ーー 一言で 「こんな国」って 言えない国 ーー
ーー ねぶた祭りの意味、ねぶたの由来
も知らず、どうして、中華思想が分かる ーー
曽て、坪内逍遙曰く、「嗚呼 群盲(グンマフ) 巨象(キョザウ)をさぐらば其尻尾の手触り能く 全象を示すに足るか覚束無し」。
昨今の列島で、流行り言葉となっている「中華思想」は、見た目には、かなり知的な言葉を使っているが、内容は、知的とは程遠い。
「中華」という二字の解釈が、余りにも「単細胞」過ぎる。戦時中、「皇国日本」は「シナ」を「虫けら」のように見下していたのに、一夜明けて、今日は、「世界の中心、文化最高の国」と、一挙に持ち上げる所が、余りにも不自然である。
ウエブで見かけた、「蘇州人を夫に持つ老板娘の趣味のページ」は、次のような書き出しになっていた;
《 中国ってでかすぎます
一言で「こんな国」って言えない国です。
人口世界第一位、国土面積世界第三位の巨大な国。
五十六の民族が暮らし、三十四の直轄市・省・自治区
に分かれる国。 到底語りつくすことのできない国です 》
この「老板娘」( 女将さん) は、日本女性で、仕事で実地に中国を見聞、生活体験の結果、上述のような結論に至ったが、このような体験を持つ日本人は極めて数少ない。大抵の日本人は、ただ、遥か遠くに中国を望み、単なる想像で物事を語る人が多い。
「中華思想」の四字で、「到底語りつくすことのできない国」を表現する、明らかに、「虚像」でしかない。 つまり、島国の群盲が、巨象である中国の尻尾を撫でて、中国の全体像について論じるが如く、実体とは程遠い内容になってしまう。
では、「実像」とはどのようなものであろうか、以下に二つばかり、これも、「老板娘」( 女将さん) 同様に、実地に中国を知る「知性人」の話を、参考までに紹介したい。
その一、『芳沢謙吉の外交六十年』
戦前から戦中にかけて、外交官として活躍した故芳沢謙吉は、『外交六十年』という回顧録を残している。芳沢氏は、外交歴六十年の内、通算十三年二カ月に亙る中国駐在の経歴の持主で、外務本省勤務八年間の主な担当は中国問題であった。つまり、外交六十年のうち、三分の一に当たる二十年の中国体験を持つ氏は、その著書の中で、「だから、私は中国については多少の知識や意見を持っている積りである」と前置きした上で、五ページほど「私の中国及び中国人観」という一節を書いていた。
二十年もの長い間に亙り、中国及びその人民と密着した体験を持つ芳沢氏にして、ようやく「中国について多少の知識を持っている」と云う。それに較べると、中国及びその人民と全く接したことのない、あるいは、一寸した付き合いの経験しか持っていない日本人が、安易に、そして、全てを知り尽くしているような口振りで「中華思想」に就いて語るのは、余りにも無頓着、且つ幼稚であると云はざるを得ない。
「支那事変」から終戦に至る八年の間、日本の軍隊は満洲を始め中国大陸の大半を攻略して占領していたと、当時一般日本人に思はれ、狂喜していたが、芳沢は同書の中で、「我が軍の占領した地点は僅かに点と線だけであった」と指摘、世間一般の思惑と実体の間にかなりの隔たりがあることを明らかにした。
この点と線の指摘は実に興味深い。狭い日本列島は、広い大陸と違い、広大な「面」というのがない、「点と線」ばかりである。だからタテの社会構造で国を纏めることが出来る。大陸の特徴は広い面であるから、点と線だけ手中に納めても、そこを支配することは出来ない。芳沢は早くから日本の敗戦を予想していた筈である。
氏はこうも云う。
「中国民族は、我々日本人に比し余程呑気であり鷹揚である。一旦の敗北などは余り気にしない。何十年かの後を考えている。此の点はアングロサクソン民族も似ている」
また、氏の著書全体を通じて、「中華思想」という文句は一度も出ていない。そのことは何を意味するのかというと、日本人の中で、中国を知らない人ほど「中華思想」を知っているふりして論じるということであろう。
中華料理に詳しくない人が、たまたま 独特の辛い四川料理を食べたとする、それが中華料理の全てで、「中華料理っていうのは、すごく辛いものだ」と思い込み、また。そのように他人にも吹聴するのに、非常に似ている。 実際は、四川料理は、数多くの中華料理の内の一種でしかなく、中華料理を代表する事はできない。
その二 『茂木健一郎の東方の島の迷い』
脳科学者 茂木健一郎が「風と旅人」という雑誌に書いた連載記事の第五回に、「東方の島の迷い」という題で、北京旅行の体験記を掲載し、その中で、「中華思想」に触れている。
その内容を要約、下記に紹介する;
《 初めて北京に行った。中国本土に行くこと自体が、初めてだった。出発する前に、なぜか自分でも判らないくらい、徐々に緊張が高まってきた。旅慣れているつもりなのに、どうしてそれほど心が緊張するのか。北京に4日間滞在している間、ずっとそのことを考えていた。、、、、
一衣帯水とは言いながら、日本人から見て隣国中国は様々な意味で異質である。そのことを、私は、異民族の「元」が中国を征服して「大都」を設営して以来の首都である北京の街を歩きながら、改めて実感せざるを得なかった。、、、、
その都市の空間の中に包まれて、自らがその都市の広がりの中に中心化されて初めて腑に落ちることがある。北京を歩き、もはや資本主義国としか言いようのない、何でもありの急速な経済発展の有様をつぶさに見て、天安門広場に集まっている、おそらくは中国各地から来たのであろうお上りさんの、地面に転がったリンゴのような色つやの顔を眺めている時、私は、始めて中華思想というものを一人称で体感し得たように思う。
もちろん、何日か北京に滞在しただけで、気分は中国人になってしまった、という意味ではない。中国人が中華思想を持つに至る、その身体的必然性のようなものが判ったような気がしたのである。 、、、、後略 》》
脳科学者が、始めて北京を訪れ、何日か滞在して、「 始めて中華思想というものを一人称で体感し得たように思う」、そして、「 中国人が中華思想を持つに至る、その身体的必然性のようなものが判ったような気がしたのである。」と言う。
数千年の歳月をかけて成り立った中国人の思想が、狭い島国で長期鎖国していた人達に、そう簡単に、分かるものでは無い。吉沢,茂木 二人の知識人の言う事からも良く分る。
ーー 青森ねぶたの由来、意味 ーー
青森ねぶた祭の「灯籠」は、他の祭りに見られない、怪物像が主体になっている。その由来が知りたいと思って、ウイキぺデイアを見てみた。
先ず、記事の初めに、青森ねぶた祭は、七夕祭りの灯籠流しの変形であろうといわれていますが、その起源は定かではありません、という断わりから始まっている。驚きである。
次に、ねぶたの起源には諸説ある,と言う。 一説には坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際に敵をおびき出すために作った大きな灯籠が由来になっているという説もあったが、史実では田村麻呂は青森までは行っていないとされ伝承の一つと考えられている。有力な説として禊祓に由来するという説がある。また、中国から伝来した七夕行事と、東北地方などで古来から行われていた眠り流し、精霊送り、虫送りなどの行事が一体化した行事という説もある。
更に、「ねぶた」「ねぷた」の語源には諸説あるが、「眠(ねぶ)たし」、「合歓木(ねむのき、ねぶたのき、ねぶた)」「七夕(たなばた)」「荷札(にふだ)」などに由来する説がある、と言う 。
ウイキに、教えて貰おうと、思ったけれども、事「ねぶた」については、はっきりした事は、何も知らない、という事を教えて貰った、だけに終わった 。
中国に無い、中国人も知らない「中華思想」を、列島では、誰もが、良く知っているように、自慢して論じている。 それなのに、奈良時代(710年~794年)に始まった日本の大行事の一つである「ねぶた祭」だが、その起源も語源も、諸説があって、定かでないと、日本の辞書、辞典が言う。信じ難い事である。 本当に、日本人は、「中華思想」を知っているのか、と、甚だ疑問に思う。
坪内逍遙の言う通り、「嗚呼 群盲(グンマフ) 巨象(キョザウ)をさぐらば其尻尾の手触り能く 全象を示すに足るか覚束(おぼつか)無し」と言ったところが、実状であるようだ。
ーー ねぶた祭りの意味、ねぶたの由来
も知らず、どうして、中華思想が分かる ーー
曽て、坪内逍遙曰く、「嗚呼 群盲(グンマフ) 巨象(キョザウ)をさぐらば其尻尾の手触り能く 全象を示すに足るか覚束無し」。
昨今の列島で、流行り言葉となっている「中華思想」は、見た目には、かなり知的な言葉を使っているが、内容は、知的とは程遠い。
「中華」という二字の解釈が、余りにも「単細胞」過ぎる。戦時中、「皇国日本」は「シナ」を「虫けら」のように見下していたのに、一夜明けて、今日は、「世界の中心、文化最高の国」と、一挙に持ち上げる所が、余りにも不自然である。
ウエブで見かけた、「蘇州人を夫に持つ老板娘の趣味のページ」は、次のような書き出しになっていた;
《 中国ってでかすぎます
一言で「こんな国」って言えない国です。
人口世界第一位、国土面積世界第三位の巨大な国。
五十六の民族が暮らし、三十四の直轄市・省・自治区
に分かれる国。 到底語りつくすことのできない国です 》
この「老板娘」( 女将さん) は、日本女性で、仕事で実地に中国を見聞、生活体験の結果、上述のような結論に至ったが、このような体験を持つ日本人は極めて数少ない。大抵の日本人は、ただ、遥か遠くに中国を望み、単なる想像で物事を語る人が多い。
「中華思想」の四字で、「到底語りつくすことのできない国」を表現する、明らかに、「虚像」でしかない。 つまり、島国の群盲が、巨象である中国の尻尾を撫でて、中国の全体像について論じるが如く、実体とは程遠い内容になってしまう。
では、「実像」とはどのようなものであろうか、以下に二つばかり、これも、「老板娘」( 女将さん) 同様に、実地に中国を知る「知性人」の話を、参考までに紹介したい。
その一、『芳沢謙吉の外交六十年』
戦前から戦中にかけて、外交官として活躍した故芳沢謙吉は、『外交六十年』という回顧録を残している。芳沢氏は、外交歴六十年の内、通算十三年二カ月に亙る中国駐在の経歴の持主で、外務本省勤務八年間の主な担当は中国問題であった。つまり、外交六十年のうち、三分の一に当たる二十年の中国体験を持つ氏は、その著書の中で、「だから、私は中国については多少の知識や意見を持っている積りである」と前置きした上で、五ページほど「私の中国及び中国人観」という一節を書いていた。
二十年もの長い間に亙り、中国及びその人民と密着した体験を持つ芳沢氏にして、ようやく「中国について多少の知識を持っている」と云う。それに較べると、中国及びその人民と全く接したことのない、あるいは、一寸した付き合いの経験しか持っていない日本人が、安易に、そして、全てを知り尽くしているような口振りで「中華思想」に就いて語るのは、余りにも無頓着、且つ幼稚であると云はざるを得ない。
「支那事変」から終戦に至る八年の間、日本の軍隊は満洲を始め中国大陸の大半を攻略して占領していたと、当時一般日本人に思はれ、狂喜していたが、芳沢は同書の中で、「我が軍の占領した地点は僅かに点と線だけであった」と指摘、世間一般の思惑と実体の間にかなりの隔たりがあることを明らかにした。
この点と線の指摘は実に興味深い。狭い日本列島は、広い大陸と違い、広大な「面」というのがない、「点と線」ばかりである。だからタテの社会構造で国を纏めることが出来る。大陸の特徴は広い面であるから、点と線だけ手中に納めても、そこを支配することは出来ない。芳沢は早くから日本の敗戦を予想していた筈である。
氏はこうも云う。
「中国民族は、我々日本人に比し余程呑気であり鷹揚である。一旦の敗北などは余り気にしない。何十年かの後を考えている。此の点はアングロサクソン民族も似ている」
また、氏の著書全体を通じて、「中華思想」という文句は一度も出ていない。そのことは何を意味するのかというと、日本人の中で、中国を知らない人ほど「中華思想」を知っているふりして論じるということであろう。
中華料理に詳しくない人が、たまたま 独特の辛い四川料理を食べたとする、それが中華料理の全てで、「中華料理っていうのは、すごく辛いものだ」と思い込み、また。そのように他人にも吹聴するのに、非常に似ている。 実際は、四川料理は、数多くの中華料理の内の一種でしかなく、中華料理を代表する事はできない。
その二 『茂木健一郎の東方の島の迷い』
脳科学者 茂木健一郎が「風と旅人」という雑誌に書いた連載記事の第五回に、「東方の島の迷い」という題で、北京旅行の体験記を掲載し、その中で、「中華思想」に触れている。
その内容を要約、下記に紹介する;
《 初めて北京に行った。中国本土に行くこと自体が、初めてだった。出発する前に、なぜか自分でも判らないくらい、徐々に緊張が高まってきた。旅慣れているつもりなのに、どうしてそれほど心が緊張するのか。北京に4日間滞在している間、ずっとそのことを考えていた。、、、、
一衣帯水とは言いながら、日本人から見て隣国中国は様々な意味で異質である。そのことを、私は、異民族の「元」が中国を征服して「大都」を設営して以来の首都である北京の街を歩きながら、改めて実感せざるを得なかった。、、、、
その都市の空間の中に包まれて、自らがその都市の広がりの中に中心化されて初めて腑に落ちることがある。北京を歩き、もはや資本主義国としか言いようのない、何でもありの急速な経済発展の有様をつぶさに見て、天安門広場に集まっている、おそらくは中国各地から来たのであろうお上りさんの、地面に転がったリンゴのような色つやの顔を眺めている時、私は、始めて中華思想というものを一人称で体感し得たように思う。
もちろん、何日か北京に滞在しただけで、気分は中国人になってしまった、という意味ではない。中国人が中華思想を持つに至る、その身体的必然性のようなものが判ったような気がしたのである。 、、、、後略 》》
脳科学者が、始めて北京を訪れ、何日か滞在して、「 始めて中華思想というものを一人称で体感し得たように思う」、そして、「 中国人が中華思想を持つに至る、その身体的必然性のようなものが判ったような気がしたのである。」と言う。
数千年の歳月をかけて成り立った中国人の思想が、狭い島国で長期鎖国していた人達に、そう簡単に、分かるものでは無い。吉沢,茂木 二人の知識人の言う事からも良く分る。
ーー 青森ねぶたの由来、意味 ーー
青森ねぶた祭の「灯籠」は、他の祭りに見られない、怪物像が主体になっている。その由来が知りたいと思って、ウイキぺデイアを見てみた。
先ず、記事の初めに、青森ねぶた祭は、七夕祭りの灯籠流しの変形であろうといわれていますが、その起源は定かではありません、という断わりから始まっている。驚きである。
次に、ねぶたの起源には諸説ある,と言う。 一説には坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際に敵をおびき出すために作った大きな灯籠が由来になっているという説もあったが、史実では田村麻呂は青森までは行っていないとされ伝承の一つと考えられている。有力な説として禊祓に由来するという説がある。また、中国から伝来した七夕行事と、東北地方などで古来から行われていた眠り流し、精霊送り、虫送りなどの行事が一体化した行事という説もある。
更に、「ねぶた」「ねぷた」の語源には諸説あるが、「眠(ねぶ)たし」、「合歓木(ねむのき、ねぶたのき、ねぶた)」「七夕(たなばた)」「荷札(にふだ)」などに由来する説がある、と言う 。
ウイキに、教えて貰おうと、思ったけれども、事「ねぶた」については、はっきりした事は、何も知らない、という事を教えて貰った、だけに終わった 。
中国に無い、中国人も知らない「中華思想」を、列島では、誰もが、良く知っているように、自慢して論じている。 それなのに、奈良時代(710年~794年)に始まった日本の大行事の一つである「ねぶた祭」だが、その起源も語源も、諸説があって、定かでないと、日本の辞書、辞典が言う。信じ難い事である。 本当に、日本人は、「中華思想」を知っているのか、と、甚だ疑問に思う。
坪内逍遙の言う通り、「嗚呼 群盲(グンマフ) 巨象(キョザウ)をさぐらば其尻尾の手触り能く 全象を示すに足るか覚束(おぼつか)無し」と言ったところが、実状であるようだ。