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光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 永観律師に帰依し奉ります。

信心の観法

2024-06-07 11:39:35 | 日蓮・富士門流
興門・隆門の下種妙法観は究極の処、信心の観法・観心を求めます。身延の場合、天台の影響もあってか理を重視している様に思います。
身延の場合、究極下種南無妙法蓮華経は法華本迹未分に宗義の観法を置いているのかなと。
迹円は従因至果、本円は従果向因、観心は可思議境・不可思議境の天真独朗。此の観心の惣名を南無妙法蓮華経とし、身延は此れを教観一双の観法としている様に思います。あくまでも理が先行しているのかな。

対して興門・隆門も理は変わらないんですが、観心の惣名南無妙法蓮華経を信心の観法とし、信心に観法の土台を置いていますね。下種の観心は理ではなく信心と云う二アンスです。
私なんかは身延の考え方のほうが自分自身合っていましたから、何を言ってるんだって感じだったんですけどね。此の信心の南無妙法蓮華経の観心を信行観、天台流法華未分の天真独朗を法行観と云います。身延の観心は法行観寄りなんですね。興門の相伝書、百六箇抄や本因妙抄を読むと末法凡夫の下種観心は信行観こそ基だって読み解くことが出来ます。

此処が凄く大切な処でして、信心の観法である信行観こそ観心の元意なんです。理では無いんですね。であるなら、其の信心はどの様に捉えれば良いか?なんですが、お題目、三大秘法が成立した経緯・由来を読み解き、信じることかと思います。
コメント (139)
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やっぱり、富士門流が正嫡かと。

2024-06-07 10:25:56 | 日蓮・富士門流
まあ、謗法の論説も結構載せているんですが、何故かまた日蓮義に就いてあれこれ考えることがあったんで投稿しました。
其れは日蓮宗(身延)の教観相対をみて感じたことなんですね。ご存知のとおり日蓮宗は一致派です。現在の日蓮宗宗学は五重相対で教判の骨格を据えています。其の五重の最後が教観相対です。
其の一つ前は本迹相対で、迹門より本門がより深く悟りの内容を説いているって云う意味です。

更に深く教観相対で本門の教説と比べると、法華寿量品の文底に秘し沈められた(文底秘沈)観法がより重要だと説明しています。要は教判全体の流れは相対させることで、浅義から深義を説明しているんですね。ただ、日蓮宗の枠組みは最初に挙げた一致派が宗義です。
此れって矛盾していませんか?何故なら法華寿量品は本門です。また日蓮宗が唱える文底秘沈の観法は此の本門中から出たものなんですね。此処から導かれるのは勝劣派バリの教判だと云うこと。

何でこんな教判を生み出したかと云えば、富士門流や隆門を意識して相伝ではなく人工的に練り上げた教判だからなんですね。

一方の富士門流や隆門の五重相対の最後である種脱相対を見ると、本迹を一括りにした教観を熟脱とし、其の本迹を更に深掘りした教観を下種として相対させて説明しています。富士門流と隆門は本迹を区別した勝劣派で有名ですが、此方の方が一致派と云っても良いくらいです。では何故、勝劣派と称するかと云うと、法華本迹の法行観に関する教観を脱とし、また迹門とし、法華本迹の信行観に関する教観を下種とし、また本門としているからなんですね。法華文上の本迹の勝劣ではないんですよ。

此れを具体的に示したものに、富士門流に伝わる相伝書百六箇抄が在ります。此れを読むとハッキリ分かるんですね。隆門は富士門流系から種脱相対の極理を聞き及び、日隆上人が完成させた教義かと思います。伝播に就いてはまたの機会に述べるとして、日蓮義の正嫡は富士門流だったことで締めくくりたいと思います。
コメント (9)
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