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キョロキョロ散歩の雑記帳

あちらこちらの里山や緑地公園・史跡を探訪しながらキョロキョロ歩き回って思いつくまま記します。

近江商人の町探訪

2015-04-19 16:15:46 | 歴史探訪

近江五個荘・近江八幡市に、こんにちまで不思議なくらいゆく機会なく、今回ようやく探訪実現。

多くの人はすでに探訪していると思うので、私が面白いと思ったことだけ投稿する。

近江商人の町と入ってもいくつかの地区に分かれる。五個荘は豪商の住宅が主、近江八幡市は現実にそこで商売をしていた町という感じ。

先に五個荘へ行く。ガイドさんを頼んでおいたので東近江市観光協会の「プラザ三方よし」会館前をスタート。

   

金堂の街並を探訪した。

どの家も豪壮で大きく外からだけでもその贅を尽くした建築がよくわかる。

昔の建物を利用したロケちとして多くの撮影に利用されているようだ。

また瓦は近江瓦で葺き方も統一されているし、塀などの河原には「江州八幡瓦」と鋳こまれている。

建物の外装は木が使われ、屋根の勾配も膨らもを持たせた作りで重量感あふれるものが多い。

豊かさを象徴するものとしてお寺は欠かせない。弘誓寺(ぐせいじ)の山門の作りは大変手の込んだもの

天井は格天井式で周りには彫刻。

多くの家で船板を焼いてそのまま板塀として使われている。

釘なども船用の釘らしく大変凝ったものになっている。

また、掘割から家の敷地に水を取り込む仕掛けがあり、川戸と云うらしい。

  

さすがに屋敷街なので商店はほとんどなかったが、蕎麦屋が1軒、履物屋が1軒あり。履物屋は看板も上が商店名も田舎らしいもの。

1時間ほどの探訪を終え近江八幡へ移動。

時間なので食事を先にしてから、ここでもガイドさんの案内で探訪した。

この街の中には明治38年に現在の八幡商業高校の教師としてウイリアム・ヴォーリーという方が教師として赴任したが、退任後近江八幡を拠点に設計事務所を開設。

そのウオーリーさんが設計した建物が現在も20軒余り現存しているそうで古い街の中に溶け込んでなかなかの風情。

ヴォーリーズ建築第1号と案内にあったので載せます。

  

町歩きしながら、あらあらという風景。

  

かと思うとさすが瓦の産地。塀に粋な瓦を使ったデザイン。

ハイライト。伴家住宅へ。

現在、近江八幡市指定文化財。豪商の家。この家は入館して見学。

この家の前の道は朝鮮人街道と呼ばれ通信使がここを通ったようだ。

そんなこともあって、通信使の行列模型や、使節大使に供した料理の模型も展示したいる。

何しろ内部はものすごい梁で少しの地震ではびくともしないようだ。以下梁のすごさを写真で紹介。

  

   

大黒柱は40cm。

    

この梁は長さ7.5間の1本の木。(13.5m) 梁の太さは目分量で30㎝。

他に西川家(重要文化財)を見学。

こちらは商人の家として使われていたもので、屋根は火の用心の工夫。

室内の欄間はこっている。この組子今出来る人いるのか。一部壊れていた。

外に出ると前の家の板塀はまた変ったもので、わざわざ荒荒に抉ってある。

ガイドさんが説明していたが忘れた。でも、なかなかいい感じ。

八幡堀に出る。

新町湊。この堀は右に行っても左に行っても琵琶湖に通じているそうだ。この地に城を築いた豊臣秀次が琵琶湖を通る船は必ずこの湊に立ち寄るように命じたことによるとか。

この湊は映画やテレビドラマなどで見かける風景。

近江兄弟社(メンソレータム)の資料館。今はロート製薬傘下とか。

ようやく八幡社の鳥居。鳥居の柱は板が巻かれているが、木製の柱か中がどうなっているか不明。

  

鳥居の向かい側は白雲館(観光案内所)。昔は明治10年に近江商人たちが子供たちの教育のために建てた小学校。

当日祭りな最中でここに各地区の大太鼓が参集すようで、一基入ってきた。雨で気の毒。この後八幡社に詣でるようだ。

時間ないので、八幡社へ。八幡堀を渡る。

  

この風景も見たような風景。恐らく映像に使われるときはCGで修正しているのだろう。

参道は広く雨ということもあってか荘厳さを感じる。

大きくどっしりとした楼門。

入るとすぐに拝殿、今日はまつりのので神輿が置かれていた。

この拝殿の後ろが本殿。

お参りしていて心地よい。

こんなに立派な八幡様はめったに参拝できない。

八幡宮の正式名称は日牟禮八幡宮。いただいた御朱印。

 

3時に八幡市を出発。針江の”たねや”立ち寄りして帰ってきた。

朝のうちは天気も良く助かったと思っていたら、昼前から急に冷え込み雨が降り出し不安定な天気に参った。

でも念願かなって近江を探訪でき何よりでした。

 

 

 

 

   

 

 

 

 


西区 ぶらり旅

2012-11-30 14:59:59 | 歴史探訪

名古屋西傷害学習センター主催の「西区 ぶらり旅」~ものづくり文化の道・歴史情緒漂うまちを訪ねて~と題した〈なごや学〉講座に参加。

都合5回の講座のうち、第2回「お城へと続く道~美濃路を歩く~(11月2日)と第5回「歴史情緒ただようまち~円頓寺・四間道界隈の魅力~(11月30日)の2回しか参加できなかったが纏めてみた。

第二回(11月2日) 美濃路を歩くは古い町並みと寺院を拝観しながらぶらりと歩く。

途中凧屋さんにたちよる。

 

今では飾りとして購入するようだ。

紙は美濃和紙、絵は岐阜で、完成するのが凧茂本店。

美濃路は昔の区割りで間口が狭く奥行きが長いのが特徴。

 

屋根神様も散見される。

 

美濃路に入ってすぐに幅下観音。

お寺は林貞寺という。山門も重厚でなまこ壁。

 

北畠顯家の守り本尊とあり、寺の本尊は馬頭観音。

美濃路は荷駄が行き交う路だったことが想像できる。

11月2日の終着近くに八坂神社。

この神社は大提灯をあげる祭りで、この近辺では有名とか。

 

懸垂棒のようなものは、その提灯をつるすためのもの。

ここを出て、清音寺で第2回ぶらり旅終了。約2時間。

お寺からすぐ庄内川の堤防に突き当たる。突き当たりに、美濃路の案内。

さて、第5回は、一昨日(11月30日)開催。

地下鉄桜通線丸の内集合。北改札集合と指定されているが、この駅は鶴舞線と交叉しているので、改札口がよくわからず大回りして無事到着。

もうすでに全員集合していた。

ブルーの上着はスタッフ。

今日のコースは時間がたっぷりかかると、時間通り出発。

スタートに当たり、本日のレジュメを支給される。

レジュメ冒頭に、堀川と碁盤割の解説あり。

● 名古屋の碁盤割り:慶長14年(1609)家康、名古屋城築城と遷都を決定。東西に11列、南北に9列、99ブロック。

● 堀川:慶長15年(1610)福島正則を中心に20の大名により開削。

堀川の橋と言えば堀川七橋。堀川七橋は上流側から五条橋、中橋、伝馬橋、納屋橋、日置橋、古渡橋、尾頭橋のことを言い、堀川が開削された1610~1611年に架橋されたものであるそうだ。

今回は、五条橋と中橋の間の東西にある歴史的な路を散策。

最初に五条橋に向かう。慶長15年(7年)清州城下の五条川に架橋。清州越で名古屋に移築。

  

擬宝珠(ぎぼし、ぎほうしゅ)に慶長7年と書かれているが、実物は博物館で収蔵、橋にかかっているものはレプリカ。

五条橋の手前(東側)の北側に美濃忠本店、路を挟んで南側に高橋邸。

 

美濃忠は江戸時代から続く和菓子の名店。高橋邸は広大な敷地で写真奥に見える高いマンションも含むようだ。

高橋邸玄関前の通りが「皆戸通」。通りの東側は昔建具職人が住んでいたことから皆戸となった。

このあたりの土地割は10間四方に区割りされたため、どうしても閑所(かんしょ=路地)ができる。その閑所の典型的なところが皆戸町に残っている。まだ住んでいる人もいそうだ。

 

しばらく南に進むと「鬼頭邸」。朽ち果てたような門構えの家だが、敷地内には立派な庭があるという。松坂屋の3代に仕えた大番頭の方。松坂屋があるのも鬼頭氏の努力によるとまで言われるそうだ。

皆戸通りを西に曲がると中橋に出るが、手前を堀川沿いに北に進む。このあたりは材木・木挽商が多く住んでいたところ。今ではこの道筋には1軒のみ。通りの名は木挽町通。

中橋の際に昔堀川から荷揚げした船寄せ場が残っている。

 

木挽通りを北に進むと、すぐ東側に「船源」という屋号を名乗った立派な家がある。現在は材木に関係ないそうだ。

この家の先、西側に残った材木商があり、突然に見学頼み見せてもらう。

 

下に見えるのが堀川。材木を荷揚げした名残。

五条橋に戻り、橋を渡って美濃路へ出る。

堀川周辺には風呂屋が多くあり、円頓寺へ来た人や、第6師団の兵隊、その兵隊に会いに来た親兄弟との出会いの場、材木を運ぶ船人足、水上生活者(昔は堀川に多くいたそうだ)等々雑多な人で繁盛していたそうだ。時代の中で、殆ど廃れていったが、弁慶湯という橋の西詰にあった湯屋だけが、残って頑張っていたが、湯屋の主人も高齢で、平成5年廃業したそうだ。弁慶湯は明治33年開業だったとか。

美濃路ではすぐに 豪商 伊藤家(現在は名古屋市の文化財指定)の前に出る。こちらの伊藤家も清州越しの時名古屋に出てきたが、こちらは新田開発で財をなし、米を中心の商いだったようだ。

  

写真右の出はここから前・左右を見ることができる窓だそうだ。

こちらの伊藤家を川伊藤と呼ぶ。

松坂屋の伊藤家と区別するための呼び名。

隣には青木家がある。こちらも清州越しで名古屋に出た塩問屋。現在も商いは続いているようだ。

青木家は早々と新建材で回収しており、文化財に指定されず助かっているようだ。

なぜなら、指定されると少しの手直しでも市に申請するなど面倒が多いそうだ。

中橋に出る。

この橋は大正6年に改築され、その時の姿・技術が残っている貴重な橋。

  

いよいよ四間道(しけみち)に出る。四間道とは元禄13年(1700)1600余戸を焼失。防災のために道幅を四間にしたことから付いた名。

出るとすぐに、浅間神社。

公孫樹の木が見事。

  

小さい神社ながら、近隣の住民が大切に守っているそうで、普段から境内は常に掃き清められ、出勤前のサラリーマンも参拝して出勤という姿も見られるそうだ。

この神社に神楽殿がある。普通この程度の社に、神楽殿は見たことない。

  

神社を出て北に進む。当然川伊藤家の裏手の通りに当たる。

石垣は川伊藤家の蔵の土台。この蔵は過去から現在までに改築したときに出た、廃材などを保存している。それは職人が時代とともに忘れてしまった技術を現在に生かし、初期の伊藤家を現代に残すためといわれている。

現在の大奥様は自分の代で失わないようにと、頑張っておられるそうだ。

途中から西に入る。

立派な屋根神。伊藤家の家作だが、今もしっかりとお守りしている。毎月1日と15日祭礼を行っているとか。彫刻を施された立派なもの。

  

屋根神の奥が閑所になっていて、突き当たりにお地蔵さま。子守地蔵というらしい。

この道は子供たちが遊ぶのに危険がないことも地蔵の名になったのかも。

次に、見学を頼んだ菓子屋へ。

最中を手作りしているお店。店は小さ、商いしているようにも見えない入口。奥のほうに作業場があるが狭いので、順繰りに見学。

型がずらりと並んでいるが、作り方はよく分からず終い。

10コ1050円と書いてあったので、購入してみた。帰って食べてみたところ、なかなかのもの。最中パリパリ、挟む餡が品の良い甘み。これは買い物でした。

この家の二階ベランダに屋根神が祭られていた。

向かいはお寺。真宗高田派愛知別院。特段のことないようだったが、境内に入り鐘楼が目に入った。鐘楼へは上がれないようになっていると思いきや階段に止めるようなものがない。

お寺のお庫裡さんらしき方が私を見咎め、鐘楼に上がってはだめとキツイ言葉。引き上げる。

寺を出るともうそこは円頓寺商店街。商店街の夜だけ営業の店があった。

夜は賑やかだろうな。

すぎるともうそこは商店街。

慶栄寺太子堂・松濤庵が奥まったところにあるが、入山はできない。江川端通りに向かうと、金毘羅宮。

  

その先に商店街の名前にもなっている「円頓寺」。商店街はえんどうじ。お寺はえんとんじ。

 

本堂脇のお堂は鬼子母神を祭る。額には尊神堂となっている。

これで、完全終了。

江川端通りに出て、国際センタービルへ向かい、地下鉄に乗る。

充実の2時間でした。清州越しの名残があって、まだまだ多くの歴史的な見どころがある。また機会があれば参加したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


戦国武将と名古屋の寺社パネル展

2012-09-06 17:30:47 | 歴史探訪

今日(9月7日)は久しぶりに中村公園へ。公園(=豊国神社)内の秀吉清正記念館で開催中の「戦国武将と名古屋の寺社展~パネル展~」ー9月4日~30日~へ行ってきた。

そもそも名古屋に住んで29年。今回の訪問で3度目。ましてや公園内の様子などほとんどわかっていなかった。一回は、結婚式へ参列、もう1回はウオーキングのスタート。公園内および周囲の建物などほとんど不明。

今日は時間もあり、パネル展見た後少し歩くつもり。

地下鉄中村公園駅を出てすぐに大鳥居。

この鳥居は、大正10年、中村区が名古屋市に編入されたのを記念して計画。昭和4年11月に竣工した。鉄筋コンクリート製で柱の高さは24.5メートル、直径2.5メートル。

この鳥居からまっすぐ豊国神社へ道が整備されている。

この鳥居が豊国神社の鳥居。

折角だから先に神社参拝。端正で周囲の森が静寂さを醸し出していて、清々しい感じ。

 

それでは記念館へ。

ここは1階が図書館、2階が記念館、3階が中村小劇場となっている。

記念館に入ると受付。パネル撮影の諾否確認。個人用であれば、OKだが署名し注意事項を守るように言われる。

受付前のスタンプを記念に押してみた。秀吉の漢字は花押文字。

入場すると、常設展示品が並んでいるが、いつか見たようなものが多く進むと、熱田の裁断橋と擬宝珠の様子写真パネルにして掲示されている。擬宝珠は博物館にあるといわれているが、ここに展示されているものは本物か?確認するの忘れた。

隣には秀吉の刀狩りと見地について展示。

 

この板は見地に使われた検地基準尺の複製。当時は基準が統一されていない時代で、このときは大阪で使われていた長さを基準としたそうだ。板の上下の×しるし館が1尺、板の下に石田と花押が書かれている。

「加藤清正等連署血判起請文」で本物は大阪城に。これは複製。秀吉から秀頼への忠誠を誓う起請文が多く書かれている。この起請文には26大名の名がある。

他にも石田光成の複製密書、結城秀康の書状(重文=記念館蔵)なども展示。

いよいよパネル展示室へ。赤丸の寺社が今回のパネル展示の寺社。

一応入場時に紹介寺社の説明書が置いてあったので手にする。

 書かれている寺社は10寺社。

1 勝鬘寺 中区栄3-33-10 ゆかりの武将は織田信長。創建は清州。本堂は市内最古の真宗建築(真宗建築の意味よくわからない)。

本堂・山門・太鼓楼は名古屋市指定文化財。明治維新までは、太鼓で時を知らせていたといわれる。

2 東照宮 中区丸の内2-3-37 ゆかりの武将は徳川家康。本殿は県指定文化財。

尾張藩初代藩主・徳川義直が父・家康をまつるために名古屋城三の丸に創建。1876年(明治9)、名古屋鎮台(陸軍の組織)の設置に伴い現在地に移転。内部の極彩色がよく保存されているそうだ。

3 貞祖院 東区泉3-11-16 ゆかりの武将は松平忠吉(家康4男)。そもそも本人と養母・押加茂の位牌(押加茂については http://www.futabakan.jp/data/f016.html 参照されたし)を置く寺として清州に創建。1742年に現在地に移った。堂内の天井や壁には極彩色が美しく残っている。

4 長久寺 東区白壁3-24-47 ゆかりの武将は松平忠吉。山門は名古屋市指定文化財。清州城主・松平忠吉が、旧領の武蔵忍城下に創建した寺を、1601年に清州に移し、清州城の北東(丑寅、鬼門)の方角を守る寺であった。清州越しで現在地に移ったが、その時も名古屋城の鬼門を守る寺とされた。鎮守八幡社本殿は清州越し直後の建築とみられるとある。

5 西光院 昭和区山手通4-10 ゆかりの武将は織田信長、織田広信。清州に創建された寺。1604年に名古屋市白川町に移る。清州越(1610年)前の1604年に移動した例はまずらしい。この地では赤門寺と呼ばれた。1943年に現在地に移転。

6 熱田神宮 ゆかりの武将 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康(以下は省略)

7 富部神社 南区呼続町4-13-38 ゆかりの武将は松平忠吉。本殿は重要文化財。蔡文殿、回廊は名古屋市指定文化財。創建は不明。蛇毒神天王社と呼ばれていたが、1868年現社名に改めた。社殿構成は「尾張造」の典型例。

「尾張造り」という呼称は、文献等でも明らかではないが、尾張地方にはよくみられる神社様式でその形式は切妻妻入・板床の拝殿に祭文殿とされる中門とその両脇に続く回廊をもち、その後に本殿があり、本殿と祭文殿との間に渡りとする釣殿を一直線に配したものであります。当神社はこの様式を正確に伝えており「尾張造り」の代表的な神社として、国の重要文化財の指定を受けております。(犬山南戌亥会のHPより拝借)

8 成海神社 緑区鳴海町乙子山85 ゆかりの武将は今川義元。社伝によると686年創建。今川の勢力圏がここまで来たことの証。今川義元の社領を安堵する朱印状を与えていることからわかる。

9 観音寺 中川区荒子町宮窓138 ゆかりの武将は前田利家。荒子観音と呼ばれ高畑村にあったというが、永禄年間に現在地に移り、再興された。多宝塔は1536年建築、市内最古。楼門は濃尾地震で倒れ、1917年に再建。六角堂は幕末ごろ、本堂は一九九七年の建築。

10 龍泉寺 守山区吉根松洞3417 ゆかりの武将は織田信勝(信行とも)、豊臣秀吉。仁王門は重要文化財。1557年に信勝が龍泉寺城を築いたという。1584年の小牧・長久手の戦いでは、豊臣(当時は羽柴)秀吉がここに軍をすすめ、小幡城の徳川家康と向かい合った。仁王門は1607年、多宝塔は1616年、鐘楼(しゅろう)は幕末ごろ、本堂は1907年の建築。

ゆっくり見学。来場者は私のほかに1人。のんびりと見られた。上記の神社説明は説明書から抜粋したもの。まだ行ったことのない、貞祖院・長久寺・西光院・富部神社・成海神社は今年中に参拝するつもり。

そのほか面白いと思ったパネル。

上のパネルのうち、1番下のパネルは尾張の在地武士とういパネルは面白い。

事務所の係の方(学芸員?)にいつごろのものか尋ねると、分からないが、おそらく室町時代から応仁の乱あたりの武士ではないかと思うとのこと。織田家(信長の系統)が表に出てくる以前の武士。

このパネルは展示ケースではなく、柱の余白部分にかけてあるだけなので見過ごす。

やく1時間経過、外に出る。厚い。急いで公園の森の中へ。涼しい。園内散策しながら八幡社へ。

 

由緒書に名古屋城天主閣の棟木用材として八幡社の楠を使いそのあとに植えた楠が今も生繁していると書いてあり、神社裏の楠に注連縄が張られていた。

ぷらぷら歩いて、公園東側の出口を出る。東門前に太閤山常泉寺。

秀吉生誕地と伝えられているようだ。別の説では現中村中町。産湯の井戸がある。百姓の子でも太閤までなると産湯の井戸がいるのかな?

南側に道一つ隔てて、正悦山妙行寺。清正生誕地の碑あり。

 

 立派な霊廟が別棟にあり。内陣を覗くと大変荘重な感じ。写真にうまくとれない。内陣の格子が邪魔しているが、格子は黒の漆塗りのようだ。

 

ずーっと立ちっぱなしで少々疲れた。

帰りの歩道で一休み。

まっすぐ行けば、大鳥居に出る。この通りは昭和63年にてづくり郷土(ふるさと)賞という やすらぎと、うるおいのある歩道三十選に選ばれているんだ。

中天に太陽。厚いので日陰を選んで駅へ。

今日の見学はそれなりに収穫アリ。

 

 

 


家族の励まし

2012-05-07 14:59:06 | 歴史探訪

家族が無聊を囲っている私を励まそうと、のんびり旅行を計画してくれる。

行き先は奈良。実施は5月12日・13日の1泊2日。

泊は奈良ホテル 本館。

奈良到着後、直ぐに東大寺へ。

南大門をくぐり、先に手向山八幡宮へ。

 

手向山八幡宮は東大寺鎮護のため宇佐八幡宮より勧請。

八幡宮前の灯篭に張られた鳩の紋章。聞けば、鳩は八幡様の使いとか。知らなかった。

続いて法華堂(三月堂)へゆく。

現在は須弥壇改修のため拝観停止中(25年3月まで)。

向かい側に4月堂。

  

千手観音、普賢菩薩のご朱印。

二月堂へ。

 

大仏殿へ向かう途中、国宝鐘楼へ立ち寄る。

いよいよ大仏殿と思い向うが、近づくと、入口・出口が離れているので、帰って戒壇院へ行くのに遠回りになる。一気に戒壇院へ。

 

現在の戒壇院は数度の火災から、1732年に建立されたもの。創建当時は、金堂・講堂・軒廓・回廊・僧坊・北築地・鳥居・脇戸等があったようだ。(戒壇院パンフより)

律令時代この戒壇で僧侶は受戒を受けてのち、僧侶として認められた。この受戒を受けていない僧は私度僧と呼ばれ、正式な僧侶として認められない。

ここの四天王は、私が最も好きな仏像。

 

何年ぶりに拝観したのか、懐かしい。

さて、大仏殿へ。

相変わらず、修学旅行生の多いこと。外国人も結構拝観している。

 

ご朱印の文字は、東大寺の宗派華厳宗から 華厳と書いてある。

この後、ミュージアムへ。

現在の展示は9月23日までの展示物。ただし、期間中6回の展示替えあり。

展示NO、は90まであるが、NOが飛んでいるところもある。

国宝は、17点、重文22点展示。中でも「不空羂索観音立像」および「宝冠及び化仏」は見もの。

今日は、ここまで。ホテルに向かう。

翌13日は、新薬師寺へ。

 

ここは説明するまでもなく、天平の建物と仏像。木造薬師如来坐像とそれを取り巻く塑像十二神将が有名。

基壇は漆喰を突き固めたもので、塑像が湿気に対し痛まないようにしてある。

波夷羅大将(ハイラ)以外はすべて国宝。 

漢名読み梵名片仮名種字本地仏/尊十二支
宮毘羅大将
(金毘羅童子、宮比羅
くびら
こんぴら
Kumbhīra クンビーラ ヨー 弥勒菩薩
伐折羅大将
金剛力士
ばさら Vajra ヴァジュラ サク 勢至菩薩
迷企羅大将 めきら Mihira ミヒラ キリク 阿弥陀如来
安底羅大将 あんちら
あんていら
Aṇḍīra アンディーラ 観音菩薩
頞儞羅大将 あにら Anila アニラ
マジラ
キリク 如意輪観音
珊底羅大将 さんちら
さんていら
Śaṇḍila シャンディラ タラク 虚空蔵菩薩
因達羅大将
帝釈天
いんだら Indra インドラ 地蔵菩薩
波夷羅大将 はいら Pajra パジュラ マン 文殊菩薩
摩虎羅大将
摩睺羅伽
まこら Mahoraga マホーラガ
マクラ
キリク 大威徳明王
真達羅大将
緊那羅
しんだら Kinnara キンナラ
シンドゥーラ
アン 普賢菩薩
招杜羅大将 しょうとら Catura チャトゥラ バン 大日如来
毘羯羅大将 びから Vikarāla ヴィカラーラ バク 釈迦如来

新薬師寺を出て背中合わせの、奈良市写真美術館へ立ち寄る。

入江泰吉が長年にわたり撮ってきた写真が展示してある。ここも久しぶりに立ち寄る。

次に元興寺へ向かう。バス停まで出ると、すぐに循環バス。4つほど先の田中町で下車。奈良まちに入り散策しながら元興寺へ向かう。

途中に砂糖傳という和三盆の店に立ち寄り、水あめを購入。帰りに店の奥から老婆が出てきて、見送られる。

昔の元興寺塔跡に立ち寄る。元興寺の東塔跡のようだ。

元興寺に着く。

 以下は元興寺ホームページより。

真言律宗 元興寺

【世界文化遺産 古都奈良の文化財】

日本最初の本格的伽藍である法興寺(飛鳥寺)が
平城遷都にともなって、
蘇我氏寺から官大寺に性格を変え、
新築移転されたのが、元興寺
(佛法元興の場、聖教最初の地)である

 国宝 極楽坊本堂。簡素だが重量感ある御堂。屋根瓦に創建当時の瓦が残っている。

極楽坊禅室。

屋根瓦の色が、手前だけ違うのは、創建当時の瓦のようだ。

この禅室が開いていた。普段こんなことはないはず。入ってみると、なんと!!!!。

須田克太画伯の衝立があるではないか。 

 本当は入れないはずなのに、なんであいていたのか?幸運。

 

興福寺に行く前に軽く昼食。

興福寺は国宝館、塔金堂、中金堂、北円堂、南円堂、と回る。

 

国宝館は国宝だらけ。修学旅行生も多く疲れる。

今、再建中の中金堂現場。

南円堂。

参拝終了。

時間まで、お茶を飲みながら、のんびりして、岐路に着いた。

久しぶりの奈良満喫。甲状腺の具合も何とかもった。腹具合が良くなく、心配だったが持ちこたえられ助かる。

元気になったら、春日山の原生林に行ってみたいし、柳生街道も歩いてみたい。

今回は、移動がすべてバスあったが、そのおかげで無事回れて様なもの。