【時事(爺)放論】岳道茶房

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TPP議論は「アジアの枠組み」の視点も

2010年11月09日 | 新聞案内人
TPP議論は「アジアの枠組み」の視点も

 政権発足以来、内政についての話題が多かった菅政権であったが、ここに来て、日中関係や日露関係における摩擦が生じたことにより、外交政策がクローズアップされてきた。

 日中関係や日露関係は想定していない形で問題として浮上してきたが、今年の外交政策の目玉となるはずなのは、今週横浜で開催されるAPEC会議である。日本政府は、議長国としてこの会議において何らかの成果を提示することをめざして準備してきたと思われる。

 アジア太平洋地域の首脳が一堂に会するというものの、APEC会議への一般的関心は、警備のものものしさについて以外、最近までそれほど高かった訳ではない。しかし、10月、菅首相が所信表明演説においてTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)への参加を検討していると述べたことにより、TPPへの参加の是非をめぐり、APEC会議への関心がにわかに高まってきた。

 TPPとは、2006年にシンガポール、ニュージーランド、チリ、ブルネイの4カ国の協定として発効し、その後、アメリカ、オーストラリア、ペルー、ベトナム、マレーシア、コロンビア、カナダなどが参加を表明した(カナダは、参加は時期尚早と通告された)自由貿易を促進することを目標とするアジア太平洋地域の枠組みである。発効から原則10年以内にほぼ100%の関税撤廃を目指すとされている。

○国内経済への影響に焦点

 菅首相の参加の検討表明後、国内では、TPPへの参加をめぐり自由貿易に反対する農業セクターと輸出産業を中心とする支持セクター(経団連等)との間で選好が分かれ政治的に問題化した。結局、菅首相は、関係国との協議は開始するものの参加の判断は見送るという決定を行った。参加表明からすると、トーンダウンした感は否めない。

 TPPへの参加による国内経済への影響については、関連省庁の試算が大きく異なったように、どの立場に立つかによって、見解は大きく分かれている。このようなTPPをめぐる一連の経緯を報じるメディアは、自由化反対と自由化支持との間の国内の対立にもっぱら焦点を当てている。これは、今までAPECやFTAでの貿易自由化を報じる際の関心の持ち方と同様である。自由化に対応できる農業改革の必要性を訴えてもいる点も、以前から変わっていない。

 しかし、TPPについては、国内産業への影響という面も重要ではあるが、アジア太平洋地域での枠組みをめぐる駆け引きという側面があることも忘れてはならない。TPPについては、設立メンバー4カ国が中小国であったこともあり、当初はそれほど注目されていなかった。しかし、2009年に、アメリカが参加表明したことにより、注目度は格段に高まった。

 アメリカにとって、TPP参加国は貿易相手国として重要とは言えないにもかかわらず、なぜ参加したのか。また、TPP参加に際しても、アメリカ国内では、農業団体を始め、反対する集団も存在していたにもかかわらず、なぜ参加したのか。

○アメリカの狙い

 アメリカにとって、アジアは通商的にも戦略的にも重要な位置を占める。にもかかわらず、アメリカが参加している枠組みであるAPECでの自由化の速度は遅い。これに対し、各国はアジア諸国間でのFTAの締結に向かい、ASEANやASEAN+3などの枠組みが緊密化してきている。鳩山前首相が提唱した東アジア共同体構想も、暗にアメリカを入れない枠組みであった。このような状況において、TPPは、アメリカにとって、アジア太平洋の自由化を促進するためだけの枠組みでなく、アジア地域でアメリカが国際制度の構築に関与できる枠組みとして浮上したのである。自由化協定を基にして、アジアでの多国間枠組みを進めることになろう。

 日本は、国内事情から参加が危ぶまれている。ここで問われているのは、自由化するかしないか、という点だけでなく、TPPという枠組みが日本のアジア政策において必要なのかどうか、という点である。

○影響力失う懸念

 アジア地域において、APEC以外での自由化の多国間の枠組みに関与しないとすると、TPPの制度化によりアジア太平洋地域の自由化は他国のペースで進められる可能性が出てきた。TPPで自由化の枠組みができた場合、TPPはAPECでの自由化の方向性にも影響力を持つことになるだろう。貿易立国である日本が、自由化の方向性に影響力を発揮できなくなるかもしれない。枠組みに関与していれば、自由化の方向性に何らかの影響を与えることはできるだろう。

 菅政権は、参加諸国と協議するということでTPPに関与する姿勢をかろうじて維持した。国内産業への影響という点だけでなく、アジア地域での国際制度構築への影響力という点からも、TPPへの参加を議論することが必要なのではないだろうか。

2010年11月09日 新聞案内人
古城 佳子 東京大学大学院総合文化研究科教授

「中国スパコン世界一」をどう受け止める

2010年11月08日 | 新聞案内人
「中国スパコン世界一」をどう受け止める

 中国が開発したスーパーコンピュータが世界的に話題になっている。

 朝日は、10月30日朝刊に「中国スパコン 米抜き世界最速」という広州発の記事、読売では10月31日朝刊に「中国スパコン、世界一に」というワシントン発の記事として報じた。

○オバマ大統領演説も言及

 実はこのニュース、欧米では大きく取り上げられオバマ米大統領が11月3日のスピーチで言及したほどだったが、日本では一応報道はされたもののそれほど大きく扱われていない。経済にも影響があるニュースと思うが日経は不思議なことに記事としては報じていないようだ。ちなみに一番積極的に報道したのは産経で10月31日の1面下半分で「中国スパコン世界最速/軍事目的、国際社会に脅威」、「米安保脅かしかねぬ/一斉に米紙警鐘」と伝えた。

 スーパーコンピュータは超高速計算が特徴の特殊コンピュータである。TOP500.orgという組織が速さのランキングを6月と11月の年2回発表している。Linpackという線形代数学の数値演算を行うプログラムでコンピュータの性能を計る。もちろんこれだけでスーパーコンピュータの性能の全てが分かる事はないが、このランキングでトップとなるとその効果は絶大だ。日本の地球シミュレータも2002年にトップとなり大きく報じられた。その報道がきっかけとなり米国が猛烈に巻き返して2004年にトップの座を取り戻した。

○スナップショット

 10月末に中国の国防技術大学がスーパーコンピュータ 天河1AをHPC China 2010という国際会議で発表した。最新のランキングは今月15日に発表予定だが、その発表通りなら中国の天河1Aがトップになるのは間違いない――ということでいち早く大きなニュースになったわけだ。中国の発表の直前の10月28日にNew York Timesはスクープとして一面から始まる大きな記事を載せた。記事はTOP500をまとめているテネシー大ジャック・ドンガラ (Jack Dongarra) 教授ら専門家に意見を聞いており、総じて発表の真偽については肯定的。スーパーコンピュータ設計者スティーブ・ウォラック (SteveWallach) が「今回の数字はスナップショットであり米国が心配する必要は無い。実際の計算を効率行うにはチューニング(最適化)が必要。そこまですぐにはできないから。世界はいまも進歩している。」とまとめている。

 天河1Aの演算性能は2.507テラ・フロップス(毎秒2507兆回)で、米Intel社のマイクロプロセッサ (CPU) を14336個と米NVIDIA社のグラフィックプロセッサ (GPU) を7168個を使っている。その意味では「中国産」かというと微妙だ。ただ、サービスノード用には自主開発した8コアSPARCアーキテクチャのFeiTeng-1000マイクロプロセッサを使い、またマイクロプロセッサやグラフィックプロセッサを接続する部分も自主開発した結果、広く使われている接続方式Infiniband QDRの2倍の性能がだせたという。

 パーソナルコンピュータではマイクロプロセッサに計算をさせて、グラフィックプロセッサには描画をさせるが、スーパーコンピュータでは、マイクロプロセッサにもグラフィックプロセッサにも計算をさせる。これによりマイクロプロセッサだけでこの性能のマシンを作ると消費電力が12メガワットにもなるのに、グラフィックプロセッサを搭載したことにより4メガワットの省エネになったという。ただ、良いことばかりではなく、マイクロプロセッサとグラフィックプロセッサとの間のデータのやり取りで手間がかかり、ソフトウェアの開発が難しくなるという欠点も生じる。

 グラフィックプロセッサのメーカのNVIDIAは天河1Aの発表と同時に自社グラフィックプロセッサがそれに採用されていることを広報しており、そういうメーカの宣伝も今回のニュースが広まるのに効いたようだ。

○「いつかは自主開発」とハード重視の実態

 天河1Aでは、米国製のチップが多数使われたが一方、中国科学技術院ではGodsonというマイクロプロセッサの開発を続けている。いつかは自主開発のマイクロブロセッサで世界一を目指すのだろう。中国の国家計画ではマイクロブロセッサやOSの自主開発の優先順位は高く数千億円が投じられるらしい。だが、Science誌によると中国ではハードウェアの開発に100かけるとするとソフトウェア開発には1しか資金が出ないという。スーパーコンピュータ用のほとんどのソフトウェアは海外製だ。マイクロプロセッサを多く使うマシンではその個数分のライセンスが必要となりソフトウェアの価格も上がるので、簡単には導入できない。中国のスーパーコンピュータ、カタログスペックは高くてもすぐ実用になるわけではないというのはそういう事情もあるようだ。

 米国の報道を見ると、いろいろな面で力を持ちつつある中国が世界一になるのは米国にとって脅威となるといった主張や、「これは米国の開発体制に対する警告だ」などといったものが多い。「スプートニク・ショック」以来の米国の研究開発関係者のお家芸で、マスコミ報道で有権者の危機感を煽り開発予算をさらに獲得しようという意図が見え隠れする。さらに米国自身が今かかえるスーパーコンピュータと関係ない問題、例えば中学生レベルの数学や科学の成績が低いとか、大学院に行くのは外国籍ばかりなど教育の問題を引き合いに出して今の米国を嘆く記事も目立った。

○米も開発加速へ

 正式のランキングが発表され天河1号がトップだったとしても、使われている技術の多くは中国にとっては外国製でいろいろ背伸びをしている。だが実力を付けはじめたのは間違いない。中国がいずれすべて自主開発技術でスーパーコンピュータを開発するのは間違いない。米国はこれを機に開発ペースを今まで以上に上げていくだろう。

 米国では今、費用がかかりすぎて国内に最先端半導体工場を持てなくなるという危惧が高まっている。これは日本も同じ。最先端の技術開発はコストがかかるばかりで儲からないが、量産段階に入って儲かるようになると工場は人件費の安い新興国に行ってしまう。今はない最先端の半導体工場が中国にできた時が、真の「中国産スーパーコンピュータ」のできるときだ。今回のニュースは、そのような雰囲気の中で中国が着実に技術力をつけてきた象徴として欧米では大きく扱われたようだ。

ところで日本では「スーパーコンピュータ」は仕分け議論などの影響で、政治的な問題になってしまった。関心を持たれるのはいいが、それなりに技術的内容を理解しないと判断の出来ない問題に、単純化した理解で反応をする人々が押し寄せている状況は望ましい事ではない。話は単純ではない。

 そういう意味で難しいとは思うが、新聞には表面的なことだけでなく問題の複雑さをわかりやすく理解させるような記事をもっと書いて欲しいと思う。例えば日経の11月1日夕刊の解説記事「ニッキイの大疑問:スパコン、なぜ1位を目指す?/産業優位に、ブランド力も向上」のようなもの。この解説では、スーパーコンピュータの開発費が年々増加しつつあり、電力消費もどんどん増え今のやり方を続けていくといつか行き詰まるという点にまで触れている。

○レアアース、超伝導

 終わりに他に科学面の記事で目についたものを挙げておこう。読売が10月31日の科学面で「なぜ中国? レアアース」と題して中国にレアアースの生産が集中している理由を図解でわかりやすく解説している。「生産コストの安さに加え、元素を簡単に分離することのできる世界でも珍しい鉱床を持つため」だそうだ。朝日が11月2日の科学面で、「赤ワイン効果、超伝導活気」で物質・材料研究機構が発見した「赤ワインに鉄の化合物を浸すと、超伝導物質になりやすい」現象について特集している。8月23日のこのコラムでも注目して続報を期待していたものだ。この現象どうも本物のようだ。

2010年11月08日 新聞案内人
坂村 健 東大大学院教授

ヴォーゲル先生の副題を真に生かすには

2010年11月05日 | 新聞案内人
ヴォーゲル先生の副題を真に生かすには

 数日前に、「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」(1979年6月出版、ハーバード大学のエズラ・ヴォーゲル教授 著)の30周年の出版セミナーが東京で行われた。副題は「米国のための教訓」である。

 米国が日本から学ぶことは沢山あるという教えに変わりはないが、今回は過去の雰囲気とは180度変わったと言っていいだろう。当時は日本のよいところを学ぶべきである、という内容であったが、今回は日本の失敗から何を学ぶかが中心であった。即ち、外国人にとって、日本の過去の「模範」は反面教師になった。

○反面教師として参考に

 反面教師の面があることは否定できない。バブル後の政策反応は、甘く、遅かった。既得権益の延命策として、土地や物件が均衡価格に下落することを10年間延ばした。政治も細分化し、与野党とも利益団体の支持を狙い、国民全体の声を聞かなくなった。そのようななか、縦割行政が続き、政治指導力の欠如を利用し制度改革を遅らせた。企業も危機に陥らない限り、必要な事業再構築を遅らせた。「建設的な破壊」を極度に嫌がり、非効率部門を温存した。正社員、年金受給者の利益を考え、国全体の政策決定プロセスがデフレを許し、非効率のツケを若者や次世代に回した。高齢化が進めば進むほど、これらの問題が深刻化してくる。

 海外でも、日本と酷似している問題は多い。もちろん、問題が発生したことは全て自国の責任である。だが、解決策を考えるとき、外国人が日本の失敗を参考にすることが役立つと思うのは良く分かる。事実、連銀は早い段階から日本を勉強していた。2002年6月、連銀は調査報告として、「デフレの予防: 90年代の日本の経験からの教訓」を発表している。リーマンショック以後、いくつかの連銀を含む米政府の高官などが来日し、日本が採ったデフレ対策を勉強した。連銀が、リーマンショックが発生した2008年8月からの一年間で、ベース・マネーを倍以上増やしたことは、「デフレの疑いがあれば、迅速に、大量に措置を取るべきである」という日本からの教訓が参考になったのである。

 このような教えがあったため、日本が行わなかった(あるいは、遅すぎた)措置を米国が速い段階から採ったものもある。ヴォーゲル先生の副題は忘れられたわけではなかったのである。

 ただ、「日本は反面教師である」という見方には盲点もある。日本が正しく行って、一方、米国が行っていない政策も少なくない。

 最近の米議会が(特に上院の選挙制度において)、非民主的であることは指摘されている。1990年代前半の日本の国会でも、一票の格差問題が指摘された。この問題は新しくもなかったが、最高裁からの刺激もあって、議席配分が直された。その結果、人口の少ない地方から人口の多い都市部に議席が移った。一方、米国では似たような議論さえしていない。むしろ、この前の最高裁の判決(2010年1月)で、企業の政治献金は「言論の自由」の一つであり、制限をしないということになった。今回の中間選挙でも、この判決が大きな影響を与えたと思われる。開示されない企業献金で民主主義が改善し、資源配分が良くなり、経済が活性化するとは思いにくい。

○金融監督再編は日本がうまく対応

 もう一つ、日本が米国より早く、うまく行った改革は金融監督の再編である。今回の金融危機は、米国の金融監督の細分化が原因の一つであることが広く言われている。保険業界の問題は特に大きく、各州が監督責任を持っている。1990年代前半の日本もそうであった。だが、いくつかの銀行、証券会社、保険会社が問題になった1997年の秋以降、やはり、全ての業界を一つの監督機関の下で監督することはより合理的な制度になるという判断が下った。これによって金融庁が誕生し、今では業界からでさえ高い評価を得ている。しかも、1997年の危機から新制度が立法されるまで1年間しかかからなかった。

 これは米国の結果と対照的である。リーマンショックは2008年9月であったが、金融制度改革が立法されたのが2010年の秋。かかる時間は日本の倍であった。加えて、監督制度の改善はいくつかあったが、細分化は相変わらず維持され、各省庁の縦割り問題は増幅し、共同行動は可能かという懸念が残る。反面教師どころか、日本のほうが模範的態度を見せた。

 日本人でさえ、ここ20年間の日本経済、政治経済が反面教師であると思っているのだから、外国人がそう思うのもおかしくはない。しかし、この考え方は都合のいい、怠慢な思い込みに過ぎない。ここ20年間、日本は模範的な面も見せてきた。

 世界議論に貢献できる日本は、自分の失敗だけではなく、自分の模範も宣伝する必要がある。そうなって初めて、ヴォーゲル先生の副題が完全に活性化される。

2010年11月05日 新聞案内人
ロバート・アラン・フェルドマン モルガン・スタンレーMUFG証券 マネジング・ディレクター経済調査部長

「そうだ」記事は少なくしてほしい

2010年11月04日 | 新聞案内人
「そうだ」記事は少なくしてほしい

 新聞記事の中でページのトップないしは、それに準ずるような扱いの記事には、ほとんどの場合、前文というものがあります。新聞を開いてごらんになると分かりますが、ニュースの概略をまとめており、忙しい読者はそれだけを読んで済ませることもできるし、逆に読者をひきつける導入部ともなっています。

 最近、この前文の最後の一行が気になって仕方がありません。具体例を二、三挙げてみましょう(ただし、新聞社の名は特定しません。朝日・読売・日経のいずれかであることは確かです)。

 「与党内には不満もくすぶり、年末の予算編成に向けた調整は難航しそうだ」

 「東芝が裸眼3Dテレビを投入することで、市場が活発化しそうだ」

 「(新幹線の延伸で)今後は羽田―青森間や大阪―鹿児島間などが大幅に食われそうだ」

 「利用者がみたいコンテンツをどれだけ充実できるかが、普及のカギを握りそうだ」

 「優等生的な政治だけでは、国民の求める変革はできない」という自らの言葉を実践できるかが、原口氏の今後を左右しそうだ」

 「判決が捜査手法にどう言及するかも注目される」

○気になる2つの理由

 なぜ、この最後の一行が気になるのか――理由は二つあります。

 第一は、表現が類型化しているからです。「注目される」を除いて、いずれも語尾は「そうだ」で終わります。のみならず、その前にある言葉、「難航」、「活発化」、「カギを握り」、「左右」、「注目される」は、しばしば前文に使われます。このほか、よく登場するのは、「曲折が予想される」「曲がり角にさしかかる」などでしょうか。この慣用句(?)を目にしない日はほとんどないと言ってもいい。

 第二は、「注目」は別として、いずれも「そうだ」という語尾で今後の見通しを述べており、記者の主観が入っているのではないかということです。自らの主観的な見通しを述べることによって、ニュースの大きさを訴えようとしているようにすら思えます。

 とりわけ滑稽なのは、「注目される」です。一体誰が「注目する」のか。自分が注目しているのなら、「注目している」と書くべきでしょう。読者からの注目を浴びるというのなら、余計なお世話で、注目するかしないかはこっちが決めることだと言いたくなります。

 見通しを入れるな、とは申しません。入れるなら入れるで、もっとしっかりと分析をして書いてほしい。しかも、これは客観的な記事ではなく、自分の主観も加えた分析記事であるとはっきり分かる形にしてほしいのです。

○主観と客観の境界線

 ここで、新聞記事における客観と主観とは何か、という大事な問題に直面します。

 新聞記事には、どうしても主観が入ります。100%客観的な記事は、きわめて少ない。

 なぜか。ニュースとして取り上げようと取捨選択した時点で主観が入っているからです。世の中の森羅万象を記事にすることはできません。大きなニュースの場合は別ですが、ニュースにされなかったニュースは無限と言っていいほどたくさんあるのです。

 また、同じニュースの記事でも、会社によって、削除したり加えたりする材料があります。記事の扱いにも、主観が入ります。価値尺度の違いと言ってもいい。

 でも、主観は出来る限りそこまでで止めてほしいのです。後は読者が判断することです。こんな見通しがあるぞ、などと押し付けてほしくはないのです。

 最近感じるのは、この主観と客観との境界線が相当ぼやけてきているのではないかということです。また、記者それぞれが自分の頭で考える努力をするよりも、ワンパターン化した発想に傾いているのではないかとすら懸念します。折角、記事のひとつひとつに署名が入るケースが増えてきたのですから(署名入りは大賛成)、安直な「そうだ」記事は止めた方がいい。書いた記者の資質が問われてしまいます。

 今日は読者のみなさんへの「案内」ではなく、現役記者への注文になっていまいました。一先輩の世迷い言として聞いていただければ幸いです。

2010年11月04日 新聞案内人
水木 楊 作家、元日本経済新聞論説主幹

米中間選挙後の政策はどう変わる?

2010年11月02日 | 新聞案内人
米中間選挙後の政策はどう変わる?

 米国の中間選挙の結果がもうすぐ出る。オバマ大統領が就任して初めての中間選挙ということで、その結果のみならず、中間選挙後のオバマ政権の政策修正の行方が気になるところだ。大方の予想はオバマ政権を支える民主党が大きく票を減らすという。この予想を信じるとして、その前提で今後の米国の経済政策に展開について考えてみることにしたい。

 今回の中間選挙が民主党政権にとって厳しいのは、オバマ政権のとってきた経済政策への批判が背景にある。米国経済の先行きは不透明で、一部には二番底を懸念する専門家もいる。物価の動きで見ても米国がデフレに陥るリスクが高まってきている。雇用も依然として深刻な状況である。オバマ政権の経済政策が景気回復に有効に効いているように見えないのだ。そうした中で大統領の経済顧問的地位にあったサマーズ氏をはじめ、オバマ政権の経済チームの主力が次々に抜けている。経済チームの早急な立て直しが求められるのだ。

○クリントン政権の経験:より現実的政策へ

 中間選挙で民主党が大敗したら、オバマ政権はますます追い詰められてしまうだろうか。政治の動きを単純に見ればそうなるだろう。しかし、現実にはそう簡単ではない。米国政治の専門家がよく引き合いに出すクリントン政権の時の経験が参考になる。

 民主党から出て大統領に就任したビル・クリントンだが、その最初の中間選挙において民主党は大敗したのだ。それまで40年前後も民主党は下院で多数党であったが、この選挙で過半数を失う事態となった。上院でも民主党は議席を減らしている。クリントン政権への強烈な批判票ということになる。クリントン政権は議会の共和党への譲歩を余儀なくされていく。

 しかし、結果的にはそれがクリントン政権の政策をより現実的なものとし、米国経済は成長のスピードを高め、財政赤字から財政黒字へ転換するという黄金時代を迎えることになるのだ。こうした転換が政策だけによってもたらされたものではないとしても、中間選挙後のクリントン政権の政策の変化が一つの重要な要因であったことは確かだ。

 さて、中間選挙で敗退したら、オバマ政権の経済政策はどのように変化するのだろうか。この点について考えるためには、これまでのオバマ政権の経済政策がどのようなものであったのか、整理しておく必要がある。

 景気回復に有効な手を打てていないオバマ政権だと言ったが、大統領選挙中の公約を実行しているという意味ではオバマ政権は成果を出している。その象徴が医療制度改革である。数千万人とも言われる無保険者をなくすことがオバマ大統領の政策公約の一つの柱である。大統領就任後、その公約実現に向けて着々と手を打ってきた。米国で無保険者を対象とした医療精度の改革は非常に難しいだろうと言われてきたが、その難しい過大にチャレンジし、成果を上げつつあるのだ。

○8割がメリット感じず

 問題は、そうしたオバマ政権の経済政策への取り組みが、多くの国民にアピールしなかったということだ。共和党に近いある有力経済学者が言っていたが、オバマ大統領の医療制度改革は十数パーセントの国民のための改革であり、国民の8割以上はそのメリットを受けることもなく、負担だけが増えていくと感じている、と発言していた。それでも景気が回復して雇用や所得に改善の兆しが見られればよいが、そうなっていない。大統領は本当に国民の生活のことを考えているのだろうか、という気持ちを持っている人が増えているのだろう。

 米国ではいま、ティーパーティー運動が盛んで、今回の選挙でもこの活動が大きな影響をもたらしつつあるという。単純化していえば、オバマ政権の大きな政府の政策を批判した勢力の草の根運動である。米国にはもともと、政府のあるべき姿について様々な立場の人がいる。その多様性が米国の特徴でもある。ただ、今回はオバマ政権への批判が高まり、結果的に反オバマ勢力が終結したのがティーパーティ運動と言ってもよいかもしれない。それだけ、オバマ政権は多様な米国の中でも理想主義的、あるいは「左側」に位置すると見られているのかもしれない。「左側」というのは私の評価ではない。最近私が話を聞く機会があった何人かの米国の人たちが使っていた表現であるのだ。

 議会で共和党の影響力が強くなってくれば、オバマ大統領は議会に歩み寄った政策をとらざるをえなくなるだろう。これは、今後の経済政策の方向として必ずしも悪いものでもないかもしれない。

 クリントン政権の時と同じように、オバマ政権の経済政策運営が理想主義的なものからより現実主義的なものに変化していく可能性が出てくるからだ。それが大統領の理想からは離れるとしても、景気低迷という現実への対応という意味では意味があるからだ。

2010年11月02日 新聞案内人
伊藤 元重 東京大学大学院経済学研究科教授

新聞週間関連の記事から受けた違和感

2010年11月01日 | 新聞案内人
新聞週間関連の記事から受けた違和感

 10月、新聞協会賞の発表や新聞週間にあわせて各紙は、受賞した報道などの背景を説明する記事を載せていたが、そのなかのいくつかの記事に微妙な違和感を感じた。

 読売新聞は、核再持ちこみをめぐる日米間の密約文書を発見し、新聞協会賞を受賞した。

 「密使」若泉敬氏の著書やアメリカの資料などから密約が交わされていたことは確実だったにもかかわらず、自民党時代の政府や外務省は否定し続けてきた。佐藤栄作元首相の遺族が密約文書を保管していたと読売新聞が報道し、同紙が書いていたとおり、論争にピリオドを打った。そういう意味で、この報道は十分に評価に値する。

○「総力を挙げた取材」の意味

 読売新聞10月14日朝刊はこの記事に続いて、9月の民主党代表戦で菅・小沢両候補のどちらに投票するか、議員や党員・サポーターを訪ね歩いて調べたという。派閥が力を発揮する自民党総裁選と違い、民主党の「グループ」は「大学のサークルのようなもの」で重複して所属していたりしていて、たいへんな労力をかけて記事にしたとのことだ。しかし、その結果は満足すべきものだったようで、「総力を挙げて丁寧な取材を重ねれば真相に迫れる、という教訓を胸に、各記者はまた地道な取材に走っている」と結んでいる。

 何ごとにつけ綿密な調査をし、他紙よりもすぐれた報道をすれば評価されるのがメディアのつねだからそれ自体は賞賛されるべきことなのだろうが、ただそのように困難で「総力を挙げた取材」であること知れば知るほど、はたして総力を挙げて調べることだったのかという疑問も湧いてきた。

 そうしたことがわかってはたして何になるのだろうとまず思ったわけだが、さらに記事では、勝ち馬に乗る心理をねらって両グループから「勝利は近い」という宣伝戦が行なわれたと書かれている。メディアがどちらが優勢と書けば、当然ながら投票行動に影響がある。

 そうした「アナウンス効果」はいずれの選挙でもあるが、代表選での投票行動は議員たちの今後の処遇に直結する。となれば、通常の選挙以上に彼らの行動に影響を与えるだろうことが予想される。

 綿密な調査をすればするほど影響力が大きくなり、勝ち馬心理が働いて選挙の結果が記事の予測の方向に動く可能性が高くなる。

 先に書いたが、報道の意味はさておき報道するのがメディアの使命という考えもあるので意味がないとは言わないが、「勝ち馬心理」のことも考えれば、それだけの努力が必要なのかについての考察が新聞週間のこの記事であってもよかったのではないか。すぐれた仕事だという読者の共感が得られなければ「総力を挙げた丁寧な取材」が無駄にもなりかねない。

 読売新聞のこの報道とはまったく逆の意味でより大きな疑問を持ったのは、朝日新聞10月7日の記事だ。新聞協会賞を受賞した「大阪地検特捜部の主任検事による押収資料改竄事件」について、取材した記者などによる経緯が書かれていた。

 朝日新聞の記者が厚労省元係長の弁護人を数週間かけて説得し、検察から返却されたフロッピーディスクを調べて改竄を明らかにした。調査報道の鏡ともいえるものだ。

 そういう意味で取材した記者は高い評価に値するが、新聞の世界で仕事をしたことのない人間には、取材の中心になった記者の回想ははなはだ理解しにくいものだった。

 村木厚労省元局長に対する捜査のずさんさが公判で次々と明らかになり、できることはないかと考えて取材を進めて改竄を突き止めたとのことで、続いてこう書かれている。

 「記事にすることに迷いがなかったと言えば、うそになる。多くの検事たちはまじめにやっている。証拠を改ざんした行為は許せないが、記事になれば、検察本来の業務に支障が出るのではないかとも自問した。だが、組織のウミを出し、再生してもらうことこそが検察にとっていずれプラスになると信じた。」

○考えすぎ

 読売新聞については、その報道の意味についての考察があってもよかったのではないかと書いたが、朝日新聞のほうは、明らかに考えすぎである。「組織のウミを出し、再生してもらうことが検察にとっていずれプラスになる」などという以前に、むしろこれ以上報道すべきことがそうそうあるとは思えないぐらいのことではないか。

 「多くの検事たちはまじめにやっている」のは確かにそうなのだとしても、「多くの官僚はまじめにやっている」からといって官僚の不祥事の報道をためらったりするだろうか。官僚でなくても、多くの人はまじめに働いており、悪いことをするのは一部の人である。多くの人がまじめにやっているからといって報道しない理由にはならない。

 「検察本来の業務に支障が出るのではないか」といったことも、記者の心配することではないだろう。言うまでもないことながら、こうしたことがそのままになり、今後も繰り返されて無実の人が罪に問われかねないことのほうがずっと問題だ。

 記者もそう思ったから報道したのだろうが、もしこれを報道しなければ、記者も改竄の隠蔽に荷担したと見られても仕方がない。

 ここでもし報道せず、「朝日新聞記者は知っていたのに報道しなかった」などということがあとで発覚した場合、それは同紙にとって致命的とも言えるほどの打撃になったはずだ。

 そうしたことまで思うと、いよいよ何を迷っていたのか、まったく理解できない。先に書いたとおり、これ以上に報道すべきことはないというぐらいのことなのだから。

 この回想記事では、続いて、次のように書いている。

 「『検察担当の記者が検察を批判する記事をほんとうに書けるのか』。FD解析の協力を厚労省元係長の弁護人に求めた時、こう聞き返された。その言葉から、メディアへの不信や不満も痛感した。」

 この記事ではそれだけしか書かれていないが、検察担当の記者が検察を批判する記事を書いた場合のデメリットについては当然ながら考えただろう。それについては多かれ少なかれ迷いがあったとしても不思議ではない。

 実際のところ、この回想記事にかぎらず、この事件についての新聞の「及び腰」は、多くの人が気になっていることなのではないか。

 第三者による検察内部の調査をすべきとフリーのジャーナリストや識者などは主張するものの、記者からは、検察のことは検察でないとわからないとためらう声が上がったり、これはあくまでも特別な例であると決めてかかるような報道をしたのでは、メディアと捜査当局の「近さ」について疑いを抱かれても仕方がない。

○関係維持の制約

 そもそも供述調書は、容疑者の話をもとに捜査当局が作成するもので、世間の常識的な定義で言えば「作文」にほかならない。さらに供述調書がつじつま合わせをして作成されるものなら、証拠がそれに応じて作成されても不思議はないというのがふつうの受けとめ方ではないかと思う。

 実際のところ、取材対象者と関係を維持しなければ継続的に記事を書けないというのはとても困難な立場である。フリーの立場で書いてもまったく制約がないわけではないが、関係が切れたとしても最終的に自分一人の問題というのと、組織ぐるみ困った立場になりかねないというのでは状況は異なるだろう。

 新聞報道の背景をめぐる同様の記事でありながら、それぞれの報道についての読売新聞と朝日新聞のスタンスが好対照で、興味深かった。

2010年11月01日 新聞案内人
歌田 明弘 コラムニスト

「なにより新卒」で失っているもの

2010年10月30日 | 新聞案内人
「なにより新卒」で失っているもの

 就職氷河期が続く中で、厚生労働省、文部科学省、経済産業省が合同し、国内245の経済・業界団体に対し「卒後3年までの既卒者は新卒と同様にあつかってほしい」と要請したという。

 日本の大企業がなぜ「新卒」を重視しているのか、「既卒」では何がいけないのか。いろいろ考えてみたが、どうもすっきりと納得できる答がない。何社かの採用担当者に尋ねたが、「慣行上そうしてきていますので…」みたいな、歯切れの悪い説明しか返ってこない。

 私としては、経験豊かな既卒者の方が、企業にとってはずっと得だろうと思う。たとえば、朝日新聞は先日、大阪地検の証拠改ざん事件を1面トップでスクープした。大スクープだったが、その担当記者は中途入社組だった。新卒だろうが既卒だろうが、経験や能力があればそっちの方が買い得であることは明白だ。コンビニのアルバイトだって厳しい接客経験を積んできている。新卒よりずっと信頼できるはずである。

 欧米ではそういう採用が中心で、ことさら「新卒かどうか」などは問わない。日本だって明治大正のころは大体そうで、学校を出てから職を探していた。新卒が「絶対条件」になったのはつい最近のことなのである。

○グアテマラの密林で

 ユニセフ(国連児童基金)事務局長を2期にわたって勤めた米国人女性、キャロル・ベラミーさん(68)は、大学を終えた21歳で平和部隊に入った。日本の青年海外協力隊員にあたる米国のボランティア組織だ。任地は中米グアテマラ。密林の奥地の村で、衛生や保健指導の任務につく。赴任するとき、一人暮らしではさびしかろうと、友人たちがかわいい子犬を一匹くれた。

 一年がすぎたある日、その犬の様子がおかしくなり、彼女の足にかみついた。犬は近所の犬にもかみつくようになった。狂犬病かもしれない。狂犬病は発病したらほぼ100%の確率で死ぬ。さあ、どうしようか。診療所のあるような村ではなかった。無線はあるが出力が小さく、首都の平和部隊事務所には届かない。パニックになりそうな心をおさえ、必死に考えた。

 とりあえず、かわいそうだったが犬は殺し、庭に埋めた。無線はグアテマラ軍の地域駐屯地までは届くことが分かった。軍に無線を入れ、「狂犬らしい犬にかまれた。どうすればいいか」と連絡した。さいわいなことに、軍は即座に対応してくれた。「調べるから犬の頭を送ってこい」という。庭を掘りかえして犬の頭を切り離し、ビニールに包んで箱に入れ、トラック便で送った。一週間ほどして、軍から「やはり狂犬病だった」という連絡があった。「これからワクチンを送る」。

 「ワクチンが着くまで一週間、ほとんど眠れませんでした」とベラミーさんは語る。「ほんとうにワクチンが届くのだろうか。途中でなくなったりしないだろうか。発病してしまったらどうしようか。眠ろうとしても、このまま目が覚めないかもしれないと考えてしまう。たまらない気持でした」

 やっとワクチンが届いた。注射も自分でしなければならない。筋肉注射で、猛烈に痛かった。一週間注射をしつづけ、なんとか発病は避けられた。

○自分で判断し実行

 村が干ばつに襲われ、汚れた泥水を飲んだ子どもたちが下痢で大勢死んだこともある。幼児が自分の腕の中で死んでいく。たまらないつらさだった。米国では経験もしなかったことが次々に起きた。しかし、何が起きても自分自身で判断し、実行しなければ何も進まなかった。

 任期を終えて帰国後、奨学金を得て大学院で学びなおした。大手証券会社などを経て、1995年にユニセフ事務局長に任命される。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の緒方貞子さんに次いで、国連機関では2番目の女性トップとなった。

 そのベラミーさんがいう。
 「若者が自分一人で状況を判断し、決断し、実行し、責任を負う。私はその後、ビジネスの世界に入りましたが、平和部隊でのその経験はとても役に立ちました」

 米平和部隊は開設50年になる。これまで20万人近い青年が途上国に派遣された。米企業はその経験を重視し、平和部隊OBを積極的に採用している。

 一方、日本はどうか。青年海外協力隊は年間約千人が途上国に派遣され、農業指導や学校教師、看護師などで活動している。誠実な仕事ぶりに現地の評判もいい。しかし、帰国後の就職状況はお寒いかぎりだ。毎年3割近い帰国者が就職できでいない。新卒でないことが敬遠される大きな理由だ。協力隊経験を重視して採用する企業はごくわずかにすぎない。

 組織としてできあがってしまった日本の企業社会では、自分で決断したり自分の責任で行動したりする人間は必要ないということなのだろうか。まっさら無色の新卒で、何も考えず命令に従順に従う人間の方がいいということなのだろうか。

 いま日本では、長期の海外旅行に出かける大学生が急激に減っているという。そんなことをしていたら就職に有利に働かない、なによりも「新卒」だ――。そういうことだとしたら情けない話だ。しかし私たち大人の社会が、若者をそうしてしまっているのである。

2010年10月25日 新聞案内人
松本 仁一 ジャーナリスト、元朝日新聞編集委員

終末期医療をどう考える

2010年10月29日 | 新聞案内人
終末期医療をどう考える

 評判の悪かった後期高齢者医療制度。

 それを2013年度から新制度に切り替えるため、厚生労働省が試算を発表した。簡単にいえば、現在より、75歳以上の方の保険料は抑制され、大企業の会社員や公務員などの負担が重くなるらしい。

 75歳以上の高齢者の医療費は2010年度予算ベースで12.8兆円。高齢化の進展に伴い、25年度には2倍程度に膨らむと試算されている(26日付東京新聞)。22日付日経新聞では、現役世代が支払う保険料がますます増えれば、日本経済の活力をそぐ要因になりかねないと解説している。

 しかし、確かに、高齢化は進んでいるのだろうが、そもそも何でそんなに医療費がかかるのか不思議だ。

○延命医療はドル箱?

 厚生労働省によると2009年の1年間で、最も多かった国内の死亡場所は医療機関で81%、自宅での死亡は12%にすぎないという(19日付け読売夕刊)。

 そして、統計によって異なるが、終末期医療費が全老人医療費の20パーセントを占めるとか、国民一人が一生に使う医療費の約半分が、死の直前2ヶ月に使われるという報告があるという(久坂部羊「日本人の死に時 そんなに長生きしたいですか」幻冬舎新書)。

 中原英臣氏(新渡戸文化短期大学学長)は、肝硬変のため食道静脈瘤が破裂して、入院してから15日後に亡くなった75歳の方のケースで、治療費は合計316万円かかっており、約42%が中心静脈注射であったこと、肺に転移したがんの状態を調べるために、毎日、気管支ファイバースコープ検査をされた80代の方は、2週間後に亡くなられたというケースをあげ、医療の世界では、延命医療はドル箱といわれていると述べている(「仁科亜希子 初告白 私は尊厳死を選ぶ」文芸春秋2010年11月号)。

 先ほどの読売の記事には、自宅での死亡は12%しかすぎないが、08年の別の調査では、一般国民の63%が終末期の自宅療養を望むと回答しているという。希望通り、63%の人々が自宅で、少なくとも介護施設で終末期を迎えれば、多少の介護費用の増加を見込んでも、老人医療費が大幅に減ることによって、かなり節約できそうだ。

 しかし、終末期、病院に入らないでいることは難しい。

 自宅や施設で苦しんでいる老親を前にすれば、もっと長生きするために病院にいってくれと子どもは言うだろう。そんな子どもの意見を振り切り、「このまま住み慣れた場所で訪問治療を受けたい」と自分の希望を貫くのは難しい。読売の記事でも自宅療養を望みつつも、66%が「家族に負担がかかる」「急変した時の対応に不安がある」などから、家で最期を迎えるのは実現困難と答えている。

○人工呼吸器と胃ろう

 そして、いったん、病院に入ると、人口呼吸器をつけられたり、病気はなおっても、食事を飲み込む嚥下機能が低下しているから、胃ろう(胃に穴をあけ、そこから栄養を補給する)にしたほうがよいなどと医師からいわれることもある。自分の意識がはっきりしていれば胃ろうは嫌だと断れるが、認知症や脳血管障害などで意思表示がなかなできない場合、その判断は家族に任される。仮に、家族も胃ろうを施したくはないとおもっても、医師から「栄養をとれないのだから栄養失調になるよ」、「それでは、これからどう介護するのですか」といわれれば、やむなく承諾してしまうのではないか。

 胃ろうにより栄養状態はよくなるが、認知症が改善しないまま、長年、寝たきりの状態で過ごすようなことになってしまった場合、それを本人が喜んで受け入れているのか、認知症ゆえに確認のしようがないのだ。

 石飛幸三医師は、一般の人に当てはまる常識的な医療は、穏やかに看取りが行われるべき高齢者に当てはまらないといい、三宅島出身者から聞いた話をひいている。三宅島では年寄りは、食べられなくなったら水を与えるだけで、苦しまないで静かに息を引き取るという。そして、勤務する特別養護老人ホームにいた95歳の認知症の方が、家族の了解のもと、ゼリー食1日600キロカロリーで2年間、最後の2週間は水を含んだガーゼで口を湿らせるだけで、施設で静かに息を引き取ったことを述べている(石飛幸三「口からたべられなくなったらどうしますか「平穏死」のすすめ 」講談社)。

 一方では、栄養失調と考え、他方で、食べられる分が老人にとっては最適と考える。双方の開きははなはだしい。

 最先端の医療を施し、人間として生まれた以上、1分1秒でも生き続けるべきなのか、生活の質(QOL)に重きを置き、自分らしく生きるべきなのかなど、各人の価値観によって終末期医療に対する考え方も様々だ。「死」は誰もが経験することである以上、一致した回答など得られない。

○在宅療養の新たな可能性

 さて、最期に、終末期の在宅療養の可能性が見える話もしたい。

 今まで、医療麻薬はモルヒネだけだったのが、2002年から貼り薬の痛み止めができて、3日毎にはりかえるという有益な方法ができ、末期がん患者の在宅終末期医療の可能性が広がったという。また、酸素ボンベが保険適用になり自宅で利用できるようになったこと、医師、看護師、介護ヘルパーが協力しあうシステムが整ってきて、在宅終末期医療の環境も整備され、在宅療養の可能性が見えてきている(朝日放送「命、ゆくとき」2010年5月22日放送。10月26日テレビ朝日「道ステーション」でも特集で一部放送。独居老人を往診し、支える医師らの姿を描いている)。厚生労働省は、「24時間地域巡回型訪問サービス」を2012年度からの導入を目指している(10月22日付読売夕刊)。高齢者がなりやすい誤嚥性肺炎の予防となる口腔ケアも介護しやすい簡単なケア方法の開発も今後進むであろう。  今年になって、終末期医療について、雑誌や書籍でも頻繁にこの問題が取り上げられるようになってきた(注参照)。多くの方が関心のある問題なのだ。

 まずもって、今すぐに私たちができることは、終末期医療について調べ、考えること。その結果を家族や担当医に伝えたり、リビングウィルのような書面を作成するなど意思を明確にしておくことである。

注:参考文献 
 網野皓之「在宅死のすすめ 生と死について考える14章」幻冬舎ルネッサンス新書
 信濃毎日新聞社文化部「大切な人をどう看取るのか 終末期医療とグリーフケア」岩波書店
 石飛幸三「口からたべられなくなったらどうしますか「平穏死」のすすめ」講談社会 WEDGE 「特集 家で老いて 家で死ぬには」2010年11月号
 週刊東洋経済 「終末期医療」2010年9月11日号

2010年10月29日 新聞案内人
田中 早苗 弁護士

「学校と地域の協力」の必要性と可能性

2010年10月28日 | 新聞案内人
「学校と地域の協力」の必要性と可能性

 学校と地域の連携、協力関係をどう作っていけばよいのか、折に触れて考えています。阪神大震災の取材が一つのきっかけです。

 震災後間もなく、被災地の学校を取材して回りました。ある中学で、仮設トイレがずらりと校庭に並んでいるのを見つけました。学校に避難してきた被災者と教員が協力し、体育祭で使ったパネル、倉庫に残されていた古いカーテンを使って作り上げたトイレの列でした。混乱していてもおかしくない状況のなかで、見事な取り組みだと思いました。その学校では、被災者がPTA役員を中心に自治的な組織を作り上げ、被災者の居住スペースを制限するなどして授業再開の準備を進めてもいました。その一方、教員が茫然自失の呈で、応援に駆け付けた教員が指示を求めても、対応できないでいる中学もありました。

 学校と地域との普段からの信頼、連携のあるなしが、対応の違いを招いていたのです。非常事態のなかでのその差は、日常の教育活動のなかでも示されてきたに違いありません。

○「地域の核となる学校」

 学校と地域の関係は、国の教育政策のなかでも一つの背景となっています。かつて、保護者の学校依存、学校による子供の抱え込みが指摘されていました。「大きな学校」論と言ってよいかと思います。次いで、「子どもを家庭、地域に帰せ」をスローガンに、「ゆとり」教育が主張され、授業時間などの削減が実施されました。結果的にではあっても、「小さな学校」論の要素があったと思います。しかし、家庭や地域による学力格差が露わになり、「ゆとり」の見直しが行われて現在に至っています。

 「大きな学校」でも「小さな学校」でもない、どんな学校像を思い描いたらよいのか。「地域の核となる学校」ではないかと思いました。子供を学校が抱え込むのではなく、家庭や地域に帰すだけでもなく、学校と家庭、地域が一緒になって子供を育む。誠に平凡な結論ですが、それしかないと思います。

 今の子供たちは、核家族で兄弟が少なく、異年齢集団での外遊びも減っています。コミュニケーション能力に問題のある子供が増えていることが指摘されています。10月 24日の朝日朝刊の記事「対人関係学ぼう」には、「今や対人スキルは自然に身につくのではなく、学ぶものになった」との表現がありました。そうであるなら、学校で親とも教師とも違う地域の大人と触れ合うことが、子供たちにとって貴重な体験になるはずです。地域住民や保護者が学校で様々な活動に参加する学校支援ボランティアが一つの形として浮かび上がってきます。

 文部科学省が先般、「『新しい公共』型学校創造事業」の創設を打ち出しました。鳩山前首相が昨年10月の所信表明演説で掲げた、公共サービスを地域のNPO法人や市民が積極的に提供できる社会との理念を体現しようとするものです。想定されているのは、コミュニティースクールなど既にある地域参加型学校の充実、拡大です。

 コミュニティースクールは、2004年の地方教育行政法改正で認められた、地域住民、保護者などによる学校運営協議会を設けた学校のことです。地域運営学校とも呼ばれます。導入するかどうかは、学校や保護者などの意向を踏まえ、学校を設置する自治体の教育委員会が決めます。教育課程の編成を承認し、教職員の配置などについて教委に意見を述べることが法律上、認められています。

○支援と参加がセット

 今年4月現在で、84自治体、629校の幼小中高校、特別支援学校がコミュニティースクールとして認められています。地域住民の学校支援と学校運営への参加がセットになっているケースが多く、保護者らは教科学習、総合学習、クラブ活動、学校行事などに参加し、学校の活動をサポートしています。学習への参加も、専門性を活かしてゲスト・ティーチャ―を務めたり、教師の指導補助に回ったり様々です。一方、授業や生徒指導の在り方について学校に意見を言ったり、非常勤講師採用の面接に立ち合ったりもします。地域に理解のある教員の配置を教委に働きかけることもあります。

 コミュニティースクールの数が最も多いのが、京都市の162校。その活動は全国的に注目されています。東京・三鷹市では、市内の小学校15校、中学校7校すべてが小中一体の住民、保護者の組織をつくり、地域作りも視野に入れた活動を展開しています。

 素晴らしいことばかりではありません。教育方針をめぐって校長と協議会代表が深刻な対立を続けたケースもあります。軌道に乗るまでの教員の負担感は大きく、期待した成果が上がらずに活動が尻すぼみになった学校も少なくありません。住民に市民意識や連帯感のある地域では学校と連携が図られ、そうでない地域ではうまくいきにくいという「鶏と卵」のような関係もあります。

 文科省は「『新しい公共』型学校創造事業」のモデルとなる事業を公募し、16か所を指定する予定で、来年度予算案に2億円を特別枠で計上しました。さらに、コミュニティースクールなどの成果と課題を検証し、学校運営の改善方策を検討する調査研究協力者会議を発足させ、私もそのメンバーに加わることになりました。さる18日の最初の会合では、まず条件整備が必要なこと、失敗例の検証が大切なことなどを発言しました。

 読売の先月27日朝刊の文化面にあった「コミュニティーの再生」と題する記事で記者は、コミュニティーを問い直す数々の論考を紹介し、「優れたコミュニティーはしばしば自然発生的で、拙速に作れるものではない」と記しています。その通りだと思います。そのことを踏まえた上で、学校を地域コミュニティー作りに活かす道筋がないか探りたいと思います。協力者会議での論議は、またこの欄でお伝えし、ご意見をいただきたいと考えています。

2010年10月28日 新聞案内人
勝方 信一 ジャーナリスト、元読売新聞編集委員

瀬戸内芸術祭で考えた地域・アート

2010年10月27日 | 新聞案内人
瀬戸内芸術祭で考えた地域・アート

 なかなか進まぬ原稿がいやになって、えいとばかり10月10日夜10時の『サンライズ瀬戸』に飛び乗った。夜行がほとんどなくなったいま人気の列車だが、この日は空席がある。7月半ばに始まった瀬戸内国際芸術祭が月末までなので観に行こうというのだ。

 最近は屋外での美術展がはやりで、地域おこし、活性化などと結びつけられ、『アート観光』なる本まで出ている。

 朝、7時半、高松到着。駅中の讃岐うどんを食べて、さっそく港へ。3連休の最後でものすごく混んでいる。整理券を待つ長い列。これでは席の少ない高速艇で直島・豊島(てしま)行きは無理とあきらめる。フェリーで女木島、男木島へ行くことに。その切符を買う列すら長いが、インフォメーションセンターで運良く二日間フリー切符(3500円)をすぐに買えた。有料の作品を見るパスポート(5000円)は持っている。

○女木島、男木島で

 8時のフェリーは満員。それも臨時便と二隻出たのに。女木島着8時半、そこからバスの券(往復600円)を買い、鬼の洞窟へ向う。パスポートを持っているのに200円払わなければならない。これは鬼が島大洞窟を見る分らしい。サンジャ・サンの真鍮ワイヤーでつくった人体はとても素敵だった。そこを出た帰りの道から臨む瀬戸内の多島海が素晴らしい。エルリッヒの石庭に足跡が沈む作品もよかった。

 船に乗れないと困るので、ゆっくり見るより人の流れに押される感じで、10時半には男木島ゆきフェリーに乗っていた。男木島はもう少し大きい。船着き場のブレンサの白い交流館もうつくしいがなんだか、この島には違和感がある。すっかりきれいにしてしまいました、という感じ。

 高松で昨日行った人から「昼飯を食いっぱぐれてカップヌードルしかなかった」と聞いたので、こ こであわててたこ飯400円を買う。それをもって石段の集落を上がったり下ったり、いちばんよかったのは西堀隆史『うちわの骨の家』だ。うちわは香川県の地場産業だし、作品はうつくしいし、骨をすかして海が見えた。

 「おんば」という手押し車をいろいろ個性的に作った『オンバファクトリー』や谷山恭子『雨の路地』、谷口智子『おるがん』もたのしい。

 それにしても島の路地は人だらけで、3時間待ちなどという作品はとうてい見られなかった。

 私は海恋のおんなである。『海にそうて歩く』(朝日新聞出版)なる本も書いた。島に来ていちばんの楽しみは波の音を聞いてぼーっとすること。しかしこの混雑ではかなわない。2番めの楽しみはおいしい魚を食べること。これも無理だった。芸術祭のために作られた地元の食材のレストランは2時間待ちだ。カップヌードルよりはましか、とビール片手に買ったたこ飯を食べた。

 押し出されるように1時の船で高松に帰る。そうしたら1時50分の大島ゆきの船が出る。整理券はもうなかったが、船着き場に行くと余裕があるから乗せると言う。整理券を貰いながら行かない人がいるのらしい。

 大島は青松園というハンセン病の国の療養施設があるところだ。いつもは用のない人以外来ない島なので、ここでも『つながりの家』というアートプロジェクトがあるが、事務局はいろいろ注意事項を述べかなり神経質であった。案内者が先に立って決められたルートを粛々と見学し、蚊の多い空き 地でハンセン病について長い説明も聞かされたが、なんどか施設を見学したことのある私にはこういうこわばりの方が問題であるような感じがした。

○それにしても混んでいた

 高松に帰ったのは4時半で、港のカフェで初めてゆっくり海を眺めた。それにしても混んでいたなあ。行って満足したのはたしか。でも、見学者とは挨拶したり話したりしたが、島の人とはほとんど話せなかった。

 ビジネスホテルに飛び込み、また夜は讃岐うどんですませた。くたびれて何も食べたくない。ベッドにごろんとなって見た夜のニュースは瀬戸内国際芸術祭で持ち切り、「地元の方は平日に行ってください」としきりと呼びかけていた。さっき大島で説明してくれた人が感極まって泣いている映像もあった。ナイーブなのだろうが大学の先生ならここで泣いてはいけないな、と思った。

 二日め。朝、7時から整理券が出るというので豊島ゆきの行列に並ぶ。2艘出るのでどうにか乗れた。ここは産業廃棄物の不法投棄で有名な島だが、きょうはアートに湧いている。大きいので東回り、西回りのバスに人が殺到する。

 安部良の民家を改造した『島キッチン』も居心地のよいスペースを作っていたが、ここでも食事は 2時間待ち。食堂でまた讃岐うどん。島の人のなかでも芸術祭でお金の落ちる人、落ちない人はっきりしている。それにしてもビールが500円とは。

 藤浩志『こんにちは藤島八十郎』にいったら、ビールは冷蔵庫から勝手に出して200円だった。この架空の島の小父さんの家は最高だった。あちこちに居心地のいい空間を作りながら、長くいてもいいよ、と場所がささやいてくれる。とくに煙草の燻蒸する小屋の小屋裏はすばらしい。そこから海を見てぼーっとした。

 全体に有名な作家より、若手作家の方が力の入った斬新な仕事をしているような。それにアートば かり見ていると、そこらへんのガレージや半鐘や農機具すら何だかアートに見えてしまう。そしておおかたの作品は自然に負け、そこにはじめから必然性があって存在する農機具にすら負けてしまうのだ。こわいことである。

○いろんな島の人と

 夕方の船で岡山県側の宇野港へ。船が来るまでのあいだ、島の路地をめぐった。いろんな島の人と話した。「終わったら寂しなるな」という人も「うるさくてかなわん。早く終わってほしい」という住民もいた。

 「建具のぼろいの集めてアートっちゅうのは、どういうわけや」(塩田千春の作品はすてきだったが)という人も「ごめんね。スタッフの食事作らんならん」と穫れたての魚のウロコを落としている人もいた。

 ローカル線で岡山へでた。またまたビジネスホテルに飛び込む。岡山名物ままかりとサワラの刺身でいっぱいやって帰る道に、牛窓のたこでたこ焼きを焼いている若者がいた。牛窓のたこのおいしさを知ってもらいたくて小さな店を出したらしい。残ったたこを天ぷらにしてお代はいいと言う。私はここでやっとゆっくり話せるひとを見つけ、またビールを飲み、ここをこそ応援しようと彼の自慢のオリーブ油や塩を買った。ほっとした。

 瀬戸内国際芸術祭は混みすぎだった。事務局の想定外だったとしても。目標の30万人を遥かに越え、この日までで69万人なんてことを喜ぶべきではない。大量宣伝・大量動員システムでアートを見てどうするのだろう。

 あれだけ行政や企業の助成もあったのに食事もグッズも高すぎるように思った。「国際的に有名なアーティスト」の招致にお金がかかるのかもしれないが、そんなものをありがたがる必要はない。人と人がゆったりと出会い、交換価値には目にもくれず語り合い、ともに作品に関わり、啓発し合って人生を居変えて行くような経済外的関係はどうしたらアートとともに生まれるのだろうか。悩んでほしい。とても素敵な催しだと思うから。

2010年10月27日 新聞案内人
森 まゆみ 作家・編集者

円高を戦略的に活用するには

2010年10月26日 | 新聞案内人
円高を戦略的に活用するには

 今回は、円高の問題を取り上げる。お断りしたいのは、「筆者は財務省勤務の経験があるが、通貨問題は素人である」という点と、「しかし素人の目から見ると、円高をめぐる世の中の反応や論調はあまりにも一方的ではないか」ということでこの原稿を書いている。

○円高は「想定外」か?

 企業関係者の口から聞くのは、「想定外の円高」という決まり文句だ。しかし、1ドル80円が本当に想定外なのだろうか。私は2004年から2005年にかけて米国で暮らした。その時の為替レートは1ドル110円前後で推移していた。その時の生活実感、つまり日常生活品やマクドナルドのハンバーガーの値段から強く感じたのは、1ドル80円から90円というのがいいところで、現地の日本人はおおよそその程度の感触を持っていた。

 それからすでに5年が経過し、その間米国では物価上昇(通貨価値の下落)が続きわが国の消費者物価は下落(通貨価値は上昇)したから、もっと円高になっていてしかるべきだろう。しかし、実際の為替レートは、その後1ドル120円の円安になったりして、生活実感とかい離した動きをしていた。

 つまり、普通の日本人が生活実感で不思議だな、と思っていたことが、何らかの原因でその通りにならないという状況が続いてきたのだが、ここにきてその間のたまったエネルギーが一気に噴き出して、「おおよそそのぐらいだろう」という水準になった、というのが正解ではないだろうか。異常なことが起きていていたが、それが収まり一気に正常化した、これが私の考える今日の円高の本質である。これを企業関係者が「想定外」というのは、極めてその企業の見通しが甘いか、外向けの発言ということではないか。通常の経済人であれば、「どこかおかしい。いつか正常化するに違いない」と準備を怠らないはずだ。

 もちろん為替が、購買力平価だけで決まるわけではないことは、承知しているが、完璧に為替レートを予測できるモデルがあるわけではない以上、生活実感こそ大切にすべきであろう。

 しかしたまったマグマが爆発し一気に「正常な」為替レートへの調整が起きてしまった以上、人為的に円安をしようと介入しても、短期的な効果はともかく、しょせんは無駄である。下手に介入すれば、わが国の外為特会に膨大な為替差損がたまるだけ、ということになる。そこで、円高の活用法を考えるというように発想を転換すべきだ。

 最近出始めているアイデアに、「価値の上がった円で、世界のレアアース(希土類)・レアメタル鉱山を買収してはどうか」というのがあるが、筆者も賛成である。実は、単に買収するのではなく、鉱山産出国に円建てのファイナンス(たとえば円借款)をすることのほうがもっと重要だ。

○円建てファイナンスの効果

 参考にすべき歴史的事実がある。第1次大戦から第2次大戦の間に、世界の基軸通貨はポンド(スターリン)からドルに変わったが、米国は周到な戦略に基づきドルを世界通貨に押し上げパックス・アメリカーナを築き上げた。その背後には、圧倒的な経済力や軍事力があるのだが、通貨面についても彼らはきわめて戦略的に行ったことがある。

 それは、たとえば石油について、産油国にドル建ての資金を貸し付け、彼らにドル建ての負債を持たせたことである。産油国は将来の返済資金がドルとなったことから、自らの収入源である石油価格について、ドル建て表示にせざるを得なかった。こうして石油価格はポンド建てからドル建てに変わったのである。

 つまり、わが国も、レアメタル産出国に、徹底的に円ファイナンスを行うのである。カザフスタン、モンゴル、ベトナムなどわが国が円借款を供与している国々に、鉱山開発の動きがあるので、それらの国々から始めてはどうか。これにより、わが国のレアアース・レアメラル確保は安定し、今後は為替変動に動じることもなくなる。  →次ページに続く(これまでの戦略は・・・)

 「マネー敗戦」という言葉がある。過去日本は一生懸命働いて外貨を稼ぎそれをドルに投資してきた、それが円高で評価損を生んでいる、これは通貨当局の戦略のなさの結果であり「マネー敗戦」だ、という論理である。しかし自国の通貨価値が上がって、それが「敗戦」であるという論理はどこかおかしい。確かに過去にドルを買った分は損が生じているが、将来に渡っては、安くドルを買うことができる。そしてその効果は、過去の損をはるかに上回る規模のものである。「敗戦」であるはずがない。

 それにもかかわらず、「マネー敗戦」という言葉にどこか本質をついたところがあるのは、わが国が「円」を世界の基軸通貨の一つとして、債権大国にふさわしい地位にまで育て上げていくという戦略に欠けていた、という事実であろう。上述のアイデアは、円の価値上昇を世界通貨の一つとしての地位向上につなげるものである。

 ピンチをチャンスに変える戦略的発想を持ってほしい。

2010年10月26日 新聞案内人
森信 茂樹 中央大学法科大学院教授

シンクロ・井村雅代に「任せた」中国

2010年10月23日 | 新聞案内人
シンクロ・井村雅代に「任せた」中国

 4年に一度のアジアスポーツの祭典「アジア競技大会」が11月12日から中国・広州で開催される。

 開幕まで1カ月に迫った10月中旬から、読売、朝日新聞共に「アジアスポーツ三国志」(読売)、「スポーツ人物館 広州アジア大会編」(朝日)と大会にスポットを当てた連載を開始。だが残念ながら、2年後のロンドン五輪以上の規模を誇ると喧伝されつつも、私の周りのスポーツ関係者の興味は薄い。

 その原因になっているのが、最近の日中関係の微妙な問題だ。尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件に端を発し、四川などで繰り広げられているこのところの反日デモの様子が、心理的な冷や水になっていると言っていい。

 その一方、スポーツは外交関係をガラリと変えてしまうこともある。かつては卓球が「ピンポン外交」として日中の改善に寄与したこともあるし、記憶の新しいところでは、北京五輪の日本人選手の活躍がそうだった。

 2005年、日本の国連安保理常任理事国入りの動きや、小泉純一郎首相(当時)が靖国神社の参拝をしたことで、中国各地に大規模な反日デモが起きた。彼らの反日感情が、北京五輪の会場で日本人選手らにマイナスにならなければいいがと思っていたが、蓋を開けてみれば、中国人に人気のある卓球の福原愛選手はもちろんのこと、水泳の北島康介選手が「蛙の王子」として中国人女性のハートをがっしり掴み熱くさせた。

○北京五輪で最も注目された日本人

 この二人以上に、北京五輪で中国人の注目を浴びたのは、中国シンクロの監督を務めた井村雅代さんだった。井村さんが中国シンクロ界に初めて銅メダルをもたらしたとき、中国体育総局の高官が、国営テレビでこう発言していた。

 「3年ぐらい前までは、日本の方が日の丸を持って観戦できないような雰囲気がありました。でも、北京五輪では各会場で皆さんが懸命に日の丸を振っていらっしゃいました。これが本当のスポーツの現場。井村さんは日中の架け橋として貢献してくれた」

 だが井村さんは、当時の日中関係を慮って中国の監督を引き受けたのではない。

 1984年のロサンゼルス五輪でシンクロが正式種目になって以来、井村さんは日本のナショナルチームのコーチとして、すべての国際大会でメダルを獲っている。2001年に福岡で開催された世界水泳では、立花美哉・武田美保のデュエットで金メダルも手にしている。

 しかし04年のアテネ五輪で、チーム、デュエットに二つの銀メダルをもたらした後、表舞台から姿を消した。金メダルを獲るため自分の信念を貫き通したことから、日本水泳連盟の上層部から反感を買ってしまったのだ。

 当時、井村さんは寂しそうに語っていた。

 「アテネ五輪で金メダルを獲っていれば、自分の行動の正しさを示せたんですけど、力及ばず2位だった。途端に、『チームはあなたの家内工業ではない』と批判されて・・・。多分、私が勝手にやって、自分達に口を挟ませなかったという感覚だったんでしょうね」

○中国からのオファー

 そんな井村さんに北京五輪の2年前、中国体育総局から監督のオファーが届いた。シンクロでメダルを獲ることが、中国水泳界の悲願だったからだ。

 井村さんは中国のオファーに即答しなかった。中国側の考えをじっくり聞かないと、受け入れられないと考えた。関わるのであれば、トコトン関わりたい。指導者が何人もいると、意見が分かれ無駄なエネルギーを使いかねないからだ。何度もこんな会話を繰り返し、確認した。

 「私はどんな立場ですか?」
 「ヘッドコーチです」
 「私のやりたいようにやらせていただけますか」
 「すべて、あなたにお任せします」

 井村さんは彼らの真摯な姿に心が動かされた。不幸な日中の歴史から、日本に少なからず悪感情を持っているはずの中国が、自分に頭を下げている。その決断は、イスラエルがドイツに、あるいは、日本の柔道界がフランス人に指導を仰ぐ感情に近いものがある。そんな英断を無碍にしてはならない。

 何より、自分が中国に貢献することによって、日本の水泳界はもとより、自分を送り出した日本人の心の広さを、中国に知ってもらえるチャンスと考えたのである。

 だが、この決断に日本の一部関係者から心無い声が届いた。いわく「国賊」「日本のシンクロを中国に売り渡すのか」

 そんな激しい言葉にショックを受けたものの、耳を塞ぎ、06年12月、中国シンクロのヘッドコーチに就任。

 井村さんは、日本での厳しい指導法を中国でも通した。当然のごとく、中国人コーチたちと軋轢が生まれる。だが、上層部の決断が、日本とは大違いだった。井村さんが笑いながらこう述懐した。

 「コーチたちが不満を持っているのは感じていたし、トップに直訴して受け入れられずに戻ってきたことが分かった。きっと『井村先生の指示通りに動きなさい』と言われたんだと思います。態度がころっと変わっていましたから。中国は、好きなようにやらせて欲しいという私の要求を、見事なまでに実現してくれたんです」

○胡錦涛主席の訪問

 突然、胡錦涛主席の訪問も受けた。

 「初め、政治家が会いたがっているという打診があったので、ダメと言ったんです。練習を中断させられたくなかったし、知らない人に会いたくなかった。でも、体育総局の人が凄く困った顔をするので『誰』と聞いたら、『国家主席』と。主席は日中友好を深く考えている人なので、あなたに会いたがっているといわれたんです。

 結構長く話しましたけど、『あなたの指導でレベルが上がった。本当に感謝している』と繰り返していらっしゃいました」

 井村さんは実は、弱い中国を引き上げれば、その実力を認められ、北京五輪後に日本の監督に返り咲けると期待していた。そのため、中国からの契約延長の申し出を断った。自分が主宰する『井村シンクロ』から何人ものの本代表選手を輩出させもした。日本のチームを率い、鉄壁の強さを誇るロシアを打ち破るのが彼女の悲願だった。その地ならしは出来たつもりだった。

 だが、日本水泳連盟はまたしても、井村さんをはじき出す。「コーチの若返りを図る」というのが表向きの理由である。

 井村さんはこの9月、再び中国の代表監督に就任した。日本水泳連盟は出る杭を打っている場合じゃなかったのだ。広州のアジア大会では、日本シンクロが中国に勝てないことは火を見るより明らかだろう。だが、考えようによっては、これを機に、日中関係の緊張が和らぐこともあり得る。井村さんの「勝利に対する純な狂気」が、両国間の冷えた関係を蹴散らしてくれることを期待したい。

2010年10月22日 新聞案内人
吉井 妙子 スポーツジャーナリスト

地底から命の歌が聴こえた

2010年10月21日 | 新聞案内人
地底から命の歌が聴こえた

 chi-chi-chi, le-le-le-Viva-Chile!歓喜の声を、世界が聞いた。

 約700メートルの地底で、6人の救助隊員が広げた『mision cumplida=任務完遂』と書かれた文字が誇らしげだった。家族、仲間、幸福、希望、奇跡、英雄、そして神…一語一語が思いを込めて語られ、地底ばかりか地上でも、多くの人の物語が紡がれた。

 チリ・コピアポのサンホセ鉱山落盤事故現場は、まるで野外劇場と化した。事故の映画化も目論まれているというが、CNNやBBCによるテレビ中継を通じてとはいえ、視聴者が体験したこれほどの臨場感を、改めて映像化するのは、至難の技だろう。

○映像を世界が共有

 テレビが通信衛星を介して初の日米同時中継を試みた1963年11月23日朝6時(日本時間)。ジョン・F・ケネディ大統領の演説は、『ダラスの悲劇』を伝えるニュースにとって代わった。その2年前の5月、大統領自身が「60年代にわが国は、月に足跡を残して地球に帰還する」ことを約束したアポロ計画に基づき、69年7月20日、アポロ11号は月面着陸に成功。人類が月面を歩く、その中継映像を世界が共有した。

 1970年4月、アポロ13号は、酸素タンクの爆発で大気圏突入に必要な酸素を欠く緊急事態に遭遇しながら、乗組員の冷静沈着な対応で無事生還した。≪Successful Failure=成功に満ちた失敗≫と言われる所以である。ジム・ラヴェル船長の著作『LOST MOON』は、『アポロ13』(ロン・ハワード監督95年)と題して映画にもなった。

 2001年9月11日、米ニューヨークの世界貿易センターを巻き込んだテロや、2008年11月のインド・ムンバイでの同時多発テロと、世界のあちこちで起こる事故や事件のニュースを、同時に目のあたりにする時代である。チリで8月5日に発生した落盤事故もまた、17日後に生存が確認されてから10月14日午前(日本時間)の救出劇に到る一部始終を、日本列島でも固唾をのんで目撃した。

 この生還劇を≪Successful Failure≫とアポロ13号になぞらえる論評もある。ことしの3月に就任したばかりのセバスティアン・ビニェラ大統領の得意も、想像に難くない。だが、終わり良ければすべて良し、とは言いきれない。国の輸出品目の第1位にある産業だけに、大統領も「二度と同じ事故は起こさない」と約束したが、事故を起こしたサンホセ鉱山は操業停止の憂き目にあり、安全対策にも問題があったようで、損害は計り知れない。

 それはチリだけの問題ではない。奇妙なことに、似たような事件や事故が、しばしば連鎖的に起こる。16日には中国で炭鉱ガス爆発と落盤が相次ぎ、南米エクアドルの金鉱山でも落盤事故が発生した。メタンガスの爆発や突出、粉塵爆発、坑内火災…過去にも多くの坑内事故が繰り返されてきた。米ペンシルバニア州セントラリアで1962年に発生した坑内火災は、いまも燃え続け、いつ鎮火するかもわからない。町からは人の姿が消えてゴーストタウン化し、郵便番号も消去されたと伝えられる。

○坑内事故の取材

 坑内事故の取材ほど辛いものはない。スクラップ・アンド・ビルドのさなかにも、福岡県筑豊の炭坑事故現場で取材したことがある。坑内から脱出、あるいは救出されて来る作業員の家族が見守る。黒く煤をかぶり、手拭いで目を覆って生還する親や兄弟を見つけて走り寄る家族の陰で、まだ肉親を探し出せず不安におののく人の姿は、見るに忍びなかった。幸い身内が助かっても、喜びを露わにする人を見かけることは少なかった。それだけにチリの成果を≪Successful Failure≫と表現出来ることは、幸運この上ない。

 1973年から74年にかけて起こったオイルショックのとき、石炭産業再興論が出た。筑豊を歩き成否を問いかけたが、「そがん簡単なことじゃなか。腕も根性も度胸も、引き継がれちゃおらん」と、ヤマに関わってきた男たちは否定的だった。

 チリの事故とは規模こそ違え、似たような事故にも遭遇した。1961年12月1日、青森市の奥羽本線大釈迦トンネル付け替え工事に携わっていた熊谷組の現場で落盤が起こった。坑道が大量の土砂で塞がれ、落盤現場から約90メートル奥の切り羽で作業中の12人が生き埋めになった。

 坑内505メートル奥に閉ざされた命をつないだのは、直径15センチのエアパイプである。この空気管を通して現場と連絡がつき、全員の生存が確認される。食糧や飲み水、ときには元気づけにワインなども送り込まれた。その様子を見た読売新聞青森支局の若いO記者が、突拍子もないことを思いついた。器械に明るく、新しいもの好きの彼が「空気管からカメラを入れられないか」と言いだしたのだ。

 そればかりか、売り出されて間もないハーフサイズのカメラ、オリンパスペンを持っていた。36枚撮りのフィルムを装填し、熊谷組に提案した。現場も乗り気で、「80カット近く撮れるはず。とにかくシャッターを切ってみて」とのメモとともに、カメラを送り込んだ。薄明かりながら、期待以上の成果が上がった。思いつきがスクープを生むこともある。

○九死に一生

 12月3日付けの読売新聞縮刷版に、電送された<坑内から元気な写真>が残されている。記事は「二日午後には電話も通じ十二人がかわるがわる『食糧も十分あるし、水もやや引いて少しも苦しくない。みんな元気でいるから家族にも知らせてほしい。一刻も早くみんなと顔を合わせられるよう首を長くして待っている』」とつづられている。

 そして4日未明、12人全員が59時間ぶりに救出された。九死に一生を得た一人は「たまった水が1メートル50にもなった時は死を覚悟したが、作業の音や仲間の話し声がだんだん大きくなり、土の壁にぽっかり穴が開いた。救助隊の人たちと抱き合った時や、トロッコに乗ってトンネルを出るときのことは、いま思い出せない」と、記者に語っている。

 チリの現場でも、生存が確認されたとき、すでに数日で食糧が尽きようとしていたという。33人の無事救出は、奇跡だったに違いない。<命のカプセル着々「神が引っ張ってくれた」><地底から奇跡の生還><救出劇 世界沸く><家族が勇気くれた>と新聞各紙に躍った見出しにうなずく日々だった。

 <絶望から希望へ>と、全員生還の感動を新聞が伝えた同じ15日、朝日の朝刊≪時時刻刻≫は<アフガン戦争10年目>を特集していた。記事は「米軍など外国軍の戦死者が今年、既に580人以上と過去最悪を更新」と記していた。

 人類の行動は、いぜん矛盾に満ちている。

2010年10月21日 新聞案内人
西島 雄造 ジャーナリスト、元読売新聞芸能部長

投書欄の効用

2010年10月20日 | 新聞案内人
 夏の終わり、イングランドの田舎からロンドン行きの電車に乗った。約40分の距離である。向かい合わせ4人掛けのシートの向こう側は中年の夫婦だった。
 夫は朝刊の最終面を開いて、クロスワードパズルに夢中だ。妻は同じ新聞の真ん中あたりを抜き出して、投書欄に没頭している。パズルと投書。私の認識では、英国人の古典的な新聞の楽しみ方である。

 帰途、同じ新聞を買い車中で読んでみた。全部で36ページ。パズルはもちろん歯が立たないから、25面の投書欄に目を移す。投書は長短あわせて14本。核抑止力と新造空母、外国人労働者受け入れといった問題から手作りパスタのコツまで、話題は硬軟自在。英国人のいろいろな面に触れることができて、なかなか有効な40分だった。

 新聞の中で投書欄は、私の楽しみの一つだ。新聞のどのページを好んで読むかと問われれば、投書欄をベスト3の中に入れたい。
 新聞の情報、発想の範囲は、努力を重ねてもしょせん限られてくる。すぐれた投書は、新聞が至らない点をときとして上手に補ってくれる。
 10月15日の朝日新聞「声」欄(東京紙面、以下同じ)に「尖閣列島の天気予報を流そう」という投書が載った。

 〈尖閣諸島が日本固有の領土であることは明白だと思います。そこで提案です。毎日の天気予報で流したらどうでしょう。 たとえば「今日の尖閣諸島は、晴れ時々曇りでしょう」、そして「明日の、択捉・国後・色丹・歯舞の地方は雪でしょう」といった具合にやるのです。そういう天気予報が全国津々浦々に毎日流れれば、わが国の領土だという認識も、いっそう定着するはずです。(後略)〉

 埼玉県新座市の市会議員の提案だが、これ、名案ではあるまいか。
 余談ながら、我が老友のガールフレンドに沖縄県南大東島出身の人がいて、初対面だと必ず天気予報の話になるそうだ。「南大東島では風力3……」というラジオの声は、たいていの年配者の耳に残っている。しかし私にしても、南大東島で生まれ育った人に会ったのは、かの女性だけでしかない。

 〈固有の領土を守るには、のんきな作戦かも知れませんが、10年、20年と毎日続けば、意外に力になるのではないでしょうか〉

 なるほど、なるほど。少なくとも私程度の力量の記者には、こんな卓抜な発想はとうてい訪れまい。実行するのも、そう難しくはなさそうだ。担当は気象庁だろうか、ぜひ実現を、と望む。

 「不快な言葉遣いを国会議員は改めて」と題した14日の読売新聞「気流」欄。投書者は朝霞市に住む60歳の男性だ。

 〈菅首相の所信表明演説に対して行われた自民党の稲田朋美議員の代表質問は不快に感じた。「卑怯者内閣」「ぶざまな外交」「うそ八百」などと言葉遣いがあまりにもひどかったからだ。さらに驚いたのは、稲田議員の発言に笑いながら拍手をしている議員が結構いたことである〉

 同感。テレビニュースを見て私も不快に感じた。
 ただし、不快感は人によって異なることがある。某が不快と思っても、某々は愉快に感じるかもしれない。新聞はおしなべて、そこのところを敏感に映し、不快などと断定するのをできるだけ避けようとする。この投書は、新聞の足らざる部分を補って、私のような読者を満足させてくれる。ああ、世の中には自分と同じ感じを抱いた人がいるんだ、と安心する。浮いた言葉を用いるより、核心に迫った質問をするべし。ではありませんか?

 朝日新聞への投書からもう1通。18日の「声」欄で、経営コンサルタント60歳の男性は「静かなる外交」は正解だった、と論じている。

 〈結果論ではあるが、今回の日本の「静かなる外交」は正解だったと思う。ビデオを公開しても中国は日本が捏造したと主張しただろうし、事態がさらに悪化していた可能性もある。真実を知ることと国益を守ることは必ずしも一致しない。船長の逮捕で日本の姿勢は示すことができたわけで、それなりの成果はあったとみるべきであろう〉

 これにも私は共感する。日本政府は衝突ビデオを今国会に提出する方針、と報じられているが、〈中国では先週末から反日デモが相次いで起きており、ビデオの公開問題の動向次第では、さらに反発を強める可能性がある〉=19日、朝日新聞=という懸念は、私も抱く。大人ならば無用なケンカはするべからず。ではありませんか?

 私が担当している「朝日川柳」のデスクは、「声」編集グループの一角にある。選句のかたわら担当者たちの仕事ぶりを見ていると、その大変さがよくわかる。
 投書は一日に全国で200通前後。東京本社分がほぼ半数を占める。必ず複数の担当者が、届いた手紙すべてに目を通し、採用候補を選ぶ。
 「声」欄は毎日1人が、編集長のチェックのもと、責任をもって編集する仕組みだ。当日の担当者は、採用候補の中から本採用する投書を選び出す。
 そして1編1編について、投書者に直接電話で連絡して、本人の投書かどうかなど細部を確かめ、必要なら内容の補足取材をする。定められた行数に調整したのち、掲載する原稿を本人にメール、ファクス、あるいは電話で読み上げるといった手段で最終的に確認する。

 いつの時代でも、他人になりすまして投書する輩がいる。真実を装った作りごとを投書する輩がいる。「声」欄だけでなく、おおよその新聞投書が匿名での掲載を原則として排するのは、自由な言論は責任を伴う、という立場からだろう。
 ネットを中心に、ともすると署名・肩書きいっさいを伏せた無責任な言辞が飛び交う時代である。批判にせよ反論にせよ、きちんと実名でモノを言うことは大切だ。私が新聞の投書欄を愛する理由も、一つにはその辺にある。

 「声」欄の場合、編集グループによれば年間の投書数は全国で1990年約6万9500通、1998年約7万500通、2009年約7万4900通。ざっと20年間に1割弱増えた計算だ。ネットと紙、という観点からも心強い数字である。

 ところで、あらたにす3紙のうち日本経済新聞には投書欄がない。同社の読者センターによると「特に理由はないが、昔から存在しない」そうだ。
 もし設けたら、と夢想する。リーダーシップを有する独特の新聞だけに、さぞユニークな投書欄が生まれるのではないか。
 どうでしょう、検討してみませんか?

2010年10月20日 新聞案内人
栗田 亘 コラムニスト、元朝日新聞「天声人語」

“医聖”華岡青洲の生誕250年に思う

2010年10月19日 | 新聞案内人
“医聖”華岡青洲の生誕250年に思う

 今から250年前、江戸の中期にあたる宝暦10年(1760)10月23日に、紀伊国西野山村平山(現・和歌山県那賀郡那賀町西野山)で、2代つづいた外科医の家に、一人の男の子が生まれた。

 諱(いみな)を震(ふるう)、通称を随賢(3代目)、俗名を雲平といったが、後世には号の青洲(せいしゅう)がいちばん知られている。

 なにしろ、“医聖”とまで、人々に仰慕された人物であった。

 世界で初めての全身麻酔薬の開発に成功し、それを使って、世界の何処にあっても、いまだいかなる医者も成し遂げ得なかった、乳癌の摘出手術を、みごと成功させた名医であった。

 ちなみに、アメリカのW=モルトンがエーテルによる麻酔臨床応用に使い、成功し、そのことを声高らかに誓言したのは、西暦1846年=青洲の成功した40年後のことであった。

○麻酔薬、乳癌摘出につながる目標の高さ

 ――青洲の足跡は、その偉業とともに今日、多くのことが明らかとなってきた。

 彼の偉業を支えた妻・加恵は、近村の名手荘市場村(現・那賀郡那賀町大字名手市場)に宝暦12年に生まれており、彼女は夫より2歳年下となる。

 父より医師になることを望まれた青洲は、当時、医学の最先端をいっていた京都に遊学し、医学を本格的に学ぶ。

 彼の生まれる6年前に、京都では六角獄舎で山脇東洋らによる人体解剖が行なわれていた。この頃の京都医学界は、何よりも実証主義的な精神が豊盛(ほうせい)であったといえる。

 その京都へ、『解体新書』が出版された8年後=天明2年(1782)に、青洲は訪れたのであった。

 彼が他の医学書生と異なったのは、その目標の高さにあったかもしれない。

 青洲が目指したのは、伝説の医聖・華陀であった。三国志の時代、あらゆる奇病・難病を完治させたと伝えられる伝説の名医は、外科的手術においても、曼陀羅草を使った秘薬「麻沸散」=麻酔薬を、酒と一緒に飲ませてから手術を行なった、と古典に記述があった。

 一方、青洲の修行時代、乳癌は不治の病ではなく、オランダの書物によれば、その毒部を切り取れば完治することができる、との症例が発表されていた(東洋の弟子・永富独嘯庵著『漫遊雑記』)。

 京都時代、青洲はあらゆる古典医学書を読破。一方、珍しい医療技術があると聞けば、どれほど遠方でも訪ねて教えを乞うたという。<

 故郷に帰って、ほどなく他界した父に代わり、青洲は患者の治療にあたりつつ、麻酔薬「通仙散」の開発をはじめ、のちには「春林軒塾」を開いて、慕ってくる門人たちに医学を実地に教えた。

 青洲はやがて、巣立っていく弟子たちに免状を出すおり、自ら漢詩を認(したた)めた。

  この漢詩の中で彼は、自分は何の富貴栄達も望んではいない。自然に恵まれた田舎に住んで、ひたすら思うことは瀕死の病人を救うことであり、そのために医術の奥儀を極めたい、と念じていることだ、と語った。

 世の中には本当に、金儲けも贅沢な生活、趣味に遊ぶことに関心なく、己れの使命感にだけ生きた人間が存在したのである。

 青洲は日々、訪れる患者の痛みや苦しみをどうすれば救えるか、それのみを考えつづけた。そして出した一つの結論が、麻酔薬の開発であった。 

○母と妻の献身

 この研究に献身したのが、その母と妻であった。

 否、2人の妹も京都に学ぶ兄を助けるべく、機を織って学費を作っていた。家族が、懸命になって青洲の夢を支えた、といえなくもない。

 彼の麻酔薬は、動物実験(主として犬)を重ねることにより完成に近づいたが、はたして人間に通用するのかどうか、最後の壁は人体実験の成否にかかっていた。だが、失敗すればその人は死んでしまう。

 そうした青洲の苦中を知った母・於継が、自ら進んで人体実験に、我が身を使ってほしい、と申し出た。

 「老い先もそう長くはない、それならば――」
 息子の役に立ちたい、というのである。

 が、妻の加恵はその母の言葉を容認することはできなかった。夫の為であるならば、それはわが身を供してこそ当然だ、と母を止め、自らが願い出た。青洲はこの母と妻の協力を得て、わが身も含め、数度にわたる人体実験を行なった。

 おそらく、軽度、少量のものを母へ、いささか疑問の残るもの、思い切った量を、自らと妻に割り振ったのではあるまいか。

 ついに、麻酔秘薬「通仙散」は完成した。

作家・有吉佐和子の描く小説『華岡青洲の妻』は、このあたりの事情を姑と嫁の葛藤として描いたが、もとよりこれはフィクションの話。

 専門家によると、「通仙散」に使われた「鳥頭」がアコニチンによる動眼神経を損なったのではないか、との推測をかつて読んだことがある。

 青洲は妻のために新居を造り、寸閑をおしんでは四方山話をし、ときには阿波から人形浄瑠璃の名手・小林六太夫を呼び、その慰めにつとめたと伝えられている。

 記録に残る青洲の、乳癌手術の成功の第一例は、文化元年(1804)10月に行なわれた、大和国五條の、藍屋(あいや)の60歳の婦人を対象としたものであった。これは画期的であったといえる。

 なにしろ、それまでの日本の外科は、外傷の縫合や腫瘍の切開といった、単純な手術しかしてこなかったのに、青洲は関節離断・尿路結石摘出など、多数の難しい手術を敢行し、成果をあげていった。

○村民を救うべく

 「眠っている間に足を切り取ってしまう、魔法のような術を使う医者がいる」

 青洲の評判は諸国を巡り、全国から患者がやってきた。なかには遠方からの貧しい患者もあり、彼はそういうとき無料で手術を施し、帰りの旅費まで持たせてやった。

 ときの紀州藩主・徳川治宝が、侍医にと何度誘っても、青洲の答えは同じであったという。「せっかくですが、私には村での病人がいますので――」

 藩主治宝はついに根負けし、「勝手勤奥医師」という身分をつくり、いざというときだけ、和歌山城下への診察を命じた。

 青洲は旱魃で飢えに苦しむ村民を救うべく、私財を投げうって灌漑用の溜池「垣内池」を造ることもしている。

 妻はそんな夫を心から誇りと思いつつ、文政10年(1827)にこの世を去った。享年、67。

 半生を治療と後進指導に生きた青洲は、天保6年(1835)10月2日にこの世を去っている。こちらの享年は76であった。

 近隣の春・夏・秋・冬にすっぽり包まれ、その環境に何一つ疑問を抱かなかった、一人の医師の見事な生涯が、ここにあった。

2010年10月19日 新聞案内人
加来 耕三 歴史家・作家