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新聞週間関連の記事から受けた違和感

2010年11月01日 | 新聞案内人
新聞週間関連の記事から受けた違和感

 10月、新聞協会賞の発表や新聞週間にあわせて各紙は、受賞した報道などの背景を説明する記事を載せていたが、そのなかのいくつかの記事に微妙な違和感を感じた。

 読売新聞は、核再持ちこみをめぐる日米間の密約文書を発見し、新聞協会賞を受賞した。

 「密使」若泉敬氏の著書やアメリカの資料などから密約が交わされていたことは確実だったにもかかわらず、自民党時代の政府や外務省は否定し続けてきた。佐藤栄作元首相の遺族が密約文書を保管していたと読売新聞が報道し、同紙が書いていたとおり、論争にピリオドを打った。そういう意味で、この報道は十分に評価に値する。

○「総力を挙げた取材」の意味

 読売新聞10月14日朝刊はこの記事に続いて、9月の民主党代表戦で菅・小沢両候補のどちらに投票するか、議員や党員・サポーターを訪ね歩いて調べたという。派閥が力を発揮する自民党総裁選と違い、民主党の「グループ」は「大学のサークルのようなもの」で重複して所属していたりしていて、たいへんな労力をかけて記事にしたとのことだ。しかし、その結果は満足すべきものだったようで、「総力を挙げて丁寧な取材を重ねれば真相に迫れる、という教訓を胸に、各記者はまた地道な取材に走っている」と結んでいる。

 何ごとにつけ綿密な調査をし、他紙よりもすぐれた報道をすれば評価されるのがメディアのつねだからそれ自体は賞賛されるべきことなのだろうが、ただそのように困難で「総力を挙げた取材」であること知れば知るほど、はたして総力を挙げて調べることだったのかという疑問も湧いてきた。

 そうしたことがわかってはたして何になるのだろうとまず思ったわけだが、さらに記事では、勝ち馬に乗る心理をねらって両グループから「勝利は近い」という宣伝戦が行なわれたと書かれている。メディアがどちらが優勢と書けば、当然ながら投票行動に影響がある。

 そうした「アナウンス効果」はいずれの選挙でもあるが、代表選での投票行動は議員たちの今後の処遇に直結する。となれば、通常の選挙以上に彼らの行動に影響を与えるだろうことが予想される。

 綿密な調査をすればするほど影響力が大きくなり、勝ち馬心理が働いて選挙の結果が記事の予測の方向に動く可能性が高くなる。

 先に書いたが、報道の意味はさておき報道するのがメディアの使命という考えもあるので意味がないとは言わないが、「勝ち馬心理」のことも考えれば、それだけの努力が必要なのかについての考察が新聞週間のこの記事であってもよかったのではないか。すぐれた仕事だという読者の共感が得られなければ「総力を挙げた丁寧な取材」が無駄にもなりかねない。

 読売新聞のこの報道とはまったく逆の意味でより大きな疑問を持ったのは、朝日新聞10月7日の記事だ。新聞協会賞を受賞した「大阪地検特捜部の主任検事による押収資料改竄事件」について、取材した記者などによる経緯が書かれていた。

 朝日新聞の記者が厚労省元係長の弁護人を数週間かけて説得し、検察から返却されたフロッピーディスクを調べて改竄を明らかにした。調査報道の鏡ともいえるものだ。

 そういう意味で取材した記者は高い評価に値するが、新聞の世界で仕事をしたことのない人間には、取材の中心になった記者の回想ははなはだ理解しにくいものだった。

 村木厚労省元局長に対する捜査のずさんさが公判で次々と明らかになり、できることはないかと考えて取材を進めて改竄を突き止めたとのことで、続いてこう書かれている。

 「記事にすることに迷いがなかったと言えば、うそになる。多くの検事たちはまじめにやっている。証拠を改ざんした行為は許せないが、記事になれば、検察本来の業務に支障が出るのではないかとも自問した。だが、組織のウミを出し、再生してもらうことこそが検察にとっていずれプラスになると信じた。」

○考えすぎ

 読売新聞については、その報道の意味についての考察があってもよかったのではないかと書いたが、朝日新聞のほうは、明らかに考えすぎである。「組織のウミを出し、再生してもらうことが検察にとっていずれプラスになる」などという以前に、むしろこれ以上報道すべきことがそうそうあるとは思えないぐらいのことではないか。

 「多くの検事たちはまじめにやっている」のは確かにそうなのだとしても、「多くの官僚はまじめにやっている」からといって官僚の不祥事の報道をためらったりするだろうか。官僚でなくても、多くの人はまじめに働いており、悪いことをするのは一部の人である。多くの人がまじめにやっているからといって報道しない理由にはならない。

 「検察本来の業務に支障が出るのではないか」といったことも、記者の心配することではないだろう。言うまでもないことながら、こうしたことがそのままになり、今後も繰り返されて無実の人が罪に問われかねないことのほうがずっと問題だ。

 記者もそう思ったから報道したのだろうが、もしこれを報道しなければ、記者も改竄の隠蔽に荷担したと見られても仕方がない。

 ここでもし報道せず、「朝日新聞記者は知っていたのに報道しなかった」などということがあとで発覚した場合、それは同紙にとって致命的とも言えるほどの打撃になったはずだ。

 そうしたことまで思うと、いよいよ何を迷っていたのか、まったく理解できない。先に書いたとおり、これ以上に報道すべきことはないというぐらいのことなのだから。

 この回想記事では、続いて、次のように書いている。

 「『検察担当の記者が検察を批判する記事をほんとうに書けるのか』。FD解析の協力を厚労省元係長の弁護人に求めた時、こう聞き返された。その言葉から、メディアへの不信や不満も痛感した。」

 この記事ではそれだけしか書かれていないが、検察担当の記者が検察を批判する記事を書いた場合のデメリットについては当然ながら考えただろう。それについては多かれ少なかれ迷いがあったとしても不思議ではない。

 実際のところ、この回想記事にかぎらず、この事件についての新聞の「及び腰」は、多くの人が気になっていることなのではないか。

 第三者による検察内部の調査をすべきとフリーのジャーナリストや識者などは主張するものの、記者からは、検察のことは検察でないとわからないとためらう声が上がったり、これはあくまでも特別な例であると決めてかかるような報道をしたのでは、メディアと捜査当局の「近さ」について疑いを抱かれても仕方がない。

○関係維持の制約

 そもそも供述調書は、容疑者の話をもとに捜査当局が作成するもので、世間の常識的な定義で言えば「作文」にほかならない。さらに供述調書がつじつま合わせをして作成されるものなら、証拠がそれに応じて作成されても不思議はないというのがふつうの受けとめ方ではないかと思う。

 実際のところ、取材対象者と関係を維持しなければ継続的に記事を書けないというのはとても困難な立場である。フリーの立場で書いてもまったく制約がないわけではないが、関係が切れたとしても最終的に自分一人の問題というのと、組織ぐるみ困った立場になりかねないというのでは状況は異なるだろう。

 新聞報道の背景をめぐる同様の記事でありながら、それぞれの報道についての読売新聞と朝日新聞のスタンスが好対照で、興味深かった。

2010年11月01日 新聞案内人
歌田 明弘 コラムニスト


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