージできないが、現在は小さな漁港があるだけ。
 
エボシタケルからは、海洋民の匂いが漂ってくるぞ・・・。
 
そんなことを総括すると、弥生時代に出雲と戦った海洋性の国津神(豪族)と、中世の白山信仰が入り混じってエボシタケルなる鬼が生まれていったのではないか?
 
木浦と鬼舞の境には、江星山とは別の烏帽子山もあるし・・・。
 
池田正連とは誰なのだろう?中世の糸魚川で粛慎という言葉を使っていることからみて、相当な知識人であったことは間違いない。
 
まつろわぬ粛慎、あらぶる鬼、その名は国津神エボシタケル。
 
考古学では立証しようもないが、小説や映画のネタになりそうではないか。