【西日本豪雨】「返信、正直しんどかった」「既読つかずやきもき」…災害時のSNS、課題を考える
2018年7月28日 9時10分
産経新聞
西日本を中心とした記録的な豪雨から20日が過ぎた。
広島県東広島市に実家がある記者には現地に友人も多い。想定を超える豪雨の現場では何が起きていたのか。災害時、SNSはどれほど機能したのか。友人・家族の証言をもとに検証した。(WEB編集チーム 松尾祐紀)
スマホ見る余裕なく
気象庁によると、5日から8日までの東広島市の雨量は420ミリ。呉市の470ミリや広島市の458ミリと並び、被害地域の中でも多かった。
広島市内の専門学校で講師を務める友人(36)は6日、JR山陽線で東広島市内に帰宅しようとしていた。しかし昼過ぎには運転見合わせとなり結局、新幹線を使い帰宅。この時点では「被害がここまで広がるとは思わなかった」と振り返るが、同日夜には実家(同市黒瀬町)に被害が迫っていた。床上浸水し、近くの崖も崩れた。
翌朝、様子を見に行こうと父親に連絡したものの、返事は「絶対来るな」。数カ所で崩落が起き、孤立状態となっていたためだ。夕方、ようやく車1台分が通れるようになり到着できたという。
その夜、友人はフェイスブックを更新。「土砂崩れ、山崩れが多く見られ(中略)一時的にライフラインが寸断されました」と綴った。また、仲間や家族、近隣住民と被害状況を共有したといい、「コミュニティは絶対に必要だと痛感した」とも記した。
この投稿を読んで自問自答した。自分は非常時に隣人と助け合える関係を築けているか。挨拶程度の関係しか築けていないのではないか。考えさせられた。
当時、友人の身を案じ「大丈夫?」と個別のメッセージも多く寄せられたという。感謝する一方で「うん、大丈夫じゃけん。ありがとう」と返信することが「正直、しんどいと思う部分もあった」と振り返る。
当時は刻一刻と変わる状況を把握するため情報収集に明け暮れていたり、実家の状況も気にかけたりと「スマホばっか見とる状態ではなかった」。広い範囲に情報を伝えられるフェイスブックに無事を書き込んだ背景にはこのような事情もあったという。
安否確認のライン送るも…
記者の両親も東広島市在住。豪雨の去った7日朝は祖母宅のある三原市大和町に向かっていた。この日、祖母が不在だったため、裏山が崩れていないか見に行ったという。
道中は河川の氾濫、土石流による通行止め、道路の一部陥没などがあり迂回。到着に時間がかかった。身内が以前入所していた老人ホームが半壊していた様子も見たという。
裏山は崩れていなかったが、向かいの山は崩れ、隣人は避難していた。隣人は崩落が起きた同日早朝に「バリバリと地響きを聞いた」という。
一方、この日、道中にある椋梨ダム(東広島市)が満水のおそれがあると東京でも報道されていた。放水量を増やすといい、流域に注意を呼びかけていた。「近くを走っているかもしれない」と思いすぐに両親へ安否確認のラインを送った。
電話に出る余裕はないだろうし、ラインが“既読”表示になれば危険な目にはあっていないだろうとの判断だった。しかし、なかなか“既読”にならない。仕事も手につかなかった。
両親から返事が来たのは翌日。当時、電話は不通だったという。考えてみれば、祖母宅の周りは田園地帯で通信インフラも脆弱。無線LANは導入していたものの、今回は機能しなかった。別の連絡手段も考慮しなければ、と感じた。
このように非常時、SNSは発信手段として機能したが、情報収集の手段としては効率が悪かった。広く同時に被害が発生していたため、求める情報を検索することが難しかったのだ。
役に立ったコミュニティFM
当時、役に立ったのが地域のコミュニティFM。情報の範囲が地元に限定されているため、情報が集めやすかったという。また、土地勘のある人間による放送だったため、通行止めとなっている場所のイメージも湧きやすかった。
非常時にはSNSの速報性と同じくらい、選別・加工されたローカルな情報も求められる。どのように発信すれば良いか、適切なバランスとは何か。報道に携わる者の端くれとして課題を突きつけられた気がした。
通行止めの手書き地図を共有
広島県坂町の会社に勤務する友人(37)は6日、三原市内を運転していた。黒瀬町から熊野町を経由し坂町の勤務先に戻る途中だった。いずれも被害の大きかった地域だ。
午後4時ごろ三原市を出発、会社までは高速で1時間の距離だ。遅くても2時間後には着くと見込んでいたが、途中の広島熊野道路で土砂崩れが起き渋滞に。迂回路を模索したが、いずれも通れなかった。同7時40分、広島県には大雨特別警報が出た。
同10時にはフェイスブックに「熊野から脱出できない」と投稿。コメント欄には「無事で何より」「くれぐれも気をつけて!」と返信が相次いだ。SNSが安否確認に一役買った。
2時間後の7日未明には帰宅をあきらめ「ローソン駐車場で車中泊」と投稿。「熊野の盆地の中央なので浸水はないと思う。。。」と不安な思いも綴った。
車社会である東広島市。崩落が相次ぎ通行止めの道も増えていたが、当時は報道も少なかった。そのためフェイスブック上で手書きの通行可能マップが広く共有された。友人もフェイスブックにこの地図を投稿、帰宅ルートを模索していた。
当時、熊野町では土砂崩れが発生、10人以上の死者が出た。友人は、判断を一つ間違えれば自らも巻き込まれていたと淡々と語った。
結局、帰宅したのは翌日の昼。出発から20時間が経過していた。
友人たちは「まだまだ手が足りていない場所が多い。この状況を広めてほしい」と口をそろえる。遠く東京にいる身でできることは思いを寄せ続けること。これからも定期的に話を聞き、支援していくことを誓った。
2018年7月28日 9時10分
産経新聞
西日本を中心とした記録的な豪雨から20日が過ぎた。
広島県東広島市に実家がある記者には現地に友人も多い。想定を超える豪雨の現場では何が起きていたのか。災害時、SNSはどれほど機能したのか。友人・家族の証言をもとに検証した。(WEB編集チーム 松尾祐紀)
スマホ見る余裕なく
気象庁によると、5日から8日までの東広島市の雨量は420ミリ。呉市の470ミリや広島市の458ミリと並び、被害地域の中でも多かった。
広島市内の専門学校で講師を務める友人(36)は6日、JR山陽線で東広島市内に帰宅しようとしていた。しかし昼過ぎには運転見合わせとなり結局、新幹線を使い帰宅。この時点では「被害がここまで広がるとは思わなかった」と振り返るが、同日夜には実家(同市黒瀬町)に被害が迫っていた。床上浸水し、近くの崖も崩れた。
翌朝、様子を見に行こうと父親に連絡したものの、返事は「絶対来るな」。数カ所で崩落が起き、孤立状態となっていたためだ。夕方、ようやく車1台分が通れるようになり到着できたという。
その夜、友人はフェイスブックを更新。「土砂崩れ、山崩れが多く見られ(中略)一時的にライフラインが寸断されました」と綴った。また、仲間や家族、近隣住民と被害状況を共有したといい、「コミュニティは絶対に必要だと痛感した」とも記した。
この投稿を読んで自問自答した。自分は非常時に隣人と助け合える関係を築けているか。挨拶程度の関係しか築けていないのではないか。考えさせられた。
当時、友人の身を案じ「大丈夫?」と個別のメッセージも多く寄せられたという。感謝する一方で「うん、大丈夫じゃけん。ありがとう」と返信することが「正直、しんどいと思う部分もあった」と振り返る。
当時は刻一刻と変わる状況を把握するため情報収集に明け暮れていたり、実家の状況も気にかけたりと「スマホばっか見とる状態ではなかった」。広い範囲に情報を伝えられるフェイスブックに無事を書き込んだ背景にはこのような事情もあったという。
安否確認のライン送るも…
記者の両親も東広島市在住。豪雨の去った7日朝は祖母宅のある三原市大和町に向かっていた。この日、祖母が不在だったため、裏山が崩れていないか見に行ったという。
道中は河川の氾濫、土石流による通行止め、道路の一部陥没などがあり迂回。到着に時間がかかった。身内が以前入所していた老人ホームが半壊していた様子も見たという。
裏山は崩れていなかったが、向かいの山は崩れ、隣人は避難していた。隣人は崩落が起きた同日早朝に「バリバリと地響きを聞いた」という。
一方、この日、道中にある椋梨ダム(東広島市)が満水のおそれがあると東京でも報道されていた。放水量を増やすといい、流域に注意を呼びかけていた。「近くを走っているかもしれない」と思いすぐに両親へ安否確認のラインを送った。
電話に出る余裕はないだろうし、ラインが“既読”表示になれば危険な目にはあっていないだろうとの判断だった。しかし、なかなか“既読”にならない。仕事も手につかなかった。
両親から返事が来たのは翌日。当時、電話は不通だったという。考えてみれば、祖母宅の周りは田園地帯で通信インフラも脆弱。無線LANは導入していたものの、今回は機能しなかった。別の連絡手段も考慮しなければ、と感じた。
このように非常時、SNSは発信手段として機能したが、情報収集の手段としては効率が悪かった。広く同時に被害が発生していたため、求める情報を検索することが難しかったのだ。
役に立ったコミュニティFM
当時、役に立ったのが地域のコミュニティFM。情報の範囲が地元に限定されているため、情報が集めやすかったという。また、土地勘のある人間による放送だったため、通行止めとなっている場所のイメージも湧きやすかった。
非常時にはSNSの速報性と同じくらい、選別・加工されたローカルな情報も求められる。どのように発信すれば良いか、適切なバランスとは何か。報道に携わる者の端くれとして課題を突きつけられた気がした。
通行止めの手書き地図を共有
広島県坂町の会社に勤務する友人(37)は6日、三原市内を運転していた。黒瀬町から熊野町を経由し坂町の勤務先に戻る途中だった。いずれも被害の大きかった地域だ。
午後4時ごろ三原市を出発、会社までは高速で1時間の距離だ。遅くても2時間後には着くと見込んでいたが、途中の広島熊野道路で土砂崩れが起き渋滞に。迂回路を模索したが、いずれも通れなかった。同7時40分、広島県には大雨特別警報が出た。
同10時にはフェイスブックに「熊野から脱出できない」と投稿。コメント欄には「無事で何より」「くれぐれも気をつけて!」と返信が相次いだ。SNSが安否確認に一役買った。
2時間後の7日未明には帰宅をあきらめ「ローソン駐車場で車中泊」と投稿。「熊野の盆地の中央なので浸水はないと思う。。。」と不安な思いも綴った。
車社会である東広島市。崩落が相次ぎ通行止めの道も増えていたが、当時は報道も少なかった。そのためフェイスブック上で手書きの通行可能マップが広く共有された。友人もフェイスブックにこの地図を投稿、帰宅ルートを模索していた。
当時、熊野町では土砂崩れが発生、10人以上の死者が出た。友人は、判断を一つ間違えれば自らも巻き込まれていたと淡々と語った。
結局、帰宅したのは翌日の昼。出発から20時間が経過していた。
友人たちは「まだまだ手が足りていない場所が多い。この状況を広めてほしい」と口をそろえる。遠く東京にいる身でできることは思いを寄せ続けること。これからも定期的に話を聞き、支援していくことを誓った。