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 李白の白髪  仁目子


白髪三千丈
愁いに縁りて  箇の似く 長(ふえ)た
知らず 明鏡の裡(うち)
何処より 秋霜を得たるか

【 自 己 中 列 島  】      仁目子

2022-05-05 05:48:36 | Weblog
ーー  わがまま 列島 の意味である ーー
ーー  自分は、棚に上げる  ーー  
ーー  3000億年 の 縄文歴史  ーー

日本で、流行語になっている「自己中」の意味をウエブの辞書で見ると、 《《 自己中心的であるさま、または自己中心的な傾向の強い人などを指す俗な表現。 とりわけ他人を蔑ろにする傾向を伴う場合を指すことが多い 》》、と説明している。

ウエブに、約3,910,000,000件 の「自己中心的」の記事がある。 三十九億単位の記事数だから、 列島が如何に、「自己中心的」に拘るのか、という事が分かる。恐らく、世界でも稀であろう。

次に、「日本は自己中心的」の検索結果、411、000、000 件で、「日本は自己中心的でない」が、424,000、000件で、両者に左程の違いはない。 矢張り、「自己中」は、列島に、ちゃんと広く存在している。

試しに、「自己中心的な国一位」を検索してみると、記事は、140、000,000件あった。 
その内の、首位記事は、次のように出ている。

《《 民間調査機関「サントマラル財団」がモンゴル国民を対象に実施した外国への印象についての世論調査で、「自己中心的」な国の1位が中国だったと、2014年9月3日の朝日新聞が報じた。二位は韓国だったという。対面形式の調査でウランバートル市と6県の18~60歳代のモンゴル人男女1200人を対象に行った。》》

更に、続いて、日本の世論調査を次のように、掲載していた。

《《  自己中心的な国はどこだと思う? 
アメリカ  501票(6.7%)
中国   3738票(49.9%)
ロシア  98票(1.3%)
韓国   3040票(40.6%)
その他  114票(1.5%)
総投票数:7491票  》》

結果を見なくても、簡単に予想出来る日本の世論調査である。わざわざ、モンゴルの民間調査の結果を引用したのも、中国や韓国に的を絞るという「思惑(おもわく)」が出発点になっているのは歴然としている。


ウイキぺデイアに、「自己中心性」という記事がある。解説は、下記の二点に絞られている。
(1)、主観的スキーマを客観的現実から導くことができないこと、また自分以外の視点を正確に想定・理解することができないことである。( 註:スキーマは、心理学用語で、ある対象や出来事に関して、まとまって記憶されている情報や知識ということを意味する)。
(2)、他者への配慮を欠くこと、自分の利益や関心事のことしか考えていないこと、である。そして、年配の人々が昔からある日本語で言う場合は単に「わがまま」と言うこともある、と付け加えている。

ー― 自己中の具体例  Yahoo 知恵袋質問
   2010/6/8 4:50  1回答  ーー

《《  『質問』
日本国 日本人 に批判的な質問をする方への疑問。
日本国は世界で一番治安が良く安全な国である。世界で一番善良な国民が多い国である。尊敬される国であれ批判されることに首をかしげます。批判質問者は、常識が足りないんでしょうか。

『ベストアンサー』 
欲を出せばきりがないですし、上を見続けるのは疲れるものです。ただ、向上心があってこその「一番」ではないでしょうか。
もっとも、この知恵袋を覗いていると「世界で一番善良な国民が多い国」には疑問が沸いてきます(笑)
>常識が足りないんでしょうか 常識のある人も、ない人も
批判はします。 内容をみて判断すべきでしょうね。

『質問者からのお礼コメント』
あなたね~まだまだ人生経験不足です。国の治安はタクシーの接客態度で判断できます。日本のタクシーのマナーの良さぼったくり無しで安全でしょう。外国人旅行者は日本の治安の良さに驚いていますよ。 》》

此の質問者は、日本が、世界で一番善良な国でないと、気が済まないようで、典型的な「日本自己中」の感情論が出発点になっている。 第一、運動競技のように、「一番」を決める手段がないから、「世界一」と言っても、言う人の主観的感覚によるもので、客観的な評価ではない。

この質問には、回答がたった一つしかない。如何に、客観的な回答をするのが、難しいかが分かる。

ベストアンサーは、精一杯、良い回答をした、と思うが、それでも、質問者に、「あなたね~まだまだ人生経験不足です」という
お礼コメントを頂いた。

質問者は、正しく「自己中」の典型的な日本人ではなかろうか。


ーー  ここで、列島の「自己中」について語ってみたい  ーー

「自己中」という言葉は、日本で造られた「用語」で、流行語でもある、本文冒頭で述べたように、日本語ウエブに、約3,910,000,000件 の「自己中」記事がある。三十九億単位の記事数だから、列島が如何に、「自己中心的」に拘るのか、という事が分かる。恐らく、世界でも稀でしょう。

所が、「自己中心的な国一位」の検索では、モンゴルの民間調査の結果を引用して、中国や韓国に的を絞り、加えて、日本の世論調査による、中国や韓国を的に絞った結果しかなく、其の他の国は「自己中」から外れ、日本に至っては、名前ですら出て来ない。 日本で言う所の「自分は棚上げにして」の諺を、着実に実践している。

世界に、二百程の国がある、が、日本が気にしている国は、中国と韓国の二国しかない事、そうして、如何に「自己中」であるか、これで充分分かる。

中国と韓国は、日本という国の歴史をめくって見たなら、日本の国作りに最も貢献した両国である事が分かる。極く簡単に例を挙げると、中国の漢字無くして、日本語は有り得ないし、半島南部の人々が、東の方にある列島を 日ノ本(イルボン)と呼ばなければ、「日本」と言う国名も無い。

所が、日本は恩を仇で返し、中国を侵略し、韓国を併合した。結果は、両国の強い反日感情を生むに至ったが、日本は「自覚」するところか、逆に、(自分が種を撒いた)反日を憎むようになった。 紛れも無くわがまま、つまり、自己中で、恩人に迷惑をかけたとという自覚はない。

片や、文化文明の全般に亘って、中国の恩恵を受けた日本は、中国を侵略したのみならず、中国人は誇張癖がある、といって貶し、或いは、こき下ろして喜ぶ。殆んど、一種の中毒症に似たような「自己中」である。

事、誇張癖に関する限り、日本は、世界一である事が、数多くの歴史、文学、等の実例にて実証されている。

先ず、極めて簡単な例を挙げると,

初代:神武天皇は 日本書紀で127歳 古事記で137歳、12代の景行天皇は、147歳/137歳で、日本書紀だけで初代から21代までに100歳ごえが12柱。古事記だと8柱あると、記載されている。

神武天皇は、2,600年昔の人物とされている。127歳、137歳が事実であるかどうか、説明を要しないであろう。

列島に、古くから伝えられている、古代歴史の「竹内文書」というのがある。

その記述によると、列島の歴史は、神武天皇以前にウガヤ・フキアエズ朝72代、それ以前に25代・436世にわたる上古代があり、さらにその前にも天神7代の神の時代があったという、過去3000億年にさかのぼる奇怪な歴史が語られていた。そして、今から数十万年前の超古代の日本列島は世界の政治・文化の中心地であった、とも言う。
 
江戸時代の学者、本居宣長は, 歴史書『馭戎慨言』の中で、西方の野蛮国である中国と朝鮮は、尊き皇国であるわが国にまつろうべきであることを説き、尚且つ、皇国が四海万国の元本宗主たる国である、とも言う。

ジンギスカンは、源義経だった、 大本営発表、 などなど、古代から現代に至る迄、誇張、虚像の例は枚挙に暇(いちま)がない。 つまり、 数え上げるときりが無い、数えられないほど沢山ある。 が、日本人が、「日本人は、誇張癖がある」と言うのを聞いた事が無い。逆に、唐土の李白詩「白髪三千丈」の一句だけを取り上げ、「中国人」は誇張癖がある」と言う。

3000億年の歴史 と 白髪三千丈、を比較して、後者の方が誇張である、という人は、世界広しと言えども、居ない筈である。

況して、白髪三千丈は修辞学上の形容詞であって、誇張の意味はない。だから、原産地の中国に於いても、誇張の意味では使われていない。 白髪三千丈に誇張の意味を持たせて使っているのは、世界広しと言えど、日本だけである。それは、日本人の漢文素養が 「未熟」「半可通」の為に生じた「誤解」であり、日本の諺「論語読みの 論語知らず」にても指摘されているように、「李白は好きだが、李白詩が読めない」。それは、恥じるべき事であって、自慢出来る事では無い。

全ての外国語の学習について、日本人の習得能力は、世界の末席に甘んじている程、低い。それで、「語学音痴」と自称している訳で。「語学音痴」が、難しい中国語を使って、中国人を貶し、見下し、それに喜びを味わおうとする。可能か、不可能か、自分でも簡単に判断出来る。

日本人が「白髪三千丈」という李白の詩句を利用して、中国人を貶している事は、中国人も良く知っている。所が、中国人は、反論しないし、日本の3000億年歴史、大本営発表などなどを取り上げて反発する事もしない。 

人が良いのだろうか、そうではあるまい。余りにも、お粗末な日本人の漢文水準に、加えて、感情的で、論理錯乱が激しい日本人を相手にするのは、バカバカしい、と思うからであろう。
事、漢文に関する限り、中国人と日本人では、大人と子供ほど隔てがある。子供相手に、むきになるより、子供の腕白を無視した方が、大人らしい対応である。

日本人は、大人しい中国人を無神経だと思って居るようだが、とんでもない、未熟も良いところである。実態は、語学音痴の恥さらしを、中国人は、心のうちで笑っているのである。

話を「自己中」に戻すと、自己中は、他者への配慮を欠くこと、自分の利益や関心事のことしか考えていないこと、である。そして、一言で言うと「わがまま」になる。

自己中列島は、李白の名詩句をうまく利用して、中国人を馬鹿にし得た、と思って居る、が、実際は、語学音痴の恥さらしである。 このような恥さらしを、何時まで続けるのか、と思う。

「日本特殊論」が世界的に良く語られる。人類文化学者のルースべネデイクトがそれで「菊と刀」を書いて、列島で、長期間のベストセラーになったのは、まだ記憶に新しい。
日本の隣国中国、韓国に特殊論が無いのに、島国日本が、なぜ特殊論の対象になる ?

「さるとる」の名を借りたブログがある。内容は、やはり、一風変わっている。
曰く;
『 カタカナ語は人類最大の愚行言葉の自慰行為だから原爆が日本にだけ落ちた』と言う。正しく、特殊である。

また、『「中国語は趣(おもむき)がないなあ。日本語のカタカナと違って、なんでも漢字にしてしまうから。ちょっと違和感がある。たとえば、ハワイという単語とか」』、という愚痴をウエブで目にした。 是も、同じ様に特殊である。

カタカナは表音文字で、漢字は表意文字で、言うなれば、原始文化と進歩文化の違いである。世界広しと言えど、原始文化を好み、進歩文化を貶すのは、日本人だけであり、だから、特殊論の対象になる。

日本人は、自他共に、他国人と違う、と言うのが好きなのは、なぜ ?

前述の「竹内文書」に答えを求める事が可能のようである。「竹内文書」の内容は、日本の超古代いついて書いている。つまり、列島原始の「縄文時代」の歴史を描いた文書であり、荒唐無稽な内容記述は、歴史書と認められる事はない、が、超古代縄文人の意識形態を、それによって知る事が可能である。

何万年の長きに亙る「縄文時代」は、外界の世界とは全く隔絶され、外界を知ることも、外界に知られる事も無い。所謂、「自己中心」の世界であった。だから、「文書」に描かれているのは、縄文が世界最初の国で、世界最古の文明国としている。勿論、それは事実ではない、が、隔絶の世界で万年生き抜いた「人種」の「意識形態」としてずっと存在した。

今、日本列島に住む日本人は、弥生人と縄文人の混血による「人種」である。当然の事だが、現日本人の意識形態には、古代縄文人から受け継いだ意識形態の形跡がはっきり見える。
日本は、近代の外国による「開国」をする以前は、ずっと、「鎖国」状態を保っていたのは、紛れも無く、縄文歴史の名残であるのは、想像に難くない。

江戸時代、明治時代に至っても、日本は「世界一」で、「世界の宗主」であり、世界は「皇国にまつろうべき」であるという主張が、後を絶たないのは、これも、明らかに、縄文意識の名残であって、極東の島国が主張して、然るべきものではない。

この様に、列島の歴史を、率直に読み返して見ると、自己が最高、自己が最良、であるとする、列島の「日本特殊論」の嗜好源泉が、古代の縄文遺伝子の名残りである、という事が分かる。現代日本人も、それを良く知っているが、誰も,その史実に触れようとしない。「自分は、棚にあげる」という諺が、如実に語っている通りである。

苟も(いやしくも)、現代世界の「先進国」に発展した日本は、もう 原始的な「自己中心」意識から離脱し、他人を貶し、見下す事に、生き甲斐を求める事を止め、四海は皆友である、という社会意識の作り替えに、力を注いて、一日も早く、「 大人の国 」に成長するように、務めるべきではなかろうか。



【 プーチン の 人物評価 】  仁目子

2022-05-02 18:21:32 | Weblog
ーー  勿論、ヒットラー や スターリン 
    と同類ではない  ーー

2016年、日本の政治経済紙に、下記のような報道が掲載されていた。
《《 「世界で最も影響力のある人物」ランキング プーチン大統領が4年連続の首位。
フォーブスがまとめた今年の「世界で最も影響力のある人物」ランキングでは、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が4年連続で首位に立つ結果となった。本国ロシアからシリア、さらには米大統領選まで、自分の望み通りの結果を手にし続けるプーチン大統領は、国際社会の慣例に束縛されず、近年その影響力を増大させている。
二位 トランプ  三位 メルケル  四位 習近平
五位  フランシスコ 法王  》》

2018年、政治経済紙は、更に、下記の新聞を報道した。
《《 「最も影響力のある人物」ランキング 習主席が初の首位          
    に 
フォーブスがまとめた今年の「世界で最も影響力のある人物」ランキングでは、中国の習近平国家主席が初の首位に立った。
ー― 中略 ーー
習近平にトップの座を譲り2位へ後退したのは、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領だ。プーチンは昨年まで、同ランキング史上最多となる4年連続で首位を維持していた。2000年5月からロシア指導者の座にとどまり続けるプーチンは今年の大統領選挙で、ソビエト連邦崩壊後で最高となる77%近くの得票率で当選し、通算4期目の就任を果たした。
就任から1年が経過したドナルド・トランプ米大統領は、3位に後退した。 4位に入ったのはドイツのアンゲラ・メルケル首相で、世界で最も影響力のある女性となった。 》》

2022年4月、テレビ朝日系(ANN) AllNipponNewsNetwork(ANN) の報道によると、
《《 孤立深める中…プーチン氏「支持率83%」
ロシアの独立系調査機関・レバダセンターが発表した、プーチン大統領の支持率は83%。調査はロシア全土53の地域で1600人を対象に対面方式で行われた。 》》

2022年4月、TBS系(JNN)の報道によると、
《《  ロシア政府系の「世論基金」が発表した最新の世論調査によりますと、プーチン大統領の活動を「評価する」と回答した人は77%と、前の週に比べて5ポイント低下しました。
また、プーチン氏を「信頼する」と回答した人は76%で、こちらも前の週に比べて3ポイント低くなっている。 》》

以上、ウクライナ侵攻発生前と発生後の、日本報導の、プーチン評価を、(色眼鏡掛けずに)単純に拾い上げて見た。

世界で最も影響力のある人物 ―ー 四年連続首位
ウクライナ侵攻で孤立深める中、国内「支持率83%」
ウクライナ侵攻後、国内世論 「評価する 77%」
ウクライナ侵攻後、国内世論 「信頼する 76%」
大統領選挙で、ソビエト連邦崩壊後で最高となる77%近くの得票率で当選し、通算4期目の就任を果たした

世界の政治人物を見回して、世界に最も影響力のある人物、加えて、常時、自国民の76% 以上の支持率を得ている人物は、プーチン以外に見当たらない。 好き嫌いを抜きにして、抜群の人物だと言わねばならない。

その稀有の抜群人物が、今、欧米を主体に、色々と、批判されている。プーチンの批判は、言うなれば、ウクライナ総統 ゼェレンスキーの肩を持つ、つまり、味方につき、擁護する。 贔屓にする事を意味する。

筆者(私)は、ウクライナ事変後に、始めて、ゼレンスキーという名前を知った。世界中の多くの人々も、同じく、ウクライナ事変で、この名前を知ったと思う。

ウエブで、略歴を見ると、 『 Zelenskyy、 1978年1月25日 - )は、ウクライナの政治家、元俳優、コメディアン。ウクライナ第6代大統領 』 と書いてあり、日本との関係については、『 2019年10月21日に迎賓館赤坂離宮で当時の内閣総理大臣だった安倍晋三と会談を行い、翌22日の即位礼正殿の儀に参列した 』 という二行程度の説明だった。

つまり、左程知られていない人物が、ウクライナ事変で、一躍、誰知らぬ者は居ない、という人物になった。 世の常からすると、かなり異常な事態なった、という事が言える。

喧嘩両成敗、という言葉がある。喧嘩に際してその理非を問わず、双方とも均しく処罰するという原則、を意味する。
ロシアとウクライナの喧嘩、言うなれば、嘗ての「身内」の喧嘩である。 なぜ、身内なのか ?

曽て、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国というのがあった。ウクライナに存在したソビエト連邦(ソ連)の社会主義国家である。1917年12月25日に成立したウクライナ人民共和国(ソビエト派)がその祖となっており、その後、いくつかのソビエト共和国を併合し、以後1991年8月24日まで存続した。

そして、ゼレンスキーは、ウクライナ東部出身で、母語はロシア語。元々ウクライナ語は苦手で俳優業やメディアではこれまでロシア語を使用してきた。大統領当選以降はウクライナ語の特訓を受け、会見等ではほぼウクライナ語のみでこなしている。
だから、両国は、身内と言ってもよい、間柄である。

にも拘らず、ゼレンスキーは、ヨーロッパと手を繋ぎ、ロシアとの対抗を考えていた。恐らく、喜劇俳優として、西側の文明に憧れていたからであろう。

両国の、過去の歴史的背景から、ウクライナが、ロシアと手を切って、NATO の一員になる事は、ロシアが黙って居ないのは明らかである。が、ゼレンスキーは、遮二無二、その道を歩こうとした。

事、政治に関する限り、ゼレンスキーはまだ若造である。特に、米国の著名フオーブス誌が、米国の大統領を後回しにして、プーチンを、世界で最も影響力のある人物として、 四年連続首位に選定するのは、並大抵の事ではない。

2016年の時点で、プーチンは、世界で最も影響力のある人物として、 四年連続首位に選定されている。ゼレンスキーが、ウクライナの大統領に当選したのは、その3年後の2019年で、政治歴の違いは、較べようもない。

ゼレンスキーは、七割台で大統領に当選したが、二年後の2021年に、国民の支持率は二割台に落ち込んだ。劇的な変化であり、不安定度は極端に高い政治人物である。

プーチンは、如何なる局面を迎えようと、国際的に、その影響力を高く評価され、国内でも、常に、七割以上の支持率を保つ政治のベテラン人物で、ゼレンスキーは、全く比較にならない。にも拘らず、ゼレンスキーは、先輩から学ぼうとせず、逆に、楯突く事ばかり考えている。未熟だからであろう。

2022年4月、テレビ朝日系(ANN)の報道では、《 孤立深める中…プーチン氏「支持率83%」》と報道した。 米国寄りの日本評論は、それに対して、プーチン氏を支持しているのは、「教育程度の低い人達ばかりである」と言って「ケチ」を付けた。嫌ロの日本人は、「そうだ、そうだ」と言って、膝を叩くであろう。が、日本人全てが嫌ロでは無いから、その「ケチ」に反論する声もある。

《《 83%が支持しているのに、高度な教育を受けてない人が支持してるという分析はさすがに的外れすぎるでしょう。
ちなみに、83%支持と言うことは、ロシア国民の大多数はどのような階層や立場の人でもプーチンを支持しているということになるので、真面目に分析をするなら、残りの17%がどういう階層や立場の人たちなのかを調べた方が意味の有る情報になるでしょうね。 》》
成程と思う反論である。

今、ゼレンスキーを支持しているのは、米国と欧州の所謂「西側諸国」であり、もっと、はっきり言うと、NATO と ロシアの勢力争いに、ゼレンスキーは利用されているのであって、単なる侵略戦争ではない。だから、欧米が対ロ反侵略の結束を呼び掛けても、欧米以外の、多数の国々が、呼び掛けに応じないのは,その為である。

欧米の支援を得て、ロシアに対抗しているが、ゼレンスキーが プーチンに勝てる訳はない、と、筆者は見ている。それこそ、、ゼレンスキーが勝てば、世界地図を書き直す必要が生じるであろう。

日本語の新聞報道は、資料の来源が米国と欧州に限られている事と、加えて、日本は伝統的に嫌ロであるから、自ずと、プーチン非難の声一色になっている。が、米国のフォウブス紙が、自国の大統領をさて置いて,四年連続、世界最大影響力を持つ人物に選んだプーチンと言う人が、ヒットラーやスターリンと同類の人物である訳がない。

筆者は、ロシアの文化、文学、音楽、バレー、科学、等を高く評価し、特に、文学、古典音楽、バレーが好きなので、列島に多く居る人のように、「ロシア」という三字を耳にするだけで、嫌気になる事は勿論ない。

それで、今度のローウク、或いは、ウクーロの戦については、どちらにも加担せず、ただ、もともと「身内」の間柄だから、第三者、或いは、勢力に利用されずに、話し合いで事の解決を計るべきだと思って居る。


【 語学音痴 の 恥さらし 】  仁目子

2022-04-30 23:32:56 | Weblog
ーー  物にならなかった、列島の「漢字文化」 ーー     
ーー  加えて、思考論理の錯乱が 目立つ  ーー


明治以降、「白髪三千丈」を列島で、字面通りに、「シラガが三千丈の長さ」と算術並みに解する人が多く現われ、李白は、詩仙から法螺吹きに、一挙に格下げされたのは、維新に依る、列島漢字文化の急激な衰退が元兇であるのは間違い無い。 何故なら、維新以前の、漢字文化の栄えていた列島で「白髪三千丈」は詩句であり、表現が「誇張」だという人は居なかった、という事実に照らして、如何に、列島の漢字文化が衰えて仕舞ったかが分かる。

さる、中国人の有名な先生に北京語を教わっているという当世の人が、ウエブに次のような学習感想日記を書いていた;

《《  中国人は、言葉の表現がオーバーだと言はれる。北京語を習って、形容詞に「非常に」という副詞を付ける事が多いな、と思った。 ( 筆者註 : この人は、なぜ、日本語の「大変」ありがとう、や英語の thank you 「very much 」が気にならない ? )

中国人の大げさな表現は、口語に始まったものではない。中国の古典を知っている外国人なら、その詩文の想像を絶する誇大な比喩に苦笑したことが多分誰にもあるだろうと思う。
中国人のオーバーな表現の代表は「白髪三千丈」である。出典は、言うまでもなく、大げさな表現の代表選手、李白だ。
僕は、唐詩の中で、李白が大好きで、幾つかは今でも暗誦している。
有名な、僕の北京語の先生に、「外国人はよく『白髪三千丈』を使って、中国人の大げさな表現をからかいますよ」と言ったら、先生は全然知らなかった。
どうも、中国人は自分達の表現が大げさだと思われている事を気にしていないらしい  》》

この日記の主は、文中で、「三」についても、色々と論じた結果、出した結論は、

《《 「三」は「大」で、「九」は「大の大」だが、これが「三千」になると「数え切れない程多い」という意味になる 》》、という結論を出した。

その結論を「白髪三千丈」に当て嵌(はめ) れば、「白髪が数え切れない程に増えた」という解釈になるから、ちっとも「オーバー」ではないのに、この人は、同じ日記の中で、《《 中国人のオーバーな表現の代表は「白髪三千丈」である。出典は、言うまでもなく、大げさな表現の代表選手、李白だ 》》、と、言っている。

極端な言い方をすれば、この日記の主は「思考論理の錯乱」した感想を、公然と公 ( おおやけ) にしているようなものである。 彼は、「 中国人の大げさな表現の代表選手は李白だ、僕は、唐詩の中で、李白が大好きで、幾つかは今でも暗誦している 」 と自慢している 。
それでいて、「非常に」を始めに、中国人の大袈裟を散々貶し、李白を巻き込んでいる。 これを、論理的に整理すると、’この日記の主こそが、大袈裟な表現の代表選手になる、のではなかろうか。

『 北京語を習って、形容詞に「非常に」という副詞を付ける事が多いな、と思った』、と、日記の冒頭に書いたこの学習子は、明らかに、北京語に、某かの「偏見」や「畏怖」を感じている、神経の持ち主である。 彼は、《《 中国の古典を知っている外国人なら、その詩文の想像を絶する誇大な比喩に苦笑したことが多分誰にもあるだろうと思う。》》、 あたかも、自分は中国の古典を知っているように法螺を吹いている、が、彼は、「三千」の一言ですら、解し得ない。 この人は、一体、有名な北京語の先生から何を習おうとしているのか、甚( はなは) だ気に掛かる。月謝が勿体ないとも思う。

唐土に、「腰纏十萬貫」という表現がある。「腰纏萬貫」とも言う 。意味するのは、( 腰に金万貫を纏うお金持ち) のような誇飾法の運用であり、最大の重点は、単に、形容する目標を強調しようとする為に過ぎない。 この文句は、列島に伝わった形跡が無い。

「腰纏萬貫」とは、単純に字面で解すると、重さ三万七千五百キロの銭貨を腰にぶら下げる、という事になり、その成語の元である「腰纏十萬貫」に至っては、三十七万五千キロという、気の遠くなるような重さになる。が、「大変なお金持ち」の事を、このように、文学的に形容する事が出来る。さすが、古い文化の国である。

その昔、もし、この文句が、列島に伝わっていたなら、列島から見た唐土の人は、「誇張好き」に留まらず、「気違い」のように見えたであろう。言葉の奥行きの深さを知らないという事は、恐ろしいものである。

兎に角、列島には、「誇張」という事に、極めて敏感である、という事を思わせる文章記事の氾濫に良く驚く。そして、その「誇張」の主を、殆んど例外無く、中国人に絞るという論調に、無上の怪奇と深い戸惑いを感じる。 要するに、漢字文化を解しない、という事に他ならない。

列島に、古くから伝えられている、古代歴史の「竹内文献」というのがある。

その記述によると、列島の歴史は、神武天皇以前にウガヤ・フキアエズ朝72代、それ以前に25代・436世にわたる上古代があり、さらにその前にも天神7代の神の時代があったという、過去3000億年にさかのぼる奇怪な歴史が語られていた。そして、今から数十万年前の超古代の日本列島は世界の政治・文化の中心地であった、とも言う。 

この「 過去3000億年にさかのぼる歴史」は、紛れも無く、世界空前絶後の世界一「大袈裟」であり、「三」が「誇張の元」になっている。世界一を好み, 「三」が誇張の元であると決め付ける日本人は多い。しかし、自国の「3000億年にさかのぼる歴史」を、誇張の例として、引合いに出す者は見当たらず、もっぱら、李白に焦点を絞るのは何故か?

列島の古い事は知らないのであれば、現代の女性名「三千代」、京都の「三千院」、高杉晋作の「三千世界のカラス」などなど、それに、「大本営発表」と、幾らでもあるのでないか、明らかに、誇張を好む点に於いて、そして、誇張の実例の多さを見ても、列島は、遥かに唐土を超している。 誇張の例に、唐土の李白を借用する必要が何処にある?


「 白髪三千丈とかいいますが、なぜ中国語では3がつくと、誇張の表現になるんですか? あと、中国人はなぜ誇張癖があるんですか? 」というウエブ上の質問があった。

閲覧者は数百人居たが、バカバカしいからであろう、回答は僅か三つしかなかった。

一つ目の回答要約;「確かに三千丈は大袈裟です。しかし、三で以って誇張表現となるのではなく、千とか万とか、日本語にもあるような数で誇張します。文意を面白くし、退屈にしないための中国の修辞学上の技法なのです」
二つ目の回答;「中国語の三は、例えば、「木」「林」「森」のように、一般に大中小の概念を表わします。しかし、三千丈の三は偶然の一致であると思います。中国人だけでなく私たちも、多分想像ですが、地球上の人間は誰しも大きいことに憧れるのではないでしょうか。誇張は中国人だけのものではないと思っています」
三つ目の回答;「日本語がうまく出来ませんので、中国語で説明してもいいですか」、という断わりを付けた、中国語の回答で、次のように述べていた。
( 中国語の修辞学には 譬喩 誇飾 對比 映襯 等の用法がある。最終目的は、文章を退屈に感じさせない為に過ぎないものである ) 。 

三つ目の中国人回答も、一と二の日本人回答同様、質問者の「誤解」を指摘しているものだが、反発をしないで、説明の内容が、かなり「きめ細かい」点で異なり、漢字の「本場の人」である事を実感させる。三人の回答者、共に一致して、質問者の「無知」を指摘している。

漢字文化を取り入れて千六百年、列島ついにこれを、物に為る事が出来なかった。その、心の底に潜む無念と自己卑下が、反撥して、浅はかな、逆に相手を見下そうとする「形」になって現われたものだと、見る識者に時々お目にかかる。 正しく、その通りだと思う。


【 wikipedia 「白髪三千丈」仁目記事 の 遭難と終焉  】    (三) 仁目子

2022-04-30 04:37:08 | Weblog
  ーー  Wiki の船頭達よ、 相手は李白だよ  ーー
ーー  ウイキ駄目なら、ウエブサイト で生き返させる ーー

白髪三千丈、この五つの文字を見て、列島では、「あれは、大袈裟な表現だ」或いは、「法螺吹きだ」と云う人が多い。その程度の文句なら、そんなに難しいものではない。
所が、「仁目」という利用者が、ウイキペディアに一文を投じたら、それが、大きな波紋になって広がり、それまで、何事もなく水の上に浮いていた白髪 三千丈という「船」が、突然、多数の「船頭達」によって、山の上に押し上げられてしまった。
という事は、この文句は、「あれは法螺吹きだ」の一言で済ませる文句ではない事を意味する。何故?
それは 天下の李白の「詩句」だからである。

ウエブに、崎田和香子のホームページ「御意見無用」がある。今から二十二年前の2000年9月28日に、下記のような「御意見」が書いてあった。さすが、「御意見無用」と銘打つだけあって、誠に洒落なブログである。
《《  李白の「秋浦の歌」についてバイトの M 田さんから質問   
    される。
    「3 000 丈って、どのくらいの長さなんですか?」
    1丈がだいたい 3 メートルちょっとだと教えると、
    「エーッ、ウッソー!」
    と、言われても、だって相手は李白だよ 》》 

確かに相手は李白である、「エーッ、ウッソー!」の一言で済ませる文句ではない。

Wikipediaに「井戸端/ 過去ログ」という、問題提起と討論のページがある。 2006 年5月利用者「仁目」は、このページで二件の問題を提起、管理者の検討をお願いした。

《《 「白髪三千丈」の記事、2004年5月22日の投稿から二年の月日が立ち、yahoo 或いはgoogle com. で「白髪三千丈 wikipedia」として取り上げられ、尚且つ、goo 辞典にも採用されるなど、一般に肯定的な反響を得ることが出来、喜ばしい事だと思います。ついては、下記の二件につき、管理者の検討をお願いしたいと思います。
(一) 昨年(2005年7月8日)、この記事の冒頭に「正確性」の疑問を貼りつけてから、もう一年近くになるが、その間、これといった問題提起も、議論もないまま、レッテルだけが残っている状態で、不自然ではなかろうかと思う。
  (二) 本文の第三、四行即ち、「白髪が三千丈の長さに伸びるくらい長いあいだ」という意味で、長期間をあらわす表現のひとつであるという一節は、私の投稿原文にはなく、又、意味合いも、「白髪はふえるものであって、伸びるものではない」という本文の主旨に反するので、編集削除が必要と思うが、この際、編集に不慣れな私が勝手に手を付けるより、管理者にお願いした方がよいと思うので、よろしくお願いしたい  》》

上記のメッセージを2006年5月24日に「管理者へのメッセージ」宛てに入れたところ、「Aboshi」という船頭から、下記のようなメッセージがあった;

《《  こんにちは。当該項のノートにおける220.213.88.206氏の2005年10月時点でのご指摘をご覧になりましたか?全くそのとおりの疑義かと思います。まずは質問に真摯にお答えください。
ちなみに私は根本的な改変がない限り「正確さに疑問がある」テンプレートを外すことを反対し続けますので、よろしくお願いします。
理由は簡単で、いったいこれはどなたのご研究ですか。仁目さん自身のご見解でしょうか。ある事柄に対して説を展開する場合、先行研究を踏まえたもの以外は全く論外(ウィキペディアに掲載すべきものではない)ということにご理解はいただけているのでしょうか。
もし自説の展開であれば、世間一般的にも「正確性」があるとはいいません(学術的な査読を経ていないという理由です。仮に私が同じことをやっても同様です)。本来当該ノートに記載すべきことですが、仁目さんがわざわざ井戸端までもってきたのでここで質問させていただきます。先の議論は当該ノートでやりましょうか。Aboshi 2006年5月28日  》》

この質問に対し、「仁目」は次のような回答をノートに寄せた;
《《  Abosi さんは、「字義」( = 字面) に拘り、私 (実際は千家詩) は「真意」( = 内包) に重点を置き、両者は、是非の問題ではなく、そもそも出発点が異なる為、議論の仕様はないと思う。
最初に「根本な問題」の提起があった際、本件は、2005年8月8日の「何が根本問題であるか」にてすでに委細回答済みです。ただ、誤解を避ける為、下記二点を追記します。
(一) 2004年2月10日と3月17日の投稿履歴を参照乞う。
お分かりのように、「中国では誇張表現として使はれていない」という認識は、前任投稿者二人の認識であり、私も同じ認識だったので、その文句をそのまま残しておいたもの。つまり、これは一般に広く認識されていることであって、私一個人の認識ではないということ。
また、「白髪が三千丈の長さに伸びるくらい長いあいだ」という文句も前任投稿者の文句で、こちらの方は削除すべきだと思う。
(二 ) 本家の「千家詩」には、「シラガがふえた、つぎ足すと、延べ三千丈位の長さになるだろうという嘆声」に解釈している。
これは「意訳」であり、長さという字義を否定したものではない。つまり、「シラガが三千丈に伸びたという、現実的にあり得ない単純解釈をしていないだけのことである。
日本語で、中国語もそうだが、「髪の毛が伸びる」という言い方はするが、「シラガが伸びる」という表現は現実に見たことも聞いたこともない。その意味で、「千家詩」の解釈は、それなりの意義持つ。
  「ウイキペディア」は名前が示す如く、「エンサイクロペディア」とは若干異なる。誰でも編集出来るのと、限られた権威学者による編集、これが両者の大きく違う点であり、「ウイキペディア」は通常の「百科事典」としての役割を果たすことを目標にしながらも、同時に、広く情報提供の場として利用可能という独特の面がある。
私の投稿は「情報提供」が重点であります。あなたに指摘されるまでもなく、自分に百科事典の編集は出来ない、ということを私はノートではっきり言明しており、また、率直に言わせて貰うなら、これは私に限らず、大半の利用者にも言えることじゃないでしょうか。
 本文をいま一度よく読んで貰えば分かるが、日本で今迄殆んど知られて居なかった、そして日本の辞書の解釈とは意味合いの異なる本家の「千家詩」の解釈を、私は「ウイキペデイア」で紹介したのです。若干私の参考意見も述べているが、重点は「情報提供」です。
あなたは歴史を専攻されたようで、異なる時間、空間、意識の元で、同じ一つの歴史が異なる内容に変わることを、よく存じておられる筈で、歴史に限らず、その他の知識分野に於いても同様です。そのうちのどれを客観的に価値あるものとして取り入れ、尊重するか、読者が持ち合わせの知識を元にして判断し決めるわけで、多数者の選んだ説が一応、通説乃至定説として信頼性が肯定されることになる。「諸説の比較」というのがこのような知識向上と選択の為に必要になるわけです。
「シラガが三千丈の長さに伸びた」、これが日本に於ける従来の解釈である。しかし、本家の「千家詩」は、それと異なる、即ち、「シラガがふえた、つぎ足すと、三千丈位の長さになるだろう」という解釈をしている。前者の解釈は「現実にあり得ない」ものであり、後者の解釈は「現実にあり得る」ことである。
私はウイキペデイアで、漢詩の愛好者に「比較の機会」を提供したわけです。どちらが常理に叶うものであるか、それは数多くの読者に委ねるべきであって、あなたと私が議論して結論を出すべきものではないでしよう。また、議論するにしても、相手は「千家詩」という古典書であり、私ではないのです。
  現実に、「白髪三千丈 Wikipedeia」は、このところウエブサイトで、「goo 辞書」を始め、広く引用され始めております。それは、「千家詩」によるこの名句の「意訳」が、詩人李白の「嘆声」を現実のものとして生き返えらせ、人々により鑑賞され易くなったという点を評価されたものではないかと思うが、それは又、二年間に亙る、数多のウイキペデイア利用者による協力編集の結果でもあります。
そこへ、肝腎の出処である「白髪三千丈ウイキペディア」に「正確性」の標示が貼り付けたままになっているのは、一寸可笑しいのではないかと思って、管理者に参考意見を具申した次第だが。削除するしないは、その名の元に引用された「ウイキペデイア」が判断して決めることで、私はどうでもよいのです。
  従い、読書に専念したく、貴殿との議論も含め、これにて本件に触れることを打ち切ります。以上、了承乞う。仁目 2006年5月29日  》》

ノートでも、この井戸端でも、Wikipedia の「船頭」達との意見交換或いは議論で、仁目が切に感じた事は、李白の詩句に関し、その「正確性」に疑問があると言いいながら、それでいて、李白とその詩句について 何がしかの素養、知識を有していると自己紹介をしている者が一人も居なかった、という事である。

仁目は、李白詩の原産地である唐土の典籍「千家詩」を元にして、詩句の真意を論じているのに、《 いったいこれはどなたのご研究ですか。仁目さん自身のご見解でしょうか 》、《 ある事柄に対して説を展開する場合、先行研究を踏まえたもの以外は全く論外(ウィキペディアに掲載すべきものではない)ということにご理解はいただけているのでしょうか 》などと、本筋から逸(そ) れ、「千家詩」に付いては全く無知或いは無視するという発言を Aboshi はしている。これでは、議論のしようもない。

結局、Wiki の船頭達は「何を欲っしているのか」分からないまま、明らかに、詩句に馴染みのない船頭達を、これ以上相手にしても、時間と手間の無駄使いであると悟り、仁目は、Wiki から手を引く事に決めた。

あれから、十年の月日が経った。未だに、ウエブで良く original の「仁目記事」を目にする。
Googleや Yahoo で、或いは、Livedoor , Weblog , 引いては、マピオン大百科などで、「白髪三千丈」の関係記事を検索すると、『利用者 : 仁目ー百科事典』、『利用者: 仁目ー韓国辞書、ウイキペデイア』、『利用者ー会話: 仁目』などなどに再会する。共に、「出典 : フリー百科事典『ウイキペディア ( Wikipedia ) 』になっている。懐かしいと思うし、幸いだとも思う。

一日も早く、「白髪三千丈 Wikipedia 」の記事が生まれ変わり、疑問マークと正確さに疑問があるという「タグ」が外され、山上に登った船が、また、河に戻って来れる事を望んで止まない。

、、、、  白髪三千丈 ウイキ記事 全文終り  、、、、

【  wikipedia 「白髪三千丈」 仁目記事  山に登る 】    (二) 仁目子

2022-04-30 03:21:41 | Weblog
ーー  一挙に群がる船頭達 
   「船頭多くして、船 山に登る」  ーー


「好事、魔多し」とか、「出る杭は打たれる」というような俗語が世間で良く言われるが、それまで、李白を杜甫に間違えても、誰も見向きせず、訂正もしない記事が、利用者「仁目」( 以後「仁目記事」と称する) による大幅な改訂で「秀逸候補」に推薦された途端、俄然、風当たりが強くなり、一挙に船頭達が四方八方から群がり寄って来た。

ウエブで「白髪三千丈ウイキペデイア」を検索すると、「ノート: 白髪三千丈ウイキペデイア」という記事も、前後して一緒に出て来る。
「白髪三千丈ウイキペデイア」本文記事の外に、なぜ又、「ノート、、、」が影のように付いて出て来るのか?他の項目記事にはない不思議な現象である。

又、面白い事に、この「ノート、、、」は、本文の記事よりもずっと長文で、それだけに内容も豊富なので、本文記事の「舌足らず」を補って呉れる。「白髪三千丈」に深い興味のある読者は、是非ウエブでその「ノート、、、」に目を通してみる事をお薦めする。( かなりの長文なので、この記事で引用しない) 。

この「ノート、、、」は、秀逸記事に推薦された「仁目記事」に対する賛否の意見や議論や疑問と、それに対する、「仁目」の回答を書き込んだノートであり、2008/08/01 のHATENA 妄言砂漠 というブログに、「白髪三千丈 wikipedia」と「ノート、、、」について、次のようなコメントが載っていた;

《《 最新版はコンパクトにまとめられていますが、ノート
   での議論と履歴が充実していてたいへん勉強になりま
   した 》》

これで分かるように、ノートの内容は本文記事よりずっと充実しているので良い勉強になる。

このノートは、2004年5月31日から2006年七月27日まで、二年余りに亙り、仁目を含め計九人の「船頭」が議論に関与している。


先ず、「仁目記事」を「秀逸記事」に推薦した管理者であるMishika が、

《《 お願い、中国文学に不明な人には読めないだろうという漢
   字には、そのあとに( )で読み仮名を入れていただける
   とありがたいです。 Mishika 2004年5月31日 》》

という所から始まり、その後、続いて七人の「船頭」が変わるがわる疑問質問を出し、「仁目」がそれらに対し、それ相応の回答をしているが、多数の船頭による舵取りで、船の進路はなかなか安定しないまま、2006年7月7日に至り、ついに、「TUM」という船頭の独断で、《思い切って整理しました》という一言をノートに残して、「仁目記事」を改訂し、今日に到っている。

ウイキペデイアの記録によると、「TUM」という利用者は、2006年6月6日にWiki に参加して、2006年7月13日にWiki を去っていた。
つまり、2006年6月6日に加入した「TUM 」という新参船頭によって、7月7日「仁目記事」は十五行程度に減らされ、ズタズタに改訂され、その一週間後に彼はWiki を離れている。わざわざこの記事を荒す為にwiki に参加したようなものである。

嘗て「仁目記事」を「秀逸候補」に推薦したベテラン管理者「Mishika 」は、この記事の改訂を見て、2006年7月12日、次のような感想を利用者「仁目」宛てにwiki の「会話ノート」で述べていた;

《《 白髪三千丈、お久しぶりです。白髪三千丈を拝見しまし
   た。寂しい限りです。当てはまるかどうか、「船頭多く
   して船山に登る」ごとき集団の知恵の行き着いた先がこれ
   か、という思いですね。それにしても骨抜きしすぎで、含
   蓄も教養も抜け落ちてしまった記事になってしまったよう
   です。それでも最低限のことは追加執筆で補うしかないの
   ではないでしょうか。所詮、デモクラシー優位の共同作業
   なので、かなりの妥協をするしかないかと思いますけど。
   心中お察しします。 Mishika 2006年7月12日 》》

「船頭多くして、船 山に登る」とは、正しく言い得て妙である。記事一篇は、船一隻に相当する。七、八人の船頭が依ってたかって一つの「舵取り」を奪い合う、船は岩にぶっつかるか、山に乗り上げるしかないだろう。

因みに、この議論に関与した船頭の内、上述 Mashika, Tum , 仁目の三人の外に、その他六人の「船頭」( 利用者) をwiki の記録で見てみると、三人が素性不詳で、一人は生物、器官、毒物が主な興味となっており、その他二人については、これと言った経歴は見つからない。
つまり、この議論に関与した船頭達の中で、「仁目」「Mishika」を除き、その他は全て李白や詩歌や文芸という分野に於いて、或る程度の素養乃至造詣があるようには見えない船頭達ばかりで、それでは、船が河を走らず山の上に登ってしまうのは、無理もない。結果は、Mishika 氏が言うように、《寂しい限りです》の「白髪三千丈 wikipedia 」記事に生り果ててしまった。

白髪三千丈という文句が、誇張であるか否かは、白髪を「伸びる」に解釈するか、或いは「増える」に解釈するか、それでもって答えが決まると言っても過言ではない。
この文句の本家である唐土では、「髪の毛は伸びる、が、白髪は増えるもの」、という古くからの用語慣習に従い、白髪三千丈は、シラガが増えたという修辞学上の表現であるとして解釈しているから、この文句が誇張などとは毛頭思っていない。
それが、「仁目記事」の論旨要点でもある。

所が、日本では、俗語になり、誇張の代名詞として使われているので、この文句は「誇張」ではない、という仁目の論旨は、管理者 Mushika の推薦を得たものの、その他多くの管理者の「反発」に遭い、日本では「誇張」として使うのが当たり前、という「潜在意識」が強い為、推薦の賛同よりも、保留する者が多く、結果、秀逸推薦は通過しなかった。

「 船頭多くして 船 山に登る 」という一言に、共感を感じて、仁目は、それっきりウイキに投稿するのを止めた。 

、、、、  つづく 、、、、