キョロキョロ散歩の雑記帳

あちらこちらの里山や緑地公園・史跡を探訪しながらキョロキョロ歩き回って思いつくまま記します。

快適なウオーク

2011-10-29 20:17:45 | 日記

朝9時10分名鉄各務原駅到着。今日も友人と二人旅。

受付を通っていざコースへ。空は真っ青。雲一つなし。気温も感で17℃程度?歩きだして間もなく苧ヶ瀬池(おがせ)に出る。岐阜県新八景第1位とある。

この船なぁーんだ。

景観に配慮して屋形舟風水質浄化装置。洒落たことを!

池なればこそ池の中に竜王が祭られている。拝殿はもちろんこの祠の正面(池際にあり)。

池の鯉に餌を投げている。

ここを出るとお寺の領域と思われる森が広がり、その中を進む。気持良いコースだ。

車は入れない。でもイノシシはいるようだ。

この森を抜けると2車線の舗装道路に出る。すぐにお寺。「美濃高野山法福寺」とある。周囲は何もない。

トイレ休憩を兼ねて境内を散策。お寺を出ると緩い坂がしばらく続き間もなく各務野自然遺産の森に出た。森の名前なんだかオーバーだな。

この森のホーム頁には大上段に振りかぶった説明。http://www.city.kakamigahara.lg.jp/shoukai/kankou/shizenisan.html

広場に昔の庄屋のかやぶきの屋敷建てられている。庄屋の子孫の方が寄贈してくれたそうで、大きくて立派。久しぶりに田の字型の和室を拝見。

屋敷裏に自転車用オフロードコースができている。若者二人が自転車を組んでいた。一周1.2キロとのこと。自転車やが修理しているのかと思ったと冗談を言うと、写真に撮られたと楽しそう。

コースの入り口。

ここからすぐに急な登りに入る。東海自然歩道のようだ。

この坂を通過すると先は下り一方。途中宗教施設が点々と続く。竜王を祭る社あり、不動明王を祭る寺院あり、不動滝不動尊あり、京都にある神社と同名の(車折神社=くるまさき)社あり。約500メートル程度の間だが不思議な空間だ。

車折神社は学業の神としても名が通っているようだ。

この神社から石を拝借し神前に供え自宅に持ち帰り神棚に祀り、成就したら自宅近くの川から拾った石1個を添えて奉納する習わしだとか。石の中に名前が書かれたものがあった。

芸能神社も境内に祀られているが屋根の鰹木が一本抜けている。どうしたこと・・・・・。

ここからはゴールに向かうだけ。道路沿いに雪洞が延々と続いている。寄贈者は商工会、観光協会のようだが管理されているようには思えない。雪洞が途切れと広々とした空間に出て、風景が一気に変わった。

見える山が集落の霊的空間になっていたようだ。コースからやや離れた場所に公園らしき場所を発見。そこで昼食をとることにする。静かで誰もいない。木陰・水・トイレそろっている。ゆっくり食事。12時20分ゴールに向けてスタート。

国道の下を抜けると中山道鵜沼宿に出る。鵜沼宿は町をあげて復元保存に努めている。

町並みの保存。

復元された本陣。

この建物に使われている材は現在入手困難な材だそうだ。それががふんだんに使われている。

いよいよゴールまであと僅かと思っていたらあっけなく駅に着く。

午後1時32分の特急に運よく乗れた。快適。

約4時間程のウオーキング。緑の中を歩いたせいか気分は最高。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


古街道

2011-10-28 17:56:54 | 日記

10月27日 名古屋西生涯学習センターで 「街道が育てた人と文化~街道の魅力と町歩きの楽しみ~」と題して公開講座が開かれた。

講師は 堀川文化探検隊 伊藤正博氏。

 

元名古屋市の職員をされていたそうで、幅広く名古屋を探検しておられるようだ。

30分早く到着。

人と街道 そして文化 では「街道は文化を生んだ。鉄道も生んだ。高速道路は生んだだろうか?生めるのだろうか?」。

名古屋を取り巻く街道は名古屋城とともに整備されてゆく。

初めて聞く話多く、中でも興味を引いた話を以下に少々纏めてみた。

幕府が管理する官道として、東海道・佐屋街道・美濃街道があり、藩が管理する上街道(稲置街道・木曽街道)・飯田街道(駿河街道)、さらに公式の街道ではないものの多くの人に利用された下街道・柳街道~今でいうところのバイパス~がある。

大名行列やお茶壺道中は何となくわかっているが、朝鮮通信使の来訪の発端が何であったか初めて聞く。

一般的に朝鮮通信使はよしみを通ずる為に来訪したとなっているが、確かに朝鮮侵略で悪化した関係を修復するための日本の働きかけに対する「回答使」のほか、朝鮮から連行してきた人を連れ帰る「刷還使」を兼ねて来日した。

また、琉球使節も将軍や琉球王の代替りのたびに慶賀使・恩謝使が江戸に向かった

しかし、1671年の時、帰途七里の渡しで船が難破する事故があり、1714年の使節から美濃路経由になる。

美濃街道は中山道垂井宿と東海道熱田宿を結ぶ街道。中山道と東海道は濃尾平野で一番接近しているところから作られた。

京から垂井まで中山道を利用すると東海道の難所鈴鹿峠、七里の渡しを避けられる。

熱田から江戸へは東海道を利用すれば坂が多く険路な木曽谷を避けられるという分け。

驚くことに長崎出島のオランダ商館長も江戸参府が義務づけられていた当初は毎年、途中から4年に1回となった。!(^^)!

この参府にシーボルトも従い、熱田に来た時“伊藤圭介”が尋ねている。

伊藤圭介:東大教授 日本最初の理学博士 「おしべ・めしべ・花粉」等の言葉を創る。!(^^)!

東山植物園には伊藤圭介記念館があり、鶴舞図書館の前には像が建てられている。

ほかにも江戸時代の庶民のたび、脇往還はに賑わい高貴な人も利用していた、芭蕉と名古屋の俳諧事情、名古屋東部の幹線としの飯田海道、街道筋にある八事山興正寺、大正の技術を伝える中橋、大木戸の話、名古屋の農業を支えた庄内用水等々2時間一人で澱みなく話された。

A4用紙16ページのテキスト頂いたので、改めて読んでみるつもり。(^<^)

 


ハイキング

2011-10-26 16:36:15 | 日記

10月26日近鉄のてくてくマップを持って「養老公園周遊・志津北谷コース」へ友人と二人で挑戦。

挑戦とはオーバーだが、山の中を歩くので道をしっかり確認できるかが問題。

朝8時30分近鉄名古屋駅で合流。8時41分発急行で桑名に。桑名からは養老鉄道に乗り換え。9時15分桑名初に乗車。美濃津駅下車。無人駅。できれば駅員にでもコースを確認したかったが叶わず。

駅を出て取りあえず地図に従い歩き始める。前方見える山の周辺を歩く予定。

のんびり進むうちにコースの入り口に到着。でも人の歩いている気配感じられずいやな予感。最近の台風で山が荒れている恐れもあり覚悟して踏み入る。森の中は取りあえず歩ける感じ。坂をのぼりながらとった写真。

地図を慎重にチェック。登りが結構きつい。てくてくまっぷのコース案内に標識がしっかりしているとあったが最初の標識に出会う。

しっかりした案内標識にこれなら安心とほっとする。

しかしここからが、コースとしてはどーも変。地図にない川原越えなどとまったく我々に意味不明の方面が案内されている。この辺りから、不安になる。

しかしどこをどう通ればよいのか皆目分からず、取りあえず案内板に沿って進む。突然下から一人で上ってくる人あり。聞いてみる。行こうとしていた方向は登山コースと判明。養老方面のコースを教えられ助かる。

それでも、出てくる標識が都度時間と距離がばらばら。そのうち荒れたコースに踏み込んだり、沢を渡ったり。一向に進まず時間ばかり経過。

どこをどう歩いているのか分からないうち、細くてきわめて急な坂に出たりしてほうほうの体。

突然あずま屋が現れた時12時近く。昼食時間にして一休み。

改めて近くの方向表示を確認するうち、少し先に祠を発見。地図と祠をチェックするも合致せず。でもすぐそばを車道が見えているので、万一の時は車道に出ることを覚悟して、再度案内表示に従い進むこととする。

途中で写真のようなネットを見かけたのでそばまで行って見た。ネットの中に“クヌギ”と書いた木札があり苗1株植えられていた。周囲は植林された荒れた杉林だが、苗の周囲10メートル四方位の杉が伐採されていた。離れてもう1株あり都合2株。この辺りではほとんど自生のクヌギはなかなか見られない。無事成長するか?

森の中を抜けると展望のよい空間に突然出る。なんと名古屋駅ツインタワーが見える。

少し元気出るが、その先は相変わらず迷子状態。それでもなんとか地図にある地点に出る。たまたま農家のご主人に出会えたので、この先の道を尋ねると、相当な登りになり養老駅まで2時間以上かかると言われ、地図に沿って歩くことを断念。ご主人に言われた道を進むと県道56号線に出る。

県道56号線をネットで調べると、[岐阜県と鹿児島県の「姉妹県盟約」20周年を記念して鹿児島県木のカイコウズ(アメリカデイゴ)が道路沿いに植栽・整備された。このことから「薩摩カイコウズ街道」の愛称が付けられている。]とある。

てくてく歩くが交通量多い。30分くらい歩くと左手に赤鳥居が現れる。鳥居の扁額をみると「赤岩神社」とある。地図通り歩いていたら神社前に出る予定だった。友人がここまで来たら立ち寄ろうと提案。意を決して立ち寄ることとする。

坂道を登るうち途中の広場で養蜂しているところに出会う。テレビなどでみるだけで実際見るのは初めてなので、声をかけて見せてもらう。

この蜂は西洋ミツバチだそうだ。蜜仕事は今年は終り、これからはイチゴ農家で受粉作業だそうだ。

ここまで来ると、地図通りに歩けそうなので、再びコースに戻る。なんとか地図にある京ケ脇という集落に出る。集落のはずれに稲荷神社があったが神社まで奥深そうなので鳥居前でお参り。鳥居には寄贈した人の住所が“東京市”となっていた。色は落ちているがうっすらと赤色が残っていた。

ようやく養老公園に辿り着く。

二人ともやっと歩いたいる状態。駅までまで20分くらい。駅に着くと午後3時。なんとスタートから6時間半。細かい地図は老人に無理があった?

幸い駅に着くと6分後に電車が来る。桑名について帰りはJRで帰ることにする。名古屋駅に着いた時点で本日は8時間の行程。


中国の古代史

2011-10-24 16:03:20 | 知識

本日は皇学館大学教授の深草氏第5回目の講座、中国の古代史の最終回。

これまでに「殷と周の時代」「春秋戦国の時代」「秦の時代」「漢の時代」の講義を受けてきたが、今回「三国時代と南北朝の時代」で中国の古代史講義終り。

次回からは古代インドの世界に入る。

1.三国時代 赤壁の戦い→天下三分 魏・蜀・呉から晋(西晋)が建国されまでの流れを概括。

この時代に晋が建国(265年)されると翌266年には邪馬台国(壱与のとき)使者を送っている。当時の外交は敏感だった。

因みに魏志倭人伝に卑弥呼が出てくるのは魏の曹操(太祖武帝)-1.文帝(丕=ひ)-2.明帝(叡)-3.廃帝(芳)と続く中で叡と芳の間のこと。

2.南北朝時代 八王の乱により異民族が侵入、長安攻略され316年西晋滅亡。これより5胡の侵入、16国の興亡の後北朝に、東晋は(317年~420年)の後、呉・宋・斉・梁・陳と変遷して南朝となる。

倭の5王は宋書倭人伝に載っている。

その後隋が統一王朝を建国する。

北方の鮮卑族が洛陽に入ることによって、漢民族の文化が変化してくる。それまで漢民族は儒教、異民族を迎えて道教が、そこに仏教が入って北魏様式が広がる。

法隆寺は北魏様式の仏像が多く、釈迦三尊像は典型。

2006年9月10日の中日新聞「はとけたちのイメージを探る」=宮治 昭(当時の肩書ー名古屋大学大学院教授)の分を紹介。

本日の講座は断片的に小説やドラマなどで読んだり見たりしているが(赤壁の戦い=Red Cliff)歴史の流れとして聞くとまた異なる感じがするものだ。

講師もこの時代の複雑極まりない歴史を説明するに苦慮されている。思えば1時間半の講座でみんなに少しでも分かりやすくと資料を作りから骨を折る先生の努力に頭の下がる思い。

自分でも聞いているときは分かったつもりでもいざ纏めるとこんな程度。

次回からの古代インドはもっと知らないことが出てくると思う。楽しみ。

 


唐突にウオーキング

2011-10-23 18:24:16 | 日記

今日は予定外のウオーキング。

朝から雨模様。午前8時ころ激しく降り出し、自宅でのんびり作業でもするかと思っていた。

雨が上がり日も出てきたところで、急にウオーキングに出たくなり、たまたまJRのさわやかウオーキングが中央線勝川駅で開催中。自宅から地下鉄・JRで30分ほどで行けるので決める。

10時40分到着。さっそく歩き始める。

20分ほどで春日井市のハニワ公園に到着。

今日はハニワまつりで人出多い。

ここには古墳が3基あるそうだ。一番大きい古墳は二子山古墳。説明板見つからず。

白山神社古墳。

この古墳は神社がまつられている。

しばらく古墳と神社巡りで時間を使ったので先を急ぐ。20分ほど歩くとエアフロントオアシスという結構な休憩地に到着。やや小高い休憩所。ここから小牧空港全体が遠望出来る。写真の奥の山の上にある点は小牧城。

小牧基地までやや距離があり気温も高く汗いっぱい。30分くらい歩いたか。小牧基地航空祭当日でものすごい人出。

折角だから飛行場まで行ってみる。これが大失敗?飛行場の広さは半端でない。分かっていたつもりなのに。

いきな大型輸送機。警備の自衛官にイラクへ行ったのは?と聞くとあの青い機ですと。

さて、滑走路の手前にずらりと救難機、救難ヘリ、捜索ジェト、練習ジェット、中型輸送機、大型輸送機等々ずらりと並ぶ。奥のほうはかすんでいる。

しかし、中でも一番興味を引いたのは“機動衛生ユニット”だ。

内部は応急措置用医療器具が隙間なく収められている。

なんとベットまで。

これを輸送機に乗せて、一緒に運ぶようだ。

その反面機関砲なども展示され、弾丸の大きさに

一発3000円~4000円とか。

展示してあるのはほかに、ミサイル装置、移動レーダー、電源車などなど結局1時間ほど滞在。あっという間に1時を回ってしまった。基地から終点勝川駅まで5キロ。

途中で右の鼠径部が痛くなってきた。こんなことほとんどなかったことなので何故だろうと思いながら歩く。

分かったことは、小牧基地前を通る102号線(通称木曾街道)が車道優先で作ったため歩道が狭く、車道からの雨水を歩道を通して排水すろ構造になっている。このため狭い歩道の傾斜がきつく常に右足側が高くなっている。この歩道のおかげで足への負担が大きいのではないかと思った。

102号線を離れると痛みもほとんどなくなってきた。

基地に寄り道したおかげで昼食忘れていた。駅の売店でパンを購入ホームのベンチでいただく。

帰宅午後3時。約6時間の小旅行でした。写真90枚。このブログへのアップ13枚。残りどうしよう。