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高潔で深遠なナショナリズム(アジアの共生=平和と繁栄)21世紀の日本のナショナリズムを模索・構築する

2015-09-23 23:10:52 | 日記

日本のナショナリズムは敗戦直後、席が無かった。いうまでもなく戦前の抑圧的な軍国主義思想と共同歩調を取ってきたツケが回ってきたからだ。それは冷戦下での左翼陣営の余りに政治主義的な価値判断や政治手法、思想によって全否定される結果となった。ナショナリズムという本来日本人に根差していたものが「言葉狩り」に遭遇したのだ。以来日本のナショナリズムはタブーになった。当時の言論界では忌避されて、潜伏してきた。
●冷戦下でタブー視されたナショナリズムの議論と総括
連合国が実施した東京裁判も冷戦下の産物と言えるかもしれない。戦争指導者の責任は問われなければならないが、また戦争指導者は責任を取るべきだが、これも冷戦下であったためか、曖昧ウヤムヤになってきた。根本的な問題設定として①太平洋戦争はどういう戦争であったのかーー戦争に導いたのはどのような勢力なのか?なぜ戦争を起こす必要があったのか?②戦後処理は多くの国民が納得するものだったのか? ③海外被害者が納得するものだったのか? ④思想的に完全とは言わないまでも、キチンと総括されているのか???……など、疑問は幾つも出てくる。その線上に東京裁判や、日本国憲法、靖国問題、従軍慰安婦、南京虐殺、バターン死の行進、満州(中国東北部)での731部隊による人体実験などなどの今、浮上している問題がある。①②③④……が一応の総括を成されるべきだったことは、現今の問題に賛成派も反対派も認めるところだろう。そして、日本の戦前のナショナリズムもタブー視され、潜伏してきたものが亡霊のように現れてきたのが戦後「逆コース」以来の日本だ。敗戦直後、ナショナリズム問題は疎んじられて議論すら欠乏していた。大衆運動にはこの問題の解答はあまりに政治的に処されてきたと言った方がいいのかもしれない。逆に言うなら否定できない根深さをもって、潜伏していたということだ。それが大きく水面上に現れてきたのが昨今だ。最近の上に挙げた諸々の傾向だ。そして突き詰めれば自民党における安倍総裁とその政権の誕生すら戦後の曖昧さに根差しているようにも見える。
●確かな実態からナショナリズムを模索・構築すると
太平洋戦争がなぜ起こったのか?戦争主導勢力はどこにあったのか?どんな戦争だったのか?被害者は誰で、どのように被害があったのか……??を、ここで逐一述べ立てるのは、あまりに山が高く複雑だ。それはひとまず措いておいて、日本の現状から見て少なくとも確かな事実がある。正すべき確かな実態がある。日本のナショナリズムが正面から取り上げるべきことがある。
●日本は安保条約の行政協定で裁判権を奪われている実態
それは戦後の日本が、サンフランシスコ講和条約を経た今も日米安保条約で、とりわけそのうちの行政協定で基地が置かれ、自主的な裁判権すら奪われている、米軍が裁判権を持っており、日本は米兵の犯罪の捜査もできないーーということだ。その典型例が沖縄に表れている。単純化すれば日本はいまだ、アメリカの支配下にあるということだ。
●安倍首相のアメリカ議会での安保法制成立演説の売国性
思想の側からすれば戦前「鬼畜米英」のスローガンを掲げていたナショナリストが戦後その旗を掲げなくなり、むしろ米に追従している醜態を晒していることだ。日本は独立しているかに装っているがいまだ敗戦を引きずっている。安倍晋三の対米従属は安保法制を、日本で議論する前にアメリカ議会で公表(密約がある?)するところに遺憾なく発揮されている。つまるところ安倍晋三は口とは裏腹に愛国勢力と真逆ではないのか? この大きな矛盾を日本の民族派、ナショナリストはどのように捉えているのか?
●民族派にも良心派はアメリカ従属とは一線画す動き
安保法制反対運動が盛んになり、やっとその問題、矛盾、不整合を真剣に熟慮する機運が出てきたようだ。良心的であるなら、国民に、理論に良心的であるなら当然の道筋だろうと思う。民族派にも、単純にアメリカ追従路線とは一線を画する路線が出てきたようだ。日本のナショナリズムはやっと、自身を取り戻しつつある。自身を取り戻す、現実的・思想的基盤を模索している。
●平成天皇の戦後70年経った今も激戦地で慰霊の心情
平成天皇が南太平洋のペリリュー島で慰霊したことなど、天皇家は戦争の被害者を篤く弔っており、一貫している。歴史認識が加害者としてご自身は深い反省と共にあるのだろう。8月15日の戦没者慰霊式典でも「先の戦争への反省と平和の大切さ」を強調した。新しい日本のナショナリズムはここに萌芽がある。戦争の反省の上に築かなければならない。
●従米ではなく、攘夷でもなく、自主独立で対等な日米関係を
そして日米関係が対等なものでなければならない。アメリカ戦争勢力に日本が先兵であれ、殿(しんがり)であれ自主性を預けて追従してはならない。日本に対米認識で二つがある、反米か新米かだ。しかしこれはどちらも錯誤がある。親米であっても、従属ではならないし、対等な関係を求めなければならない。反米であっても”攘夷”であってはならない。問題は自主独立を現状の安保条約は認めていないことだ。この自主独立路線が新しい日本のナショナリズムの構成思想となるだろう。さらにその根底にはアジアの平和と共生繁栄が置かれることだ。まず北東アジアでだ。ここに立った日本ナショナリズムが求められている。反安保法制の思想的根拠はここにあるのではないか?
●20世紀の日本のナショナリズムは宗教に変身した誤謬が
ナショナリズムは明治に入って、近代国家として国民を統合するために生まれた思想だが、日本の場合、ペリーの恐喝によって開国した維新の立ち上がりからして、軍事的色彩が強かった。それは尚武という武士思想を纏いつつ、復古的に探究された。記紀神話が事実であるかのように喧伝されとことから、ナショナリズムは宗教になった。そして復古ロマン主義が知識人や大衆を捉え、日露戦争が始まると事大主義的な理想主義が徳友蘇峰などにより咆哮され、昭和に入ると犠牲精神の美意識が現実を見る目を曇らせた。一方では監視と抑圧、牢獄が準備され、支えていた。
●かつてのナショナリズムは悪しきポピュリズム? 高潔で自省力が深い、深遠なナショナリズムを取り戻すべき
私にはこのナショナリズムは随分安手のシロモノに思えてならない。あっちこっちから大衆受けしそうな思想の断片を集めたキャッキコピーの産物ではないのか―ーという気がする。つまり、イエローペーパーが生み出した悪しき大衆主義(ポピュリズム)という気がする。日本本来のナショナリズムは決して排他的なものではなく和を貴び、高潔で自省心を大事にした、深く心に訴えようとする深遠なものだろう。
●百田尚樹の商業主義はミエミエ。過激な言葉で売りたい一心
敗戦を経た今でも、日本人の政府と大衆による総括がなされなかったために、事大主義的な理想主義と犠牲精神に懐古的な夢想を追って、ナショナリズムは復活しつつある。それも、商業主義的に。百田尚樹の懲りない発言は売らんかなの商業主義がミエ見えだ。それを持ち上げる商業資本が支えている。それやこれは世界的視野からすれば不思議な国ニッポンだろう。日本のナショナリズムはなんとご都合主義なのだろうーーと。高度成長が終われば経済邁進ではなく、戦争邁進なのかーと。それも、アメリカに命令されるまま主体性を放棄してーと。
ナショナリズムと言うと正統性を確保しようするためなのだろうか、戦前の軍国主義時代の偏狭で排他的、尊大で近隣諸国を蔑視するナショナリズムを継承する方向に流れやすい。彼らは日の丸を掲げはするが高級外車に乗りたがる人種ではないのか?
●平成皇室の慰霊の旅の意味を反芻すべき
しかし、以上に述べたように日本のナショナリズムの高潔さ深遠さに気づかなければならない。平成天皇に学べと言いたいのだ。国内の戦績は沖縄はもちろん海外の旧戦闘現場まで慰霊に70年たっても足を運んでおられる。平成の皇室は日本の将来への道を暗示している。その意味するところはあと半世紀もたってからいよいよ輝きを増すだろう。
●アジアの共生=平和と繁栄そして自主独立が日本のナショナリズムを構成するのではないか
旧レジームのナショナリズムに囚われることなくアジアの共生=平和と繁栄を樹立する自主独立外交を21世紀の日本の新ナショナリズムが胚胎すべきだ。まだ日本ナショナリズムを構築するまでに全体的な知識と組織はないが、それを模索する段階にある。