貂主の国の「今」

むとうすさんのところで「タタールのくびき」を購入されたということで、
躊躇した自分の優柔不断さを呪いつつ、衝動買いに走る今日この頃。

北の民の人類学―強国に生きる民族性と帰属性

京都大学学術出版会

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ロシア、アメリカ、中国、そして日本といった現代の「強国」「大国」の中で生き抜いている
北方少数民族の「今」を錚々たるメンバーが語っています。

以下、目次です。

 序章 北の民の民族性と帰属性(煎本孝、山田孝子)
 第I部 共存への道
  第1章 アイヌ文化における死の儀礼の復興をめぐる葛藤と帰属性(煎本孝)
  第2章 カナダ・イヌイットの文化的アイデンティティとエスニック・アイデンティティ(岸上伸啓)
 第II部 「自然」のシンボル化
  第3章 自然との共生
      サハのエスニシティとアイデンティティ再構築へのメッセージ(山田孝子)
  第4章 「我々はカリブーの民である」
      アラスカ・カナダ先住民のアイデンティティと開発運動(井上敏昭)
  第5章 アイデンティティ構築におけるブッシュ・フード及びブッシュの役割
      オマシュゴ・クリーの事例から(大曲佳世)
 第III部 社会変動を生きる
  第6章 チュコトカ自治管区におけるトナカイ牧畜の変化の多様性
      危機に対するチュクチの対応(池谷和信)
  第7章 トゥメト・モンゴル人の民族的アイデンティティの変遷(雲肖梅)
  第8章 中国満州族のアイデンティティ 清朝時代と中国成立以降(汪立珍)
 第VI部 民族性と帰属性の諸相
  第9章 デルス・ウザーラの言語に見るアイデンティティ(津曲敏郎)
  第10章 サハ共和国北部における重層するアイデンティティとエスニシティ(佐々木史郎)
  第11章 モンゴルの文様から見る民族性 美意識の継続と変化(阿拉坦宝力格)
  第12章 「考古学文化」とエスニシティ 極東ロシアにおける民族形成論再考(加藤博文)
 終章 未来の民族性と帰属性(煎本孝)



まぁ読む側としてはこれだけまとまった文献を読むのはうれしいのですが、
対象となっている各民族集団にとっては極めて厳しい状況にどう向き合っていくかという
非常に重いテーマです。

前のエントリーの多様性の議論にも通じるところがあるのですが、
基本的に近代国家というのはその枠内にいる人間を国民として均質化せずには
成り立たない仕組みになっているので、ただでさえ少数集団な上に広域に分散している
北ユーラシアの人々は極めて強い同化圧力の下に晒されています。

それは単に対国家、対多数派集団への同化圧力というだけでなしに、これに対抗するに
少数「民族」という、「国家」とある種同類の概念への帰属を強制される、
あるいは依拠せざるを得ない状況に追い込まれてしまうという二重に悲劇的な状況

を意味しています。

民族の設定は民族誌の時代に学者が設定し、あるいは政府が管理の都合上設定したもので、
当事者の意識とあっていたかという点では大いに疑問です。
同じ環境下(例えば森林ツンドラ地帯)で暮らす、異民族のサブ集団同士の親和性の方が、
同じ言語系統に属すると研究の結果設定された同じ民族の、全く異なる環境(南の草原地帯)で
暮らすサブ集団との親和性よりもはるかに勝っていたことでしょう。

本来、非常に多様性に満ちていた北ユーラシア世界(他の地域でも同様でしょうが)が、
「国家対民族」という対立軸に収斂されている様は見ていて非常に胸が痛みます。

故にこの「貂主の国」のサイトではそういったものがまだ全てを覆い尽くしていない、
民族誌の時代までしか扱わないつもりだったりします。
コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
北の民の人類学 (武藤 臼)
2007-02-01 23:24:10
こんばんわ

お隣のこととはいえ、佐々木氏以外の名前は存じ上げませんが、目次をみると読んでみたくなります


>それは単に・・・(中略)・・・悲劇的な状況を意味しています。

国家への帰属というのは稀にニュースになるけど、民族への帰属という問題設定は新鮮です。
去年は作られた満州族がらみの話を読んだけど、同じ中国なら、雲南なんかでも言葉の違う隣人でなく、どこに住んでいるんだかも知らない人と括られて作られた民族というのがままありますが。
言語学者は一生懸命やったんだろうけど、やっぱりこういう問題は政治化するといいことないです。

ここいらへん関係の700ページもある論文集が買ったままです。そろそろ読まんと勿体無い・・・


自分のHPでも、「多様性に満ちていた」西夏というのは扱ってみたいテーマです。
 
 
 
均質化する装置 (蒸しぱん)
2007-02-02 01:26:46
もちろん往古にも「我々」という共同体意識はあったと思うのですが、氏族とか胞族といったサブ集団があって、その集団ごと我々の定義する民族の壁を越えてしまうなんてこともあったようです。沿海州には先祖がアイヌだという伝承を持った集団もいたようですし。

くっきりした壁があるわけでなく、かなりグラデーションがかかっていたような感じですか。

「民族」として括られてしまうと、数が多くて無自覚なうちはともかく旧ソ連のように民族民族すると民族の中での文語創出活動みたいなのが行われて、1つ、どうしても無理であれば複数の標準が作られてそれまでの多様性は切り捨てられてしまいます。

数が減って往時の記憶を持った年代がいなくなってしまうと、エスニシティの復興と言ってもたまたま記録に残る幸運に浴した「カケラ」でかつての多様性を代表させるしかないわけです。

本書の冒頭のアイヌの葬送のエピソードなんか象徴的なわけです。長年アイヌ文化の保存・復興に尽力してきた長老の葬送にあたり、アイヌ式の葬祭儀礼を取り入れその復興を目指した事例なのですが、葬儀の際に火の神と死者に対して送るアイヌ語の告辞を言えるものが既にアイヌの中にもなく、和人の研究者によって行わざるを得なかったというものです。

残り少ないカケラから再構築される規格化された「民族」という人為的な概念にそれでも依拠していかなければならないという大いなる不幸。

もっとも、そうした状況に追い込んだ我々自身、同様に規格化されているわけですが。民族誌的な意味での「日本人」ってのが既に存在しない、ファスト風土な国、日本。かくて節分の日に全国のコンビニでは「恵方巻き」が売られるのでありました。

南無南無。
 
 
 
中国少数民族 (カザフ伝統音楽愛聴者)
2007-02-07 22:12:04
 先日、中国の「少数民族」が増加した、という話を聞きまして、ちょっと調べてみましたところ、今現在、少数民族数は66だそうでございます。新たに認定された「民族」の中には、シェルパ族もありましたが...
 
 
 
中国 (蒸しぱん)
2007-02-08 23:51:24
増えるんですねぇ。
「少数民族」からの申し入れなのかどうか気になりますが・・・

そういえば、日本の国語、敬語の種類が増えたようで・・・

シェルパといえばネパールの方にいるとばかり思ってたんですがそうでもないんですかね。まさか職業がシェルパだからシェルパ族を名乗っているわけじゃぁないでしょうが・・・
 
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