李白の白髪  仁目子


白髪三千丈
愁いに縁りて  箇の似く 長(ふえ)た
知らず 明鏡の裡(うち)
何処より 秋霜を得たるか

  【 福原愛  の 非人情 】       仁目子

2021-08-09 07:46:36 | Weblog




ーー  人間は感情の動物である  ーー
ーー  Man is a creature of emotion.  ーー

多くの人が経験しているように、『人を愛すること』が突然やって来る。そして意表をついた、予想だにしない別れが訪れる。 結婚四年、毎日「ラブラブ」「キスキス」と言い触らしていた女性が、ある日突然、亭主は、「モラハラ」 だと、マスコミ に話した。

人間が幸福を求めているにも関わらず、それを破壊しようとするエネルギーが作用する特殊な事例である。

夏目漱石の名言、智に働けば角が立つ、情に棹させば流される。つまり、 理知だけで割り切っていると他人と衝突するし、他人の感情を気遣っていると、自分の足をすくわれる。という事で、人情の機微に触れた名言だが、惜しむらくは、卓球しか知らず、一人で、山路を登ることのない福原愛には、勿論、通ようがじない。 或いは、彼女は、漱石という名前ですら、知らないのかも知れない。

漱石の名言を、『 船の棹は、川底を棒で突いて、舟を進めていく。棹を強く突けば突くだけ、 早く進む事が出来る。 元々、(情という)流れがある所に、更に情でもって棹を突けば、どうしようもなく 流れてしまって、舟がコントロールできない状態になってしまう、という事。 ついつい感情が先に立って 思い入れてしまうという例え、』、という具合に、ウエブで説明している人が居る。 確かに、その通りだと思う。


人間は感情の動物である以上、福原にも感情は有る筈だが、父母、子供、亭主 を捨てて、唯々、浮気に走り、家庭を捨てた、彼女の「感情」とは、どのようなものであろう。極めて、多くの人が、疑問に思っている。

愛情から逸脱した感情に、非情,無情、薄情、非人情、などなどがある。

非情は、人間らしい感情を持たないこと、 無情は、思いやりのないこと、薄情は、人情に薄いこと、 非人情は、二つの意味がある、一つ、 他人に対する思いやりに欠けること。冷淡で人情がないこと。また、そのさま。 二つ、 義理人情の世界から超越して、それにわずらわされないこと。また、そのさま。夏目漱石が「草枕」で説いた、超俗の境地。

という具合に、辞書、辞典で解説している。

福原は、たった一人の亡父の告別式に参加しなかった、という異例の持主。要介護の老母と一、二歳の幼児、と亭主を台湾に置いたまま、日本へ行って浮気をした。それで居て、亭主は、モラハラ、だと、マスコミに告げる。

これらは全て客観事実だから、人間性の判断資料にする事が出来る。非人情の第一義は、 他人に対する思いやりに欠けること。冷淡で人情がないこと。また、そのさま。ということで、福原の人間性にもっとも近い、という感じがする。 しかし、非人情には、いま一つ別の意味がある。即ち、 義理人情の世界から超越して、それにわずらわされないこと。また、そのさま。夏目漱石が「草枕」で説いた境地。

この二つ目の意味の持主であれば、非常に洒落た「人生観」の持主になる、しかし、これは文豪漱石の独特な「人生観」であり、超俗な人生観、だとも言われている通り、俗人が物にする事が出来る人生観ではない。 勿論、卓球しか知らない福原に、このような境地、人生観を求めても、所詮、無理な事である。

すると、福原の「非人情」は、第1義の、 他人に対する思いやりに欠けること。冷淡で人情がないこと。に落ち着くという事になる。

ウエブで、 論語を引用して、「愛」を語る記事が、目に付いた。意味深であるので、借用する。 次のような内容である。

中国の偉人、孔子の論語の一節に、
『 相手を愛しているときには生きていて欲しいと欲し、憎むようになるとその死を望む。それが惑うということだ」、というのがある。悲しいことだが、無防備に”愛すること”をしてはならない警鐘だと考えるしかない。』

孔子様の言葉のように、愛とは180度反転し得る感情なので、 福原は、無防備に 人を愛して、ラブラブ キスキス を楽しみ、憎むようになると、相手を モラハラと言って、突き放す。

孔子様曰く、「それが惑(まど)うということだ」、という。 正しく、その通りで、福原は、そういう意味では、既に、人間離れになっていて、動物的になっている、と言えなくもない。









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