これだけ二極化が進むとやけくそになって犯罪も増えると思います。人間思い通りにならないとどうにでもなれと、捨て鉢な考えが過るんですね。相対的な物の見方をする人が日本人にはとても多いと思います。他人がいい暮らしをしていると、こん畜生と思ういわゆる妬み根性というヤツですね。自分でも最低と思いながらも誰しも人が抱く感情なんですが、限度を越えると人は人で無くなっちゃうんですね。他人を傷つけても自分の欲するものを奪おうとします。ニュースで見る事件なんかでも結構多いんですね。アホとちゃうかと言ってる自分が先では当事者にならないとも限りませんから。人間、縁というものがあれば事件を起こす可能性は誰でもありますからね。
思いを因、きっかけを縁とした場合、因である思いの部分を改めることで事件の当事者になることを防ぐんじゃないかと考えるんですね。考え方一つでだいぶと変わってきますからね。一番大切なのは自分が世間の主人公だってことを忘れないことですね。自分がどんなに悲惨な境遇に身を置いていたとしても、自分自身がこの世に無ければ世間での実相は無いんですからね。富士山が綺麗で立派だと観ていて感動しても、見ている自分が居なければ富士山は無いのと同じですから。自分が居て初めて世間はあるわけで。世間があって後に自分があるって考えるからしんどいわけです。実存主義を突き詰めれば宗教哲学になっちゃうんですけど、臨済禅の物の考えは究極かと思いますね。それだけでは人間息が詰まるんで凡人は真宗的な考えも必要なんですね。
お勧めする書籍は臨済録と歎異抄ですね。私は臨済は厳父、親鸞は慈母の宗教哲学だと思っています。人間が悪魔にならないためには主体的な考えが必要だし、絶対的な救いを信じることも必要だと考えています。
思いを因、きっかけを縁とした場合、因である思いの部分を改めることで事件の当事者になることを防ぐんじゃないかと考えるんですね。考え方一つでだいぶと変わってきますからね。一番大切なのは自分が世間の主人公だってことを忘れないことですね。自分がどんなに悲惨な境遇に身を置いていたとしても、自分自身がこの世に無ければ世間での実相は無いんですからね。富士山が綺麗で立派だと観ていて感動しても、見ている自分が居なければ富士山は無いのと同じですから。自分が居て初めて世間はあるわけで。世間があって後に自分があるって考えるからしんどいわけです。実存主義を突き詰めれば宗教哲学になっちゃうんですけど、臨済禅の物の考えは究極かと思いますね。それだけでは人間息が詰まるんで凡人は真宗的な考えも必要なんですね。
お勧めする書籍は臨済録と歎異抄ですね。私は臨済は厳父、親鸞は慈母の宗教哲学だと思っています。人間が悪魔にならないためには主体的な考えが必要だし、絶対的な救いを信じることも必要だと考えています。
日蓮聖人が説いた下種の法とは有相観のことなんですね。解説、書写、読誦云々と神力品に書かれて在りますが、これは有相観を意味しています。更に肝要にこの法は纏められていると述べている箇所が在りますが、有相観の肝要な法があることを示唆しているんですね。→有相観の肝要な法→即ち日蓮聖人が説いた三大秘法となります。
まあ、日蓮聖人が説いた三大秘法が正味の結要付属で無いとしても、神力品の内容は有相観の肝要な法があり、それを特別に釈尊から付属されているわけです。
直接的な経典の記載は無いんですが、じっくり経文を読めば是等の理(ことわり)は理解出来るんですね。
昔、天台僧のアホが2ちゃんねるで日蓮聖人のことをボロクソに書いていましたが、アホは全く経文が読めていないことを自身で暴露していたわけです。
意外でしょ?やはり法縁と云うものがあるのかも知れませんね。
他宗に属して、その宗学を学んでいても、日蓮聖人の教義は抑えて置かないと仏教自体全く理解出来ないことになります。
延命十句観音経を下種観法で解釈することに異を唱える方もいますが、私は立派な下種観法の経文と捉えています。
中世、天台宗は日本の国教に均しい存在でした。天台座主はローマ教皇に匹敵する存在だったんですね。
それが今や他宗と同列の存在です。ただ日本仏教を鑑みて知って置かなくてはならないのは、痩せて枯れていても天台宗こそ日本仏教界の中で一番の存在であると云うことです。