奈良のむし探検

奈良に引っ越しました。これまでの「廊下のむし探検」に倣って「奈良のむし探検」としましたが、動物・植物なんでも調べます。

久米寺の練供養見物1

2024-05-12 21:25:30 | 神社・寺・古墳など
奈良散策 第1153弾


5月3日に橿原市にある久米寺で練供養(ねりくよう)という行事が開かれるというので見物に行きました。橿原市のホームページによると、久米寺の練供養は、本堂から護国道場の間の100メートルほどに掛け橋が架けられ、そこを二十五菩薩が渡っていきます。この掛け橋は現世と浄土をつなぐ来迎橋を示していて、西方極楽から阿弥陀仏が二十五菩薩を従えて迎えにくることを示しているそうです。

久米寺へは近鉄電車の橿原神社前駅で降りて歩いていきました。



場所がよく分からなかったのですが、前方のこんもりとした森がその場所みたいです。



森の南を通って道を曲がると、左手には駐車場、奥には寺の門、そして、右には神社がありました。





この神社は久米御縣(くめのみあがた)神社といいます。久米寺の鎮守社だろうと思っていたのですが、帰ってから調べてみると、久米寺よりはずっと古い神社で、「延喜式神名帳」にも載っている由緒ある式内社でした。goo辞書によると、「御縣」というのは、「天皇の食事に供える蔬菜 (そさい) を栽培した朝廷の直轄地」を指すそうで、その直轄地に鎮座する神社が御縣神社と呼ばれ、大和国に七か所もあるそうです。ここの場所については、「日本書紀」の垂仁天皇二十八年に「屯倉(朝廷の直轄地)を来目邑にした。」という記事が載っているので、そのころに建てられた神社ではないかとのことです。そもそも、久米氏というのは、天孫降臨の際に、大伴氏と共に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を先導したとされていて、久米部は物部と同様に軍事刑罰を行った職業部とされています。神武天皇が皇后探しに大神神社の近くの佐韋河に赴くのですが、その時に先導した臣下が大久米氏でした。また、神武紀に「大来目に畝傍山の西、川辺の地に居らしめられた。」とあり、このためにこの辺りを来目邑というようになったということです。その後、久米氏の衰退とともに神社も衰えていきましたが、推古天皇2年に久米寺が建てられたために、その鎮守社になって復興したとのことでした。



そして、久米寺の山門です。この寺は聖徳太子の弟だった来目皇子が建てたとされていますが、久米仙人説もあるようです。詳しくは、橿原市のホームページに載っていました。





仁王像は小さいけれど立派でした。



境内に入ると、早速、掛け橋が見えてきました。









こんな橋がずっと本堂まで続いています。





橋の下をくぐることができました。この橋の上を二十五菩薩が渡るのですね。



練供養は15時からで、まだ30分ほど時間があったので、境内の写真を撮ってみました。これは地蔵堂。



そして、観音堂です。



これは本堂です。



その横に、こんな花が飾られていました。(追記2024/05/15:これは花祭りに用いる「花御堂(はなみどう)」でした。花で飾った屋根の下に小さな釈迦の誕生の立像があって、それに甘茶をかけてお祝いするようです






そして、本堂の中です。なかなか立派です。久米寺は真言宗御室派のお寺で、ご本尊は薬師如来像だそうです。



本堂から見た境内です。大きな木がありました。クスノキなのかな。





本堂の横には大日如来像がありました。



その横にあった石像群です。



これは何という建物だったかなぁ。



これは寶篋塔というようです。







掛け橋の横には多宝塔がありました。これは仁和寺から移築したもので、重要文化財になっています。この続きは次回に回します。


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