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 李白の白髪  仁目子


白髪三千丈
愁いに縁りて  箇の似く 長(ふえ)た
知らず 明鏡の裡(うち)
何処より 秋霜を得たるか

【 先走り痩せ馬 の 息切れ 】    仁目子

2022-04-04 21:11:52 | Weblog
ーー  世界一で 先走った挙句 (あげく) ーー
ーー  日本一 ですら有り得ない  ーー

日本列島には、なぜだか良く知らないけれども、万事に付け「一番」でなければ気が済まない、という不思議な「誇大」の妄想が根強く存在している。

東京の下町で、小さなスシ屋を開店しても、ゆくゆく、町内一、区内一、そして、東京一、日本一、のスシ屋にしてみせるという目標を掲げる。その位の「威勢」が無いと大衆受けせず、客足も遠のいてしまう。だから、ハッタリでもウソ八百でも良い、とにかく、威勢よく見せる事が、肝腎要( かんじんかなめ) だという事になる。


二十世紀の八十年代、日本の経済発展が米国に追い付き、列島が好物の「世界一」名目の達成に喜んでいた頃、親しく付き合ていた昭和一桁生まれの静岡の茶業者 Y 氏が、「日本は、痩せ馬の先走りで、初めは格好良いが、後が続かないから困る」とよく話していた。

「痩せ馬の先走り」とは、麻雀でよく使う言葉で、初上がりしたり、序盤戦でがつがつ上がる人を揶揄していう。つまり、試合の前半で先行して、最終的にトップを取れないことを言う。

八十年代のバブルが弾けた後、ウエブで目に付いた「ある日記断片」でも、この言葉使って、二十世紀末頃の日本の現状次のように形容している;

《《 いったいなんなんでしょうか、(日本の) この不況は?

別に大恐慌というわけではありませんが、なんとなく、この状況からはよほどのことが無いかぎり2度と立ち直れないような気がします。
何故って聞かれても困るけど、私の直感はそう告げてます(これが結構あたる)。
だいたい戦後50何年の日本の発展は痩せ馬の先走りだったような気がするし、本当に体力が必要なときには特攻稲作民族の力などは高が知れているような気がします 》》


このような列島特有の妄想に取り憑かれて、明治日本はお金も無いのに、一介のユダヤ人から借金してロシアと戦を始め、その極東軍を打ち破り、名目上、世界の一等国になった。名目上であっても、世界の「一等国」になったという事で、列島は狂喜した。

しかし、狂喜どころか、それを厳しい眼光で見て「先行き暗い」と断言する識者も居る。夏目漱石という眼光の鋭い作家は、作品「それから」の中で、無理に一等国の仲間入りをしようとする日本を次のように論じていた;

《 日本程借金を拵(こしら)えて、貧乏震いをしている国はありゃしない。此(この)借金が君、何時になったら返せると思うか。そりゃ外債位は返せるだろう。けれども、それ許(ばか)りが借金ぢゃありゃしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。

それでいて、一等国を以て任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入りをしようとする。だから,あらゆる方向に向かって奥行(おくゆき)を削って、一等国丈(だけ)の間口を張(は)っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。其(その)影響はみんな我々個人の上に反射しているから見給(みたま)へ。斯う西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、碌(ろく)な仕事は出来ない。悉(ことごと)く切り詰めた教育で、そうして目の廻る程こき使はれるから、揃ってになっちまう。話をして見給(みたま)へ大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日の、只今の事より外に、何も考えてやしない。考えられない程疲労しているんだから仕方がない。精神の困憊(こんぱい)と、身体の衰弱とは不幸にして伴っている。のみならず、道徳の敗退も一所に来ている。中何所(どこ)を見渡したって、輝いてる断面は一寸四方も無いじゃないか。悉く暗黒だ。》

明治の維新で、日本が開化した、あるいは、開眼したのは、何よりも「世界の一番」になる、という妄想ではなかったのだろうか。

それまでずっと「鎖国」の状態で「井戸の中の蛙」だった列島が、「黒船の外圧」でいきなり世界という大海に接する機会を得た。
想像を絶する驚きに刺激され、列島は猛然と、大海に向かって我武者羅に泳ぎ出した。そのような動きは、アジア諸国の中で先陣を切った。云うなれば、「先走り」である。

先走って欧米に学び、摸倣の才能を生かして、富国強兵の国策を推し進め、植民地を作り、形式上、欧米の仲間入りを果たした列島は、「脱亜入欧」を唱え、アジアから脱皮しようと企てたが、残念ながら、遥か彼方のヨーロッパから、「入欧歓迎」の声は皆無だった。

金髪に憧れ、黒髪を茶色に染めたところで、所詮は「真似事」であって、金髪美人にはなれっこない、それと同じように、「脱亜入欧」というのも単なる虚勢に外ならない。

オリンピックの陸上、女子バレー、卓球、体操、水泳、などなど、広い面に亙り、日本は、アジアで最初の「世界一番」をめざして死に物狂いで頑張り、そしてひとつひとつ成し遂げた。偉業であったが、息切れで長く続かず、今は、軍事大国も、経済大国も、スポーツ大国も、並べて「世界一番」から大きく後退している。「痩せ馬の先走り」の典型的な終盤の様相である。

近来。「世界一」を掲げる声は、殆んど聞くことは無くなった、が、代わりに、「日本一」が聞こえるようになった。 ウエブで、「XXX のラーメンは日本一」という具合に。食べ物の味は、人により、好みが違うから、「一番」の決めようはない。それでも、一番と言うのを好む。日本独特の「虚勢好み」の習性であろう。

「一番」は、英語の 「best」である。ところが、英語は、日本語の世界一に該当する「the best of world 」という言い方はしない。 代わりに、「one of the best of world」と言う。日本語に訳すと、「世界最高の一つ」になる。つまり、一番は一つに限らず、多数ある事を意味し、その中の一つである、という言い方をする。 

これは、理に叶っている言い方である。 つまり、常識的である。 日本人の、一番は、一つしかないというのは、常識に外れる。 だから、日本の常識は、世界の非常識である、という判断基準は、このように、「痩せ馬の先走り」を好む、日本人の嗜好からも。見て取れる。








【 言葉の鎖国  外語音痴の原点 】     仁目子

2022-03-30 02:44:15 | Weblog
ーー   マックダーノ  の 国風化
ーー   マックダーノ と言う 日本人はいるか ? ーー
ーー   語学音痴は 鎖国精神の後遺症 ーー
――   言葉鎖国による 自縄自縛 である ーー

本日、全世界で通用する「マックダーノ」の、日本に於ける使用状況が知りたいので、ウエブに、「マックダーノ」を入力して見た。 結果は、 記事数約47件だった。

それを、「マクドナルド」に切り替えると、途端に、件数は,約56,300,000 件、つまり、マックダーノに較べ、件数が百十数万倍以上増える事になる。 大変な意外である。これは、明らかに、鎖国をを好む日本の伝統が、今日に到るも, 変わっていない事を示している。

更に、マックダーノ 47件の内容を見てみると、「マックダーノ関係の「仁目子 goo blog」 記事 が 23件 に 「英語で言って見たい」 という記事が7件 あって、この二つだけで、30 件になるから、其の他記事は、僅か17件のみとなる。これまた、大変な驚きである。
つまり、英語のマックダーノに、関心のある日本人は、殆んど居ない、という事になる。

全世界で通用する マっクダーノ が、日本では マクドナルドと言わないと、通じないという事になる。ひっくり返して言えば、マクドナルドしか知らない日本人は、外国で Mc Donalds 店を見つけるのは容易い事ではない、という事になる。 大変な不便である。

Mc Donalds の発音は、世界中、マックダーノで親しまれている。だが、日本だけは、明治以来、外国人に分かり様の無いマクドナルドと発音している。一説によれば、この方が、日本人に発音し易いからだと言う。
実体は、発音し易いのは マックダーノ(3音節)であるのに、何で舌を嚙みそうなマクドナルド(六音節)を選ぶ ? 大変不可解である。

つまり、発音し易いというのは、体の良い理由で、実際は、外来文物の「国風化」が本音であるようだ。 カステラも テンプラも グラスも ガラスも 皆外国文物だが、カタカナ読みで、国風化させるのが、明治以来の列島特技であるのは、衆知の通りで、国産の体面を保つ為であるのは、言うまでもない。 有名なピザは、イタリアの名産食品で、米国では大人気物になっているが、米国人は、イタリヤ食だと言って、アメリカ食だとは言わない。

それに較べると、何でも「国風化」して、日本産、日本食、と言って、自慢する列島人種は、だから、島国根性という異名を持つようになったのだろう。 今日、列島で最も流行っている「ラーメン」は、ここ僅か数十年前に、列島で賞味を始めた「中華」である。

看板も、並べて「中華ラーメン」で、豚骨スープから、椀, 麺、 チャーシュー、煮付け卵ななども全て 中華。 僅かに、海苔やナルトを一枚づつ載せるだけで、日本風の感じが、少しだけ漂う。

それで、ラーメンは「日本食」だと主張する人がいる。しかも、発祥地は、北海道だとか、博多だとか、言って、無理やり日本産にしようとする。笑止千万な事だけれども、如何に、日本人は、鎖国や国風化に拘るのか、という事が分かる。 マックダーノと言わずに、マクドナルドと言うのも、その一端の内にはいる。

「国風化」を優先させて、マックダーノという英語発音を敬遠するのであれば、世界中で、最も、英語学習に夢中になっていると公認されている日本人は、そして、英語のマックダーノですら、口にしようとしない日本人は、一体、何の為に、高い月謝を払い、苦労して、英語を学ぼうとするのか、実に、大変不可解なる事である、と、言わねばなるまい。

ウエブ記事 47件しかない マっクダーノと 56,300,000 件ある マクドナルド。 この二つの極度に違う数字を見れば、なぜ、日本人は英語不得手なのか、何ら説明を必要としない筈であろう。 鎖国精神がもたらした後遺症であるのは、はっきりしている。 つまり、言葉の鎖国による自縄自縛である。

【 オハイオ と おはよう 】   仁目子

2022-03-28 11:34:24 | Weblog
ーー  自 分 は 棚 に 上 げ る  ーー
ー―  マクドナルド と マックダーノ  ーー
 
ロスのゴルフ場で、たまたま一緒に回った白人青年 Paul に聞いた話だが、日本留学歴のある彼は、留学中の面白い逸話を話して呉れた。

彼は、留学中、同級生に対して、good morning の挨拶は、専ら「オハイオ」で通した、と言う。当然のことながら、皆に笑われる。 彼は、それを承知の上で、敢えて「オハイオ」を繰り返す。

そうして、皆の笑が終わるのを待って、彼は、「なぜ、日本人は、マックダーノをマクドナルドと発音するのか?」という疑問を皆に投げる。 一瞬、同級生共は黙ってしまい、そのまま立ち去る。その後、彼が「オハイオ」を繰り返しても、同級生共は、「オハヨウ」と言い返すだけで、嘲笑はしない。

オハイオは、美国 Ohio 洲の日本語読みで、オハヨウという日本語挨拶の発音に近い。早口で言えば、殆んど同じ言葉に聞こえる。この Paul という白人はオハイオ州の生まれで、オハイオとお早うの発音が、極めて近い事に、興味を感じ、同級生の日本人に対し、ユーモアたっぷりで「オハイオ」を口にしたものだが、計らずも、笑われる事になった。

マクダーノとマクドナルドの発音はかなり違う。マクドナルドは、日本人には通じるが、外国人には分り様がない。それでも、日本人はマックダーノと言わずに、マクドナルドと言う。

ならば、彼が オハヨウをオハイオと言うても、笑われる理由は全くない。 郷にいては郷に従え、だと思って、彼は、生まれ故郷のオハイオを意識的に挨拶言葉にして、日本の大学を卒業した。

そう言って、彼は、面白そうに笑った。確かに、面白い話である。 私は、彼に、全く同感だねと答えた。

日本に「自分は棚に上げる」という諺があって、自分にとって都合の悪いことに目を背け(て他人の同じ点は非難す)るさまを指す言い方、を意味している。 日本の留学歴を持つ、このPaul という若者は、その諺を知っていた。

英語で何て言うの、と聞いてみたらば、色々言い方は有るけど、  You are blind to your own fault という言い方が近いだろうね と教えて呉れた。 自分の非には目をつぶる、なるほど、自分は棚に上げる、ぴったりと合う。

何時になったら、或いは、如何なる状況の元に、日本人は、マクドナルドをマックダーノに言い換える事が出来るようになるだろうか、 とPaul の考えを聴いて見た。 

明治時代から、Mc Donalds を、マックダーノ と言わずに、マクドナルドで今日までずっと通して来た、日本人の一徹(stubborn ) な例があるので、言い換える事は期待出来ないだろうという彼の見方だった。

とすれば、日本人語学音痴が改善される見込みは、殆んど無いという事になる。 言い換える、という事は、日本人に取って、英語に頭を下げる事になる。戦争に負ければ、降参よりも、自決を選ぶ、日本人の嗜好からすれば、英語に頭を下げるよりも、語学音痴の方を選ぶ事になるものと、思われる。

それは、日本人の嗜好選択だから、外国人が特にとやかく言う筋合いのものではない。ただ、不思議に思うのは、せっせと高い月謝を払って、英語を覚えようとする、数知れない多くの日本人の「本音」、或いは、真意が分からない、という事である。つまり、何の為に、高い月謝を払うのか、分からない・ Paul もそう言うし、私もそう思う。 日本を知る外国のの大半は、「日本人は不可解である」という。確かにその通りである。

その日の、十八ホールの話題は、列島の語学音痴が 殆んど集中した面白いラウンドであった。 日本人は、自 分 は 棚 に 上 げ る という伝統的な習性がある事は、Paul も私も、共に確認したが、 語学音痴の不可解については、ついに、は不可解のままで、解けず仕舞いに終わった。






【 白髪三千丈 は算術ではない 】   仁目子

2022-03-25 02:31:17 | Weblog
ーー  列島で、誇張の意味を持つ、のは、頓珍漢である ーー
ーー  つまり、本家と分家の 漢語水準の違いによる  ーー


原産地の唐土で、誇張だと思われていない白髪三千丈が、列島では、専ら誇張の意味で使われている。
唐土では白髪が多く増えた、と極く自然に解している、のに対して、列島では、白髪が三千丈の長さに伸びた、という、有り得ない意味の取り方をした為である。


「三千丈」の意味、三省堂の解釈を見て見る ;

《《 大げさな誇張した表現の形容。本来は、憂いが重なって毛髪が白くなったという意味で、日本において、冒頭にあげたような意味に用いられるように変化したものと思われる。「三千丈」は、約九〇〇〇メートル、もちろん、多い、長いということを示す形容で実際の長さをいうのではない。このような表現から、誇張した言い方の代表となったのであらう。 》》

三省堂の解釈は、「本来の意味」と「変化した意味」に分けて説明している点で、列島の其の他辞書の、単純に「長く伸びた」という一本の解釈に較べ、大変異なる。

日常の常識として、白髪は、増えるものであって、「長く伸びる」とは言わない事から、三省堂の解釈の方が理に叶っているのは明らかである。

白髪三千丈は李白の詩句であるから、「本来の意味」は唐土に求めるべきである。それであれば、中国の詩集「千家詩」の現代語注釈を参照する事が必要となる。それには次のような解読をしている;

  《 白髪三千丈は、頭上の白髪がふえた、一本一本継ぎ足す
    と延べ三千丈になるだろうとの作者の嘆声 》

という解釈になっており、長く伸びたとは言っていない。

つまり、髪の毛は伸びるが、白髪は増える、というのが一般的な言い方に則した解釈をしているわけで、それが、日本列島に渡って来て、「変化した意味」を持つようになった。

白髪三千丈 縁愁似箇長 を、日本では、「愁いに縁りて箇くの似く伸びた」と解釈しているが、明らかに、唐土本来の意味とは異なる。


ここで、「長」という漢字が内包する意味を検証してみる。

『広辞苑』に七通りの意味が載っている。「ながいこと」の意味は、その六 番目に出ているが、その前に、「かしら」「としうえ」「最もとしうえ」「そだつこと」「すぐれること」などが挙げられている。

旺文社 『漢和辞典』は、上記の外に、「いつまでも」「おおきい」「あまる」 「おおい」「はじめ」などが挙げられている。

試しに、中国の『辞 海』も見てみる。そこには、次のような意味が新たに見られる。「速 い」「久しい」「引く」「達する」「養う」「進む」「多い」「余り」など。


以上でほぼ分かるのは、「長」という字は、必ずしも「長い」「長くなる」という意味に限定されていない ということである。

俗語の 「無用の長物」、この「長物」は辞書により、「長すぎて使えない物」 「全く役に立たない物」「余分な物」「ぜいたくな物」などに分かれ て解釈されているが、そのどれが正しいかということより、その場 その場の使い様で、このような異なる解釈が生じた、と見る方が妥当ではないかと思う。

「長」という字に、「多い」という意味も内包されていることに、大抵の人は意外に思うかも知れないが、、、 「愁いに縁って箇の似く長し」という読み方を、「愁いに 縁って箇の似く長(ふえ)たり」に読み替えても、それは間違いで あるという根拠は何処にもない。 漢字の「長」(ちょう)が本来持っている意味からすれば、「長」をふえたりと読むほうが正しい。

この句の後に続く、不知明鏡裏、何処得秋霜、の二句を見る。「知らず明鏡の裏(うち)、 何れの処より秋霜を得たるかを」。 李白は、 ある日、鏡に映る頭上の秋霜に愕然とした。 何処から降って来たの だろう、この秋霜は?  と、驚いている。もともと、髪の毛が白く、それが伸びたので あれば、 李白は気付かない筈がない。 黒い髪の毛が、灰色に、そして白い色に徐々に変色したから、見落としていただけのこと。 ある日、突然鏡に映る頭上の秋霜に気が付く、誰しも、「シラガが増え たなあ!」と溜め息を付く。「シラガが伸びたなあ!」とは言うま い。

白楽天が「長恨歌」中で、「後宮佳麗三千人、三千寵愛在一身」と詠い、人口に膾炙する名文句として、千年後の今日まで愛唱されているのは、周知の通りで、列島の辞書、文学書は、その意味を、並べて次のように解している。
  
  《《 宮中に多数の美女が居るも、ただ一人 楊貴妃 だけが
     天子の寵愛を受けていること。 》》

列島の国語辞書で「三千」の意味を調べると、答えは、例外なく次のように出ている。
  1   千の3倍の数。
  2   非常に数の多いことを表す

つまり、算術では、数の倍数を表わすが、形容詞として使う場合は「非常に多い」という意味に使う。 千軍万馬と同じである。

列島が、「三千丈」を「長く伸びた」に解釈したのは、明らかに、それを算術として取り扱った為であり、李白詩が鑑賞出来る漢語水準には達して居なかった事を意味する。それは、自慢にならない事であるが、 列島で、その文句を、唐土人は「法螺吹き」である、という代名詞に使い、相手をバカにし得たと勘違いをしている人が多いが、実際は、唐土の人々の、「列島は漢語半可通」である、という嘲笑いの元になっている。

矢張り、詩句は詩句として、きちんと読むべきであろう。




【 踊り と 祭り は得意だが ,,,,,, 】 仁目子

2022-03-18 16:29:15 | Weblog
ーー  智能を働かせるのは 苦手 ーー
――  ニンジン好き嫌い、の新たな日本語表現 ?  ーー
ーー  世界の常識は  日本の非常識になる  ーー

ウエブの「知恵袋」で、下記のような質問が目に付いた。

《《 私は最近、苦手の対義語として「得意」という言葉を使ってしまいます。
例えば、「私はニンジンが苦手じゃありません」というときに、「ニンジンは得意です」と言ってしまいます。
これって日本語的に間違ってますかね?実は新しい用法として世間様に定着させたいのです。
正直、苦手じゃないけど好きってほどでもない、でも「苦手じゃない」は冗長だと感じた時なんかに この「得意」って単語は非常に使いやすいんです。でもやっぱり訂正すべきなんでしょうか? 》》

この質問に対する ベストアンサー は、次の通り。

《《 もともと「得意」は「~すること」が「得意」というような使い方で「~に熟練している」といった意味ですから「好き」という意味は持ってません
一方、「苦手」は「不得意」という意味の他に「嫌」という意味もありますので、後者の意味の対義語として「得意」は間違ってるというより違和感ありまくりです
ちなみに質問の「ニンジンが苦手」に関しては「ニンジンを食べることが苦手」と「ニンジンそのものが苦手」の二つの意味を持つことになります
前者は「方法」に対する苦手の使用なので「ニンジンが得意」と言っても(違和感はありますが)意味は通じます
一方、後者ですと味や食感など好み(感情)の問題で「好き」の意味合いのない「得意」は使えません
簡単に言うと好きか嫌いか聞いてるのに「できるよ」と答えるようなものです
最近は妙な日本語の使用がありますが、これはあんまり定着しないんじゃないでしょうか… 》》

二番目の回答も、異論のある回答だった。
《《 訂正すべきだと思います。
普通によく使われる、
「私はニンジンが苦手です」という言い方ですけど、これは
「私はニンジン(を食べるの)が苦手です」という意味です。
『食べるのが苦手』なのは良いのですが、その逆として『食べるのが得意』とするのは、意味が違ってきてしまいます。
ニンジンの早食い競争でもするのであれば、得意と言っても全然おかしくないのですが、ウサギさんでもない限り、そんな大会はないでしょう。
「苦手じゃない」、「嫌いじゃない」、「好き」、「好物」
あたりで、ニュアンスの近いものを使うのが妥当ではないでしょうか。
思いついたので、追加しますと、「ニンジンが平気です」 もありかなと思います。 》》

このように、ニンジンの好き嫌いの日本語表現を、自分(個人)の好む言い方を、「世間様に定着させたい」という考えを、此の質問者は持っているわけだが、なぜ、そうする必要があるのか、理由の説明は無い。

「上」という漢字に、二通りの書き方がある。一つな、ヨコタテヨコ、今一つは、タテヨコヨコ。 何れの書き方でも、結果は、「上」という字に辿り着く。 だから、好きなように書けばよい、と思うが、日本の文部省は、戦前は、ヨコタテヨコが正しいと規制し、戦後は、それをひっくり返してタテヨコヨコが正しいと規制を変更した。何れにしても、一通りの書き方しか認めない、という日本の「お上」の一徹ぶりであった。
漢字は、唐土原産の文字で、数千年来、二通りの書き方が認められ、今日まで続いているが、都合が良くない、という話は聞いた事がない。なのに、何故、日本で一通りに規制せねばならない ? 特に、そうする必要があるとは思えない、が、列島人種の「一徹気性」によるものだとしか思えない。

上述の知恵袋質問で、質問者は、自分の好む言い方を、世間様に定着させたい、という事が質問の動機になっていて、これは、漢字の「上」を、一つの書き方に規制しなければ、気が済まない、という考えと、「異曲同工」の産物である事がわかる。 共に、島国の「一徹気性」が動機となっている。

大抵の日本人は、英語が話せるように成りたいと思っており、街の中に溢れている「英語塾」に、惜しげも無く、せっせと月謝を払っている。

所が、どうしても分からないのは、Mc Donalds を、皆して、英語発音の「マックダーノ」と言わずに、舌を噛みそうなマクドナル、或いは、マック、マクドと言う。 Top golfer の マックロイ を マキロイに言い換える。 何か、訳があるのか、と思って、ウエブに、{なぜ、マックダーノと言わない}【なぜ、マックロイと言わない」を入力して見たが、共に、記事は一件もない。だから、訳の知り様もない。丁度、「上」の字の書き方を、理由の説明なしに、一通りのみに規制してしまうのと、全く同じである。

英語が話せるようになりたい、と、大抵の日本人は切望しているが、マックダーノ、マックロイ という簡単な英語ですら口にしない、どうやって、英語が話せるようになる ? このような事は、世にも稀な怪現象、という事がはっきりしている。

つまり、 日本の常識は 世界の非常識である、という風に割り切って考えないと、日本人ですら説明の仕様がない、日本人の「非常識」をあまり深く考え過ぎると、下手すると、神経衰弱になり兼ねない。

そう思って、徒然(つれづれ)なるままに書いたのが本文である。
日本人は、踊り と 祭り は得意だが ,,,,,,  智能を働かせるのは 苦手のようである。