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 加藤楸邨の一句鑑賞(一)  高橋透水

2013年12月09日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
  鰯雲人に告ぐべきことならず   楸邨

  楸邨の本籍地は明治三十八年東京生れとなっているが、出生届は山梨県の大月である。父親が国鉄の駅長を務めた関係で、転勤が多かった。転勤で住居が幾度も変わったことは、多感な楸邨の少年時代に影響し、その後の句作にも反映することになる。また父は敬虔なクリスチャンで、楸邨も大正九年、十五歳の頃にキリスト教の洗礼を受けている。家族思いの父であったが楸邨が二十歳のときに他界している。長男の楸邨の苦悩は一層強まった。俳句は粕壁の教員時代に同僚に勧められて始め、やがて秋桜子の「馬酔木」に入会した。
 鑑賞句は昭和十三年の作。日本は軍国主義に傾き、また思想や言論統制も厳しくなり始めた時期だ。昭和六年九月には柳条溝事件、満州事変が勃発し、翌七年に満州事変に拡大した。更に同年には五・一五事件があるなど世情は暗くなる一方であった。更に、昭和十一年の二・二六事件が起きたが、中国への侵略は続いて、楸邨の知友も相次いで出征していった。物資が統制されてゆくなかで父の亡くなった後の、妻子のある楸邨の生活は決して楽ではなかった。こうした時代のなかで俳句界にも変化があり、無季俳句を標榜する俳人達は馬酔木を離れた。俳壇は混乱しだした。
 物が言いたくても言えない、人に告げることもできない。俳句は所詮「物の言えない詩型」なのではないか、と楸邨は悩みだした。しかしそんな苦悩のなかで、掲句は句集『寒雷』に収められた。その頃の楸邨の様子を師である秋桜子は『寒雷』の序文で、「楸邨君は必ずしも幸福ではなかったらしい。私は句会の席で、次第に沈鬱になってゆく表情を見逃さなかった」と述べている。
 秋桜子は楸邨の憂鬱を打開し、また俳句の迷いを好転し、生来の向学心を満たすべく上京を勧めた。楸邨は悩んだ末、師の意を汲み大学に再入学した。三十二歳のことである。
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