善と悪がわかる子に育てたいと考えながら、子どもたちの指導にあたっています。
整列をして神棚に礼をして、お互いの礼をして、出席をとってから体操。その後は回転運動をしたり受け身をしたり。どこの道場でもしている当たり前のことをしながら打ち込みをして乱取り稽古。
その時間のなかで、しっかりと体操をしていない子がいたら「怪我をしないようにしっかり体操をしなさい!」と注意をしたり、「受け身をした側の足をもっと伸ばしなさい!」と声をかけたり。「打ち込みの時に釣り手をもっと上げなくちゃだめだよ!」とアドバイスしたり。
だいたい同じ子が同じ事を注意されながら何日か経っていきます。
でもそれは善悪ではなく、人の話や注意を1回で理解して実行できる子とそうでない子の違いだったり、運動の能力に発達の違いがあるだけの事や、相手を上手く投げられないのはどこに原因があるのかに興味がなかったりするだけのことである。
また、ある子は打ち込みの時におしゃべりがしたくなってしまう。どんな話をしているかはいつも近くにいないとわからない事だが大抵は柔道の技とは関係ない話をしているらしい。ある保護者は「うちの子が言うには6年生の先輩は打ち込みの時にゲームの事を話しかけてきて気が散るんだよ.」と言ってました。「先生、注意して下さい。」
低学年のまだ習い始めの時に、つい仲の良い子と組んで楽しくて少しくらいのおしゃべりは、それほどの悪ではないような気がします。だんだん注意されて、集中してしなくては上手になれないんだ強くなれないんだと高学年になるにつれておしゃべりしなくなっていく。
しかし高学年になってから入門した子は注意されていないし、指導者もまさか6年生にもなって打ち込み中にゲームの話をするわけがなかろう。そんな子が柔道を高学年になってから習いに来るわけがなかろう、と思っているからかあまり注意されない。しかし、こちらは悪の部類に近いのではないだろうか?なぜなら真剣に稽古しに来ている子の迷惑になる事である。
また小学2年生くらいまでの子にたまにいるのが、少しでも腹の立つことがあるとお友だちに手が出てしまう子もいます。入門時からそういうふうに手が出てしまう子の大抵は指導者が注意しても直ってくれません。注意したその日は少しおとなしくなるが、次回の稽古の時にはもう忘れて手が出てしまいます。どうしたらそういう子は直るのだろうか?
結局、善悪として考えたところ私は柔道の指導を通して、この悪と考えられる行動をする子を直せないで卒業させてしまった子も多かったのではと反省しています。
ではどうしたらと考えたところ、いやしくも私は幼稚園の理事長を勤めているのですが、幼児期の教育を考えてみました。そして幼稚園や保育園の役割にも責任がありますが何よりも大事だと言われているのがやはり家庭での'しつけ'のようなのです。
道灌山幼稚園の理事長をされていた高橋系吾先生の「マナーのいい子は親次第」という本を読んでいたら目を見張る事に出くわしました。
親が子育ての長い道を進まれる過程で次のような道に分かれていくというのです。
[自立](一般的)→自立心、社会性、意欲、我慢、→我慢できる子、根気が良い子、自分でやる気になる子、明るい子
[放任](多子家庭、多忙の家庭)→無関心、無方針、放任→乱暴になる、いじめる子、きかない子、悪い言葉→少年問題、暴走族、集団暴力、いじめ、退学
[過保護](少子家庭、大人の多い家庭)→過期待、過干渉、過保護→わがまま、泣きやすい、孤独、依頼心→少年問題、登校拒否、いじめられ、家庭内暴力
びっくりしました。だいたいあっていると思いませんか?
各ご家庭にはいろいろな事情があるので、放任ぎみでも過保護ぎみになっていてもそれが悪いことではありません。この本にもありましたが、昔は家庭に祖父母がいて、長い育児の経験から助言を受けられたのです。
事実、私ども夫婦も共働きで、祖父母も高齢でしたから、子育てがうまくできたとは思っていません。
ただこの本には幼児期にしつけが不十分なら、10才くらいまでは根気よく親が他人に対してのマナーを子どもの前で実行することによって子どもも自立の方向に軌道修正されるとありました。
道場だけでは善悪のわかる子には育てることができません。是非ご家庭でも気をつけていただかなければと思います。
善悪のわかる子に育つ→柔道の稽古を頑張ってするようになる→柔道が強くなる、強くなるだけではなく社会の役に立つ子に育つ、柔道以外の道に進んでも何事にも頑張れるようになる、のではないでしょうか?
整列をして神棚に礼をして、お互いの礼をして、出席をとってから体操。その後は回転運動をしたり受け身をしたり。どこの道場でもしている当たり前のことをしながら打ち込みをして乱取り稽古。
その時間のなかで、しっかりと体操をしていない子がいたら「怪我をしないようにしっかり体操をしなさい!」と注意をしたり、「受け身をした側の足をもっと伸ばしなさい!」と声をかけたり。「打ち込みの時に釣り手をもっと上げなくちゃだめだよ!」とアドバイスしたり。
だいたい同じ子が同じ事を注意されながら何日か経っていきます。
でもそれは善悪ではなく、人の話や注意を1回で理解して実行できる子とそうでない子の違いだったり、運動の能力に発達の違いがあるだけの事や、相手を上手く投げられないのはどこに原因があるのかに興味がなかったりするだけのことである。
また、ある子は打ち込みの時におしゃべりがしたくなってしまう。どんな話をしているかはいつも近くにいないとわからない事だが大抵は柔道の技とは関係ない話をしているらしい。ある保護者は「うちの子が言うには6年生の先輩は打ち込みの時にゲームの事を話しかけてきて気が散るんだよ.」と言ってました。「先生、注意して下さい。」
低学年のまだ習い始めの時に、つい仲の良い子と組んで楽しくて少しくらいのおしゃべりは、それほどの悪ではないような気がします。だんだん注意されて、集中してしなくては上手になれないんだ強くなれないんだと高学年になるにつれておしゃべりしなくなっていく。
しかし高学年になってから入門した子は注意されていないし、指導者もまさか6年生にもなって打ち込み中にゲームの話をするわけがなかろう。そんな子が柔道を高学年になってから習いに来るわけがなかろう、と思っているからかあまり注意されない。しかし、こちらは悪の部類に近いのではないだろうか?なぜなら真剣に稽古しに来ている子の迷惑になる事である。
また小学2年生くらいまでの子にたまにいるのが、少しでも腹の立つことがあるとお友だちに手が出てしまう子もいます。入門時からそういうふうに手が出てしまう子の大抵は指導者が注意しても直ってくれません。注意したその日は少しおとなしくなるが、次回の稽古の時にはもう忘れて手が出てしまいます。どうしたらそういう子は直るのだろうか?
結局、善悪として考えたところ私は柔道の指導を通して、この悪と考えられる行動をする子を直せないで卒業させてしまった子も多かったのではと反省しています。
ではどうしたらと考えたところ、いやしくも私は幼稚園の理事長を勤めているのですが、幼児期の教育を考えてみました。そして幼稚園や保育園の役割にも責任がありますが何よりも大事だと言われているのがやはり家庭での'しつけ'のようなのです。
道灌山幼稚園の理事長をされていた高橋系吾先生の「マナーのいい子は親次第」という本を読んでいたら目を見張る事に出くわしました。
親が子育ての長い道を進まれる過程で次のような道に分かれていくというのです。
[自立](一般的)→自立心、社会性、意欲、我慢、→我慢できる子、根気が良い子、自分でやる気になる子、明るい子
[放任](多子家庭、多忙の家庭)→無関心、無方針、放任→乱暴になる、いじめる子、きかない子、悪い言葉→少年問題、暴走族、集団暴力、いじめ、退学
[過保護](少子家庭、大人の多い家庭)→過期待、過干渉、過保護→わがまま、泣きやすい、孤独、依頼心→少年問題、登校拒否、いじめられ、家庭内暴力
びっくりしました。だいたいあっていると思いませんか?
各ご家庭にはいろいろな事情があるので、放任ぎみでも過保護ぎみになっていてもそれが悪いことではありません。この本にもありましたが、昔は家庭に祖父母がいて、長い育児の経験から助言を受けられたのです。
事実、私ども夫婦も共働きで、祖父母も高齢でしたから、子育てがうまくできたとは思っていません。
ただこの本には幼児期にしつけが不十分なら、10才くらいまでは根気よく親が他人に対してのマナーを子どもの前で実行することによって子どもも自立の方向に軌道修正されるとありました。
道場だけでは善悪のわかる子には育てることができません。是非ご家庭でも気をつけていただかなければと思います。
善悪のわかる子に育つ→柔道の稽古を頑張ってするようになる→柔道が強くなる、強くなるだけではなく社会の役に立つ子に育つ、柔道以外の道に進んでも何事にも頑張れるようになる、のではないでしょうか?
マナーのいい子は親次第―しつけの第一歩は家庭から始まる | |
高橋 系吾 | |
PHP研究所 |