【時事(爺)放論】岳道茶房

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「そうだ」記事は少なくしてほしい

2010年11月04日 | 新聞案内人
「そうだ」記事は少なくしてほしい

 新聞記事の中でページのトップないしは、それに準ずるような扱いの記事には、ほとんどの場合、前文というものがあります。新聞を開いてごらんになると分かりますが、ニュースの概略をまとめており、忙しい読者はそれだけを読んで済ませることもできるし、逆に読者をひきつける導入部ともなっています。

 最近、この前文の最後の一行が気になって仕方がありません。具体例を二、三挙げてみましょう(ただし、新聞社の名は特定しません。朝日・読売・日経のいずれかであることは確かです)。

 「与党内には不満もくすぶり、年末の予算編成に向けた調整は難航しそうだ」

 「東芝が裸眼3Dテレビを投入することで、市場が活発化しそうだ」

 「(新幹線の延伸で)今後は羽田―青森間や大阪―鹿児島間などが大幅に食われそうだ」

 「利用者がみたいコンテンツをどれだけ充実できるかが、普及のカギを握りそうだ」

 「優等生的な政治だけでは、国民の求める変革はできない」という自らの言葉を実践できるかが、原口氏の今後を左右しそうだ」

 「判決が捜査手法にどう言及するかも注目される」

○気になる2つの理由

 なぜ、この最後の一行が気になるのか――理由は二つあります。

 第一は、表現が類型化しているからです。「注目される」を除いて、いずれも語尾は「そうだ」で終わります。のみならず、その前にある言葉、「難航」、「活発化」、「カギを握り」、「左右」、「注目される」は、しばしば前文に使われます。このほか、よく登場するのは、「曲折が予想される」「曲がり角にさしかかる」などでしょうか。この慣用句(?)を目にしない日はほとんどないと言ってもいい。

 第二は、「注目」は別として、いずれも「そうだ」という語尾で今後の見通しを述べており、記者の主観が入っているのではないかということです。自らの主観的な見通しを述べることによって、ニュースの大きさを訴えようとしているようにすら思えます。

 とりわけ滑稽なのは、「注目される」です。一体誰が「注目する」のか。自分が注目しているのなら、「注目している」と書くべきでしょう。読者からの注目を浴びるというのなら、余計なお世話で、注目するかしないかはこっちが決めることだと言いたくなります。

 見通しを入れるな、とは申しません。入れるなら入れるで、もっとしっかりと分析をして書いてほしい。しかも、これは客観的な記事ではなく、自分の主観も加えた分析記事であるとはっきり分かる形にしてほしいのです。

○主観と客観の境界線

 ここで、新聞記事における客観と主観とは何か、という大事な問題に直面します。

 新聞記事には、どうしても主観が入ります。100%客観的な記事は、きわめて少ない。

 なぜか。ニュースとして取り上げようと取捨選択した時点で主観が入っているからです。世の中の森羅万象を記事にすることはできません。大きなニュースの場合は別ですが、ニュースにされなかったニュースは無限と言っていいほどたくさんあるのです。

 また、同じニュースの記事でも、会社によって、削除したり加えたりする材料があります。記事の扱いにも、主観が入ります。価値尺度の違いと言ってもいい。

 でも、主観は出来る限りそこまでで止めてほしいのです。後は読者が判断することです。こんな見通しがあるぞ、などと押し付けてほしくはないのです。

 最近感じるのは、この主観と客観との境界線が相当ぼやけてきているのではないかということです。また、記者それぞれが自分の頭で考える努力をするよりも、ワンパターン化した発想に傾いているのではないかとすら懸念します。折角、記事のひとつひとつに署名が入るケースが増えてきたのですから(署名入りは大賛成)、安直な「そうだ」記事は止めた方がいい。書いた記者の資質が問われてしまいます。

 今日は読者のみなさんへの「案内」ではなく、現役記者への注文になっていまいました。一先輩の世迷い言として聞いていただければ幸いです。

2010年11月04日 新聞案内人
水木 楊 作家、元日本経済新聞論説主幹


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