彼此9年前くらいに遡るんですが、天台僧に仏法の奥義云々について説明を求めたことがあります。その僧曰く「奥義云々は何とも・・・」と。取り立てて仏法に奥義云々は無いと答えがありました。私は「法華経は仏法の奥義では無いんですか?」と返答するとこの件に関しては閉口してしまいました。大学で学んだ仏教学と自宗の理論体系とのギャップが閉口した原因です。真面に素人とは話せないというのが偽らざる気持ちでしょうね(笑)。これからは近代の仏教学は蚊帳の外に置いて論じていきますね。
仏法は円教に極まるんですが、この円教にも権実の2種類があります。まず三諦円融した円教は法華経にしか述べられていません。法華経の優位性は一にも二にも究極の悟りの直道を経典自体が指し示していることにあります。そしてもう一つ大切なこと。それは法華経に込められた一念三千法理こそが仏種であるということです。大聖人以外の殆んどの他師は爾前の円教を認めています。しかし、妙楽と大聖人はその著書からも分かる様に法華経にしか仏種が無いとはっきりと結論づけています。
平安後期~鎌倉時代初期に現れた天台の大学匠である証真法印は円教こそ仏種であると理解した人です。伝説では夢に妙楽大師が現れて霊示を受けた逸話も残されています。証真法印は爾前の円教も広い意味で仏種と認めるんですね。日蓮宗は法華経以外仏種と認めない、これが大きな相違点です。さて一念三千ですが、一念三千にも「理」と「事」があると提示したのが大聖人さんです。2ちゃんねるなんかで天台僧は事の一念三千なんてあるか!とボロクソなんですがね。
天台の教えは甚だ位の高い教えでして、抑々下種なんてことを修業体系に於いて念頭に置いていないんです。あるのは「悟り」の修業のみなんです。「理」の一念三千とは天台独自の瞑想を指しているわけです。対して「事」の一念三千とは対象となるものを介して観想し、下種する観想法を指します。対象となるものとは御書に書いてあるとおり、「南無妙法蓮華経」または「妙法蓮華経」の五字七字であります。要は妙法蓮華経という五字を人体の頭・喉・胸・腹・足に指し当てて、自身が法界塔婆と観想するわけです。
名字を使い、言語を使い、対象の妙法曼荼羅を見ながら行うわけですから目も使うわけです。この観想はイメージのみで行う瞑想法ではないため「事」の一念三千と云うんですね。一念三千とは「理」では悟りを目指す瞑想法に、「事」では下種になるんですね。「理」と「事」は同じく一念三千の法体を基にしているんですが、正・像法と末法では用い方が違うことが焦点であると大聖人さんは説いているんですね。
仏法は円教に極まるんですが、この円教にも権実の2種類があります。まず三諦円融した円教は法華経にしか述べられていません。法華経の優位性は一にも二にも究極の悟りの直道を経典自体が指し示していることにあります。そしてもう一つ大切なこと。それは法華経に込められた一念三千法理こそが仏種であるということです。大聖人以外の殆んどの他師は爾前の円教を認めています。しかし、妙楽と大聖人はその著書からも分かる様に法華経にしか仏種が無いとはっきりと結論づけています。
平安後期~鎌倉時代初期に現れた天台の大学匠である証真法印は円教こそ仏種であると理解した人です。伝説では夢に妙楽大師が現れて霊示を受けた逸話も残されています。証真法印は爾前の円教も広い意味で仏種と認めるんですね。日蓮宗は法華経以外仏種と認めない、これが大きな相違点です。さて一念三千ですが、一念三千にも「理」と「事」があると提示したのが大聖人さんです。2ちゃんねるなんかで天台僧は事の一念三千なんてあるか!とボロクソなんですがね。
天台の教えは甚だ位の高い教えでして、抑々下種なんてことを修業体系に於いて念頭に置いていないんです。あるのは「悟り」の修業のみなんです。「理」の一念三千とは天台独自の瞑想を指しているわけです。対して「事」の一念三千とは対象となるものを介して観想し、下種する観想法を指します。対象となるものとは御書に書いてあるとおり、「南無妙法蓮華経」または「妙法蓮華経」の五字七字であります。要は妙法蓮華経という五字を人体の頭・喉・胸・腹・足に指し当てて、自身が法界塔婆と観想するわけです。
名字を使い、言語を使い、対象の妙法曼荼羅を見ながら行うわけですから目も使うわけです。この観想はイメージのみで行う瞑想法ではないため「事」の一念三千と云うんですね。一念三千とは「理」では悟りを目指す瞑想法に、「事」では下種になるんですね。「理」と「事」は同じく一念三千の法体を基にしているんですが、正・像法と末法では用い方が違うことが焦点であると大聖人さんは説いているんですね。
私自身が強いて仏法の奥義を挙げるとするなら、『三歸敬文』と『十善戒』です。
私にとっては、これが仏法の奥義だと思っています。仏教そのものは、本当は物凄くシンプルな教えだった筈です。お釈迦様が本当に言いたかったのは、人間として当たり前の事。ゴチャゴチャした小難しい事は言ってないと思います。
仏教は、ほんのチョットのヒントがあれば十分です。本来は自分自身を徹底的に見つめ直し、自分で自分自身の人生の答えを得る為の教えなのですから。
本当に究極の仏法は、今、我々が存在する世界そのものが仏法です。
要は人々がそれに気付くか気付かないかの問題です。
実際、茉莉花さんのおっしゃるとおりです。
>私自身が強いて仏法の奥義を挙げるとするなら、『三歸敬文』と『十善戒』です。
これが出来れば、現世で浄土が誕生したも同然ですからね。
ただここで云えることは、茉莉花さんが直視したがらない法理に我々蓮門に属する人間は執着しているってことでしょうね(笑)。僕自身の確信なんですが、円教が成仏の種であることは間違いないと考えています。茉莉花さんはその後、法華経三部の学習は進んでいますか?
仏教と並行しながら、キリスト教関連の学習もしているので、また空いたら、読み進めるつもりです。
キリスト教は、幼少期に私の心の土台を作ってくれた宗教なので、仏教に次いで重んじています。また、聖書には、仏教と通じる点が多々あるので、仏教の言葉で分かりにくい部分を聖書で噛み砕いています。
ヨハネの黙示録で獣を使って表現している箇所がありますよね。あれはバビロニア帝国やローマ帝国を意味しており、「おおいなるバビロン」とはニューヨークを指すという予言解説書を読んだことがあります。それであってるんでしょうか?
イエズス会は秘教的な教理を持つと聞いていますが、キリスト教関係でも密教のような教理体系を持つ宗派は存在するんでしょうか?
お暇な時で結構ですのでコメして下さい。
キリスト教の源流は、ユダヤ教ですが、ユダヤ教にも、密教が存在します。ユダヤの密教は、『カッバーラー』と言って、西洋オカルティズムの礎となったものです。
カッバーラーとは、ヘブライ語で、『受け取られるもの』を意味する言葉。日本の密教の様に、当初は口伝面授だったそうです。カッバーラーの概要は、ユダヤ聖典である、『タナッフ(旧約聖書)』を象徴を用いて解釈していくものです。カッバーラーの思想では、神の属性が登場し、一神教で在りながら、汎神論の姿勢をとっているところが特長です。聖書の内容を深く学ぶ場合、このカッバーラーが大きな鍵となります。
私自身、カッバーラーを研究していましたので、改めて聖書を読むと、非常に理解し易く、また、仏教とリンクする所が多々ある事に気づかされました。
カッバーラーを学ぶ時は、ヘブライ語の知識が無いと、理解出来ません。ヘブライ語の知識があれば、カッバーラーを理解する助けになりますし、原文を読むのにも役立ちます。
話が横道にそれましたが、カトリックや正教系、聖公会辺りも密教的な香りがします。この辺りは、典礼や秘蹟を重んじる傾向が強いです。また、ロザリオ(キリスト教の数珠)を使うのもこの辺りの特長。カトリックでは、ロザリオの祈りを捧げる際、ラテン語を使います。
イエスの処刑は、旧約聖書の内『セーフェルネビイムイシェヤー(イザヤ書)』でそれを予言する記述があります。
イエスは、イザヤ書の予言を実現する為に、敢えて処刑される道を選んだと云われています。
イザヤ書の予言はこうです。
『第53章
53:1だれがわれわれの聞いたことを
信じ得たか。
主の腕は、だれにあらわれたか。
53:2彼は主の前に若木のように、
かわいた土から出る根のように育った。
彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、
われわれの慕うべき美しさもない。
53:3彼は侮られて人に捨てられ、
悲しみの人で、病を知っていた。
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
53:4まことに彼はわれわれの病を負い、
われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
53:5しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲しめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。
53:6われわれはみな羊のように迷って、
おのおの自分の道に向かって行った。
主はわれわれすべての者の不義を、
彼の上におかれた。
53:7彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、
口を開かなかった。
ほふり場にひかれて行く小羊のように、
また毛を切る者の前に黙っている羊のように、
口を開かなかった。
53:8彼は暴虐なさばきによって取り去られた。
その代の人のうち、だれが思ったであろうか、
彼はわが民のとがのために打たれて、
生けるものの地から断たれたのだと。
53:9彼は暴虐を行わず、
その口には偽りがなかったけれども、
その墓は悪しき者と共に設けられ、
その塚は悪をなす者と共にあった。
53:10しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、
主は彼を悩まされた。
彼が自分を、とがの供え物となすとき、
その子孫を見ることができ、
その命をながくすることができる。
かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
53:11彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。
義なるわがしもべはその知識によって、
多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
53:12それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に
物を分かち取らせる。
彼は強い者と共に獲物を分かち取る。
これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、
とがある者と共に数えられたからである。
しかも彼は多くの人の罪を負い、
とがある者のためにとりなしをした。』
聖書の予言は、殆ど外れた事が無いと、昔御世話になった教会の牧師から聞いた事があります。
ヨハネの黙示録に関していえば、第二次世界大戦は正に予言通りの結果になっています。
因みにラテン語は、ヨーロッパ諸国の言語の母体となった言語です。話し言葉としては機能してはいませんが、今でも学名や、法律用語に使われる程、権威のある言語です。欧米では、ラテン語は必須課目なんだそうです。