李白の白髪  仁目子


白髪三千丈
愁いに縁りて  箇の似く 長(ふえ)た
知らず 明鏡の裡(うち)
何処より 秋霜を得たるか

【 ウ ラ ル の 彼 方 】 (三)

2018-09-24 15:58:47 | Weblog

   ーー 遥か、 遥か 遠き 彼方の 

      ウラルに 何の 恨みがある ? ーー

 

今度は、最後の五首を読む。

 十六、砲火に焼かん浦塩や  屍を積まん哈爾浜府

   シベリア深く攻入らば 魯人も遂になすなけむ

 十七、 斯くて揚らむ我が国威 斯くて晴れなむ彼の恨

     金色の民鉾取れや  大和民族太刀佩けや

  十八、 嗚呼絶東の君子国 富士の高嶺の白雪や

      芳野の春の桜花  光示さむ時至る

  十九、 忍ぶに堪へぬ遼東や 亦薩哈嗹やアムールや

      嗚呼残虐の蛮族に  怨返さん時至る

  二十、 金色の民いざやいざ 大和民族いざやいざ

      戦はんかな時期至る 戦はんかな時期至る

 

このたぎる血潮に溢れる長い雄叫び」を、言葉で形容すると、すさまじい( 凄まじい) 一言に尽きる、と思う。

 

一次大戦の時、「シベリア出兵」というのがあった。

1918年8月、イギリス・フランス・アメリカ・日本はシベリアのチェコ兵捕虜を救出することを口実にシベリアに派兵、ロシア革命に対する干渉戦争の一環として反革命軍を支援した。

各国の出兵兵力数は、アメリカ 7950人、イギリス  1500人、カナダ 4192人、イタリア  1400人に対し、日本の派兵は  73,000だった。

日本政府は、当初この出兵の目的を、チェコ軍の救出とロシアの領土の保全とし、内政には干渉しないとしていた。しかし陸軍参謀本部は、統帥権の独立を理由として独断で増派し、191811月までに73千人を派遣した。これは当時の日本軍の約半数におよぶ規模だった。

イギリス、フランスの干渉軍はそれぞれ1919年中に撤退、アメリカも1920年までには撤兵したが、日本軍は事後処理のためとして駐留を続け、20年2月にニコライエフスク事件の悲劇が発生し、日本はそれに対する報復として北樺太(の北半分)を占領した。

1922年のアメリカからの圧力があり、同年10月25日にはシベリア本土から干渉軍を引き揚げた。こうして5年以上にわたる日本のシベリア出兵は、具体的な成果のまったくないまま終結し、北樺太での駐兵はで日本がソ連を承認し日ソ国交が開かれた1925年まで続いた。

以上が、日本の「シベリア出兵」の概要だが、『征露歌』の第十六首の文句が、

   砲火に焼かん浦塩や  屍を積まん哈爾浜府

  シベリア深く攻入らば 魯人も遂になすなけむ

 (注; 浦塩は ウラジオストック、哈爾浜府は 

          ハルピン)

 

になっている所から、アメリカ約十倍、イギリス約五十倍の兵力を出兵した日本の意図は、単なるチェコ軍の救出を目的とするものだとは言い難い。そして、他国が全て撤兵した後も、日本軍だけがシベリアに居残った事実から、ついに、諸外国から「火事泥」の疑い濃厚と批判されるに至った。

そして、後年、日本の識者により、『シベリア出兵』、「なに一つ国家に利益をも齎すことのなかった外交上まれにみる失政の歴史である」、という貼り札まで付けられた。

これと対応するかのように、第二次大戦後、日本軍捕虜の「シベリア抑留」が有った。この両者に何らかの「因果関係」が有る筈だと思う人が結構居る。

 

『シベリア出兵 ー  近代日本の忘れられた七年戦争 (中公新書) 』という本がある。

この本の「上位の肯定的レビュー」が2 5 ( 五つ星 8 1 % 、四つ星1 5% ) 、「上位の否定的レビユー」が 1 ( 4 % ) という数字で分かるように、かなり読み応えのある本で、五つ星のカストマレビユーで、最も多くの賛同者を得た要点を、幾つか、ここに引用してみる。

  『これは現代の日本人が「読むべき」本だと思う。

     シベリア侵略(「シベリア出兵」)の7年間に及 

     ぶ戦争が、我々現代日本人の歴史認識の盲点と

   なっていることが、よくわかる』

  『日本では、せいぜい、「共産主義の拡大を防ぐため

  に出兵した。」とぐらいしか書いてないシベリア出

  兵ですが、こんなに詳しく書いた筆者の執筆力に感

  服しました』

  『 地図を逆さに見た時のような驚きがある 』

  『 ロシアとの関係で言うと、日本はしばしば一方的

   な被害者としての歴史のみを教えられてきた気が

   する。しかし、歴史をロシア人の目から見ると、

   まるで逆に見える。

   本書の冒頭にもシベリア抑留を経験した文化人類

   学者の加藤九ゾウ氏がシベリアでロシア人研究者

   と酒を酌み交わしながら、その非道ぶりとロシア

   歴史書に日本人抑留者の記述がないとなじると、

   ロシア人から「シベリア出兵で日本兵がシベリア

   で行った悪逆非道ぶりが日本の歴史書に書いてあ

   るか」と言い返されるシーンが出てくる。この二

   人やり取りこそが、日本人にとって「忘れられ

   た戦争」であるシベリア出兵を敢えて新書で書き

   下ろした著者の重要な動機の一つとなっているこ

   とがうかがえる』

 

次に、たった一件の「否定的レビュー」の要点も併せ下記する。

 『著者は、いったい自分は何処の国民だと考えている

  のだうか? 帝政ロシア時代から着々と亜細亜侵

  略を進めてたが、日本はシベリア出兵において、

  その一連の悪行に対し反撃を加えたまでのことであ

  る』

 

日本の国粋主義者は、神の國である日本は、史上嘗て外国に攻め込まれた事が無い、と言って自慢をする。攻め込まれた事が無いのは事実で、それは、日本がエライというよりも、好い近隣諸国を持った事が要因であり、好い近隣諸国を持った日本は、幸せだった、と言うべきであろう。

その好い近隣諸国の一つであるロシアを日本はずっと敵視して来た。なぜだろうか、と思う。

 

前に書いた長閑なアムール』の一文と、本文のウラル彼方』、を読めば、敵視の原因が、那辺にあるのか良く分かる。

今まで、教科書で教えて呉れなかった事実を、『アムール流血や』、『ウラルの彼方』 ( 別名、征露歌) を通して、知る事が出来れば、これからの日本人に取って、近隣諸国との付き合いはどうすべきであるか、という考えの貴重な参考になるのは、疑いの余地が無い。

それが、本文を書いた趣旨でもある。

 

ーーー  『ウラルの彼方』 全文終わり  ---


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