キョロキョロ散歩の雑記帳

あちらこちらの里山や緑地公園・史跡を探訪しながらキョロキョロ歩き回って思いつくまま記します。

漸く各種講座が終盤

2015-07-19 14:13:55 | 雑記

すっかりさぼり癖。

講座の受講に出かけると講座の受講時間は2時間だが、家を出て帰宅するするまでほぼ5時間掛る。

今年の前期講座は私にとって興味満点の講座が多く、残すところ僅かだが最後まで参加する予定。

すでに終了した講座が2つ。一つは南区の生涯学習センター主催の「東海道と東山道を結ぶー塩の道と四間道を歩くー」で、実際、笠寺観音から覚王山まで現地を歩いて案内してもらいました。もう一つは、東区の生涯学習センター主催の「古地図から探る東区・今昔」でこの講座も江戸から明治・大正・昭和の街の変遷、近代における東区の都市形成について過程、加えて現地学習によって東区の歴史の一端がよく分かった。

今回の前期学習で5月・6月・7月の3カ月。気温が高く湿気も多く終盤には雨も加わって、出かけるにも体調維持を心掛けてなんとか完走できそう。

堀川の水運を利用した木曽と名古屋のかかわりも面白く、昨年4月に中部森林管理局に展示場が併設されたそうで、18日(土)はこの展示場で白鳥貯木場の歴史と跡地の現状を画像を交えながら説明を受けた。

ここに張り付けた地図は「1;25000 名古屋デジタル標高地形図 国土地理院発行」。

この地図で見ると名古屋のゾウの鼻と呼ばれる熱田台地の高低差がよく分かり、堀川はこのゾウの鼻の鼻に沿って掘り下げられたたことがよく分かる。このゾウの鼻の西側は低湿地でおそらく掘り進めるには軟弱地盤で楽だったのではないかというのが講師の意見。

また、熱田生涯学習センター近くの白鳥橋南に愛知時計電機㈱のガラス張りビルが際立っている。この会社は終戦直前の空襲で工場にいた2000人を超える方々が爆死されたと聞いており、工場の堀川沿いに碑も建ててあり、平和公園には哀悼の碑が建立されている。

たまたま白鳥庭園の作庭思想について現地学習を受けて時、12時を回っていたが展示場なら時間に関係なく入れてもらえると勝手に決め込んで、堂々と正面入り口から受付へ。受付の方や案内してくださった方には突然の訪問お許しを!

でも、一般公開の展示場はなく受けつから担当部署へ社内電話で要旨説明。すぐに担当部署の方が出てこられ、実は一般公開するような展示はしていない。しかし、小さい部屋でが時計と飛行機模型を展示しているのでよろしければと案内される。

昼食時間にもかかわらず、得体の知れない私のためにいやな顔一つせずご案内いただく。

さすがに、飛行機を制作していた歴史が一目でわかる。聞くと艦載機が主だってようだ。三菱大江ばかり取り上げられるがこちらももう少し何とかしないと。

  

見学後名刺を下さり、何かお調べのことでもあればいつでもお問い合わせくださいとご丁寧なごあいさつ。私は名刺持ち合わせがなかったので身分証明を見せて辞去した。

愛知時計電機㈱の北西角に地蔵尊が建立されていた。地蔵尊像に「為第二次大戦非戦闘員横死者諸霊之追善菩提」と刻まれていた。おそらく愛知時計電機㈱が敷地を割いて祀ったもののようだ。

とりあえず最近の動きをかいつまんで投稿。ほんの少し投稿するだけでもこれだけの内容になるのでついつい遅れてしまう。

これからはもう少しまとまった投稿ができるよう努力。

 

 


名古屋の原点堀川を探る

2015-06-28 16:40:13 | 知識

このところ堀川に関する講座や堀川を中心に勉強するグループに参加している。

まだ緒に就いたばかりで聞くもの見るものみんな新鮮。

新しい発見も多く楽しんでいる。

今年の2月頃に熱田の周辺の歴史講座に参加したとき「地図と写真から見たー熱田駅・熱田運河・常滑線の今昔ー」副題「熱田伝馬町の旧東海道を歩く」という冊子を手に入れた。結構熱田の近代化について詳しく書かれているのですらーと読み飛ばせない。ゆっくり読むことにする。

著者は野村眞平氏、発行が2013年3月。

この冊子がきっかけで、堀川・新堀川を知りたいと思うようになってきた。

堀川にかかわる多くの団体がそれぞれ独自の活動を続けながら、時に連携しながら堀川再生に取り組んでいる。

堀川まちづくりの会発行の「ワカリホ」という機関誌もある。(逆ら読めばホリカワ)

裏には堀川まちづくり会の会員紹介が載っていて助かる。

先日は名駅前に家内と出かけた折、折角だからと思い納屋橋まで足を延ばして、納屋橋の東にある加藤商会ビルにある堀川ギャラリーに立ち寄ってきた。

館内には堀川関係の資料のほか写真なども展示。そこで「納屋橋とっておき通信」を手に入れた。07号まで出ているようだが、01・05号は残りなし。

02号は面白く表に納屋橋のレジャーけん引人“青山眞吾さん”の写真が載り,下にプールの写真。タイトルに納屋橋にナンジャこれ!な、幻の巨大プール!!!とある。読むと昭和28年から数年名古屋初のアイススケート場「名古屋アイスパレス」を開業、夏にはプールとして夏の顔にしたそうだ。

  

通信の2~3ページには青山氏の話が載っていて、黒白写真の上は黒山の人がスケートしている。そのすぐ下の写真は押し寄せた客の列が広小路まで伸びている風景。右端の白黒写真はダンスホールの様子だ。どちらもすごい入りだ。

名古屋市緑政土木局河川計画課発行の「納屋橋百年歴史紐解きマップ」を発行。副題に「時代の交差点納屋橋が見守った堀川ものがたりを探る」となっている。納屋橋の歴史が簡略に描かれている。

裏には、みどころポイントに昔の写真が掲載され興味深い。

写真は、大正2年の改築された納屋橋の渡り初め、左上から4番目は明治30年の御園座、その下が明治28年木造洋館の名古屋ホテル、右側上から2つ目は江川用水路、その下は昭和10年名古屋宝塚劇場開館後の名宝開館、その下が旧加藤商会ビル、その下二葉はカブトビール名古屋支店。

講座の中では熱田ぐるりマップをもらった。中に熱田台地の説明イラストが大変わかりやすく助かる。

中でも熱田台地がゾウの鼻といわれるのがよくわかるイラストがいい。

 

また古代の海岸線をを黒い太線で表示されその縁に沿って堀川が掘られていることがよくわかる。

名古屋城よりいち早く堀川が開削され、、堀川と五条川を利用する舟運があって、清州越しといわれる名古屋の街づくりがいち早く進められたと考えられる。大八車や人力だけでは早期まちつくりは到底無理。

 最近見聞きした資料だけなのでまだまだこれから多くの資料を集めるつもり。

今朝の朝日新聞朝刊の日曜版“+C”は「堀川と暮らす」という特集を組んでいる。

今後どんな発見があるか楽しみ。

 


サボった付けは大きい

2015-06-21 16:36:48 | 雑記

すっかりブログ投稿御無沙汰。

この間各種講座の受講とJR・地下鉄ウオーキング参加で一杯一杯。

写真は溜る一方で整理が追い付かず。

年とともに、作業領域が一段と限られてきたとつくづく思い知らされる。

取り敢えず、撮りためたスナップ写真だけでも投稿しようとまとめたところ。

JR塩津~蒲郡を歩いた時のスナップ。

蒲郡駅前のアメリカズカップに使われたヨット。この艇を最後に日本は参加していないモニュメント的展示。蒲郡は一時2020年の東京オリンピックヨット会場の候補地になったが残念ながら落選。

JR塩津という駅は全く知らなかったが、ホームは狭く危ない。改札は跨線橋上にあり、線路を見ると名鉄の駅が隣り合っている。駅員に聞くと塩津駅は蒲郡競艇用に作られたもの。そもそも無理やり作ったようだ。名鉄の駅名は蒲郡競艇場前駅。

  

この日は平地歩きと思っていたところなんと峠越えが7か所ほど会って一番高いところは形原温泉。アジサイまつりが開かれていた。

形原へ入る前の峠で三河地震の断層がはっきりわかる土地を見学する。木の下が浮き上がっているように見えるところは断層。この地震は昭和20年1月にあり、広く国民に知らせないよう隠ぺいされ詳細は不明。経験者はすごかったと今でも語り草。

中津川を歩いた時は、天空の城「苗木城」へ登る。下から見たときはそれほどと思わなかったがコース案内で予想された通りきつかった。

登り口の看板で少し急だなとは思ったが 登ってみると眼下に木曽川の雄大な流れ。城郭の縄張りが天空の城といわれるのもなるほど。

   

登り口の四十八曲がりという案内板と登り口の勾配から覚悟。ようやく展望台に立って雄大な木曽川の流れと、巨岩を取り込んだ城郭の造りに感嘆。

  

  

城跡へ登る前に恵那鉄道の廃線跡が風情を感じさせる。

中津川はクリ菓子のメッカ。クリ畑も多い。

最後の峠を登ると平坦地に出る。なんとこんな山の上に温室。そばに行ってみるとちょうど担当者がいたので作物は何?と聞く。カイワレ温室。栽培面積は1haあり2階建で全部で8棟あり。向かい側のタンクにサラダ農園と書いてあったが何ともでかい。

この温室を過ぎると中津川へ一気に下り。平坦地に出てすぐに本町公園。公園内にSLが展示されていた。D51だ。キチット金網で囲い管理されているようだ。昭和48年も出運行。

  

実は昭和40年ころに乗ったのを思い出した。しっかり手入れされいつでも動きそう。

話は変わって名古屋市役所見学会に抽選通る。30人ほどの参加者。2班に分かれ案内される。本庁には入る機会もほとんどない。家内も一緒。

  

 

1階から上階を見る。

1階のガラスは懐かしいべこべこ。

時計台へ。年寄りにはきついのぼりが続き大変。

時計コントロール室は庁舎の向かい側西庁舎の地下室で機械コントロールしている。時計は4面に設置。外から市民が見たときどの方角からでもわかるようにしている。特にバスなどの時間確認に狂っていてはいけない。

  

時計台の窓から見た名古屋城と屋上に出てみた時計台。

  

この後市長室や議事堂ほか貴賓室なども見学。

  

最後に昔の庁内の郵便物投函ボックス。上の階から投函するとこのボックスに集められまとめて投函できる。

庁舎は映画・ドラマの撮影場所にも貸し出している。

   

5月には広島行ってきた。2泊3日だが広島市内で国宝不動院講堂。安国寺 恵瓊 (あんこくじえけい)がここに移設したようだ。広島市内唯一の国宝とか。

原爆記念館および記念公園。

   

鞆の浦としまなみ海道。

錦帯橋と宮島厳島神社参拝。

  

神社では結婚式が挙行されていた。

この旅行で気がついたこと。

外国人の観光客が大変多いがお隣の国々の人は全く合わず。

厳島神社へ渡る船で鳥居が見えると船縁にどっと外国人観光客集まるのは壮観。

平和記念公園で出会った外国人はインド団体、一般欧米人。印象に残った風景は原爆記念館で説明文を泣きながら見ていた女性(写真の赤いバッグの人)と、欧米人の若者が多いこと。

もう一つ印象深かったのは、記念館の入ってすぐに展示されている写真。長細写真だが、投下直後爆心地から6キロほど南西に位置する金輪島で新聞記者が撮影した1枚。左下に小さく人が移っているが原爆雲が高すぎて人が判然としないほど。

反対にしゃれた路面電車。

  

最後にトピックス。

平和公園芝生広場で結婚式。みんなの公園で?最近はこんなことも許可されるのかな?家族ずれが遊んでいる中で。?

    

東山の東山工業高校の跡地にようやく学校が建設され始めた。

  

愛知県の工業県としての人材育成に、愛知工業高校と東山工業高校を統合し総合工科高等学校を設置。当初26年中には完成するはずのところ、入札不調で遅れに遅れようやく着工。写真の通り28年3月完成なので、入学を期待していた生徒にとって大変残念な事態。

今日はここまで、これからはなるべく早く投稿するよう心がけるつもり。

 

 

 

 

 

 

 


駅ちかウオーキング

2015-05-08 12:23:23 | ウオーキング

先月末から急に暑さが厳しくなり、なかなかウオーキングに出る気分になれず鬱々としていた。

2日にはNPOの定例委員会があり3時間近く外出したが、その後5日まで自宅周辺のウオーキングと自宅でNPO会計作業。

6日の天気予報が最高25度と予報。に勇気づけられて、6日の駅ちかウオーキングへ出かける。

地下鉄名港線東海通駅スタートの7キロコース。ゴールは荒子公園駅。

駅地下ウオーキングはスタートは9時半だが、参加者が8時半ごろから集まりだし、9時には駅構内が参加者で一杯になる。一般乗客に迷惑がかからないよう主催者は9時前後には適宜スタートさせるが、その際受付でコース案内を手渡すことで少しでも混乱を避けようとするが、人の波が途切れることなく続くため、地下出てきた参加者が今度は歩道いっぱいになり、暫くノロノロ歩きを余儀なくされる。

最近は、駅地下ウオーキングに参加するとき、この点を踏まえて敢えて10時ころのスタートを目指して自宅を出ることにしている。この時間になると歩道も幾分歩きやすくなり、ウオーキングしていると実感できる速度で歩けるので。

7キロのウオーキングなので撮ったスナップを紹介。

これは南方貨物線の建設残骸。この貨物線はレールを敷けば完成のところ、完成間際で貨物需要がトラック輸送にとって代わられ廃残の憂き目にあい300億円の廃残モニュメントとして今に残っている。この写真の向かい側は国道を挟んで取り壊されて、一般の建物がたっている。敷地売却でいくばくかの収入になったようだが、一説によれば売れても総工費の10%程にしかならなかったとか。

中川運河に出ると先日ニュースで報じられた魚の死骸が浮いているが、役所の休みなんだろう明日から処理作業かな。(翌日のニュースで処理再開と報じられていた)。中川の水は雨頼りなのでヘ好天続くで水量が減りヘドロと酸素不足が起こした異変と云っているが、住んでいる人たちは臭くて大変。

  

東海通りを西へ。この東海通りは江戸時代の堤防の上にできた道路だったそうだ。左手が南になるが、南側は新田開発され土地。右側は堤防下になるのでところどころ急な下り坂になっている。

  

この写真では分かりにくいが建物の基礎が斜めになっていることで右へ坂が続くことが分かる。

この辺りは海抜も低くマイナス表示。

間もなく名古屋競馬場。ウオーキング参加者は入場無料のようだ。最近の講座で見学しているので今日はパスする。

競馬場から先3キロにはこれはという立ち寄り先はなく、ゴール手前の荒子川公園で少しのんびりするつもり。

公園に入るとさすがに緑が豊かでほっとする。過去何回かきているが考えてみると公園に来るのではなくウオーキングや講座の現地学習で立ち寄るだけだ。

そう思って木を見ていると樹木名に聞いたことのないものがあちらこちらいある。

落羽松(ラクウショウ)            ゆりのき                  シンジュ(神樹)    

     

木に掛っていた樹木名をそのまま書いたが、聞きなれない名前。

高架下をくぐるときこんな鎖が目に飛び込む。

何のためかな。台座から橋りょうがずれ落ちないための安全鎖か?

この下を過ぎると今度は家庭の生垣見本園。

結構ここでも知らない名前。

ムベ                        ナワシログミ

    

トベラ                              セイヨウバクチノキ             ビグノニア

    

ハクチョウゲ

生垣用の樹木がこんなにあるとは園芸店は大変だ。

ガーデンプラザに立ち寄りソフトクリームを。汗をかいた後はうまい。

暫し休憩。まだ11時半。休憩後ゴールでスタンプ。今回の歩数は10000歩あおなみ線で名駅へ出て、いつものパン屋で昼食。連休最終日なのかいつも混んでいる店なのに座席に客まばら。

あと一回駅ちかウオーク参加でバッジが貰える。がんばるか。次回は10日のJRさわやかウオーキングへ。

 

 

 

 

 

 


醒ヶ井を歩く

2015-05-01 14:10:18 | ウオーキング

3年振りの醒ヶ井を歩く。設定距離11キロ。

コースは前回と若干変えてあるもの基本的なコースはほとんど変わらず。

今回は前回の折り返し点の奥1キロ先に鱒の養鱒場があり、その先に醒ヶ井上丹生の古刹松尾寺まで足を延ばすので、山登りも入って体感する距離は結構なものだった。

醒ヶ井は中山道の宿場町で今回は宿場の散策からスタート。

宿場案内といたるところで地蔵川の梅花藻、絶滅危惧種のハリヨの案内で一杯。

その中石龍山了徳寺の天然記念物 御葉附銀杏(おはつきいちょう)の案内があるものの誰も立ち寄る気配ない。街道から見てもかなりの大木。気になり立ち寄る。見事なイチョウ。案内では通常多くの銀杏を実らせるが一部イチョウの葉の上に銀杏(ぎんなん)がなるがイチョウとして極めてまれな例のようだ。シーズンに見てみたいものだ。

  

宿場の奥に神社。前回はゴール直前に訪れたので、鳥居前で参拝し本殿まで行けなかったので、今回はまず参拝。

鳥居の扁額は「別雷皇宮」、神社名は「加茂神社」。祭神はさすがに伊吹のふもとらしく「日本武尊命」。社殿は仏壇の産地らしく見事な彫刻で社殿の前は町が一望できる。

      

神社の入り口には「居醒の清水」がこんこんと湧き出ている。

日本武尊が大蛇との戦った折りに受けた毒で苦しんだとき、ここの清水で冷やしたところ熱も下がり体調が戻ったことから、ここを居醒の清水と呼んだとある。

2.6キロ進んだ天神水へ回る。ここもこんこんと湧き水。ハリヨも多くみられる。

この辺りは石灰岩の山が多くいい水が出るようだ。

そういえば畑地の向こうに見える山削っているいるのも石灰岩の採掘だろう。

一休みして松尾寺へ向かう。コース案内では5キロ先。

途中の風景はのんびりとした農村風景。畑には本格的な農作業に入る前の作業が進んでいるようだ。

数人の大人たちが作業しながら、ウオーキングの人たちに、ここには古墳があったが調査後畑地にしたと語っている。

私が、勿体なかったねと言うといいや記録や出土品はキチット保管されているよ気にしていない様子。

古墳があったら観光にも役だったろうにと余計なこと言うと、やおら一人が「奈良にはかなわないからいいのさ」だって。

畑の中には棒杭のようなものを畑の周囲に突き刺している。イノシシ除けでも作っているのかと思ったが、鹿除けの柵だそうだ。

新芽が出るとその場から食べてしまい作物の収穫に支障が出ている。鹿は畑の前の山に生息しているそうだ。大変。

上丹生に入ると徐々に坂の傾斜が出てきた。国道から右に入ると霊仙山(1100mほど)への登山道が続いている。

昔霊仙山は神仏の住む山として信仰されていたそうだ。

松尾寺まで雑木林の急坂を上ってゆくとになる。海抜500メートル。

養鱒場は松尾寺の手前にあるが、入場料400円。

松尾寺に行く前に、霊仙三蔵(日本で唯一人の三蔵法師の案内板。??? 玄奘三蔵とどう関わるの。

とにかく行ってみる。

お堂の横に記念堂建立趣意書が掲げられており、その趣意書によれば、《三蔵とは、経、律、論の経義4に通達した構想に対する敬称で唐の玄奘三蔵のほか数名の高僧の名が知られている。そのうち霊仙三蔵は日本人としてただ一人の三蔵法師であったことが、延暦寺の高僧円仁の著した「入唐求法巡礼行記」に記述されいる。ただし、霊仙三蔵は唐の国内事情から帰国ならず帰らぬ人となった。霊仙三蔵の出生地は定かでないが、息長氏一族の丹生真人一族の居住地であった丹生川沿岸を大師の出生地として推定・・・云々》と記載されている。

  

三蔵法師の云われ始めて知る。

松尾寺は現在新しい本堂あるものの人もおらずよくわからない。岐路橋のたもとに松尾寺由来を書いた看板があるが、読んでいてもよくわからない。ただ、役行者がこの地で修行していた時聖観音菩薩と十一面観音が雲に乗って飛来しこれを安置したことから本尊を「飛行観音」と称しているそうだ。

さー帰りだ。今来た道をひたすら戻るだけ。でも途中コース外に丹生古墳の案内があったので寄ってみることにする。

これが結構急な山道で500mあり結構きつい。ついてみるとなーんだ前回来てるじゃないか。記憶がダメだ。

それでも、到着すると相前後して二人来る。お先に失礼して折角来たのだから石槨見る。奥行き結構深く3~4メートルありそう。こんな山の上に。

古墳を出て下ると神社に出る。名称は「平林神社」。なんだか神社らしくない名称。参拝に参道を登る。

  

大勢の人がわいがやと作業中。聞くと5月3日の祭りの準備とか。

女性は境内の掃き清め、男性は神輿の整備。神輿は3基あり大は組子もしっかりと彫刻もあり白木造りながら立派なもの。もう1基はしっかりと金物細工や塗も施され、彫金・彫刻もしっかりできているこれもさすが。

本殿は彫刻がしっかりと施されいて村の神社では珍しい程立派な作り。

境内の隅に大きな石に竹に先に紙幣をつけた祭壇がるので尋ねると、伊吹山の次に高い霊仙山を御神体として祭っているのだと。すると先ほどの松尾寺の案内で霊仙山が広く信仰されていたという説明と結びつき納得。

さて、もう立ち寄るところはなさそう。ゴールへ。

スタートが10時50分、ゴールは2時。あちこちよく立ち寄ったから。ゴール証明印をもらう。証明カードの押印個数16個。20個目標だが6月12日までなのでどうかな。

駅の脇に「醒井水の宿駅」と云う地元特産品の販売施設がある。電車30分に1本なので、久しぶりにソフトクリームを買い求め時間待ち。

駅から見る伊吹山くっきりと見える。

2時35分乗車。自宅着4時20分。そう歩数23530歩でした。