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 李白の白髪  仁目子


白髪三千丈
愁いに縁りて  箇の似く 長(ふえ)た
知らず 明鏡の裡(うち)
何処より 秋霜を得たるか

【  wikipedia 「白髪三千丈」  最初の仁目記事 】 (一)  仁目子

2022-04-29 04:46:38 | Weblog
ーー  かぼちゃの投稿で、 李白が杜甫になっていた  ーー
ーー  出だしから 舵取りが怪しい 船頭  ーー  


ウエブに、「白髪三千丈 wikipedia」という項目が出ている。Wikipedia は衆知のように、「フリー百科」だから 、物事「本来の姿」を正しく伝える為に存在している文献である。

そのWikipedia という自由百科に、世に名高い「白髪三千丈」という詩句の記事が初めて載ったのは、十九年前の2003年9月19日であった。

「左利きのかぼちゃ」という「利用者」の投稿で、記事の内容は、僅か三行余りで、以下のようになっていた;

《《 白髪三千丈は、唐代の詩聖杜甫の「秋浦歌」の冒頭の一句
   である。日本では中国人の誇張癖を象徴するものとしてし
   ばしば引用されるが、中国ではそういう使い方はしないよ
   うだ 》》

かぼちゃと名乗るだけあって、詩仙李白が詩聖杜甫になり、「秋浦歌」第十五首の冒頭一句を、「秋浦歌」の冒頭の一句と書いている。
この利用者は、Wiki に三行の記事を残し、三か月後の、2003 年 12月7日に《何と幸せか、我をウィキペディアンと言える者は(嘘) 》という一言を残して wikipedia から去った。

これが「白髪三千丈 woikipedia 」最初の船頭である。この船頭は、李白を杜甫に、綺麗に間違えている。だから、この船は出だしから舵取りが怪しいのである。

2003年11月30日に船頭が「Makoto」に代わり、記事は次のように、二行に縮小された;

《《 白髪三千丈は、唐代の詩聖杜甫の五言絶句「秋浦歌」の
  冒頭句。誇張が甚だしいときの比喩で使う 》》

「Makoto」も、相変わらず、李白を杜甫に間違えている。この船頭は 「wiki は国語辞典ではありません」 という「迷文句」を残して、僅か二日後の同年12月1日に wiki を去った。

同日(2003年11月30日) 第一船頭「かぼちゃ」に依って、記事は又、
 
《《 白髪三千丈は、唐代の詩聖杜甫の「秋浦歌」の冒頭の一
   句である。日本では中国人の誇張癖を象徴するものとし
   てしばしば引用されるが、中国ではそういう使い方はし
    ないようだ 》》
に差し戻された。

2004年2月10日に至り、第三船頭「らりた」に依り、やっと、杜甫を李白に訂正し、船は少し前に、動き出し始めた;

《《 白髪三千丈は、唐代の酒仙李白の「秋浦歌」の冒頭の一句
   である。日本では中国人の誇張癖を象徴するものとしてし
   ばしば引用されるが、中国ではそういう使い方はしないよ
   うだ 》》

2004年3月17日、第四船頭「corwin 」により、更に、若干改訂される;

《《 白髪三千丈(はくはつさんぜんじょう)は、唐代の酒仙李
   白の「秋浦歌」の冒頭の一句。「白髪が三千丈の長さに伸
   びるくらい長いあいだ」という意味で、長期間をあらわす
   表現のひとつである。日本では中国人の誇張癖を象徴する
   ものとしてしばしば引用されるが、中国ではそういう使い
   方はしないようだ 》》

このように、半年の時間と四人の利用者交代を経て、やっと、杜甫は李白に修正されたが、「秋浦歌」の冒頭の一句は相変わらずそのままで残った。
その後、2004年5月22日から 30日にかけて、第五船頭「4、46、195、225」によって、従来の記事に加え、内容は、下記のように大きく新規改訂編集された;


ーー  以下、新規改訂記事  ーー

【  白髪三千丈 」の 真意  】

ーー   箇(か)くの似(ごと)く長(ふえ)たり⋯ ーー

《《  白髪三千丈(はくはつさんぜんじょう)は、唐代の李白の五言絶句『秋浦歌』第十五首の冒頭の一句。
この句は、日本で、「白髪が三千丈の長さに伸びた」という意味で解釈されている場合が多い。その為に、日本では中国人の誇張癖を象徴するものとしてしばしば引用されるが、中国ではそういう使い方はしない 。

(1)  「原義と日本語の意味のズレ」

この文句は日本でよく誇張の代名詞として使われているが、、、、 何故原産地の中国で誇張の表現として使われていない文句が、日本で誇張の表現として使われるようになったのか? その原因は、解釈の違いにある。つまり、日本は字面だけを捉え、真意を解していないためである。白髪、つまりシラガは、増えるものであって、長く伸びるとは言わない。伸びるのは髪の毛であり、白髪はそれの変色した部分を指して言う。だから、白くなった髪の毛が多いか少ないかが問題になる。

李白の「秋浦歌」は計17首よりなっている。白髪三千丈は、そのうちの第十五首の冒頭の一句である。 白髪三千丈、 縁愁似箇長、 不知明鏡裏、 何処得秋霜  が第十五首の全句で、最終句が 「何処より秋霜を得たるか」となっている事からも分かるように、頭上の白い部分が一面霜降りの状態になっている。つまり、李白はシラガが増えた、或いは、多くなったと言っている。

中国の詩集「千家詩」の現代語注釈をみると、

《《 白髪三千丈は、頭上の白髪がふえた、一本一本継ぎ足すと延べ三千丈になるだろうとの作者の嘆声。》》  になっており、長く伸びたとは言っていない。

又、三千丈という表現は、仏法の 「三千大千世界」から来たもので、元は、広大無辺の仏法世界を意味していた概念を、文人達が取り入れて、「極めて多い」、「極めて広い」などという意味で包括的な形容に使うようになったものであって、算術の「三千」ではない。
従い、白髪が長く伸びた、三千丈の長さに伸びた、という日本人による解釈は間違った字面の解釈であり、本来の詩句、李白の言わんとする真意を解していない。

従い、この文句でもって、中国人の誇張癖を象徴するものとして引用するのは、見当はずれであるのみならず、日本人の漢文素養が疑問視されるもとになる。

(2〉   「箇くの似く長(ふえ)たり」

『秋浦歌』第十五首は、白髪三千丈に始まり、続く第二句が「縁愁似箇長」になっており、その日本語訳は「愁いに縁(よ)って 箇(かく)の似(ごと)く長(なが)し」となっている。 だから、白髪は長く伸びた という解釈に結び付く。

ここで、「長」という漢字が内包する意味を検証してみる。 『広辞苑』に七通りの意味が載っている。「ながいこと」の意味は、その六番目に出ているが、その前に、「かしら」「としうえ」「最もとしうえ」「そだつこと」「すぐれること」などが挙げられている。 旺文社『漢和辞典』は、上記の外に、「いつまでも」「おおきい」「あまる」「おおい」「はじめ」などが挙げられている。 試しに、中国の『辞海』も見てみる。そこには、次のような意味が新たに見られる。「速い」「久しい」「引く」「達する」「養う」「進む」「多い」「余り」など。

以上でほぼ分かるのは、「長」という字は、必ずしも「長い」「長くなる」という意味に限定されていない ということである 。 俗語の「無用の長物」、この「長物」は辞書により、「長すぎて使えない物」「全く役に立たない物」「余分な物」「ぜいたくな物」などに分かれて解釈されているが、そのどれが正しいかということより、その場その場の使い様で、このような異なる解釈が生じた、と見る方が妥当ではないかと思う。 「長」という字に、「多い」という意味も内包されていることに、大抵の人は意外に思うかも知れない。

すると、「愁いに縁って箇の似く長し」という読み方を、「愁いに縁って箇の似く長(ふえ)たり」に読み替えても、それは間違いであるという根拠は何処にもない。 あるとすれば、李白に質すだけであるが、それが出来ないなら、李白の意を汲んで読むしかない。

この句の後に続く、不知明鏡裏、何処得秋霜、の二句を見る。「知らず明鏡の裏(うち)、 何れの処より秋霜を得たるかを」、李白は、ある日、鏡に映る頭上の秋霜に愕然とした。 何処から降って来たのだろう、この秋霜は?  と言う。 もともと、髪の毛が白く、それが伸びたのであれば、李白は気付かない筈がない。 黒い髪の毛が、灰色に、そして白い色に徐々に変色したから、見落としていただけのこと。 ある日、突然鏡に映る頭上の秋霜に気が付く、誰しも、「シラガが増えたなあ!」と溜め息を付く。「シラガが伸びたなあ!」とは言うまい。

(3)   「シラガの算術」

漢文は、文字自体、字画が多くて複雑であるだけに、そのような文字によって表現される意味も往々にして奥が深く、分かり難いところがある。俗に云う、「意味深長」である。チンプンカンプンという日本語の元が「珍文漢文」であることからもよく分かる。
「白髪三千丈」は漢文だから難解である。それを算術に切り換えて見たらば、存外分かり易くなるのかも知れない。試みに、「白髪三千丈」を漢文と仏法から切り離して、算術で計算してみる。
一丈が十尺で、一尺が 33.3 センチだから、一丈は 303 センチ、つまり 3.03 米になり、三千丈は、9,090 米の勘定になる。一万米 足らずである。人間の髪の毛は、一般に約十万本あると言われている。仮に、一本当たりの長さを 10 ー15 センチと見積もると、延べ長さは約一万から一万五千米に達する。三千丈を遥かに上回る。
だから、三千丈を単なる数詞として、算術で計算してみても、かなり保守的な数字であるということが分かる。李白は、誇張どころか、大変に保守的な表現を使っている。勿論、李白が算術を頭の中に入れて詩を詠う訳がないが、詩句を数詞として読む人には、このような解説が必要かも知れないので、敢えて、ここに付け加えたもの。

(4〉  類語

「佳麗三千人」

李白は、西暦762年に亡くなったが、奇しくも、同じ年に唐玄宗も亡くなっている。その43年後、詩人白居易(白楽天)が、玄宗と楊貴妃の悲恋物語「長恨歌」を作る。その中で、白居易は、「後宮佳麗三千人、三千寵愛在一身」と詠い、後世の人々は、それにより、玄宗の後宮に美女が三千人居ることを初めて知った。

果たして、その通りだろうか?答えは「否」であろう。

先ず、「詩歌」というのは、「歴史書」ではないという事。 次に、良識で判断してみること。 楊貴妃が皇帝に望まれ、始めて驪山の華清池に召された時、玄宗は年が56、貴妃は22で、正式に妃に冊立された時、玄宗は61、貴妃は27であった。

それから、二人は日夜一緒に暮らすわけだが、精神的な慰安は扨置き、肉体的な溺愛は、心欲すれど、体力意の如く成らず、と云った所が実状であった筈。

「三千寵愛在一身」というのは、玄宗の全ての愛が貴妃一人を対象にしていた事を物語っている訳だが、61の年寄り、しかも、今から1300年昔の61だから、昨今の80歳位の爺さんに相当する。如何に妖艶であろうと、よれよれ爺さんに、美女は一人で充分であろう。だから、白居易は「三千寵愛在一身」とはっきり詠った。

そこから、もう一つ考えてみるべき事がある。ならば、「後宮佳麗三千人」は何の為、誰の為にあるのかという事である。

答えは、常識で判断出来る。つまり、後宮に佳麗は居たが、三千人は居なかったという事である。

玄宗は、そんなに覇気のある皇帝でない、況して、貴妃一人だけを終始溺愛した。
貴妃が非業の死を遂げたあと、玄宗皇帝の悲しみは並み並みならぬものであった。「長恨歌」の中で、白楽天は玄宗の深い悲しみを、 天長地久 有時尽、 此恨綿綿 無絶期   と形容している。つまり、天長地久と言えど尽きる時がある、しかし、此の恨みは綿綿として絶える期(とき)は無い、というのである。

玄宗はかなり純情だったようで、一人の美女にぞっこん惚れ込み、そして、彼女が亡くなったあとは、深い悲しみに沈み、夜な夜な、枕を抱いて、独衾(ひとりね)していたそうで、そのような純情皇帝の後宮に、三千人の美女を置いて遊ばせる必要は毛頭ない。察するに、言わんとするのは、後宮に美女が多数居たということであろう。百人居たかどうかも疑わしい、勿論、三千人など居るわけがない。良識で判断すれば、こうなる筈。だから、詩歌の一句を以って史実に当てるのは、何ら意味を成さないと言える。

「百代、千代、万代」

上記の三つの異なる年代、或いは年月の標記がある。この中の一つはよく女性の名前に使はれる。例えば、木暮三千代、新珠三千代、、などなど。ところが、三百代、三万代、という女性の名前は見たことがない。辞書で見ると、百代、千代、万代、の意味は各々に、長い年月、非常に長い年月、限りなく長く続く世、になっており、百年、千年、万年とはっきり区切られた意味で出ていない。つまり、これらの数詞は、「長い年月」という包括的な意味を表わす形容詞であるということが分かる。
何故、「三千代」に限って女性名に使はれるのか?恐らく、「三千大千世界」に始まる、仏教信仰の縁起かつぎから来たものであろうと思はれる。これは何も、女性名に限ったことではない。幕末の勤王志士 高杉晋作が詠ったとされる有名な都々逸に、 三千世界の鴉を殺して、主と朝寝がしてみたい  というのがあるが、これも「三千」であって、百や万の世界ではない。高杉はただ「天下の鴉を殺したい」と言ったまでのことである。

これが、この「三千」という仏法概念の日本に於ける使い方である。同じこの「三千」という数詞が、他国人の口頭や、文書に表れると、「あれは大袈裟だ」と多くの日本人は思う。

「三千代」は大袈裟でないのに、何故、「三千丈」なら大袈裟になるのか。髪の毛は三千丈に伸びる訳がない、同じように、人の命も三千代活き長らえる訳がない。日本に、「論語読みの論語知らず」という言葉がある。字面の上で理解するばかりで、真意がつかめないことのたとえであるが、李白の詩句「白髪三千丈」を誇張な表現だという人は、恐らく、「漢文読みの漢文知らず」の中に入る人達であろう。

(5〉   類似語

「黄塵万丈」

真夏の田舎道で、疾走中の車が捲き起こす砂塵に辟易して、「これは 黄塵万丈だね」と形容する事がる。東京堂の「故事ことわざ辞典」は、白髪三千丈を、白毛が非常に伸びたと解釈し、続いて、「この句は黄塵万丈などと共に誇張の例に良く引かれる語である」という注釈を付け加えていた。

黄塵万丈、この言葉は、中国大陸のゴビ沙漠や黄土高原が出身地で、強風の季節になると黄塵万丈の自然現象が日常茶飯事のように生じる。実際に現地に居なくても、シルクロード探検の記録映画を見れば、十分に実感を味わうことが出来る。

黄土平原から吹き上がる黄塵は遥か北京の空を覆うのみならず、時おり、海を越え、日本に迄達することがある。二○○一年の春、福岡空港がこの黄砂の為にしばしば閉鎖された。この黄砂というのが「黄塵」である。北京はおろか、福岡迄、風に乗って到着する黄塵だから、その飛行距離は「万丈」程度の短距離ではない。因みに、万丈は約二万八千米、つまり、二十八キロ足らずの距離でしかない。

日本は島国だから、黄土高原も沙漠もない。従い黄塵もない。あるのは砂利道と、砂埃だけである。そのような実態であるにも拘らず、黄土高原や砂漠の為にある形容詞をそのまま輸入して砂埃の形容に当てて使うから、全くちぐはぐになってしまう。つまり、そのような誤った使い方をすると表現が大袈裟になり、そして「誇張」になってしまうのは避けられない。黄塵万丈、言葉そのものは、大陸風物の現実であり、何らの誇張はない。日本に於ける、この言葉の誤用が「誇張」なのである。「故事ことわざ辞典」が、「白髪三千丈は黄塵万丈などと共に誇張の例に良く引かれる語である」という。果たして、上述の事実を踏まえた上での注釈であるかどうか、気になるところである。

(6)  「三千の落ち穂拾い」

「子規の俳句三千」

「 三千の俳句を閲 ( けみ ) し 柿二つ」

これは、子規が詠った俳句である。 この句をくだけた現代語に直すと、「三千の選句を終えて、好物の柿を二つ食べ る」、になって読み易くなる。

俳人 正岡子規は身体があまり丈夫でなかった。 三十五歳の若さで、肺の患いで 亡くなった事からも、病弱に生まれたということが分かる。そのような弱い身体 で 「三千の選句」がこなせるのかと思う。 一寸 心算してみる。仮りに、一句に一分の時間を掛けたとする、三千句を閲 ( けみ ) し終えるのに、優に五十時間は掛かる。五十時間働いて、やっとこさ柿二 つを食べる。生身の人間の身体が持つ訳がない。況して、病弱の子規。 思うに、子規は三千もの厖大な数の句を閲したわけではなく、「沢山の選句を終 え、一段落して、柿を二つ食べた」、ということであろう。あろうと言うより、 正にその通りに違いないのである。 その沢山というのは、二十句か、五十句か、 はたまた百句か、それはもはや定かではない。が何れにしても三千句ではない。

それとも、いや、子規は間違いなく、三千の選句を終えて、始めて柿を二つ食べたのだ、と言い張る御仁が居るのだろうか。 》》


改定編集は、以上のように、大変な改訂工事であり、船は大きく動いた。この大改訂工事を行なった第五船頭「4、46、195、225」は、その後「仁目」という利用者名に改めた。(即ち、本文の筆者である)。

2004年5月30日から31日にかけて、この改訂記事は、管理者「Sat.K 」によって、体裁を整える為、下記のような「目次」が付けられた;

《  目次  》
 
   ( 1)、    原義と日本語の意味のズレについて
   (2)、    シラガの算術
   (3 )     類語:
   (3、1 )   「佳麗三千人」
    (3、2 )   百代、千代、万代
   (3、3 )   黄塵万丈 

内容が飛躍的に充実し、体裁も整ったこの記事は、同日( 5月31日) 、同じく管理者である「Mishika 」により、次のように推薦された。

《《  (ノート) 推薦します。百科事典の記事としても注目でき
   るし、また一般の理解の誤解を指摘しつつも、驕慢に流
   れず、品位のある記事のスタイルを保っていることに敬
   意を表したいと思います。
   Mishika 2004年5月31日(UTC) 》》

これによって、2004 年5月31日の時点から、「白髪三千丈 wikipedia」の記事に下記のような「タグ」ガ冒頭に付くようになった。

《《 この記事は秀逸な記事に推薦されています。秀逸な記事
   の選考にて、批評・投票を受け付けています 》》

振り返ってみると、2003 年9月に始まった僅か三行の記事が、八か月を経て、六十行以上の記事に成り、秀逸な記事に推薦されるという事は、それなりに内容が充実して来たという事を意味するのに外ならない。

この間、この航海の舵取りに携わった船頭は、利用者、管理者併せて、優に七、八人に上る。多数の協力有っての成果というものであろう。

、、、、  つづく  、、、

【 島国人間 の 好き嫌い 】  (下)   仁目子 

2022-04-27 08:40:41 | Weblog
ーー  孔子の教え、 いま何処 ?  ーー

「孔子家語」の伝えによると、子は、次のような教えを残していたという。

《《 子曰く、良薬は口に苦けれども、病に利あり。忠言は耳に逆えども、行いに利あり。湯・武は諤諤を以て昌え、桀・紂は唯唯を以て亡びたり 》》

孔子のこの家語は、「良薬、口に苦し、忠言、耳に難し」で、日本にそのまま伝わっているが、それを「和風」に書き換え、和風類語として : 「苦言は薬なり、甘言は病なり」とも言う。

大平洋戦争前、日本帝国の拡張を封じ込む為の、「A. B. C. D. 包囲陣」というのがあった。 A = America , B = British , C = China , D = Dutch ( Hoilland ) によるこの封じ込みは、角度を換えて見た場合、親ごが勝ち気でわんぱくなきかん坊の暴走を食い止めようとする姿勢に似ている所がある、と言う事も出来なくはない。

日本という国の、文化文明、近代化の基礎は、殆んどが「舶来の力」に助けられ、徐々に発展を遂げたもので、この歴史の過程は否定のしようがないものである。
米国は「日本の開国」、英国は「皇室の近代化」「海軍の模型」、唐土は「日本文字文化の源泉」、オランダは「蘭医学の開祖」として、各々に、日本の歴史に計り知れない貢献をした、恩の深い国々である。だから、日本は一時期自分を「中国」「小中華」と称した事もあり、維新後は、「脱亜入欧」を夢見ていた事からも、これらの国々に対し、少なからず「畏敬」と「恩義」を感じていた事が分かる。
所が、皮肉な事に、明治開化後、一人前に育ったかのように見えた「日本」は、手の平を返すように、これらの国々に「恩を仇で返す」ような行動を取り始めた。

A. B. C. D.が万事につけ正しかったとは言はない、又、日本が万事につけ間違っていたとも言はない。だが、仮令間違いがあっても親は親であり、恩人は恩人であり、極めて「恩義」を重んじるサムライの国であれば、仮令、恩返しが出来なくても、少なくとも、「仇で返す」事だけはするべき事ではない、そうではなかろうか。
A. B. C. D.包囲陣を突破して狂喜し、日夜「提灯行列」に浮かれた「帝国日本」は結局崩潰してしまった。私も小さい頃「提灯行列」に浮かれた、貴重な体験をした。

「帝国日本」の崩潰に際し、列島一億の民は「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」よう、天皇に求められた。嘗ての恩人達 ( ABCD ) が, 「日本よ暴れるのは止めさない」という苦言を、日本が聞き入れていたなら、「帝国日本」を潰さずに済み、列島の民草も「耐え難き耐え、忍び難きを忍ぶ」苦難に遇わなくて済んだ筈である。
その前に國際聯盟の脱退というのがあった。

1933 年2月、國際連盟で、満州における中国の主権を認め、日本の占領を不当とする決議案が、賛成42の圧倒的多数で可決された。この決議に反対票を投じたのは日本だけだった。
42票対一票の結果にも拘らず、日本は国聯から脱退した。つまり、世界を「敵」に回した事になる。それは、ナチスとの同盟があるという「恃 ( たの ) み」があったであろう。その立て役者だった松岡洋右は帰国後、列島で「国民的英雄」に祭り上げられた。しかし、後年の松岡は、ナチスとの同盟を推進したのは「一生の不覚」だったと悔やんでいたと伝えられている。
それから、十年も経たず、日本は全世界に「戦」を挑( いど) んだ。「勇ましい」と言えば聞こえは良いけれども、実際は、「短気」と「意地」が合わさって「激情化」した揚げ句の、血気に逸( はや) る無謀な「戦」であった、という事を、戦後日本の識者が殆んど例外なく指摘している通りである。

それは、簡単に詰めて言うと、「好き、嫌い」の下僕になった島国人間の、感情の動きが如何に激しいかを物語っているのみならず、「甘言は喜ぶが、苦言は極端に怒る」という心情の一方的な偏( かたより) も同時に表わしている。その所に、外国人との付合いを好まない日本人の「弱味」というものを感じとる事が出来るような気がする。

今の日本は、遠い国米国に一辺倒のように見え、そして、近隣諸国とはさ程仲が良くないようで。だから、嫌韓、嫌中、親日、反日、などのような「剣呑」「殺伐」な用語が紙面に溢れている。
一寸、目を通して見ると、「嫌」「反」という字を、「悪」という字と結び付け、「親」という字は「善」と結び付けられて使われている場合が多いようで、これはとんでもない事だと思う。

「不味いから、嫌い」が嫌いであれば、「食わず嫌い」も嫌いになるから、好き嫌いは、善と悪の問題よりも、明らかに、感情的な、感覚的な要素に左右される場合が多い。

具体的に、ウエブに載っている「好き嫌い」を表す記事数字を参考までにここに出してみる ; (検索日 ; 2012 年 9 月 2 日 )

 嫌韓 11、900、000 件   親韓 11、400、000 件
 嫌中 3、230、000 件   親中 12、800、000 件
 嫌米 98、300、000 件   親米 816、000 件
 嫌日 12、300、000 件   親日 4、840、000 件

このような具体的な数字を目の前にして、「あれっ」と意外に思われる人は少なくない筈である。

先ず、米国一辺倒だと思われている「日本」のウエブに出ている「嫌米」記事が98、300、000 件に対し、「親米」記事がその百分の一にも満たない 816、000 件 しかない事。
次に、「嫌韓」と「親韓」の記事が ほぼ 同じ数字である事。
三つ目に、「嫌中」記事の数が 「親中」記事の四分の一しかない事。
最後に、「嫌日」の記事数が、 「親日」記事よりも三倍 多いという事。

上記四つの記事数字の割り振り( 配分) は、かなり予想外のものであり、その間の「矛盾」をどのように説明すればよいのか、私に分からないが、一つだけ言える事は、列島の人びとは、果して、好きと嫌いのけじめ、そして、自分の 「良友」と「悪友」が見分けられるのだろうかという疑問を抱かずにおれないという事である。

前文にて述べた、ザビエルはフロイトよりも、日本人に受けが良いのは、「ザビエル」は、本国に送った手紙で、「日本人はこれまで自分が接触した国民の中で、 一番優れた国民であると言っている」という文句に集約して紹介されている。つまり、最高に日本を褒めたと云う事に日本人は喜び、ザビエルは、ただそれだけで、日本人に好かれているわけだが。実際に、ザビエルが本国に書いた手紙の本文には、「日本は、自分が知っている「未開化国」の中で、潜在力がある」と書き、日本を未開化の国と見なしていた。それを、日本人の翻訳者が、改ざんして、未開化の文句を意識的に削ってしまったものであり、実際は、ザビエルは、「日本人はこれまで自分が接触した国民の中で、 一番優れた国民であると言っている」とは言っていない。 

日本人翻訳者が、嘘の翻訳をしたおかげで、日本人はすっかりザビエルが好きになったわけで、「嘘でも嬉しい」という目出度さに、日本人は騙されていたわけである。

マッカーサの「日本十二歳」は、愚かな太平洋戦争を起こした、元帥の、日本に対する「苦言」であり、口に苦いけれども、良薬だから、感謝をすべきところ、逆に、日本人はマッカーサーを憎んだ。

日本人は、古より孔子に学び、その家語の、「良薬、口に苦し、忠言、耳に難し」を、日本にそのまま伝えて、「和風」に書き換え、「苦言は薬なり、甘言は病なり」とも言っている。 どうして、マッカーサーの苦言を薬として受け止めないのか、大変理解に苦しむ。

要するに、島国人間の「根性」は、是非の見極めよりも、単なる感情的な好き嫌いを優先させる、という特殊性格を有するので、物事の是と非を、感情の赴くままに、任せてしまう為、大変愚かな「対米戦争」に敢えて突入した、としか思えない。 そして、神社に祀って然るべきマッカーサー元帥を、憎むという、常理では考え難い事をするのだろう。




【 島国人間 の 好き嫌い 】  (上)   仁目子 

2022-04-27 08:31:21 | Weblog
    ーー 感情 や 感覚 の 下僕になり ーー
    ーー 甘言を好み、 苦言を憎む  ーー

先ず、一寸変わったウエブ記事の数字を、下記に出してみる;

一般記事 :  フランシスコ ザビエル  379、000 件
       ルイス フロイス     163、000 件
特定記事 :  「 ザビエル と 日本」   230、000 件
       「フロイス と 日本」   135、000 件

数字が示しているように、日本人は、フロイスよりもザビエルに関心を持ち、好きのように見える。 二人 と 日本の関係経歴を視て見る。

Luis Frois  ポルトガル出身の宣教師。イエズス会士。
永禄6年(1563年)に来日し、以後30年あまりに渡って日本で布教活動に従事。
信長をはじめとする権力者の知遇を得、また、日本滞在中の報告書簡は百数十通にものぼる。
後に日本における布教の記録を著書「日本史(Historia de Iapan)」にまとめた。
慶長2年(1597年)、長崎で没。
彼の著書「日本史」は、実際には布教と関係ない当時の習俗や社会や文物に関する情報が多量に含まれており、当時の日本を知る上での貴重な資料となっている

Francisco de Xavier  日本にカトリックをもたらしたイエスズ会の創立メンバーの一人で伝道者 。1541年、東洋での布教を目指して旅立つ。当時の日本は、中国仏教の影響下にあったため、中国での宣教が先と判断し中国へ渡るが、1542年中国の川上島で病気のため帰天する。

一読して分かるように、ザビエルは日本滞在僅か二年余りで、フロイスは三十年。ザビエルは初めて日本に来た宣教師というだけで、フロイスは数多くの仕事をし、且つ「日本史」という貴重な史料まで残している。

それでいて、列島の人びとは、なぜ、フロイスよりもザビエルにずっと多くの関心を持っているのか ? 多くの関心も持つのは、言葉を換えて 「好きだから」と言うことも出来る。

今一つ、面白い資料を出してみる。日本の近代から現代にかけ、極めて重要な役割を果たした米国人が二人居る。一人はペリー 提督で、いま一人は マッカーサー 元帥である。
昨今の列島で、どちらの方が「関心」を持たれているか、下記のウエブ数字が示している;

一般記事 :   ペリー      8、530、000 件
       マッカーサー   1、710、000 件

特定記事 :   「ペリー と 日本」  9、150、000 件
       「マッカーサー と 日本」  2、080、000 件

ペリーと マッカーサー 、 二人の日本との繋がりはマッカーサーの方が ずっと多くの実績を残して、国会で「マッカーサー神社」を建てる事まで決議したが、帰国後の「日本は十二歳」の一言で、 マッカーサー株は一挙に大暴落したのは、衆知の通りで、所謂、単なる「感情的」な問題に属する。

ザビエルと フロイス も似たようなもので、フロイスは日本について、百数十通に及ぶ書簡で、善しも悪しも、併せて忌憚のない見方を言い表しているが、ザビエルの方は、僅かに五通やそこらの書簡で、日本について、良い報告を本国にしている、例えば、「ザビエル」に関する記事を見ると、殆んど例外なく、「日本人はこれまで自分が接触した国民の中で、 一番優れた国民であると言っている」という文句に集約して紹介されている。それで、列島に於けるザビエルの受けが、遥かにフロイスよりも良いようになった。

そうであるか否か、それは日本人が良く知っている筈であり、もし、その通りに相違ないのであれば、これ又、「感情と感覚」の問題で、善し悪し以前の、好き嫌いになる。


列島の書籍、雑誌を読み、又は、ウエブと対面して、常々、意外に思うのは、特定の外国、或いは、外国人の日本に対する「一挙」「一動」「一言」を取り上げ、たちどころに「嫌日」「親日」「反日」と簡単に決め付け、大きな帽子を被(かぶ)せるという事である。
誰しも、ある特定の国、或いは、国民に対し、好きか嫌いか、ただ一つだけの感情を持つのは稀である。大抵は、個別の物事に分かれて、幾つかの複雑な感情を分かち持つというのが実状である筈。

簡単に一つの例挙げてみる。「ロシヤ人」に触れると、一般の日本人は嫌な顔をするが、バレー「白鳥の湖」、「胡桃割り人形」のチャイコウスキー、『罪と罰』のドストエフスキー、『戦争と平和』のトルストイの愛好者は、日本に極めて多く、わけても、テニスの女王シャラボアーに対する列島マスコミの傾倒振りは異常とも言える。つまり、「ロシア善し悪し」は、「嫌」の一言で片付けられないのである。

一度、ロスのゴルフ場で三人の日本人と一緒のグループになった。内一人はゴルフよりも、専ら自分のアパートは百万ドルの値打ちがある事をしきりに自慢し、私がどの様な家に住み、何軒のアパートを持っているか、については一言も聞いて来ない。分別盛りの五十年配の人だったが、その内、今度は話を換え、色んな国の人の悪口を言い始めた。それまで、黙って聞いていた私は、さすがに堪り兼ねて、「如何なる国にも、良い人が居れば、悪い人も居る、日本だってそうだよ」と軽く悟した所、「日本を批判しちゃ駄目だ」と云う。

まだ、第一ホールのテイーショットも打っていないので、私は、「一寸用があるので失礼」と言ってその場を去った。少し離れた所に居た 外の二人は事情が分からないまま、私が突然グループから離れたので面喰らったようである。

後日、同じコースで又三人に再会したが、彼は私を遠く避け、他の二人は、私に近寄って来て、「しばらくです」と挨拶し、しばらく雑談をした。別れるとき、内一人が遠くに立っている「彼」を指さし、「彼が居ない時、また、一緒にやりましょう」と言った。

私は終始何も言わなかったけれども、あの日、何故私が突然彼らのグループから去ったのか、この二人はちゃんと「見当」が付いて居たんだなと、その時初めて分かった。



【 wikipedia  中華思想  最初の投稿者は仁目 】     仁目子

2022-04-24 06:52:56 | Weblog
  ーー  W i k i で遭難した記事を、
      W e b l o g で復活させる  ーー

今から約十七年前の 2004 年9月8日、W i k i に初めて『中華思想』の記事が載った。
投稿者は「仁目」で、仁目記事とも称する。 下記のような内容になっている;

     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【 中 華 思 想 】 

(1)   序

料理に「中華」という名が付いても、和風中華と本場中華の違いがあるように、「中華思想」にも、和風と本場の違いがある。
この実情を再認識した上で、本文に目を通すと、かなり分かり易くなるので、冒頭に記しておくこととした。

(2) 「華夏」の意味 ーー 山 と 河

古い昔、中国の呼称は夏、華、あるいは華夏と云はれていた。これが元になって、後日、「中華」という名称が生まれることになる。
この「華夏」について、日本辞書の解釈は、次のようになっている。

  「華」は、花、はなやか、文化のはなやか、などの意。
  「夏」は、大きい、盛ん、などの意。

従い、「華夏」というのは、中国人が自国を誇っていう語である、としている。
このような解釈は、感覚的な、文化意識というものを重点に置いているもので、本場中国版の解説とかなり違う。ラーメンに例えると、醤油スープと豚骨スープほどに違う。

中国の有名な文人魯迅が師と仰ぐ国学者章柄麟又の名を章太炎ともいう学者は、「中華民国解」という権威著書の中で、次のように「華夏」を解説している。 (原文は漢文、仁目が日本語に訳した)

「 我が国の民族は古く、雍、梁二州 (今の陝西、甘粛及び四川   
  一帯)の地に居住して居た。東南が華陰で、東北が華陽、すな  
  わち華山を以って限界を定め,その国土の名を「華」と曰
  く。その後、人跡の到る所九州に遍 (行人偏)(あまね)き、華
  の名、始めて広がる。華は本来国の名であって、種族の号で
  はなかった。
  「夏」という名は、実は夏水 (河の名前)に因って得たるもの
  なり、雍と梁の際(まじは)りにあり、水に因って族を名付け
  たもので、邦国の号に非らず。漢家の建国は、漢中(地名)に
  受封されたときに始まる。(漢中は)夏水に於いては同地であ
  り、華陽に於いては同州となる故、通称として用いるように
  なった。本名(華夏)ともうまく符合している。従い、華と云
  うのも、夏と云うのも、漢と云うのも、そのうちどの一つの
  名を挙げても、互いに三つの意味を兼ねている。
  漢という名を以って族を表している、と同時に、国家の意味
  にもなる。又、華という名を国に付けたと同時に、種族の意
  味にも使はれているのはそのためである 」


以上の如く、太炎文録の記載説明に依れば、「華夏」の華は華山という山の名前、夏は夏水という河の名前から由来したことになる。つまり、意識的な思想の裏付けのない、単なる地理上の概念から「華夏」の名称が生まれたものになる。

振り返って古代を考えると、人間の定着する所は山や河のある土地に決まっていた。山河という自然の地理条件は、人類を含む動物の生存に欠かすことの出来ない必須条件であるが、思想は生存の必需品ではない。だから、人類の歴史は、地理上の概念が常に思想より遥かに先行し、発達していた。

黄河は、その大河の中流流域にある黄土台地の黄土を侵蝕して流れる水が常に黄色い色をしているので、「黄河」という名が付けられ、その北側の地域が「河北」、南側が「河南」と称されるようになった。中国最長の河は「長江」という。長いからである。昔の人は、このように、呆気ないほどに素朴単純であった。

「国破れて山河あり」という、人口に膾炙している古い文句がある。「国破れて思想あり」という言い方はしていない。華、あるいは夏、という名前は矢張り「山」と「河」から取ったものだと見るのが妥当であろう。

(3)   思想の始まり ーー 春秋と孔老

黄河流域を発祥地とする漢民族、その祖先は今を去る三千数百年の昔の殷王朝時代、すでに文字というものを知っていた、文字の出現が文化の象徴になり得たとしても、思想を内包しているとは限らない。

中国に思想というものが盛んに唱えられ始めたのは、春秋戦国時代に入ってからのことであり、世の乱れを正す新しい思想が数多く唱えられるようになった。孔子、老子などがその先駆者で、その後、戦国時代に入ると、百花が咲き競(きそ)うように、諸氏百家の出現を見るようになった。

孔老の時代は今からほぼ二千三百余年前のことだから、三千数百年前の殷王朝時代に文字を知ってから一千年以上経ったあとに、始めて思想というものが姿を現し、百家争鳴の活況を呈し始めたことになる。従い、「中華思想」というものが存在するのは、厳格に言うと、この時代以降ということになる。


 (4)  「 中 華 」の 由 来

「中華」という名称は、「華夏」という古代名称から転じて来たもので、つまり、華夏の「華」に、「中」を加えで出来た名称。

古代の日本は「中つ国」と称していた。今の日本にも「中国地方」がある。何れも、世界の中心や、日本の中心に位置していない。これによっても分かるように、「中」という漢字の意味は、「中心」以外にも多様な意味がある。上中下、近中遠、両者の中間、などなど。

日本の国語辞書の解説を見てみる。

  1 国の中央の部分。天子の都のある地方。
  2 諸国の中央の意で、自国を誇っていう語。
  3 律令制で、人口・面積などによって諸国を大・上・中・
    下の四等級に分けたうちの第三位の国。安房(あわ)・
    若狭・能登など。
  4 律令制で、都からの距離によって国を遠国(おんごく)・
    中国・近国に分類したうちの一。駿河(するが)・越前・
    出雲(いずも)・備後(びんご)など。

というように、「中国」とは、国の中央部分、あるいは、諸国の中央、という程度の意味であると解説している。

次に、中国の分厚い辞典「辞海」は解説を見てみる。

 「 漢民族の発祥地が黄河流域であることから、国の都も黄河
   の南北に建てていたので、一応そこが国の「中央」になっ
   ていて「中原」や「中国」などと言っていた。今一つは、
   周り四方の蛮夷戎狄などの異民族とは内と外の関係、地域
   の遠近を表わすため「中つ国」と位置付けしたものだ」

という具合いに解説している。

「中国」の意味を、国の中央部分、あるいは、諸国( 四方の異民族)との内外関係、あるいは、地域の遠近を表わすための位置付けである、と解釈している点に於いて、中国の「辞海」と日本の「国語辞典」は共に一脈通じている。

実際に、日本の本州の西にある「中国地方」の位置付けは、山陰と山陽両道一帯の総称になっていて、日本の中央に位置していない。山陰と山陽両道一帯は、北は日本海に面し、南は瀬戸内海に臨んでいる。この間に位置している意味で「中国地方」という名が付いたのではないか。つまり、二つの「海」の中間にあり、四方八方の中心である必要はない、ということも考えられる。

従来、日本の一般の辞書は、「中国」あるいは「中華」を拡大解釈して、「世界のまん中の国」という中国人の自称であるとしているのが結構多い。「まん中の国」、略して「中国」という解釈は成り立つ。問題は、「世界の中心」という部分はどこから割り出して来たのか大いに疑問が残る。もともと、中国という国は、古い昔から、自分で一つの世界を作り上げ、自分以外の別世界にはさ程関心を持っていなかった。


「漢字文化圏」というのがある。漢字の出現から三千余年、儒教思想の出現から二千余年が経った今日、この漢字文化圏という文化地域の範囲を見てみると、アジア、しかもその一隅である極東の日本、韓国、東南亜の台湾、越南辺りから一歩も外に出たことがない。二千年弱のキリスト文明が、今日全世界の隅々にまで浸透している状態と比較すれば、漢字文化圏というのは全く取るに足らない程の辺境文化圏でしかない。このように見て来ると、

  「中国が世界の中心であり、その文化、思想が
   最も価値のあるものであると自負する考え方」

であるとする解釈の根拠が何処にあるか、疑問が生じて来る。

「中華」という名称の生い立ちを考え、その原点である「華夏」の二字が自然の山河の名前から取ったものだとする中国自体の解説がある以上、そのような解説を尊重することから出発すれば、「中華思想」というものを、孔子、老子などの諸氏百家から切り離し、「世界の中心」であるとする、思想らしくない「思想」であると解釈することには至らなかったであろう。

(全文完)

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


このように、W i k i に初出した『中華思想』の「仁目記事」は、僅か二カ月という「短命」に終り、2004 年 11月20日にこの記事は取り消され、次のような記事に変わった。

  「中国が世界の中心であり、その文化、思想が最も価値のあ  
   るものとし、漢民族以外の異民族を、「化外の民」として
   見下す思想のこと。華夷思想とも
   代表的な異民族への蔑称
    東夷(とうい)倭、朝鮮など
    西戎(せいじゅう)
    北(ほくてき) 匈奴、鮮卑、契丹、蒙古など
    南蛮(なんばん)」

このように、百行を越す「仁目記事」が、一夜にして、八行に改竄( かいざん) されてしまった。

「世界の中心である」中華とその思想を、たったの八行で説明出来ると、 W i k i 百科は本気でそのように思っているのだろうか。デタラメも良いとこで、そのあと、この八行の記事は、更に改竄され、日本、朝鮮、宋朝、清朝、中華民国、中華人民共和国の中華思想を包含し、しかも、丁寧に、『中華思想概念図面』を付けた大論文に変身した。

そして、記事の主旨も、八行の書き出し『中国が世界の中心であり』から、更に、『中国皇帝が世界の中心であり、中華王朝の文化と思想が世界で最高の価値を持つとみなされる』に変身している。所が、『中華思想概念図面』は、世界地図ではなしに、天子を中心に、内臣、外臣、朝貢図、化外の地である北てき、東夷、西戎、南蛮に囲まれた中国地図になっている。

これは如何にも可笑しい。『中国皇帝が世界の中心であり』と言うなら、中国の天子を中心に据えた世界地図でなければ、辻褄が合わないし、更に、滑稽なのは、中国の皇帝は、清朝までで、その後、中国に皇帝は居ないのに、論文の内容は、日本、朝鮮、宋朝、清朝、中華民国、中華人民共和国の中華思想をも包含している。つまり、主旨と全く矛盾する、所謂、いい加減な論述になる。

案の定、2012年3月に至り、ウイキは記事に次のような「タグ」を貼り付け、今日に至っている。

 『 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていな
   いか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご
   協力ください 』

このように、『検証可能な参考文献や出典が全く示されていない』記事が生き残り、中国の国学者章柄麟又の名を章太炎ともいう学者の、「中華民国解」という権威著書、日本の国語辞書の解説、中国の分厚い辞典「辞海」、などなど、検証可能な参考文献や出典を明示した「仁目記事」が抹殺される W i k i 百科の「理不尽」には、ただ呆れるばかりで、そのような集団理不尽に抗する術も無いまま、「仁目記事」は W i k i で埋葬されてしまい、十数年の歳月が過ぎた。勿論のこと、その後、W i k i へ投稿する気はそれで全く無くなってしまった。

列島の人びとが「中華思想」を解しないのは、中華の原点となる「華夏」の実体を良く理解していなかった為で、その原点となる「華夏」の実体を、中国の典籍に基づいて、重点的に解説した「仁目記事」は、「中華」を良く理解する上では貴重な参考資料になる。それがそのまま埋没してりまうのは勿体無い。それで、W e b l o g 紙上で、生き返らせる事とした。


「中華思想」に興味のある人びとの、良い参考になれば幸いだと思う。



【 wikipedia  中華思想   読むに値しない記事 】 仁目子

2022-04-24 03:21:05 | Weblog
ーー  ウイキぺデイア の「タグ」」が意味するのは  ーー
ーー  記事は読むに値しない、が、ノートは参照すべきである  ーー

日本語ウイキぺデイアには、「中華思想」の記事も掲載されている。何万字という大文章で、先ず、「中華思想」の定義は、2021年9月の時点では次のように定義されていた。

 《《  中華思想(ちゅうかしそう)は、中華の天子が天下
     (世界) の中心であり、その文化・思想が神聖なもの
     であると自負する考え方で、漢民族が古くから持った
     自民族中心主義の思想。自らを夏、華夏、中国と
     美称し、王朝の庇護下とは異なる辺境の異民族を文化
     程度の低い夷狄 (蛮族) であるとして卑しむことから 
     華夷思想(かいしそう)とも称す。 》》

それが、2022年には、次のように定義変更されている。

  《《 中華思想(ちゅうかしそう)は中華が天下(世界)
   の中心であり、その文化・思想が神聖なものである
   と自負する思想・》》

という具合に、同じウイキぺデイアの「中華思想」の記事で、中華思想の定義が、異なる時に、異なる内容に変わって掲載されている。

20219月の定義は、ーー 中華の天子が天下 (世界) の中心であり、その文化・思想が神聖なものであると自負する考え方 ーー、としているが、年が2022年に変わったと同時に、定義も変わり、ーー  中華思想は中華が天下(世界)の中心であり、その文化・思想が神聖なものであると自負する思想 ーー に改めている。 中華の天子が天下(世界)の中心である、という部分から、「天子」を引っ込め、中華が天下(世界)の中心である、に言い換えた。

思うに、中国にはとうの昔から天子が居ない事に、2022年、初めて気が付いた為に、天子を引っ込めたものとに違いないが、それにしても、今頃になって、始めて、中国に天子が居ない事に気が付くのは、愚鈍も甚だしい。

それに、中華思想は中国の思想であるなら、意味する所が、「中華(国)が世界の中心であるか」はたまた、「中華の天子(君主)が世界の中心であるか」、それは、中国が決める事である。にも拘らず、外国である日本のウイキぺデイアが、勝手にその意味する内容を好きなように変えている。 これも、愚鈍としか言い様が無い。

それに加えて、記事の中で、中国語の「天下」に、全て括弧して「世界」に言い換えているのはなぜか。これは、明らかに、日本人独特の意識概念である。 天下とは、本来、中国で、この国全部。一国全体。国家。国中を意味しており、日本語も、 一国の政治。一国の支配権。「徳川の天下となる」「天下を掌握する」 のように、自国が限界の「天の下」を意味する言葉であった、が、日本は近代になって、「世界一」の意識概念が極度に発達して、「天下」にまで、「世界」の意味を持たせるようにしたが、これは、日本独特の欲張りであって、既に広い大地と、厖大なる人口を持つ中国人には、全く興味のない意識概念である。

従い、中華思想を「世界の中心」という意識概念でもって出発点にしているのは、明らかに、日本を主体にした考え方である。 だから、日本人造語の「中華思想」は、中国の思想ではない、という事が歴然としている。

僅か千数百年前に始まった「ねぶた祭」の、起源も、三字の「ねぶた」の意味ですら良く知らない日本人が、事「中華思想」という中国の思想になると、数千年の大昔から今日に至るでの思想内容を得々と、何万字をかけて、解説している。可能な事であるかどうか、簡単に常識で判断出来る。

案の定、そのウイキぺデイア記事には、次のような「タグ」が貼り付けられていた。

『 この記事は中国語版の対応するページを翻訳することにより充実させることができます。(2021年4月)
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。
この記事の正確性に疑問が呈されています。問題箇所に信頼できる情報源を示して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2021年8月)』

つまり、何万字の大文章であっても、目を通すに値(あたい)しないとウイキぺデイアが断っている訳で、その改善と充実に、一つ、中国語版の対応するページを翻訳すること、二つ、議論はノートを参照するように勧めている。

所が、中華の名がついても、中国には「中華思想」という言葉ですら無いから、中国語版の対応するページなどある訳は無い。残るのは、「議論ノート」を参照する、しかないという事になる。

ーー  ウイキぺデイア ノート 資料 ーー        
    
井上 豊、という方が、 2009年10月に投稿した 「中華思想」の疑問がノートに掲載されている。 次のような内容で、巷間で言われている、或いは、一般の人が了解しているしている内容と、大変に隔てがあるので、ここに写して、皆さん参考に供したい。

《《 「中華思想」という言葉は、広く行きわたっているにもかかわらず実体がつかみにくい。3つの疑問点をあげたい。

疑問点1:どこからこの言葉が出て来たのか。

中国の辞書に「中華思想」という言葉はないし、ほとんどの中国人はその意味を知らない。これは日本人が作った和製漢語であるが、いったい誰が言い始めたのかということがはっきりしない。

私(井上)が調べた限り、古くは本居宣長が中国を批判して「もろこしの国のいにしへの人、すべて他国(あだしくに)あることをしらず」と書き(玉勝間)、津田左右吉も同様の観点から「中華意識」という言葉を使っている(支那哲学)。ただ、それが、いつの間にか「思想」となり、中国と中国人の性格を表す言葉となって普及してしまっている。

「中華思想と……」といったタイトルの本をいくら開いても、「中華思想」の説明はあっても、誰がいつこの言葉を提唱したのか、どのようにして学会などで認められ、日本社会の中で広まっていったのかの言及は見当たらないのが実状だ。

疑問点2:学術的用語と俗用法。

「中華思想」を学術的用語として厳密に考える場合と、「中国人は中華思想があるから傲慢な民族だ」というような俗用法との混同がしばしば見られる。仮に、中国には過去に「中華思想」があると認めたとしても、現在もそうなのかということについては見解が分かれるはずである。

いまの中国にも「中華思想」が残っているのだろうか。19世紀のアヘン戦争以来、外国からの侵略を経験し、いま国際社会の中で生きていこうとする中国の人々の対外意識が、かつての封建時代のものとどこが同じで、どこが違っているのかということを、それこそ学術的に調べる必要があるだろう。

中国で、漢民族を対象に意識調査をするくらいでなければならないと思う。それなしに「だから中国人は傲慢だ」などと決めつけてしまうと、いわゆるネガティブ・キャンペーンになってしまう。

自分の国が世界の中心だなどという意識は世界のどの民族にもあるもので、中国人だけが特別ではない。 「中国人は傲慢だ」なんて、wikipediaに書いてないのに、勝手に自分で作り上げるべきでない。21.4.26

疑問点3:中国および世界の学識者はこの言葉をどう考えるか。

もしも「中華思想」論が正しいならば、世界でも認められるはずであるし、中国人も認めざるをえないはずである。

しかし中国人についていえば王柯著「多民族国家 中国」(岩波新書)213ページに「『中華思想』という和製漢語は、中国の学界に拒否され、中国の思想を語る用語であるにもかかわらず日中両国の公共財とされず、もっぱら一部の日本人研究者の合言葉となってしまっているのである」と書いてある。

では「中華思想」論を唱える日本の学者は、アメリカ、ロシアその他の中国研究者とこの言葉を共有することが出来ているのだろうか。「中華思想」論について賛同する人も反対論者も、互いに真摯に話し合い、討論する場が必要であろう。

「中華思想」という言葉は現在のところ、中国を研究する日本の学界の間でも誰もが認めているとは言えない状況ではないのだろうか。さらなる研究の進展を望みたい。 》》


誠に、理路整然とした論説であり、ウイキぺデイアが、推薦するのも無理は無い。

列島に、ネトウヨ、という人種がある。日本にもともとあった人種で、昔は、国粋主義者と呼ばれていたが、思想的な属性は、極右派のようで、排他的言論を特徴としている。

テレビ番組が街で取材をしたときに聞かれた「無職、メガネ、ハゲ、デブ、ムッチャ髪長い」といった人物像に代表されるようで、要するに、知性、見識などとは、程遠い世界に居る人達であろう。 「群盲」という形容詞が似合う、人達である,と言う事が出来るようである。

井上 豊 のような知性に溢れた人物と比較した場合、ネトウヨは「群盲」に属する。「中華思想」を好んで口にして、中国を貶す日本人は、ネトウヨ人種に多い、という感じがしてならない、

「 群盲 巨象をさぐらば其尻尾の手触り能く 全象を示すに足るか覚束無し、と、坪内逍遥は言った」 正しくその通りで、チンプンカンプンな表現で有名な、日本人の汚名を無くす為に、中華思想という言葉を 列島から一日も早く、排除すべきであろう。