goo blog サービス終了のお知らせ 

思考の踏み込み

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

忍び2

2013-12-24 09:07:40 | 歴史
「サムライ、ハラキリ、フジヤマ…」
などとともに、「ニンジャ」といえば
日本語の中で世界で認知されたものの一つである。

だが不可解なことに、外国人が多く入ってきた幕末、侍や切腹は実際に目にすることができたが、「忍び」を見た者などいたのであろうか?



もちろんいない。
それなのに世界語となっているところに "忍者" という存在の魅力の強さを感じる。

そもそも我々が抱く忍者のイメージは、大正期における 「立川文庫」に始まるといわれる。

その元は講談を筆記したものであり、多くは作り話で少年向けの内容であった。
荒唐無稽な技や、実際には存在しない忍びの創作などがほとんどであったという。

さらにその講談のもとになっているのが、江戸期に忍者の子孫たちが自らの家系伝説に箔を付けるために誇張した話だというのだから、いよいよその実際の姿はたよりなくなる。



だが忍者が実在したことは確かであり、様々な諸記録からも伝説的な忍者の超人的な活躍というのも見てとれる。

資料は十分に残っているから、一つ一つ正確に検証してみれば真実の忍びの姿というものはみえてくるであろう。

しかしこれはただの学者には出来ない。
なぜならそこに極めて高度な身体技法が存在するからである。

自分が忍者という存在に感じる限りない魅力はここにある。
従って忍者の真の姿に迫るには、身体感を追求している武道家など身体を専門に扱う達人でなければ無理である。

忍び

2013-12-23 14:42:24 | 歴史
有史以来、世界各地において様々な人間の集団というものが形づくられてきた。

宗教や思想、文化的集団、技術的な集団や近世に入れば商業的集団も出てくる。

中国の戦国期における縦横家と呼ばれた人々 (これは集団の形はとっていないが) などもこれらの人間のカテゴリーの中でおもしろい一例であろう。

これらの集団は独特の個性を性格として持ち、その所属する土地において歴史と規模に拡がり得ると、やがてその国や民族を代表する一つの文化にさえなる。

インドにおけるヨギの集団や、世界各地に影響を与えたアラビアの船乗り達、中世ヨーロッパにおける錬金術師やそれに付随した魔女とよばれた人々などもおもしろい。



彼らに共通していることは宗教、科学、数学、天文学などがまだ未分化の状態であること。
その曖昧さの中にこそ人間の夢やロマンを空想させる調味料が潜んでいるといえよう。


他にも、遊牧民などは農耕型の我々には一集団というより生活形態そのものがある種のロマンとともにあるし、ジプシーと呼ばれる本来哀しい宿命を背負った人々さえ、その文化的形態は興味がつきない。

音楽や演芸、旅周りのサーカスなど、かれらの果たした文化的役割は大きいだろう。

はじめは単に宗教的な集団に過ぎなかった欧州の修道士たちが、命の水 ー
"アクアベルタ" といって多様なスピリッツを生み出していったことも、それだけを研究する学者になりたいくらいである。



しかし、これら世界各地の多種多様な人間の集団の中にあってひときわ異彩を放つものが我が国にあった ー

"忍び" ー いわゆる、忍者と呼ばれた集団である。

虞美人草6

2013-12-19 09:35:26 | 歴史
さて、項羽のことである。

彼は無念にも天下を取ることなく散ったが、逆にいうともし彼が天下をとったとしても、かえって悪王としての印象しか後世には残らなかったかもしれない。

劉邦に敗れることは歴史上において、彼にとってもむしろ幸いだったのではないか?

一個の軍人、あるいは将として、また政治家としてもどこか不完全だった項羽だが、一編の詩として彼の生涯を観ると、劉邦に敗れること以外にその完結はあり得ない、とさえ思える。

敗北することによって項羽の荒ぶるばかりの力、悪逆非道の大量殺人さえ、どこか昇華されてその力強過ぎるエネルギーだけが印象として残った。

彼が芸術家であったなら、彼の死は敗北ではなく、見事な成功だったといえよう。



死の間際、愛馬騅(スイ) に跨り、わずか数十騎で赤旗たなびく漢軍の何十万という囲みを脱出する項羽の姿は、詩として十分に美しく、鮮やかに目に浮かぶようでさえある。

そして彼は最期に冒頭に書いた詩を吟ずることによって "項羽" という英雄詩を見事に完成させた ー



"力 山を抜き 気は世を蓋ふ
時に利あらずして 騅逝かず
騅逝かざるを 奈何 (イカン) すべき
虞や虞や 若 (ナンジ) を奈何せん "


虞美人草5

2013-12-19 08:42:41 | 歴史
どうも今回の主題ははじめに構想したものからはややそれてしまった。

だが以上の問題は経済や世の中の仕組みの根元までみようとすれば触れざるをえない。

一つ一つをくわしく見ていけば膨大なテーマなってしまうので避けるが、幸いに情報源が電波と新聞に限られていた時代は終わり、玉石混交とはいえネットの世界では正しい情報が多く発信されている。

一人一人が正しい情報を掴み、正しい判断を下せば、現近代において行われてきた大衆を騙し続けるということはできなくなってくるはずだ。

これは理想論だろうか?

理想論とは現実と乖離した思考に対していわれるものである。
真の理想論とはその乖離の内容を分析し、解決法を模索することではじめて成立する。

それは虞美人草のようにはかなく、弱々しく見えるかもしれない。



しかしその美しさには誰もが心を動かされる。その感情から目を背ける必要はない。
現実主義などと生悟りして、理想を失えば人間の進歩など止むだろう。

愚民化、洗脳、家畜化、支配、搾取。
それで世界が安定したとしても、果たしてそれで良いと誰がいえるのか?

人間の自尊心と自由を欲する本能はどんな方法を駆使しても永久に奪うことなどできない。

世界の在り方の理想はこの事実に寄り添って考えられなければならないだろう。


虞美人草4

2013-12-18 18:12:13 | 歴史
政治の中核は経済ではないかと前途したが、20世紀において起きた悲惨ないくもの戦争でさえ、根本を洗い出してしまえば、経済の問題にたどりつく。

帝国主義同士の衝突や、イデオロギーの対立だとか、民族間の軋轢とかいったことが原因だとされてきたが、そんなものではない。

背後にあるのは基軸通貨を巡る勢力圏の争いであり、一つの勢力圏を潰すためにはその圏内同士での対立が1番手っ取り早い。

東アジアのみではない。
アジアはこの勢力争いに巻き込まれ、踊らされ、はたしてどれだけの人間が血と涙をながしたか。



その犠牲の果てに世界の富はどこに集中しているか?

経済学者は景気と株価と為替の予測しかしない。それはギャンブルに似て感覚をまひさせ、真実から目をそむかせるには巧妙なシステムであろう。

そろそろ我々はこの仕組まれた対立構造に踊らされることから抜け出さなければならない。

だがなにも世界のことまで考える必要はない。
東アジアがもっと正常な関係に戻るにはどうしたらよいかだけでも根本から考えなおすべきであろう。

政治に任せていたら何百年経ってもムリであろう。その政治が主導する経済交流でも不十分である。

それは文化によるしかない、と思う。
東アジアが共有していた東洋文化の叡知は人類史でみても燦たるものがある。それを対立構造の中で互いに失われていくことが残念でならない。

政治や利権の絡まない、純粋な文化人同士での交流が行われれば、それは防ぐことができると思う。

これから ー おもしろい時代が来ることになるだろう。そう願ってやまない。