キョロキョロ散歩の雑記帳

あちらこちらの里山や緑地公園・史跡を探訪しながらキョロキョロ歩き回って思いつくまま記します。

名東へのみち

2012-01-19 14:44:47 | 知識

16日 世界の古代史講座の後、名東生涯学習センターで〈なごや学〉歴史がつながる・広がる~名東へのみち~講座があり、都合6日間の講座予定。

そもそも名東史跡の会が発足したのも、学習センター主催の名東区の史跡探訪講座が縁でできた。

その時の講師が 本日の講師 小林 元 先生。

今回も運よく抽選に通り受講となった。(40名の定員に80名近い申し込みだったようだ。)

毎回月曜日の午後1時30分から3時30分で4回まで座学、5~6回は現地学習。

今日は公開講座で、定員60名のところ、推定70名近くの参加者だったのではないだろうか。

講座の予定は次の通り。

今日は、~城下町の発展とみちのつながり~について江戸時代文政年間の地割や名所絵図から広小路の賑わい、札の辻、広井官倉などをA3版のコピーを見ながら解説あり。

戦前、小林先生は仲田に住んでおられたが、戦災にあわれ、戦後高針の山中に土地を借り掘立小屋を建てて住まいとされた。

地名が極楽(現在もあり)。しかし生活は地獄であった。知り合いが手紙を送ってくれたが届かず。手紙は極楽にはまだ届かないという笑い話。

名東区は尾張東部のはずれに位置するが、先生ご自身が学校の教諭として昭和41年頃猪高中学に転勤。約9年間在籍していたが、着任当時は1学年3クラスであったが、その後区画整理も進み、大森中学に転勤する頃には1学年がK組(11クラス)にまでなっていた。

高所を削り、低地を埋め立て激しい変わりようにこれからの人たちのためにも、本にして残そうと思った。その後千種台中学に転勤。

私は先生の著書4冊ほど手に入れた。「猪高村物語」、千種村物語」香流川物語」矢田川物語」。

長い間、城下町の東のほうにかかわってきたと述べておられる。

古代の国府(こくふ)は現在の国府宮、稲沢周辺であり、清州などは尾張の先進地である。引き換え東の丘陵地は後進地で、記録も満足になく、猪子石の地名が室町足利の2代目(義詮=よしあきら) 伝に出てくる程度。

名古屋城を築城するに当たり、候補地が3か所あり。小牧、現在地、元東別院。

現在の名古屋城の北側は湿地であった。

名古屋は東西に発達するが、南北は今でも交通が不便。それだけ物流が少ない。

先生の説明には博物館発行の地図を使われたが、A3のコピーなので紹介できない。昨年博物館で同じものを手に入れていたので、改めて見てみる。この地図は博物館の大変な労作で、テレビで紹介され博物館まで買いに行ってきた。

 

右側のマップは東部。あと西部と南部がある。全部で3部。発売当初は全体図があったようで4部構成。

東部のマップの東側をスキャンした。中央の囲い枠は建中寺。

高針道はこの建中寺の南側を通りその先を南にとり、中央線に架かる 高張橋を渡ってまっすぐ現在の池下まで出るとあとは、覚王山(当時は月見坂)から末森、追分=元星が丘から高針へ。

市内の鉄道についても説明されたが、少々話が混乱するので、折を見てまとめてみたい。

 

 


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