naraukyo63の時間

残りの時間

ごきげん歌に乾杯

2014-04-30 19:51:25 | インポート

ごきげん歌に乾杯!ラジオ第一

2014年4月30日(水)

前半 夜 8時05分?8時55分/後半 夜 9時05分?9時30分

前半

北島三郎     「風雪ながれ旅」

長山洋子     「望郷ひとり泣き」

細川たかし     「北酒場」

長山洋子     「ヨコハマ・シルエット」

細川たかし     「矢切の渡し」

北島三郎     「加賀の女」

長山洋子     「蜩」

細川たかし     「浪花節だよ人生は」

北島三郎     「山」

懐かしい名曲を、さすらいの歌姫・瀬口侑希さんが、
アコーディオン男爵・山岡秀明さんの演奏で歌います。
「二人は若い」
(オリジナル歌手:ディック・ミネ/星玲子[昭和10年])

瀬口侑希・
山岡秀明     「二人は若い」
瀬口侑希     「三春の桜」

後半

瀬口侑希     「夢灯籠」

長山洋子     「もう一度・・・子守歌」

細川たかし     「女の十字路」

北島三郎     「人道」

今夜も聴いています。。


今日のコラム

2014-04-30 06:21:55 | インポート

☆ お早うございます、今日もお立ち寄り有難う御座います ☆

4月30日松下幸之助一日一話(松下幸之助.COM)

困難から力が生まれる

 人間というものは恵まれた順境が続けば、どうしても知らず識らずのうちにそれに馴れて、安易になりやすい。昔から“治に居て乱を忘れず”ということが言われ、それはきわめて大切な心構えであるけれども、そういうことがほんとうに百%できる人はおそらくいない。やはりどんな立派な人でも無事泰平な状態が続けば、つい安易になる。安心感が生じ、進歩がとまってしまう。

 それが、困難に出会い、逆境に陥ると、そこで目覚める。気持を引き締めて事に当たる。そこから、順調なときに出なかったような知恵が湧き、考えつかなかったことを考えつく。画期的な進歩、革新もはじめて生まれてくる。

【コラム】筆洗

2014年4月29日東京新聞TOKYOWeb

▼鰊群来(にしんくき)。晩春の北海道西部にはかつてニシンが大群となって押し寄せた。海面が乳白色に見えたという。ニシン漁は明治末から大正期に隆盛を極め、地域に富をもたらした

▼<鰊群来今なし残る浪(なみ)と唄 福田蓼汀(りょうてい)>。回遊路の変化か乱獲か、戦後、ニシンは姿を消す。漁は廃れた。北原ミレイさんの「石狩挽歌」(作詞・なかにし礼さん)。ニシン御殿も<今じゃさびれてオンボロロ>。幼年期を小樽で過ごした、なかにしさんが見た光景という

▼歌の中に<沖を通るは笠戸(かさと)丸>とある。奇妙な運命をたどった船である。元は一九〇〇(明治三十三)年、英国で建造された。ロシア義勇軍に売られ、日露戦争で戦ったが、日本に奪われた

▼その名が残るのは初のブラジル移民船だったからである。〇八(明治四十一)年四月二十八日。移民七百八十一人を乗せて神戸を出港した。夢と不安を積んだ船は、苦労したブラジル移民と日系人にとってのシンボルだったという

▼船の数奇な運命は続く。客船や病院船、蟹(かに)工船などに使用され、最後は四五年カムチャツカに沈む。旧ソ連の攻撃で撃沈された

▼歴史の波間に浮かび、消えたニシン漁、ブラジル移民、「笠戸丸」。そして現在。深刻な人口減に悩む日本に移民の是非が議論される。ニシンは戻らないが、移民の方は再び歴史の波頭に姿を見せる。今度は受け入れる側としてである。

【私説・論説室から】東京新聞TOKYOWeb

東京の海をより身近に

2014年4月28日

 超高層の霞が関ビル、その上層階の会社を取材で訪れた。澄みきった好天の午後でガラス越しの光景に心を奪われた。眼下に広がるビル群の向こうに輝いていたのは青い海。

 三十年も前のことだが、あの海の青さが忘れられない。東京で育ったが、あの時まで東京で海を見た記憶がなかったから。

 物心ついた一九六〇年代、東京の海岸線は工場や造船所、倉庫で埋め尽くされていた。晴海通りで銀座を抜け、勝鬨橋を渡ると、その先は港湾エリアで人を寄せ付けなかった。

 少し離れた「夢の島」には第五福竜丸の展示館がある。行かれたことはあるだろうか。

 「夢の島」は私の世代には「ごみの島」のイメージと重なる。都内のごみ処理が集中していた江東区が杉並区のごみ受け入れ阻止に動いた「ゴミ戦争」があったのは七二年だった。その「夢の島」が、戦後間もない四七年にオープンした東京では最後の海水浴場の名前だと知ったのは最近のことだ。

 東京の海が身近になったのはレインボーブリッジが開通し、お台場に人工ビーチができた九〇年代になってからだ。開放、自由、自然、生命、畏怖…海は目の前にしただけで日々の雑念から人を解き放つ力がある。インフラの老朽化、震災対策、高齢化など東京は多くの課題を抱えているが、「湾岸で開かれる五輪」という東京に海を取り戻す好機を逃さないでほしい。 (安田英昭)

4月30日を図書館記念日

☆ 今日も皆さまにとって良い一日でありますように ☆


今日のコラム

2014-04-29 06:08:30 | インポート

☆ お早うございます、今日もお立ち寄り有難う御座います☆

4月29日松下幸之助一日一話(松下幸之助.COM)

心を遊ばせない

 指導者というものは、常に心を働かせていなくてはいけない。もちろん、それは四六時中仕事に専念しろということではない。それではとても体がもたない。だからときに休息したり、あるいはレジャーを楽しむこともあっていいと思う。ゴルフをするなり、温泉に行くのもそれなりに結構である。

 しかし、そのように体は休息させたり、遊ばせたりしていても、心まで休ませ、遊ばせてはいけない。お湯のあふれる姿からも何かヒントを得るほどに、心は常に働いていなくてはならない。全く遊びに心を許してしまうような人は、厳しいようだが、指導者としては失格だと思う。

【コラム】筆洗

2014年4月28日東京新聞TOKYOWeb

▼早いもので四月尽も迫る。齢(よわい)を重ねるほど一日や一年が過ぎるのが早くなる。「人の感じる時間の長さはその年齢に反比例する」。「ジャネの法則」というそうだ

▼年齢による経験で時間の受け止め方が異なるためという。三歳の子にとって一年間は人生全体の三分の一。五十歳の人間には五十分の一。時が軽くなるということか。時の流れを押しとどめたい年齢層には嫌な法則でもある

▼もっと気の重くなる時間のたとえがある。「人生時間」という。年齢を三で割ってみる。人生を一日間に置き換えた場合、自分が何時にいるのかが分かるそうだ。三十歳なら割る三で十。午前十時。時間は十分にある。六十歳。二十なので午後八時。日没は過ぎたが、まだまだ十分楽しめる時間帯である

▼認知症の高齢者が行方不明になるケースが増えている。認知症の患者が増加し、しかも自宅介護の場合は介護するのも同じ高齢者。ずっと目を離さぬことは困難で認知症患者は外へ出る

▼自分の家はここではない。自宅にいるのにそう思い込む人もいる。自分の家を出て「自宅」へ向かってさまよい歩く。なんとも切ない、無限の旅

▼人生時間の「深夜」の時間帯を過ごし、しかも判断力の衰えている人々に安心の灯火を用意するのは当然なのに国の対応は遅い。政府の感じる時間と国民の感じる時間。認知症問題ではそれが違いすぎる。

【社説】東京新聞TOKYOWeb

認知症事故訴訟 介護への影響は甚大だ

2014年4月28日

 認知症の男性の事故で鉄道会社に生じた損害を家族が負担すべきかが争われた裁判の控訴審は、妻のみ賠償責任を問われた。認知症が急増する社会に沿った判断か。公的な賠償制度も検討すべきだ。

 家族側に全面的賠償を命じた一審の判断は適正か。介護現場の注目を集めた裁判だった。

 愛知県大府市で二〇〇七年、認知症の男性=当時(91)=が徘徊(はいかい)中に列車にはねられ死亡し、JR東海が男性の遺族に振り替え輸送代など約七百二十万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決で、名古屋高裁は男性の妻(91)と長男(63)に全額支払いを命じた一審判決を変更し、妻に対してのみ約三百六十万円の賠償を命じた。

 遠方で暮らす長男への請求を棄却し、新たにJR側に対して、「駅の利用者への監視が不十分だった」などと安全対策の不備に言及し、賠償を半分に減額した。この点は一定評価ができるだろう。

 しかし、妻だけであっても、家族に賠償責任を負わせる点は一審と変わらない。民法が定める監督義務者として配偶者の責任は免れないという考え方である。

 夫婦が互いに協力し、助け合っていくことが大切なのはもっともだが、配偶者というだけで常に責任を負わされるなら、精神的にも、経済的にも追い詰められる。在宅介護は立ちゆかなくなる。

 認知症を患う人は、今や高齢者の七人に一人、予備軍もあわせて四人に一人に上る。高齢者が高齢者を介護する「老老介護」も増え、高齢ながらできる限りの介護に尽くしている人は大勢いる。

 事故で亡くなった男性は「要介護4」だった。妻がまどろんだ数分の間に家を出た。

 同じような事故はほかでも起こる。認知症の徘徊対策として玄関に開閉センサーをつけても、ヘルパーに頼んでも、行動予測の難しい人を二十四時間、一瞬も目を離さず見守ることは不可能だ。在宅であれ、施設であれ、部屋に閉じ込めることなどできない。

 この判決が前例になれば、ほかの事故でも損害賠償裁判で責任を問われる。亡くなる人は被害者でもある。家族だけに賠償を押しつけない、鉄道会社の責務や、社会的な救済制度が考えられるべきだ。保険料は運賃に上乗せし、事故の時は保険から支払われる仕組みがあってもいい。

 認知症の事故は列車に限らず、自動車などでも起きる。事故による負担を社会全体で分かち合う、そんなシステムをつくりたい。

☆今日は雨の朝です。皆さまにとって良い一日でありますように ☆


今日のコラム

2014-04-28 06:58:12 | インポート

☆ お早うございます、今日もお立ち寄り有難う御座います ☆

4月28日松下幸之助一日一話(松下幸之助.COM)

会社は道場

 仕事というものは、やはり自分でそれに取り組んで、体得していかなければならないものだと思う。しかし自得していくには、そのための場所というか、道場とでもいうものが必要であろう。

 ところが幸いなことにその道場はすでに与えられている。すなわち、自分の職場、自分の会社である。あとはその道場で進んで修業しよう、仕事を自得していこうという気になるかどうかということである。しかも会社という道場では、月謝を払うどころか、逆に給料までくれるのだから、こんな具合のよい話はない。このような認識に立てば、仕事に取り組む姿も、謙虚に、しかも力強いものになるはずである。

【コラム】筆洗

2014年4月27日東京新聞TOKYOWeb

▼<富は富岡 北甘楽(かんら) いやいや 日本の名の誉れ 富んだ 富んだ みな富んだ 世界の富を引き寄せた>。群馬の富岡製糸場を歌った「北甘楽行進曲」の六番。威勢がいい

▼二十六日、「製糸場と絹産業遺産群」の世界文化遺産への登録が確実になった。登録を目指してきた富岡市の関係者には、歌でいえば「世界遺産を引き寄せた」であろう

▼作詞は北原白秋、作曲は弘田龍太郎。製糸場五十年の記念につくったというから一九二二(大正十一)年か。地名とはいえ、短い歌の中に「富」の文字が六つ。富国強兵の「富」、外貨の「富」。日本の近代化という、この工場が背負った期待と役割が分かる。それに応え、品質の高い糸を生産した主役は工女。女性たちである

▼彼女たちも当初は二の足を踏んだ。初代所長の尾高惇忠(おだかあつただ)の伝記『藍香翁』によると西洋人への恐怖心があった。血を吸われる。目撃者もいた。「如何(いか)なる物をか見たる?」「血酒」「そは日用の葡萄(ぶどう)酒なりき」

▼今聞けば、出来の悪い怪談だが、当時は真剣だった。そこで働き、近代化の礎を築いた「工女」を思う時、この工場が女性のこさえた世界遺産に見えてくる

▼白秋には、この工場にちなむ別の歌もある。二九(昭和四)年の「繰絲(くりいと)の歌」。<よりによりかけ からんだ絲よ おまへ切れてもわしや切れぬ>。婀娜(あだ)な文句に工女の人間味があふれる。

昨日のカープ

27日マツダスタジアム、カープ3―0巨人、勝ち投手一岡1勝、本塁打エルドレッド8号 詳しくは中国新聞朝刊で

☆ 今日も皆さまにとって良い一日でありますように ☆


今日のコラム

2014-04-27 06:18:13 | インポート

☆ お早うございます、今日もお立ち寄り有難う御座います ☆

4月27日 松下幸之助一日一話(松下幸之助.COM)

賢人ばかりでは

 世の中は賢人がそろっておれば万事うまくいく、というものでは決してありません。賢人は一人いれば、それで十分なんです。さらに準賢人が三人、準々賢人が四人ぐらい。そんな具合に人が集まれば上々でしょう。賢人ばかりですと議論倒れで一向に仕事がはかどらないといったようなことになりがちです。

 一つの実例をあげれば、ある会社で三人の立派な人物が、お互いに協力しあっていたはずなのにどうもうまくいかない。そこで一人を抜いてみた。すると残る二人の仲がピタッと合って非常にうまくいき、抜かれた人物も他の分野で成功した。そんなことがよくあるものなのです。

【コラム】筆洗

2014年4月26日 東京新聞TOKYOWeb

▼五年前の四月五日午前十一時三十分ごろ、北朝鮮は長距離弾道ミサイルを発射した。その六時間後、オバマ米大統領はプラハで演説した

▼「核保有国として、核兵器を使用したことのある唯一の核保有国として、米国には行動する道義的責任があります。…本日、私は明確に信念を持って表明します。米国は核兵器なき世界の平和と安全を追求していくと」

▼無論、大統領は「目標にはすぐには、恐らく私が生きている間には、到達できないでしょう」と言い、当面は核抑止力で同盟国を守るとも語った。しかし、同時にこうも言った

▼「希望より恐怖を選んだ時の道を私たちは知っています。協力の呼び掛けを非難し、一笑に付すことは簡単ですが、臆病なことでもあります。戦争は、そのように始まるのです」

▼時はめぐり、大統領のアジア歴訪をにらむように北朝鮮は核実験の構えを見せている。直面する厳しい現実があるからこそ、未来に向けた理想の意義もあるはずだが、唯一の被爆国・日本の首相との共同声明を読んでも、かつての熱は感じられない

▼「『武器を取れ』という呼び掛けが、『武器を置け』という呼び掛けより人々の感情をかき立てることを、私は知っています。だからこそ平和と進歩を求める声をともに上げなくてはならないのです」。五年前にプラハから届いた言葉は、忘れるには惜しい言葉である。

☆ 今日も皆さまにとって良い一日でありますように ☆