【白髪三千丈、なぜ、列島で誇張になる】
ーー 倭語漢字による漢詩解釈、
が意味の逸脱をもたらした ーー
『抜粋』
漢語で、「長長 長長 長長長」と、七つの「長」を並べ
て、「常に成長し、絶え間無く成長し、永遠に成長する」
という意味を表す事が出来る。それは、「形容詞 副詞
動詞 名詞」としての「長」をうまく組み合わせると、そ
のような「字の遊戯」が出来る事を示しているわけだが、
言い換えれば、「長」という字には多数の意味が有るとい
う事を物語っているのに他ならない。
所が、極めて限られた意味しか持たない「列島の漢字」で、
「唐土の漢語」を解釈すると、本来のあるべき意味から大
きく逸れて、とんでもないものになって仕舞う可能性が非
常に大きい。
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『本文』 【白髪三千丈、なぜ、列島で誇張になる】
日本語の「夢中」という言葉の意味は、辞書に、次のように出ている;
1、 物事に熱中して我を忘れること。
2、 夢を見ている間。夢の中。
3、 正気を失うこと。また、そのさま。
この日本言葉は漢字だが、漢語ではない。というのは、漢語の「夢中」は、字に見る通り、「夢の中」を意味するもので、日本語にある、物事に熱中、正気を失うなどの意味は全く無い。
つまり、この漢字語本来の意味が、日本で逸脱したという事を意味する。だから、日本語であって、漢語ではない。このような「字義の逸脱」は、日本の漢字言葉に共通している現象である。
中国で、誇張だと思われていない李白の「白髪三千丈」が、列島で誇張の意味を持つようになったのも、同じ現象による。
白髪は、中国でも日本でも、同じように「増える」と言う。この概念に、逸脱は見られない。
字義に逸脱が生じたのは、「三千」と「丈」の部分である。
「三千」の意味は、二つある。一つは、名詞として「千の三倍」を表す、つまり、数詞として使う。もう一つは、形容詞として「とても多い」を表す。これは、中国でも日本でも同じように解している。なのに、なぜ、逸脱が生じちゃうのか?
「白髪三千丈」は、李白が愁いを詠った「詩句」であり、白髪の数を問題にした「数字」ではない。詩句であれば、当然、形容詞として使い「白髪三千」は「白髪が非常に増えた」の意味となる。所が、列島で、詩句を算術並みに、「千の三倍」と間違えて解した為、そこから、大きい「逸脱」が始まった。
続いて、「丈」にも問題が生じた。丈は「長さ( ながさ) 」であると、列島で、一般に解しているが、必ずしもそうではない。
丈に二つの読み方がある。音読の「じょう」は「長さの単位」で、訓読の「たけ」は「人や物の高さ」という具合いに異なる意味を持つ。
似たようなもので、「長」という字は、倭語の訓読みで「なが」と言うが、漢語の音読では「ちょう」と言う。そして、「なが」と「ちょう」の両者にかなり字義の違いが有る。
倭語の場合は、「なが」という倭語に漢字の「長」を当てて使って来た為、列島では、殆んど「長」とう字を見ると、単純に「ながい」という意味に絞るという慣習が付いている。
しかし、本来、漢字の「長」には、多数の意味がある。例えば、形容詞としては、長い、年上の、(世代) 上の、などの意味を持ち、名詞としては、長さ、動詞としては、生える、成長する、増加する、進展する、などの意味を持つ。
列島は、昔から外来語の取り入れに際し、全ての意味に亙って取り入れる事は、実際問題として、不可能である為に、常に部分的な取り入れをして来た。
漢語で、「長長 長長 長長長」と、七つの「長」を並べて、 「常に成長し、絶え間無く成長し、永久に成長する」という意味を表す事が出来る。それは、「形容詞 副詞 動詞 名詞」としての「長」をうまく組み合わせると、そのような「字の遊戯」が出来る事を示しているわけだが、言い換えれば、「長」という字には多数の意味が有るという事を物語っているのに他ならない。
所が、極めて限られた意味しか持たない「列島の漢字」で、「唐土の漢語」を解釈すると、本来のあるべき意味から大きく逸れて、とんでもないものになって仕舞う可能性が非常に大きい。
「夢中」という文句がそうだし、「白髪三千丈」もそのよい例である。
李白は唐土の詩人だから、彼の詩句は、当然、唐土の漢語で意味を解さなければならない。所が、列島は、唐土の漢語については、部分的な了解しか出来ない為、列島の漢語でもって、李白の「含蓄の深い」詩句を訳して、一知半解の弊を残し、誇張でない詩句に、あらぬ誇張の濡れ衣を着せてしまった。
では、漢語で解すると、どの様に違って来るのか。唐土の有名な「千家詩」の解釈を見ると、
「白髪が、めっきり増えた、その延べ長さは、
三千丈にも達するであろうか」
という具合いに、増えた白髪の延べ長さ、という「含蓄の深い」解釈をしている。
白髪三千丈、縁愁似個長、不知明鏡裡 何処得秋霜
第二句の「縁愁似個長」を、和訳で「愁いに縁りて似(か) くの個(ご) とく伸びた」と訳しているが、白髪の場合の「長」は、伸びるでは無く、増えるを意味するものだから、「似くの個く長 (ふえ) た」に訳すべきである。
所が、「長」は「ながい」という、倭語の一つしかない字義に縛られて、和訳は「白髪が伸びた」に解釈し、李白の含蓄深い詩句が、列島で誇張の意味を持つと誤解されるようになった。
第四句の「何処より秋霜を得たるか」と照らし合わせて考えれば、良く分かるように、「秋霜」とは、「辺り一面が白い」事を意味する。つまり、白髪が頭上一面に増えたという形容がはっきりしている。もし、列島で訳しているように、白髪が長く伸びたのであれば、原詩の第四句は、「何処より樹氷を得たるか」( 何処得樹氷) という具合いに、直さなければ、前後の辻褄が合わなくなる。
「白髪」と「秋霜」、この二つを並べて見れば、李白が「シラガが増えた」と詠っている事が判然とする。
『江南の橘,江北の枳となる』( こうなんのたちばなこうほくのからたちとなる) ように似て、漢字は唐土から列島に渡って、字義の逸脱をもたらし、白髪三千丈が列島で誇張の意味を持つようになった。
その「誤訳」による誇張を、誤用、悪用して、唐土の人は「法螺吹き」であると喧伝する人が列島に少なからず居る。
唐土の人は、それを意に介するよりも、むしろ、漢語で言う「知其一、不知其二」( バカの一つ覚え) の類(たぐい) だと思って、内心で嘲笑っているに違いない。
列島で、「白髪三千丈」は誇張だという人は、他人に自分の「無知」をさらけ出しているのに等しい。それに気が付いている人は、果して、何人居るのだろうか。