釋守成の転居物語(旧タイトル・GONTAの東京散歩)

またまた転居を目論んでいます。
5年間で5回の転居。
6回目の転居の経緯を書いていきます。

浜離宮

2007年04月25日 04時35分53秒 | お散歩日記/東京地名の話
すっかり桜の時期も終わったのに、まだ桜の話題を書いていない。
相変わらず遅い更新。

今年の桜はどこに行こうかと悩んだ。
三月末に体調を崩して、外出どころではなかったからだ。
しかし、竹内まりやの『人生の扉』の歌詞のように、あと何度満開の桜を見られるかわからないと思うと、居ても立ってもいられない気分で、近場に出かけた。

浜離宮
正式には、浜離宮恩賜公園
なぜ恩賜かというと、皇室の持ち物を庶民のために下賜されたからだ。
ほかにも『井の頭恩賜公園』とか『旧芝離宮恩賜公園』なんていうのがある。
でももともと江戸幕府の持ち物を皇室が分捕ったんだから、別に恩賜なんてもったいぶってないで、さっさと庶民に開放するべきでしょ。

最初は四代将軍徳川家綱の弟、甲府宰相徳川綱重の下屋敷として造営された。
その後、綱重の子、綱豊が六代将軍(家宣と改名)になったために、幕府直轄の『御浜御殿』として使われることになった。
その『御浜』の名が今の名称に残っているわけだ。

新歌舞伎の名作、真山青果作『元禄忠臣蔵』の中に『御浜御殿綱豊卿』がある。
将軍になる前の綱豊と、御浜御殿に入り込んだ赤穂浪人の富森助右衛門の浅野家再興や仇討ちの真意の腹の探りあいが見事に劇化された名舞台である。

舞台の季節は春、まさに満開の桜の中で芝居は運ぶ。
最初の場面は、御浜御殿の庭である。
そこで、綱豊卿の奥女中たちとの春の野遊びはいかにも大名の遊びの雰囲気を感じさせて好きな場面だ。

またお終いの場面は、助右衛門が吉良だと思って襲った能のシテ方が実は綱豊卿で、その場面では満開の桜が、二人にハラハラと散っていた。
実は20年以上前に歌舞伎座で舞台の上からその花びらを散らしたことある。
その時の綱豊卿は今の片岡仁左衛門さん(当時は孝夫さん)、助右衛門は中村梅之助さんだった。

桜の中、能『望月』のシテ方の扮装をした綱豊卿を助右衛門が見送る終幕は、仇討ちの能である『望月』の暗示する綱豊卿の仇討ちへの切望がヒシヒシと感じられてすばらしい場面である。

まさに舞台と同じ桜の時期に浜離宮に向かった。
実際に訪れると、舞台装置のままの築山や池や茶屋が残っている。
浜離宮は自然の海の水を引き入れた庭園である。
また園内には鴨場が二箇所設けられている。
鴨場の辺りは鬱蒼として、昔の雰囲気をかもし出しているが、空を見上げると汐留のビル街が覆いかぶさっている。
過去と現代が奇妙なバランスで一体化していて、違和感は少ない。
海側に向かうと、レインボーブリッジや豊洲のビル街が見える。
こちらは都会の港の雰囲気。
やはり海という印象よりも川の延長といった印象が強い。


園内の汐入の池、遠くに豊洲のビルが見える。


園内には桜の木がたくさん


見上げると汐留の高層ビルが・・・。


水に映る桜とビルにも風情が。


堀の向こうの堤防の先は隅田川の河口


浜離宮は菜の花も有名


江戸太神楽(軽業)やってました。


モミジの花も咲いていた。



やはり桜は美しい。


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