キョロキョロ散歩の雑記帳

あちらこちらの里山や緑地公園・史跡を探訪しながらキョロキョロ歩き回って思いつくまま記します。

西区 ぶらり旅

2012-11-30 14:59:59 | 歴史探訪

名古屋西傷害学習センター主催の「西区 ぶらり旅」~ものづくり文化の道・歴史情緒漂うまちを訪ねて~と題した〈なごや学〉講座に参加。

都合5回の講座のうち、第2回「お城へと続く道~美濃路を歩く~(11月2日)と第5回「歴史情緒ただようまち~円頓寺・四間道界隈の魅力~(11月30日)の2回しか参加できなかったが纏めてみた。

第二回(11月2日) 美濃路を歩くは古い町並みと寺院を拝観しながらぶらりと歩く。

途中凧屋さんにたちよる。

 

今では飾りとして購入するようだ。

紙は美濃和紙、絵は岐阜で、完成するのが凧茂本店。

美濃路は昔の区割りで間口が狭く奥行きが長いのが特徴。

 

屋根神様も散見される。

 

美濃路に入ってすぐに幅下観音。

お寺は林貞寺という。山門も重厚でなまこ壁。

 

北畠顯家の守り本尊とあり、寺の本尊は馬頭観音。

美濃路は荷駄が行き交う路だったことが想像できる。

11月2日の終着近くに八坂神社。

この神社は大提灯をあげる祭りで、この近辺では有名とか。

 

懸垂棒のようなものは、その提灯をつるすためのもの。

ここを出て、清音寺で第2回ぶらり旅終了。約2時間。

お寺からすぐ庄内川の堤防に突き当たる。突き当たりに、美濃路の案内。

さて、第5回は、一昨日(11月30日)開催。

地下鉄桜通線丸の内集合。北改札集合と指定されているが、この駅は鶴舞線と交叉しているので、改札口がよくわからず大回りして無事到着。

もうすでに全員集合していた。

ブルーの上着はスタッフ。

今日のコースは時間がたっぷりかかると、時間通り出発。

スタートに当たり、本日のレジュメを支給される。

レジュメ冒頭に、堀川と碁盤割の解説あり。

● 名古屋の碁盤割り:慶長14年(1609)家康、名古屋城築城と遷都を決定。東西に11列、南北に9列、99ブロック。

● 堀川:慶長15年(1610)福島正則を中心に20の大名により開削。

堀川の橋と言えば堀川七橋。堀川七橋は上流側から五条橋、中橋、伝馬橋、納屋橋、日置橋、古渡橋、尾頭橋のことを言い、堀川が開削された1610~1611年に架橋されたものであるそうだ。

今回は、五条橋と中橋の間の東西にある歴史的な路を散策。

最初に五条橋に向かう。慶長15年(7年)清州城下の五条川に架橋。清州越で名古屋に移築。

  

擬宝珠(ぎぼし、ぎほうしゅ)に慶長7年と書かれているが、実物は博物館で収蔵、橋にかかっているものはレプリカ。

五条橋の手前(東側)の北側に美濃忠本店、路を挟んで南側に高橋邸。

 

美濃忠は江戸時代から続く和菓子の名店。高橋邸は広大な敷地で写真奥に見える高いマンションも含むようだ。

高橋邸玄関前の通りが「皆戸通」。通りの東側は昔建具職人が住んでいたことから皆戸となった。

このあたりの土地割は10間四方に区割りされたため、どうしても閑所(かんしょ=路地)ができる。その閑所の典型的なところが皆戸町に残っている。まだ住んでいる人もいそうだ。

 

しばらく南に進むと「鬼頭邸」。朽ち果てたような門構えの家だが、敷地内には立派な庭があるという。松坂屋の3代に仕えた大番頭の方。松坂屋があるのも鬼頭氏の努力によるとまで言われるそうだ。

皆戸通りを西に曲がると中橋に出るが、手前を堀川沿いに北に進む。このあたりは材木・木挽商が多く住んでいたところ。今ではこの道筋には1軒のみ。通りの名は木挽町通。

中橋の際に昔堀川から荷揚げした船寄せ場が残っている。

 

木挽通りを北に進むと、すぐ東側に「船源」という屋号を名乗った立派な家がある。現在は材木に関係ないそうだ。

この家の先、西側に残った材木商があり、突然に見学頼み見せてもらう。

 

下に見えるのが堀川。材木を荷揚げした名残。

五条橋に戻り、橋を渡って美濃路へ出る。

堀川周辺には風呂屋が多くあり、円頓寺へ来た人や、第6師団の兵隊、その兵隊に会いに来た親兄弟との出会いの場、材木を運ぶ船人足、水上生活者(昔は堀川に多くいたそうだ)等々雑多な人で繁盛していたそうだ。時代の中で、殆ど廃れていったが、弁慶湯という橋の西詰にあった湯屋だけが、残って頑張っていたが、湯屋の主人も高齢で、平成5年廃業したそうだ。弁慶湯は明治33年開業だったとか。

美濃路ではすぐに 豪商 伊藤家(現在は名古屋市の文化財指定)の前に出る。こちらの伊藤家も清州越しの時名古屋に出てきたが、こちらは新田開発で財をなし、米を中心の商いだったようだ。

  

写真右の出はここから前・左右を見ることができる窓だそうだ。

こちらの伊藤家を川伊藤と呼ぶ。

松坂屋の伊藤家と区別するための呼び名。

隣には青木家がある。こちらも清州越しで名古屋に出た塩問屋。現在も商いは続いているようだ。

青木家は早々と新建材で回収しており、文化財に指定されず助かっているようだ。

なぜなら、指定されると少しの手直しでも市に申請するなど面倒が多いそうだ。

中橋に出る。

この橋は大正6年に改築され、その時の姿・技術が残っている貴重な橋。

  

いよいよ四間道(しけみち)に出る。四間道とは元禄13年(1700)1600余戸を焼失。防災のために道幅を四間にしたことから付いた名。

出るとすぐに、浅間神社。

公孫樹の木が見事。

  

小さい神社ながら、近隣の住民が大切に守っているそうで、普段から境内は常に掃き清められ、出勤前のサラリーマンも参拝して出勤という姿も見られるそうだ。

この神社に神楽殿がある。普通この程度の社に、神楽殿は見たことない。

  

神社を出て北に進む。当然川伊藤家の裏手の通りに当たる。

石垣は川伊藤家の蔵の土台。この蔵は過去から現在までに改築したときに出た、廃材などを保存している。それは職人が時代とともに忘れてしまった技術を現在に生かし、初期の伊藤家を現代に残すためといわれている。

現在の大奥様は自分の代で失わないようにと、頑張っておられるそうだ。

途中から西に入る。

立派な屋根神。伊藤家の家作だが、今もしっかりとお守りしている。毎月1日と15日祭礼を行っているとか。彫刻を施された立派なもの。

  

屋根神の奥が閑所になっていて、突き当たりにお地蔵さま。子守地蔵というらしい。

この道は子供たちが遊ぶのに危険がないことも地蔵の名になったのかも。

次に、見学を頼んだ菓子屋へ。

最中を手作りしているお店。店は小さ、商いしているようにも見えない入口。奥のほうに作業場があるが狭いので、順繰りに見学。

型がずらりと並んでいるが、作り方はよく分からず終い。

10コ1050円と書いてあったので、購入してみた。帰って食べてみたところ、なかなかのもの。最中パリパリ、挟む餡が品の良い甘み。これは買い物でした。

この家の二階ベランダに屋根神が祭られていた。

向かいはお寺。真宗高田派愛知別院。特段のことないようだったが、境内に入り鐘楼が目に入った。鐘楼へは上がれないようになっていると思いきや階段に止めるようなものがない。

お寺のお庫裡さんらしき方が私を見咎め、鐘楼に上がってはだめとキツイ言葉。引き上げる。

寺を出るともうそこは円頓寺商店街。商店街の夜だけ営業の店があった。

夜は賑やかだろうな。

すぎるともうそこは商店街。

慶栄寺太子堂・松濤庵が奥まったところにあるが、入山はできない。江川端通りに向かうと、金毘羅宮。

  

その先に商店街の名前にもなっている「円頓寺」。商店街はえんどうじ。お寺はえんとんじ。

 

本堂脇のお堂は鬼子母神を祭る。額には尊神堂となっている。

これで、完全終了。

江川端通りに出て、国際センタービルへ向かい、地下鉄に乗る。

充実の2時間でした。清州越しの名残があって、まだまだ多くの歴史的な見どころがある。また機会があれば参加したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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