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今日のコラム

2013-10-31 06:00:07 | インポート

10月31日松下幸之助一日一話(松下幸之助.COM)

まず与えよう

 持ちつ持たれつという言葉もあるが、この世の中は、お互いに与え合い、与えられ合うことによって成り立っている。それはお金とか品物といった物質的な面もあれば、思いやりといったような心の面もある。

 聖書の中にも、「与うるは受くるより幸いなり」という言葉があるというが、人間とは他からもらうことも嬉しいが、他に与え、他を喜ばすことにより大きな喜びを感じるというところがあると思う。そういう喜びをみずから味わいつつ、しかも自分を含めた社会全体をより豊かにしていくことができるのである。

「まず与えよう」これをお互いの合言葉にしたいと思ったのだが、どうであろうか。

筆洗

2013年10月30日(東京新聞TOKYOWeb)

▼夫婦は顔が似てくる。電車の中に顔がそっくりな老夫婦がいた。<うり二つというよりもワラジそのまんま>。志ん朝さんの口調をまねしたくなる。夫婦の顔を車内に居合わせた人がうれしそうに見ている。温かい空気が広がっている。老夫婦の似た顔は幸せを連想させる

▼長年、同じ物を食べ、同じ家に住めば、表情や雰囲気が似てくるというが、どうも人間は無意識のうちに自分の顔に似た人を連れあいに選んでいるようだ

▼米イリノイ大学の研究によると自分の顔に似た人間をより信用し、魅力を感じる傾向があった▼これを利用したパートナー探しが米国で人気になっている。自分の顔を登録すると、顔や雰囲気の似た相手を探してくれる。効果は分からないが、幸せを求める必死な思いが伝わってくる

▼夫婦ばかりか、犬と飼い主は目が似るという記事を見た。飼い主は自分の顔とどこか似た部分のある犬を選ぶのか。反論もある。犬を愛した作家安岡章太郎さんは「人間だって飼っている犬に似てくる」と書いた。発想が面白い。安岡さんとその愛犬も実に似ていた

▼「暴力団」にカネを貸して放置した銀行と食材偽装のホテルの記者会見は言い訳めいた点が<ワラジそのまんま>だった。もともと性根が似ているのか、性根が曲がっていると言い方が似てくるのか。どっちにせよ、幸せな気分どころではない。


今日のコラム

2013-10-30 05:58:02 | インポート

10月30日松下幸之助一日一話(松下幸之助.COM)

使命感半分、給料半分

 人間には、“欲と二人連れ”という言葉もあるように、自分の利によって動くという面と、使命に殉ずるというか、世のため人のために尽すところに喜びを感ずるといった面がある。だから人を使うにしても、給料だけを高くすればいいというのでなく、やはり使命感というものも持たせるようにしなくてはほんとうには人は動かない。もちろん使命感だけで、給料は低いというのでも、これはよほど立派な人でない限り不満を持つだろう。普通の人間であれば、使命感半分、給料半分というところだと思う。

 そのようなあるがままの人間性に則した処遇をしていくところに、適切な人の使い方があると言えよう。

筆洗

2013年10月29日(東京新聞TOKYOWeb)

▼野田秀樹さんの新作『MIWA』は美輪明宏さんの『愛の讃歌』が流れて幕を閉じる。知っている歌詞とは違った

▼作詞家の岩谷時子さんが亡くなった。記憶にあったのは岩谷さんが訳詞したエディット・ピアフの『愛の讃歌』だった。<あなたの燃える手であたしを抱きしめて>。一時期、結婚式の定番でもあった

▼美輪さんは岩谷さんの訳詞が好きではなかったという。美輪さんが訳した方は結婚式にはおよそ向かない。男が望めば<宝石だって盗みに行くわ><愛する祖国も友達もみんな裏切ってみせるわ>。壮絶である

▼ピアフは妻子あるボクサーと恋愛していた時期にこれを書いたとされる。映画の「エディット・ピアフ 愛の讃歌」で描かれるような悲劇の人生を思い、美輪さんの訳詞を好む人もいる

▼岩谷さんは日本人に向けた分かりやすさを考えて大胆に訳した。一連の作品の魅力はその明快さにある。照れがなく堂々としている。曲の方に詞を合わせる作詞方法によって口ずさみやすく、子どもでさえ<わたしの恋は空を染めて燃えたよ>(ピンキーとキラーズ『恋の季節』)と、歌っていた

▼シナトラの『マイウェイ』。岩谷さんの訳詞がある。<私は私の道を行く>。カラオケで熱唱するのは野暮(やぼ)だといわれた時代もあるが、まっすぐな詞は潔く、説得力がある。九十七歳。堂々たる人生の幕が下りた。


今日のコラム

2013-10-29 06:03:05 | インポート

10月29日松下幸之助一日一話(松下幸之助.COM)

社長を使う

 私はいつも社長をもっと使ってくれというのです。「こういう問題が起こっているのです。これは一ペん社長が顔を出してください。社長に顔出してもらったら向うも満足します」「それなら喜んで行こう」というわけです。こういうように社長を使うような社員にならなければならないと思うのです。その会社に社長を使う人間が何人いるか、一人もいなかったらその会社はだめです。しかしほんとうに社長を使う人間が、その会社に十人できたら、その会社は無限に発展すると思います。

 また、社長を使わなくても課長や主任を使う。上司が部下を使うことは、普通の姿です。部下が上司を使うことが大事なのです。

筆洗

2013年10月28日 (東京新聞TOKYOWeb

▼奇妙ななぞなぞが子どもの間でかつて流行した。問題「野球の試合で絶対に負けない方法は?」。答え「ホームランを百本かっ飛ばす」。問題「テストで百点を取るには?」。答え「猛勉強する」

▼怒らないでほしい。一九七〇年代半ば、われわれ小学生はこの言葉のゲームに笑い転げた。五問もやれば飽きる。大人にはなにが面白いのか分からないが、子どもには楽しいのである

▼二十七日から読書週間が始まった。小学生の読書量はかなり多いが、中学、高校へ進むうちに減っていく。勉強が忙しくなるせいもあるだろうが、この傾向は小学生の時に読書の習慣が本当は根付いていないからではないか

▼小学高学年向けの本を一冊挙げたい。三田村信行さんの『おとうさんがいっぱい』と題名の不気味な短編集だ。大人の目からすれば、名作、良書とは言えないかもしれない▼表題作は主人公の少年の家へ同じ顔の父親が三人やって来る。お母さんも見分けられない。その結果…。自分は四十年近く前に読んだこの本が忘れられない。イラストは絵本作家の佐々木マキさん

▼「まず大切なことは読書の習慣をつくるということである」と、哲学者の三木清は『如何(いか)に読書すべきか』をこう書きだしている。さて問題。「子どもに読書の習慣をつけるには?」。答え「子ども自身が本当に面白いと思える本を与えること」。


今日のコラム

2013-10-28 05:44:04 | インポート

10月28日松下幸之助一日一話(松下幸之助.COM)

こわさを知る

 人はそれぞれにこわいものを持っています。子どもが親をこわいと感じたり、社員は社長をこわいと思ったり、世間がこわいと思ったりします。しかしそれとともに、自分自身がこわいという場合があります。ともすれば怠け心が起こるのがこわい、傲慢になりがちなのがこわいというようなものです。

 私はこのこわさを持つことが大切だと思います。こわさを常に心にいだき、おそれを感じつつ、日々の努力を重ねていく。そこに慎しみ深さが生まれ、自分の行動に反省をする余裕が生まれてくると思うのです。そしてそこから、自分の正しい道を選ぶ的確な判断も、よりできるようになると思います。

筆洗

2013年10月27日 (東京新聞TOKYOWeb)

▼秋の夕刻には感情をかき乱す魔力がある。スーパーで、老婦人が一人、ネギを買っている姿を見ているだけで、寂しくなる。小学校の下校の音楽なのか、遠くから聞こえてくる『新世界より』の第二楽章に鼻の奥の方が熱くなる

▼あの曲には、日本語の歌詞がある。『遠き山に日は落ちて』。音楽家の堀内敬三さんが大正時代に書いた。仕事を終えて、家族の元へ帰るうれしさを歌っている。<いざや楽しまどいせん>

▼「まどいせん」。最近はまず聞かない。まどいとは「団居」「円居」と書く。車座になることで、家族だんらんの意味がある。夏の歌だろうが、曲と歌詞は寂しい秋の夕刻に似合いすぎている

▼寂しい秋ばかりではない。三十一日はハロウィーンである。古代ケルト伝統の先祖の霊を迎える火祭りは米国経由で日本にもやってきて、子どもが仮装する日として定着しつつある。魔女や怪物の衣装を着た子どもの姿は楽しい

▼頼みたいことがある。その夜、仮装した子らを連れて、近所の一人暮らしのおじいさん、おばあさんの家を一軒でいい、回ってもらえないだろうか。「お菓子をちょうだい」と子どもに言わせてほしい

▼高齢者の単独世帯は二割を超えている。秋の夜に寂しい思いをしている人もいる。あのスーパーのおばあさんの家へも行って、ほんのちょっと「団居」を分けてもらえないだろうか。


今日のコラム

2013-10-27 07:06:30 | インポート

10月27日松下幸之助一日一話(松下幸之助.COM)

インテリの弱さ

 今日、よく耳にする言葉に“インテリの弱さ”ということがある。これは、インテリには、なまじっかな知識があるために、それにとらわれてしまい、それはできないとか、それはどう考えてもムリだ、と思い込んでしまって、なかなか実行にうつさないという一面を言った言葉だと思う。

 実際、“ああ、それは今まで何度もやってみたんだが、できないんだ”と決め込んでいることが、われわれの身のまわりには意外に多いのではなかろうか。ときには、自分の考え、また自分をとらえている常識や既存の知識から解放され、純粋な疑問、純粋な思いつき、というものを大切にしてみてはどうだろうか。



筆洗

2013年10月26日 (東京新聞TOKYOWeb)

▼私立大学で経営学を学ぶ二十一歳の佐藤君には、多額の借金がある。大学を出るまでに、その額は一千万円余に膨らみそうだ

▼彼は二歳の時、父を病気で失った。母は月収七、八万円のパートで育ててくれた。だから高校・大学に進学するには借金をするしかなかった。卒業後は二十年間にわたり、利子を含め月三、四万円ずつ返済することになる

▼「本当に不安です。親元から通える就職先でなければ、返済は難しいでしょう。自分の家族を持ち、子どもを育てていけるのでしょうか?」と佐藤君は話す

▼彼の借金を日本では奨学金と呼ぶ。もし和英辞典を引いて「スカラシップ」と訳したら、英語圏の人なら「それはスカラシップではなく学生ローンだ」と言うだろう。漢字の本場・中国の人も「それは奨学金ではなく助学貸款だ」と指摘するに違いない

▼どうも日本語の「奨学金」という言葉が、この国の貧弱な教育支援制度の実態を見えにくくしているようだ。日本には、給付型、つまり返済不要な公的奨学金は皆無に近く、ほとんどの奨学金は国際的にはローンと呼ばれているものだ

▼ある調査によれば、日本では毎年五万人の高校三年生が貧困を理由に進学をあきらめているという。そんな子を一人でも少なくするために、佐藤君ら「あしなが育英会」の学生たちは、この週末も街角で募金を呼び掛けるはずだ。