ご承知のとおり頭の中には思いや考えなど何もありません。
しかし言葉の表現が無いですけど、私(思考)が生きている
としているからこそ出てくるのですね。
繰り返し述べていますが、事実には摩訶不思議のとおり
それはまったく“無い”のです。
これは“ひとつ”の世界から、この世に「仮の個」として
体験に出没しているのではないでしょうか。
つまり、“ひとつ”という全体から「仮の個」として思考を
与えられたということです。
あくまでも「仮の個」は、本来が“ひとつ”という全体ですから、
完全な「個」というものは“無い”のです。
「仮の個」は思考で私(自我)ということですね。
これに、思考世界に生きているうちに目覚めようと、
弛まなく“只なる実践”をしているのです。
ご承知のとおり、思考という幻想世界は「苦楽」ありを
様々に創り上げるところであります。
この相対世界は、苦はいらないから楽ばかりをとはいかない
ようになっているのです。
ですから「もうわかったから!」と、頭の中が苦と楽の
無い、超越した本来の世界へと還るということです。
そこが“空っぽ”であり、穏やかな安らぎのある
“絶対安心”の境地ということです。
言葉で例えるとこの様なことですが、頭の理解ではなく
無意識、無思考を体得していくのです。
しかし言葉の表現が無いですけど、私(思考)が生きている
としているからこそ出てくるのですね。
繰り返し述べていますが、事実には摩訶不思議のとおり
それはまったく“無い”のです。
これは“ひとつ”の世界から、この世に「仮の個」として
体験に出没しているのではないでしょうか。
つまり、“ひとつ”という全体から「仮の個」として思考を
与えられたということです。
あくまでも「仮の個」は、本来が“ひとつ”という全体ですから、
完全な「個」というものは“無い”のです。
「仮の個」は思考で私(自我)ということですね。
これに、思考世界に生きているうちに目覚めようと、
弛まなく“只なる実践”をしているのです。
ご承知のとおり、思考という幻想世界は「苦楽」ありを
様々に創り上げるところであります。
この相対世界は、苦はいらないから楽ばかりをとはいかない
ようになっているのです。
ですから「もうわかったから!」と、頭の中が苦と楽の
無い、超越した本来の世界へと還るということです。
そこが“空っぽ”であり、穏やかな安らぎのある
“絶対安心”の境地ということです。
言葉で例えるとこの様なことですが、頭の理解ではなく
無意識、無思考を体得していくのです。