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奈良のむし探検

奈良に引っ越しました。これまでの「廊下のむし探検」に倣って「奈良のむし探検」としましたが、動物・植物なんでも調べます。

名古屋城見学3

2025-03-29 21:24:41 | ちょっと足を伸ばして
3月19日に名古屋城へ行きました。そのときに撮った写真の続きです。



不明門をくぐって、いよいよ本丸に入りました。そこから見上げた天守閣です。目の前にあるので、大変立派に見えます。耐震性がないので、入場ができないのが本当に残念です。



少し離れたところから撮りました。左側が小天守閣で、天守閣と小天守閣の間が剣塀になっています。



これが本丸御殿です。



さらに、遠くから撮ってみました。天守閣と小天守閣がよく分かります。



天守閣は南北に建っていて、右が北側、左が南側になります。





金鯱も撮ってみました。上の写真が北側の金鯱、下の写真が南側になります。説明によると、創建時の金鯱は慶長大判1,940枚、重さ215.3 kgの金が用いられたのですが、空襲で焼失した後、昭和34年に復元されたときには鉄骨鉄筋コンクリートで作られ、その上に厚さ0.15 mmの金板を貼ったそうです。金の重さはそれぞれ40 kgを超えるようです。鯱は頭が龍、胴が魚という空想の生き物だそうです。また、北側が雄、南側が雌で、大きさとデザインが異なるそうです。確かによく見ると違っていますね。



この後、本丸御殿に入ってみることにしました。入り口で、何人かずつ集めて注意がなされました。リュックを背に担いでいると障子を破るかもしれないので、腹側にしてくださいというような説明でした。入り口で、履物を預け、手荷物をロッカーに入れてやっと中に入ることができました。



説明書によると、本丸御殿は尾張藩主の住まいとして徳川家康の命により1615年に作られたとのことです。格式の高い御殿として知られたのですが、空襲で焼けてしまいました。それで、平成21年から復元に着手して、平成25年から公開を開始したとのことです。写真は中の廊下です。







廊下を歩いていると、襖絵が置いてありました。金箔が貼ってあるので光っています。名古屋城のHPによると、これは「竹林豹虎図」といって、狩野派の傑作で、重要文化財になっています。本丸御殿は空襲で焼失してしまいましたが、襖や天井板絵などは取り外されて別の場所に保管されていたため、多くが焼失を免れたとのことです。





さらに、進むとこんな部屋が見えてきました。やはり金箔でピカピカです。









しかし、こんな金箔の部屋が延々と続いていきます。鳥の絵が多いですね。







次から次へと部屋が出てきます。いったいどこを歩いているのか、途中でさっぱり分からなくなりました。







欄間の透かし彫りです。とにかく見事でした。





本丸御殿の見学が終わったので、そろそろ戻ることにしました。これは本丸表一之門跡です。これも空襲で焼けたので復元です。



清正の石曳です。天守の石垣普請は加藤清正に割り当てらました。清正自ら、石の上に乗り音頭を取ったと伝えられているので、それを表した像だそうです。





その横には梅林がありました。







ここから、東門に向かう途中で桜の花が満開でした。「名古屋城に咲く花」によると、オオカンザクラのようです。

これで名古屋城見学が終わりました。さすがに名古屋城だけあって、見る場所が多く、また、見ごたえがありました。

名古屋城見学2

2025-03-28 20:54:44 | ちょっと足を伸ばして
3月18~19日に名古屋へ行きました。18日は徳川美術館、19日は名古屋城に行きました。そのときに撮った写真の続きです。



名古屋城へは正門から入り、そこで、「名古屋おもてなし武将隊」の前田利家公に出会いました。その後、天守閣の方に向かいました。金網越しに見た天守閣です。





天守閣の手前には重要文化財指定の西南隅櫓があります。本丸の南西隅にあり、1612年に建造されたそうです。



お濠の中をよく見ると、なんと鹿が一匹いました。こんなところでどうやって暮らしているのでしょう。







近くの木の幹を見ると、ヒヨドリがしがみついていました。何かを食べているようすです。





この場所はちょっとした梅林になっていました。



これが天守閣です。お濠の中ににょきっと建っているような感じです。もともとの天守閣は1612年に建造され、1930年に城郭として初めて国宝に指定されました。その後、空襲で焼失しましたが、1959年に鉄骨鉄筋コンクリート造りで再建されました。しかし、現在は耐震性が低いことから、閉館しているそうです。天守閣の右側には小天守閣があり、天守閣と小天守閣との間は剣塀(つるぎべい)で結ばれています。塀の軒に槍の穂先が並べられているそうです。



北西側から天守閣を見たところです。





天守閣の北側には御深井丸(おふけまる)展示館がありました。



ちょうど野田末吉氏の名古屋土人形が展示されているというので見てみました。



これは鯛車。



鯱車。



絵馬鈴。





それに、山車です。





展示館を出て天守閣の北側を歩いていると、アセビの花が咲いていました。



その横に天守礎石がありました。もともと天守閣の地階穴蔵の地盤の上に置かれていたのですが、天守閣再建の際に現在の位置に移されたとのことです。



天守閣を東側から見たところです。





石垣工事は豊臣系の大名二十名に割り当てられたので、石には担当武将の目印が刻まれたと書かれていました。それで、石垣を見てみました。何か書かれているようですが、よく分かりません。



そして、いよいよ不明門をくぐって本丸に入ることになります。この先は次回に回します。

名古屋城見学1

2025-03-27 21:21:15 | ちょっと足を伸ばして
3月18~19日に名古屋へ家族旅行に行きました。18日は徳川美術館に行き、19日は名古屋城に行きました。名古屋城へは、たぶん、小学校の頃に行ったと思うのですが、それ以来のことで、本当に久しぶりでした。





ホテルの部屋は名古屋駅近くの高層階だったので、窓から名古屋城を見ることができました。名古屋城のHPによると、名古屋城は1610年から18年にかけて、徳川家康が子義直の為に築城したものだそうです。加藤清正、福島正則など、西国・北国大名20家に命じ、諸大名の抑止効果も兼ねて築城を開始したとのことです。





名古屋城へは地下鉄で行きました。名古屋駅から地下鉄桜通線に乗り、栄で乗り換えて名城線で2駅目の名古屋城駅で降りました。駅から外に出ると、そこに金シャチ横丁(宗春ゾーン)という食堂街がありました。





入り口には立派な金シャチがあると思ったら、水飲み場のようでした。







金シャチ横丁から東門に向かって進みました。途中のお濠は立派でしたが、水はありませんでした。



そして、東門の入り口に着きました。



地図も載せておきます。





正門は少し離れているのですが、この日は正門から入ることにしました。途中、ドルフィンズアリーナという愛知県体育館がありました。







体育館を過ぎると、重要文化財の二之丸大手二之門があります。





門を過ぎると、また金シャチ横丁(義直ゾーン)がありました。



ここも食堂街です。



入り口にはやはり水飲み場の金シャチがありました。







そして、ようやく正門に着きました。名古屋城のHPによると、正門は一部の家臣しか出入りできない格式高い門だったそうです。明治43年に江戸城から蓮池御門が移築されたのですが、戦災で焼けたため、昭和34年に再建されたものだそうです。





正門をくぐると天守閣がすぐ目の前に見えました。



正門を振り返ってみました。



すぐ左手には大変大きな木がありました。



樹齢600年以上のカヤの木で、天然記念物に指定されているようです。



葉を見ると、確かにカヤノキのようです。



ここからどこに行けばよいのかと正門付近でうろうろしていると、突然、槍を持ち、時代衣装を着た武人に声をかけられました。

「おぬしたち、いずこより参られた。」
「奈良です。」
「して、大和の国のいずれより。」
「郡山。」
「おー、秀長公のお国からか。」

とにかく、びっくりしました。でも、写真を撮らせてもらいました。お付きの方から一緒に撮りましょうと記念写真も撮ってもらいました。



いったい誰なのか、そのときはまったく分からなかったのですが、この後、本丸御殿の見学中にふと外を見ると、先ほどの武人の姿が見えました。旗を見ると、どうやら前田利家公だったようです。



着ていた羽織の背には立派な像が刺繍されています。後で調べると、加賀前田家伝来の重要文化財「刺繍菊鍾馗図陣羽織」の鍾馗(しょうき)図を象った刺繍のようです。ついでに、この武人は「名古屋おもてなし武将隊」のお一人だったようです。HPによると、「名古屋おもてなし武将隊」は有名武将6名、足軽4名で結成され、交代で出陣しているようです。名古屋城出陣表によると、19日は利家、太助と書かれていました。それにしても驚きました。

徳川園の植物と鳥

2025-03-23 20:46:48 | ちょっと足を伸ばして
3月18日に名古屋へ行きました。この日はまず徳川美術館で開かれていた「尾張徳川家の雛まつり」展を見た後、同じ敷地内にある徳川園に行ってみました。



ここが徳川園の入り口です。この場所は尾張徳川家2代光友が隠居所である「大曽根屋敷」に移り住んだことが起源になっています。当時の敷地は全体で44ヘクタールもあったそうですが、現在は徳川美術館を合わせて4.53ヘクタールと当時の十分の一になっています。そのうち、徳川園は2.3ヘクタールの日本庭園になっています。



中に入ったところに橋がありました。



シダレウメです。



これはネコヤナギかな。



さらに進むと虎仙橋と書かれた橋がありました。





橋の上から覗いてみると、下には道があり、その脇に大量のヒトツバが生えていました。





さらに歩くとアセビの花が咲いていました。





これはフッキソウのようです。



すぐ近くまでヤマガラがやってきました。





これはミツマタの花です。



そして、ウメの花です。



ウメが咲いているところを過ぎて、坂を下りていくと、大きな池が出てきました。ここは龍仙湖というようです。徳川園はこの池を中心にできていて、池泉回遊式の日本庭園と言われています。江戸時代の大名庭園によく見られる形式だそうです。





橋の向こう側には柳の木がありました。



広々とした景色です。



陽の光がキラキラして綺麗でした。



もう一度、池を振り返ってみました。

この日の見学はこれで終わることにして、名古屋駅に戻ることにしました。もと来た道を帰ろうと思っていたら、人が集まっているところがありました。ひょっとして境内にバス停でもあるのかなと思って行ってみると、なごや観光ルートバス「メーグル」のバス停がありました。ちょうどバスが来る時間だったので、「メーグル」に乗って名古屋駅バスターミナルまで行くことができました。

尾張徳川家の雛まつり

2025-03-22 21:26:05 | ちょっと足を伸ばして
名古屋にある徳川美術館で「尾張徳川家の雛まつり」という展示が開かれていたので、3月18日に見に行きました。その続きです。



展示室の入り口です。入ったところに雛人形が飾られているのかなと思っていたのですが、





中に入ってみると、こんな甲冑が飾られていました。説明によると、これは大名道具だそうです。毎年正月11日に書院で甲冑を飾り、旗や幟を立てて祝う大名家の年中行事を再現したものだそうです。



これは「葵門蒔絵細太刀拵」と書かれていました。高位な人物の豪奢で美麗な飾太刀を簡易にした細太刀拵だそうです。



これは紙雛図で、江戸時代後期のやまと絵派の画家田中訥言(とつげん)の作とされています。



これは茶室の復元です。





そして、これは二の丸御殿「広間」の「上段の間」を復元したものだそうです。



それから、やはり二の丸御殿に付属した能舞台の復元です。



そのうち、蓬左(ほうさ)文庫に入りました。これは徳川美術館の隣にある図書館です。建物が続いていたようです。



これは中庭です。



展示室がたくさんあったのですが、なかなか雛人形が出てきません。ひょっとして入り口にあった雛飾りがそれだったのかと疑い始めたころに雛人形の展示室になりました。ここが第九展示室だったかな。



これは尾張徳川家14代慶勝の正室貞徳院矩姫(かねひめ)の有職雛(ゆうそくびな)です。有職雛というのは公家の着る装束を正しく考証して作られた雛人形を指しています。





これは尾張徳川家19代義親夫人、20代義知夫人、21代義宣夫人の三世代の雛段飾りだそうです。向かって左が19代、中程が20代、右が21代になって、明治、大正、昭和の人形の変遷が伺われるとのことでした。







これは合貝(あわせがい)です。尾張徳川家初代の義直の生母相応院所要のもので、17世紀のものだそうです。貝の内側に細かい絵が描かれています。



これは犬張子(いぬはりこ)で、尾張徳川家菩提寺建中寺に伝えられたものだそうです。







最後は故・林駒夫氏ゆかりの雛人形だそうです。林駒夫氏は人形作家で人間国宝になられていた方のようです。

この後、徳川園に行ったのですが、次回に回します。