うんどうエッセイ「猫なべの定点観測」

おもに運動に関して、気ままに話したいと思います。
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「世紀の大誤審」で篠原信一が敗れてから今日でちょうど10年

2010年09月22日 | 運動全般
今月東京で開催された柔道の世界選手権。対日本人無敗で最重量級の絶対王者だと思われたテディ・リネール(フランス)が、大会最終日に開催された無差別級の決勝で無名の上川大樹に延長戦の末に旗判定で破れ、まさかの黒星を喫しました。内容的にはあまり誉められたものではありませんでしたが、持てる力を全て発揮して大健闘した上川は殊勲の金星を挙げました。

とはいえ、試合終了後のリネールの行動は残念でしたし、非常に情けなかったと思います。たしかに、微妙な判定でしたし、おそらく敵地でやっていたら逆の結果になっていたのかもしれません。相当な自信で臨んだリネールの無念は理解できます。とはいえ、リネールは延長戦ではバテていたので、上川に何度か投げられていたので審判に対する印象が悪く受け取られても仕方が無いでしょうね。それに、主審が下した判定は絶対ですし、審判団が畳を降りたら試合が成立します。ただの悪あがきに見えますね。



ただ、この試合を観てふと思ったのが、今からちょうど10年前の2000年9月22日に行われたシドニー五輪男子100kg超級の決勝戦です。現在男子の日本代表監督を務めている篠原信一が、ダビド・ドゥイエ(フランス)に誤審で金メダルを盗まれた事件です。奇しくも、今回と同じ日本とフランスの選手同士の対戦でした。

篠原は中学1年から柔道を始め、育英高校を経て天理大学に進学。持ち味は大外刈りでした。大学生の時にその才能が開花し、多くの大会を制覇。日本代表にも入ります。1990年代半ば頃までは小川直也の全盛時代だったので、全日本選手権のタイトルを獲得出来ず、後塵を拝しました。千葉の幕張で開催された1995年の世界選手権では無差別級で参加しましたが、セルゲイ・コソロトフ(ロシア)に準決勝で敗れて3位に終わりました。結局、アトランタ五輪の95kg超級(当時)は全日本選手権で通算7度目の優勝を果たした小川が代表になります。

小川はアトランタ五輪で5位に終わり、柔道選手を引退。のちに、プロの格闘家に転向します。小川の後継となって、日本の最重量級の頂点に君臨したのが篠原でした。全日本体重別選手権は1997年から5連覇。念願だった全日本選手権は1998年から3連覇を果たします。日本代表としてもあらゆる国際大会で優勝して実績を残します。

中でも、1999年に英国のバーミンガムで開催された世界選手権では、篠原は100kg超級と無差別を制して2階級制覇を達成。世界選手権で日本人男子選手が2階級制覇を達成したのは、1981年マーストリヒト大会の山下泰裕、1989年ベオグラード大会の小川、そしてこの大会の篠原の3人だけです。まさに偉業達成であり、翌2000年のシドニー五輪の金メダル最有力候補に躍り出ました。


☆1999年の世界選手権で、インドレク・ペルテルソン(エストニア)に大外刈りで倒して100kg超級で優勝
  無差別級も全試合一本勝ちで制して、日本人3人目の2階級制覇を達成(1999年10月7日 @英国・バーミンガム)



順当にシドニー五輪の日本代表に選出された篠原。この大会の日本柔道陣は、男子が60kgで2連覇を果たした野村忠宏、81kgでは「7番目の男」と称された無印の瀧本誠、100kgでは当時まだ大学生だった井上康生が優勝(→ちなみに、瀧本に関する記事はこちら)。女子も48kg級で田村亮子が五輪出場3度目にして悲願の金メダルを獲得するなど、すこぶる好調でした。それだけに、篠原に対する期待は俄然高まりました。最も重い階級の100kg超級は、柔道競技の最終日である9月22日にシドニー・コンベンション・アンド・エキシビジョンセンターで行われました。

篠原は、初戦となった2回戦でベラルーシのマリア・シャラポフに開始僅か48秒で内股で一本勝ち。次戦の3回戦ではカザフスタンのベルドータに先に有効を取られるも、2分19秒、鮮やかな体落としで逆転の一本勝ちを飾ります。4回戦ではキューバのサンチェスと対戦し。組み手を嫌がるなど消極的だったサンチェスが指導2つを取られ、篠原が辛くも優勢勝ちして準決勝に進出。

準決勝の相手はロシアのタメルラン・トメノフ。篠原は組んでもなかなか技を仕掛けず、指導を受けるなど相手にポイントをリードされます。しかし、試合終盤の3分43秒、トメノフの動きが鈍ったところを得意の大外刈りを仕掛け、力でなぎ倒して一本勝ち。苦戦を強いられたとはいえ、篠原は順当に決勝進出を果たしました。決勝戦で篠原を待ち構えていたのが、前回アトランタ五輪の金メダリストのフランスのダビド・ドゥイエでした。


☆準決勝でトメノフに大外刈りで苦戦の末に逆転勝利
  この時点では篠原の金メダルはほぼ確実だと思いましたが・・・



ドゥイエはバルセロナ五輪の準決勝では小川に一本負けをして銅メダルに終わりますが、逆にアトランタ五輪では準決勝で小川に優勢勝ちして金メダルを獲得。また、この大会の前年に千葉で開催された世界選手権では、95kg超級(当時)と無差別級を制して2階級制覇を成し遂げます。更に、1997年にドゥイエの地元フランスのパリで開催された同大会でも95kg超級を制し、大会3連覇の偉業を果たしました。日本柔道界にとってはドゥイエは宿敵の存在でした。しかも、篠原もこのドゥイエとは因縁がありました。

それは、ドゥイエが3連覇を果たした1997年の世界選手権です。95kg超級の決勝戦で両者は対戦。1995年のフランス国際では篠原がドゥイエに勝利してました。この世界選手権では組み手争いに苦しんだとはいえ、篠原が積極的に技を仕掛けて試合を優位に進めているように思えました。だが、この試合の主審は明らかに地元のドゥイエ寄りのジャッジを下します。主審は篠原に対して執拗に指導を取り続け、なんと反則負けにさせられました。日本側は猛抗議するも、覆えるはずが無く、無念の敗退を余儀なくされました。この不可解な敗戦が、3年後の事件の伏線となります。


☆露骨なまでの地元判定でドゥイエに反則負けを喰らった1997年の世界選手権(1997年10月9日 @パリ)



ただ、慢性的な腰痛を抱えていたドゥイエは、この大会以降3年間で僅か3大会しか出場できませんでした。ドゥイエはシドニー五輪の代表には名を連ねるものの、大会直前になってようやく出場の決断を下すほどでした。苦戦しながら決勝まで勝ち上がった篠原でしたが、ドゥイエの近年の体調を考えると下馬評では優位と囁かれてました。不可解な判定で敗れた3年前の復讐に燃えていた篠原にとっても、ドゥイエは願っても無い相手でした。

柔道競技の最終種目として行われた100kg超級決勝。日本勢は1988年ソウル五輪で斉藤仁が優勝して以来、最重量級の王座を逃し続けており、3大会ぶりの覇権奪還が篠原に課せられた至上命令でした。一方、ドゥイエは前回のアトランタ五輪に続く2連覇が懸かってました。お互いにとって絶対に負けられない戦いでした。

試合序盤はお互いに警戒して組み手争いに終始し、中々技を掛ける展開には至りません。試合開始から1分40秒頃、篠原の背中の帯を掴んだドゥイエが内股を仕掛けます。だが、ドゥイエの動きを見抜いた篠原は内股すかしで返し、ドゥイエを背中から畳に叩きつけます。一本勝ちを確信した篠原は両手を挙げてガッツポーズを見せます。日本人が大勢駆けつけた会場も、金メダル獲得の喜びに包まれました。

ところがその直後、電光掲示板にありえない表示がなされました。なんと、一本を掛けられたはずのドゥイエに有効のポイントが表示。2人を間近で見ていた副審は篠原の技を一本と宣告しますが、あろうことかニュージーランド人の主審クレイグ・モナガンともう1人の副審はドゥイエの内股を有効と判定。結局、この誤った判定は覆らず、試合はこのまま続けられました。

その後、消極的になったドゥイエに指導が取られ、お互いに有効1つとなったのでポイントでは並びます。残り時間も僅かになったので、細かいポイントを奪えば勝敗の趨勢が決する展開でした。そして、試合残り45秒、篠原が内股を仕掛けますが倒しきれず、逆にドゥイエに返されます。見た目には腹ばいに倒されたので効果に相当するポイントかと思われましたが、なんとこれを主審は有効と判定。その後、篠原は反撃を試みるもポイントを得るに至らず、結局この有効のポイントで上回ったドゥイエが勝利を収めて五輪2連覇を達成。3年前に不可解な判定でドゥイエに敗れた篠原にとっては、再び悲劇に見舞われました。


☆今あらためて見直しても怒りが込み上げて来るこの一戦
  異次元レベルのクソ審判の下した誤審のせいで篠原の金メダルが盗まれました



「自分が弱いから負けた」と伏目がちに語った篠原は潔く引き下がりますが、試合終了後、日本の関係者は当然審判団に猛抗議をします。だが、判定を覆すことは出来ませんでした。五輪終了後、国際柔道連盟(IJF)は、この試合のビデオを分析。その結果、篠原もドゥイエも技が完全ではないとIJF理事会は判断。問題の場面では両者にポイントを与えるべきではなかったと結論付け、篠原の内股透かしを無効としたことではなく、ドゥイエの内股を有効としたことについて誤審と認めます。だが、3人の審判団が畳から降りてしまったので試合は成立する為、IJFの規定によりドゥイエの優勝は覆りませんでした。

日本は世界の舞台で戦う時、どうしても不利な判定を受けやすいこともあり、審判に文句を言わせない為に愚直なまでに一本を狙う傾向があります。柔道の発祥国としては、ポイントを狙う戦いはあまりに姑息に映り、おそらくプライドが許さないのでしょう。また、日本のコーチ陣が外国語を理解できずに、抗議する場面で明確な意思を示せなかったのも痛恨でした。ある意味この試合は、日本の「柔道」が世界の「JUDO」に敗れた一戦だったのかもしれません。

ただ、このシドニー五輪は、カラー柔道着が採用された最初の五輪大会でしたが、肝心の審判がレベルが低く、正しい判定を下せなかったのはあまりにもお粗末でした。この事件を機に、IJFは誤審防止や判定の難しいケースに備えてビデオ判定を導入し、ルールの徹底と試合判定の明確化に力を入れるようになります。

ちなみに、ドゥイエはこの大会で連覇を果たして引退します。復讐の機会を奪われた篠原も、この事件以降は成績が下降を辿り、3位に終わった2003年の全日本選手権を最後に引退。結局、篠原は、最初から最後まで主審の下した不可解なジャッジに泣かされる格好となりました。



あの事件から10年の月日が経ちました。まあ、今大会のリネールは残念な結果となりましたが、篠原が味わったあの酷い事件に比べたら、今回の敗戦なんて遥かに許容範囲ですね。

それに、今回はある意味事故みたいな試合で負けたので、リネールがこれで終わるとは思いませんけどね。

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2 コメント

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ジャンクスポーツで (こーじ)
2010-09-23 00:24:37
 私もあの試合を見て憤慨したクチです。

 ただ決勝の主審は野村忠宏の初戦で下手したら野村の一本負けのシーンをよく見ていた審判でしたから、余計に残念でした。

 ちなみにジャンクスポーツで篠原が‘弱いから負けた’と言い訳しなかった理由に付いて
「あまりに返し技が綺麗に決まって残心を忘れガッツポーズをしたのが敗因。
 残心を心がけていれば審判は‘一本’のコールをしてなかったのだから、そのまま抑え込めば一本勝ちできたのに」と語ってました。

 ただ日本は審判の判定に抗議するのをよしと
しない傾向が強いのに対し、フランスなどのラテン系は自己主張が強いですから謙譲の美徳などという幻想を捨てて主張するべきところは主張しないと篠原のような悲劇は繰り返されかねませんね。
 
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コメントありがとうございます (猫なべ)
2010-09-23 20:43:35
こんばんは、こーじさん

この試合のニュージーランド人の審判が、野村の試合を担当していたのは初耳でした。

昨年末に「グランドスラム東京」を中継したテレビ東京が、過去の柔道名勝負を深夜番組で取り上げてました。
この試合も取り上げてましたが、解説の人が仰るには、主審は例の場面ではドゥイエだけしか見てなくて、
篠原を全く見てないことを説明してました。
とても、野村の試合を担当した審判とは同じ人物に思えないですね(笑)。

あと、この場面で日本のコーチは日本語で猛抗議していたシーンを覚えてます。
あのシーンを見て思ったのは、“JUDO”では日本語が全く通用しないということです。
最低限の英語が喋れない物見遊山の役員は、選手を庇えないどころか、
有害で無益な存在だと思い知らされました。
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