高田の一斉除雪で雪樋(ユキドヨ)をはじめて使って、屋根の上を歩きまわらなくてよい工夫に感動した。



高田の一斉除雪で雪樋(ユキドヨ)をはじめて使って、屋根の上を歩きまわらなくてよい工夫に感動した。
少年時代の矢口高雄さんの家はアワ飯を常食とする貧農で、いつも腹を空かせていたそう。
いつものように工房のラジオで無観客の大相撲千秋楽を聞いていたら、普段は放送しない「出世力士手打式」と「神送りの儀式」も最後に放送するというので、リビングに戻ってテレビで視聴。
六芒星を線刻した石笛について、ダビデの星と認識されてる方もおられるようなので、以前の投稿を再びアップ。
私は考古学や民俗学方面の先生方と多少なりともお付き合いがあるので、日本人のルーツはユダヤ人だとする「日ユ同租論」の持ち主ではないか?という色眼鏡で見られてはかないませぬ( ´艸`)
家紋の籠目紋(ウイキペディアさんより)
ウイキペディア検索なので不確実ながら、ダビデの星が図案化されたのは17世紀以降とされ、歴史的には日本の家紋の「籠目紋」の方が古そうだ。
北部ラオスの「睨み返し」の竹ざる
民俗学者の折口信夫の著書には、竹かごを家の前に下げて睨み返しの魔除けとする風習が書かれているが、ラオス北部で同じ風習と、穀物倉の妻部分に付けた竹を編んだ簡易な護符も確認している。
竹を編んだ穀物倉の護符
なぜか道に落ちていた護符。蛇のトラップもこんな感じ
タイでは、この護符とそっくりなものを蛇の巣穴に仕掛けて捉える狩猟具も確認しており、アジア人にとって籠目は古い付合いなのですな。
童歌の「カゴメ」や、伊勢神宮の灯篭に刻まれた籠目紋をユダヤと結びつける日ユ同租論者は多いけども、こういった民俗学的考察をした上で唱えているのかしらん???
そんな訳であらぬ誤解をさけるために、これからは六芒星ではなく籠目紋と表現することにしました。
UFO,宇宙人、幽霊、前世、ネッシーなどなど誰が何を信じようが自由だし、私が籠目紋として線刻した石笛を「これはダビデの星なのでR!」と思って頂いて結構です。
作者の手を離れたら、用途や意味も含めて買って頂いたお客様のヒトとヒスイのモノガタリが始まる訳ですな。
後期高齢者のお袋の包丁使いが怪しくなってきて、カボチャを切る手元が危なっかしい。
天麩羅の時などは、切ったカボチャが厚すぎるから旨くない・・・薄い方が旨いですよねぇ?
そこで誕生日・母の日・敬老の日・クリスマスプレゼント・お歳暮・お年玉を兼ねて中華包丁をプレゼントした( ´艸`)
昔、バイトしていた江の島の磯料理屋で、天麩羅用の薄切りカボチャを切る時には、中華包丁が一番ということを熟知しているのでありますよ、ワタシは。
和包丁に比べて重たいので、包丁の自重が利いて固い物でも切りやすく、慣れれば野菜の千切りだって簡単。
これでタクアンは繋がって出てくることはなくなるだろうし、餅を切るにも最適な包丁だから親父の誤飲にも効果を期待しております。
一家に一本あると重宝しますぞ。
ドブネ大工さんの道具類を寄贈したご縁で、氷見市立博物館のH先生から「ドブネをつくる」書籍とDVDが贈られてきて、その詳細な記録に驚愕。
ドブネは男鹿半島から石川県の日本海で発達した、丸木舟に由来する「オモキ造り」の定置網の漁船で、糸魚川でも使われていたし、押上区にはドブネ大工さんもいた。
板材同士を密着させるために接合部に薄い鋸を入れる「アイバスリ」や、接着剤はウルシを使うなど動画で詳しく紹介されている。
これほどの記録を糸魚川市と同じ人口の氷見市が世に出したということにも驚くが、文化財保存に対する熱意、本気度が半端ない。
私が所持していたドブネ作りの道具類は、ドブネ大工さんの遺族から捨てるには忍びないと頂いたのだが、個人所有では日の目を見ることなくいつかは逸散する恐れがある。
残念ながら糸魚川市には民俗資料館もなく、漁船関連の研究に熱心な氷見市立博物館に寄贈した経緯がある。
この点、糸魚川は考古学と地質学以外には冷淡ですな・・・昔の貴重な道具類が燃やされたり捨てられたりしています・・・。
船作りや木工に興味のある方、ぜひとも氷見市立博物館にお問合せください。とにかく面白いです。
ある日突然に、東京からのご婦人三人組が訪ねてきた。
糸魚川観光に来てから地元の人から面白い人がいると、ぬなかわヒスイ工房の事を聞いて興味を持ったとの事で、ダメもとで訪ねて来たのだという。
話しを聞いて驚いたのが、ご婦人の一人が私と浅からぬ縁のある浅草神社の三柱のご祀神、すなわち三社様のうち、檜前浜成(ひのくまはまなり)の末裔という事。
浅草神社は、浅草開拓の祖である土師真中知(はじのあたいなかとも)、檜前浜成(ひのくまはまなり)・武成(たけなり)の兄弟の三柱を祀ったのが縁起で、今年は土師真中知の末裔である浅草神社の宮司さんが、土師と改名すると聞いたばかり。
浅草神社のご神紋は三社様を投網で表した「三網」だが、これは隅田川の漁師であった檜前兄弟の投網に金銅仏がかかり、地元有力者の土師真中知に相談した所、これは尊い観音菩薩像であると真中知の屋敷に祠を作って祀ったのが浅草寺の始まりで、後に浅草寺の隣りにこの三人を祀ったのが浅草神社の始まり。
檜前兄弟も実在して現代に家系が続いているという事に驚いたが、つい数日前に終わった今年の三社祭では、私が長年に渡り神輿を担がせてもらっていた柴崎西町会が属する西部町会が二之宮、すなわち檜前浜成を祀った神輿が担当だったのだと、祭り仲間から聞いていたのだ。
七年前にUターン帰郷して以来、三社祭とご無沙汰だったので、ついに三社様が迎えに来た!(笑)
不思議な縁に感謝して、大首飾り作成を中断してご婦人たちを天津神社を手始めに市内各所にご案内した。
神話に興味があるというので、市内各地の神社と旧筒石漁港に案内した。
ここは舟屋が残っている事と、現在の糸魚川で最も漂流物が多い事の他に出雲風土記逸文に「越の筒石」とこの付近らしき記述があるので、神話好きにとっても面白い場所。
私が説明しながら歩いて10分ほどで拾い集めた漂流物は漆器の折敷膳、汁椀と飯椀の蓋、丸盆、下駄などなどだが、ご婦人たちに「能登から漂着した輪島塗らしい」と説明しながら観察したら面白い発見。
漆器に朱漆で持ち主の屋号、下駄の裏にも同じ焼印があり、漆器類と下駄が同じ所有者のものと判明。
古くから来客や漂流物は、マレピト、来訪神、寄り物として縁起が良いとされてきた。
屋号の付いた漂流物の持ち主と漂流物との物語、漂流してから私に拾われるまでの冒険譚、いったいどんなご縁があるのだろう?
漂流物は無言に物語りする・・・これが面白いのだ。
ご婦人たちは興奮して宝探しに夢中・・・ただのゴミがお宝に見えてくるから、漂流物の案内は面白い。
「うりかわみの」は、糸魚川で使われていたウリノ木の樹皮の内側を剥いで作った雨具。
小滝区公民館のホールに展示されているうりかわみの。他には能生地区の民俗資料館に1点現存するようだ。
作り方の詳細を知っている人はもういない。
蓑(みの)は、西日本では稲わら、東日本ではガマ製が多いと何かで読んだ記憶があるが、この蓑は水に強く軽くて具合が良いのだとか。
うる覚えだし、説明表記はなかったが、同じ蓑を秋田の小さな民俗資料館で観たことがある。
軽くて水に強いのであれば、もし縄文時代に帆船があるとすれば、南洋の伝統帆船のように30㎝角くらいのサイズを作って繋げて帆として使っていた?と夢想してみる。
糸魚川には貴重な民具が沢山あるのだが、貴重な民具を一括収蔵する民俗資料館がないのが残念。