ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

タイトルはイマイチだがアルトマン「雨に濡れた舗道」はサイコスリラーの傑作

2023年06月04日 | 映画

ロバート・アルトマン監督の長編3作目1969年の「雨に濡れた舗道」を角川シネマ有楽町で鑑賞。日本語タイトルは最悪だが(原題はThat Cold day in the park)、タイトルからは想像できないサイコ・スリラーの傑作。というかアルトマン特有の変態的心理劇というべきか。ストーリーは、裕福な独身女性フランシスが家の窓から見える公園のベンチに雨の中ずぶ濡れになっている若者を見つけ、助けたのがきっかけで2人の間に奇妙な関係が生まれ、やがて女性の中に眠っていた狂気が目覚めていくというもの。
ありそうなお話なのだが、徐々に狂気へ至るフランシスの心の変化を、鏡や影、ドキュメンタリー的な手法などを駆使して展開していく。冒頭、ホームパーティに友人を招いていながら、窓の外の雨に濡れる若者が気になって仕方ないフランシスの、それを悟られまいとする無表情から、いずれ何かが起こるとは想像がつくのだが、サプライズ的な演出もことさらサスペンスフルな場面もなく、とにかくじわじわと怖さが染み出してくるような映画なのである。忘れられた傑作の一つだろう。
カメラは「イージー・ライダー」も手掛けたラズロ・コヴァック、主演のフランシスをサンディ・デニスが演じている。日本初上映の初期作品「イメージズ」、傑作「ロンググッドバイ」も上映中。

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安東次男について知っている二三の事柄(1)

2023年06月02日 | 俳句

◆師系・安東次男について

 私が所属する俳句結社「篠」のルーツを表す「師系安東次男」について、少し探っていきたいと思う。

 私が「篠」への入会を決めたのは、句会が六本木であること、師系が安東次男となっていたことに大変魅かれたからだった。大学時代に次男氏翻訳のエリュアールの詩集や現代詩文庫の『安東次男詩集』などを読んでいて、俳人の名前はあまり知らなかったが、安東次男の名前はなじみがあったのだ。師系のことを当時副主宰だった現主宰・辻村麻乃先生にお尋ねすると、父君の岡田隆彦先生が、主宰の岡田史乃先生に安東次男氏を紹介され、俳句の指導を受けたのが始まりとうかがった。しかし、史乃先生の句柄は、どちらかといえば次男氏と同じ加藤楸邨門下の川崎展宏氏に近いともうかがった。展宏氏の句集『春』を読んでみると、確かに言葉少なくしかも平易で、対象を大胆に切り取るところや独特のおかし味は、史乃先生と近しいものを感じたのだった。

 そうはいってもやはり安東次男が気になった。私の記憶では、戦後のラジカルな詩人、フランス文学者という印象が強く、その一方で日本の古典文学への造詣も深い方と認識していたが、俳句に接したことはなかった。次男氏の著作や句集はほぼ絶版になっていて、なかなか読む機会がなく、古書店で安東次男句集『流』(ふらんす堂発行)を入手して、ようやく読むことができたのである。

 次男氏の俳句は、古今東西の古典や芸術への深い理解に依拠しながら詠まれており、見かけはシンプルだが内から光を放つよく磨かれた石のような趣がある。これを読み解くなど私の浅薄な知識では敵わないが、本稿では次男氏の俳句を味わいながら、「篠」のルーツへの旅ができればと思う。

 安東次男氏(一九一九~二〇〇二年)は、岡山県生まれ。東京大学の学生時代に加藤楸邨に師事し俳句を始めた。戦後は、俳句から詩作に転じ、詩集『六月のみどりの夜は』(一九五〇年)などで注目を浴びる。詩人、翻訳家、評論家としての活動を中心としながら、第一句集『裏山』(一九七二年)、第二句集『昨』(一九七九年)を刊行、この頃より蕪村や芭蕉の評釈に長く取り組み、高く評価される。これが一段落した一九九〇年代に、「寒雷」に復帰、再び句作に取り組むようになる。復帰後の句集に『花筧』(一九九二年)、『花筧後』(一九九五年)、『流』(一九九七年)。俳号は流火艸堂。墓所は東京・調布の深大寺三昧所墓地で、墓碑には次の句が刻まれている。

  木の実山その音聞きに帰らんか

 掲句は、七十七歳の時の句集『花筧後』に収録した七十七句の内の一句である。この「木の実山」は

  蜩といふ裏山をいつも持つ

と、処女句集『裏山』に詠んだ故郷の裏山に呼応しているのではないかと思う。

◆二つの追悼句

 安東次男氏は俳号を流火艸堂と号した。流火とは、夏の宵に南の空に赤く輝くアンタレス、さそり座のアルファ星のこと、もしくは地上近くに流れる箒星のことだが、陰暦七月の異称としても使われる。安東は一九一九年(大正八年)の七月七日、即ち七夕生まれ。そんなことに因んでの俳号流火だったのだろう。

 艸堂は、草堂、草庵、庵などと同じで、俳諧の宗匠たちの中には、専ら〇〇庵、〇〇堂などと名乗るものが少なくなかった。次男氏は自ら呼びかけて大岡信、丸谷才一らと歌仙を巻いたというから、艸堂も遊び心みたいなものだろうか。流火という俳号にもどこか洒落っ気を感じるのである。ちなみに大正八年生まれの俳人には、金子兜太、森澄雄、佐藤鬼房、鈴木六林男、沢木欣一など、昭和俳句を牽引した錚々たる人材がいる。兜太氏は一九一九年をもじって一句一句世代と呼んだとか。

 さて、安東次男氏は、二〇〇二年、四月九日に亡くなった。岡田史乃先生は、追悼句を残されていて、次の二句が句集「ピカソの壺」に収録されている。

    師安東次男逝く 二句

  四ン月が流火先生連れ去りぬ   

  囀や先生の声返してよ

 おそらく四月という季語を選んだのは、流火が意味する七月に呼応してのことだろう。箒星が飛ぶ七月ではなく花の季節に逝ったことへの感慨が、「連れ去りぬ」の措辞に表れている。もう一句は、これほど囀りが悲しく聞こえる句もなかろうと思わせる。史乃先生にとって安東次男は声の人だったのだろう。姿は写真で、思想は文章や詩で蘇らすことができる。最もその人の不在を感じるのが声ではないだろうか。謦咳に接するという慣用句があるように、師との出会いはしばしば声や話によって鮮やかに記憶されよう。「声返してよ」という口語の措辞に師を失った作者の深い悲しみが伝わってくる。

 では次男氏は、俳句の師である加藤楸邨が亡くなった時、どんな句を詠んでいたのか。

    平成五年七月三日早暁豪雨、楸邨逝く

  乾坤のたねを蔵してあばれ梅雨

                (句集『流 』より)

「乾坤のたね」とは、松尾芭蕉が『三冊子』(芭蕉の門人服部土芳が師の教えをまとめた俳諧論)に言う「乾坤の変は風雅のたね也」を意味する措辞だろう。俳句とは自然の一瞬の変化を言い留めること、という俳句の神髄と共に師楸邨が逝ってしまった。この梅雨の豪雨の早暁に―芭蕉を引用しながら追悼句をまとめるあたりに、師への深い思慕と尊敬の念がうかがえる。(つづく)

 

 

 

 

      

 

 

  

 

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