「なにより新卒」で失っているもの
就職氷河期が続く中で、厚生労働省、文部科学省、経済産業省が合同し、国内245の経済・業界団体に対し「卒後3年までの既卒者は新卒と同様にあつかってほしい」と要請したという。
日本の大企業がなぜ「新卒」を重視しているのか、「既卒」では何がいけないのか。いろいろ考えてみたが、どうもすっきりと納得できる答がない。何社かの採用担当者に尋ねたが、「慣行上そうしてきていますので…」みたいな、歯切れの悪い説明しか返ってこない。
私としては、経験豊かな既卒者の方が、企業にとってはずっと得だろうと思う。たとえば、朝日新聞は先日、大阪地検の証拠改ざん事件を1面トップでスクープした。大スクープだったが、その担当記者は中途入社組だった。新卒だろうが既卒だろうが、経験や能力があればそっちの方が買い得であることは明白だ。コンビニのアルバイトだって厳しい接客経験を積んできている。新卒よりずっと信頼できるはずである。
欧米ではそういう採用が中心で、ことさら「新卒かどうか」などは問わない。日本だって明治大正のころは大体そうで、学校を出てから職を探していた。新卒が「絶対条件」になったのはつい最近のことなのである。
○グアテマラの密林で
ユニセフ(国連児童基金)事務局長を2期にわたって勤めた米国人女性、キャロル・ベラミーさん(68)は、大学を終えた21歳で平和部隊に入った。日本の青年海外協力隊員にあたる米国のボランティア組織だ。任地は中米グアテマラ。密林の奥地の村で、衛生や保健指導の任務につく。赴任するとき、一人暮らしではさびしかろうと、友人たちがかわいい子犬を一匹くれた。
一年がすぎたある日、その犬の様子がおかしくなり、彼女の足にかみついた。犬は近所の犬にもかみつくようになった。狂犬病かもしれない。狂犬病は発病したらほぼ100%の確率で死ぬ。さあ、どうしようか。診療所のあるような村ではなかった。無線はあるが出力が小さく、首都の平和部隊事務所には届かない。パニックになりそうな心をおさえ、必死に考えた。
とりあえず、かわいそうだったが犬は殺し、庭に埋めた。無線はグアテマラ軍の地域駐屯地までは届くことが分かった。軍に無線を入れ、「狂犬らしい犬にかまれた。どうすればいいか」と連絡した。さいわいなことに、軍は即座に対応してくれた。「調べるから犬の頭を送ってこい」という。庭を掘りかえして犬の頭を切り離し、ビニールに包んで箱に入れ、トラック便で送った。一週間ほどして、軍から「やはり狂犬病だった」という連絡があった。「これからワクチンを送る」。
「ワクチンが着くまで一週間、ほとんど眠れませんでした」とベラミーさんは語る。「ほんとうにワクチンが届くのだろうか。途中でなくなったりしないだろうか。発病してしまったらどうしようか。眠ろうとしても、このまま目が覚めないかもしれないと考えてしまう。たまらない気持でした」
やっとワクチンが届いた。注射も自分でしなければならない。筋肉注射で、猛烈に痛かった。一週間注射をしつづけ、なんとか発病は避けられた。
○自分で判断し実行
村が干ばつに襲われ、汚れた泥水を飲んだ子どもたちが下痢で大勢死んだこともある。幼児が自分の腕の中で死んでいく。たまらないつらさだった。米国では経験もしなかったことが次々に起きた。しかし、何が起きても自分自身で判断し、実行しなければ何も進まなかった。
任期を終えて帰国後、奨学金を得て大学院で学びなおした。大手証券会社などを経て、1995年にユニセフ事務局長に任命される。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の緒方貞子さんに次いで、国連機関では2番目の女性トップとなった。
そのベラミーさんがいう。
「若者が自分一人で状況を判断し、決断し、実行し、責任を負う。私はその後、ビジネスの世界に入りましたが、平和部隊でのその経験はとても役に立ちました」
米平和部隊は開設50年になる。これまで20万人近い青年が途上国に派遣された。米企業はその経験を重視し、平和部隊OBを積極的に採用している。
一方、日本はどうか。青年海外協力隊は年間約千人が途上国に派遣され、農業指導や学校教師、看護師などで活動している。誠実な仕事ぶりに現地の評判もいい。しかし、帰国後の就職状況はお寒いかぎりだ。毎年3割近い帰国者が就職できでいない。新卒でないことが敬遠される大きな理由だ。協力隊経験を重視して採用する企業はごくわずかにすぎない。
組織としてできあがってしまった日本の企業社会では、自分で決断したり自分の責任で行動したりする人間は必要ないということなのだろうか。まっさら無色の新卒で、何も考えず命令に従順に従う人間の方がいいということなのだろうか。
いま日本では、長期の海外旅行に出かける大学生が急激に減っているという。そんなことをしていたら就職に有利に働かない、なによりも「新卒」だ――。そういうことだとしたら情けない話だ。しかし私たち大人の社会が、若者をそうしてしまっているのである。
2010年10月25日 新聞案内人
松本 仁一 ジャーナリスト、元朝日新聞編集委員
就職氷河期が続く中で、厚生労働省、文部科学省、経済産業省が合同し、国内245の経済・業界団体に対し「卒後3年までの既卒者は新卒と同様にあつかってほしい」と要請したという。
日本の大企業がなぜ「新卒」を重視しているのか、「既卒」では何がいけないのか。いろいろ考えてみたが、どうもすっきりと納得できる答がない。何社かの採用担当者に尋ねたが、「慣行上そうしてきていますので…」みたいな、歯切れの悪い説明しか返ってこない。
私としては、経験豊かな既卒者の方が、企業にとってはずっと得だろうと思う。たとえば、朝日新聞は先日、大阪地検の証拠改ざん事件を1面トップでスクープした。大スクープだったが、その担当記者は中途入社組だった。新卒だろうが既卒だろうが、経験や能力があればそっちの方が買い得であることは明白だ。コンビニのアルバイトだって厳しい接客経験を積んできている。新卒よりずっと信頼できるはずである。
欧米ではそういう採用が中心で、ことさら「新卒かどうか」などは問わない。日本だって明治大正のころは大体そうで、学校を出てから職を探していた。新卒が「絶対条件」になったのはつい最近のことなのである。
○グアテマラの密林で
ユニセフ(国連児童基金)事務局長を2期にわたって勤めた米国人女性、キャロル・ベラミーさん(68)は、大学を終えた21歳で平和部隊に入った。日本の青年海外協力隊員にあたる米国のボランティア組織だ。任地は中米グアテマラ。密林の奥地の村で、衛生や保健指導の任務につく。赴任するとき、一人暮らしではさびしかろうと、友人たちがかわいい子犬を一匹くれた。
一年がすぎたある日、その犬の様子がおかしくなり、彼女の足にかみついた。犬は近所の犬にもかみつくようになった。狂犬病かもしれない。狂犬病は発病したらほぼ100%の確率で死ぬ。さあ、どうしようか。診療所のあるような村ではなかった。無線はあるが出力が小さく、首都の平和部隊事務所には届かない。パニックになりそうな心をおさえ、必死に考えた。
とりあえず、かわいそうだったが犬は殺し、庭に埋めた。無線はグアテマラ軍の地域駐屯地までは届くことが分かった。軍に無線を入れ、「狂犬らしい犬にかまれた。どうすればいいか」と連絡した。さいわいなことに、軍は即座に対応してくれた。「調べるから犬の頭を送ってこい」という。庭を掘りかえして犬の頭を切り離し、ビニールに包んで箱に入れ、トラック便で送った。一週間ほどして、軍から「やはり狂犬病だった」という連絡があった。「これからワクチンを送る」。
「ワクチンが着くまで一週間、ほとんど眠れませんでした」とベラミーさんは語る。「ほんとうにワクチンが届くのだろうか。途中でなくなったりしないだろうか。発病してしまったらどうしようか。眠ろうとしても、このまま目が覚めないかもしれないと考えてしまう。たまらない気持でした」
やっとワクチンが届いた。注射も自分でしなければならない。筋肉注射で、猛烈に痛かった。一週間注射をしつづけ、なんとか発病は避けられた。
○自分で判断し実行
村が干ばつに襲われ、汚れた泥水を飲んだ子どもたちが下痢で大勢死んだこともある。幼児が自分の腕の中で死んでいく。たまらないつらさだった。米国では経験もしなかったことが次々に起きた。しかし、何が起きても自分自身で判断し、実行しなければ何も進まなかった。
任期を終えて帰国後、奨学金を得て大学院で学びなおした。大手証券会社などを経て、1995年にユニセフ事務局長に任命される。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の緒方貞子さんに次いで、国連機関では2番目の女性トップとなった。
そのベラミーさんがいう。
「若者が自分一人で状況を判断し、決断し、実行し、責任を負う。私はその後、ビジネスの世界に入りましたが、平和部隊でのその経験はとても役に立ちました」
米平和部隊は開設50年になる。これまで20万人近い青年が途上国に派遣された。米企業はその経験を重視し、平和部隊OBを積極的に採用している。
一方、日本はどうか。青年海外協力隊は年間約千人が途上国に派遣され、農業指導や学校教師、看護師などで活動している。誠実な仕事ぶりに現地の評判もいい。しかし、帰国後の就職状況はお寒いかぎりだ。毎年3割近い帰国者が就職できでいない。新卒でないことが敬遠される大きな理由だ。協力隊経験を重視して採用する企業はごくわずかにすぎない。
組織としてできあがってしまった日本の企業社会では、自分で決断したり自分の責任で行動したりする人間は必要ないということなのだろうか。まっさら無色の新卒で、何も考えず命令に従順に従う人間の方がいいということなのだろうか。
いま日本では、長期の海外旅行に出かける大学生が急激に減っているという。そんなことをしていたら就職に有利に働かない、なによりも「新卒」だ――。そういうことだとしたら情けない話だ。しかし私たち大人の社会が、若者をそうしてしまっているのである。
2010年10月25日 新聞案内人
松本 仁一 ジャーナリスト、元朝日新聞編集委員