只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

工場の薪ストーブは暖かく経済的です

2015-12-25 08:41:57 | 日記
とにかく頭の中を“空っぽ”に近づけることですね。
思い込みを忘れきることです。

「思考心」は、例えば真ん中にデーンと居座って動じなければお気楽です。
「思考心」は動き回るからやっかいとなるのです。

例えば、“純心”は思考の無いもので自由自在で、大安楽ということです。
ですから、自分勝手に動き回る思考をおとなしくさせるのです。

ほとんどの方が、自分勝手に動き回る思考を気が付かないのです。
それだけ動き回っているのです。(笑)

例えば金儲けのことなど回りっぱなしです。記憶を使ってこの様に、
ああすれば、こうすれば絶対…と思考するのです。
万が一、思考通りになる場合がありますが、
どちらにしてもそれは幻想には間違いありません。

思考しなくても0,1mmも狂わず“成るようになる”のです。
ですからすべてはお任せ、お任せの心境ということです。

「何にお任せするの?」と言われそうですが、これは思考に繋がない、
思考しないということです。
成るようになる”は思考通りにならないということです。
逆の「成るようにならない」は思考通りですね。
言い方を変えると、思考しても思考しなくても結果は“成るようになる”のです。

ですから思考入れず“今、今、今”と今を離さない事ですね。


只の道…淡々と歩く

2回目となる僧璨鑑智禅師の「信心銘」の一節ずつを、
私(思考)が観てみましょう。

あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

想いを働かせれば、真理は隠され 想いを止めれば、暗く澱んでしまう… 前回

   『有念も無念も徒に精神を疲れさすばかり
      そのどちらも好んでも避けてもならない


いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
有念と無念は相対です。
ですから精神疲労を起こすのです。

例えば、勝った負けたの有念と
負けて残念、無念だ! は思考ですね。

その両方にも飛びついてはならないということですね。
どのように避けようかと思考しないということです。
勝ち負けの“それ”しかありませんので、
勝ちとか負けとか言葉がなく“それ”ひとつです。

すべてが思考無く“ひとつ”ということです。

今朝は山の千両、万両を庭に植え替えました

2015-12-24 08:35:59 | 日記
繰り返し書いていますが「善い思い込み」を
持たないことです。

いい人のはずだ、いいことがあるはずだ、うまくいくはずだ
ずっとうまくいくと思ってたのに・・と、しないことです。
このことを当たり前とすると、とんでもないことが起こることがあります。

ご存知のとおり、それと逆のことが起こる可能性ですね。
いい人が「とんでもない人」だったに変ることがあるのですね。
いいことがあるはずが「とんでもない事」だったに変ることがあるのです
うまくいくはずが「全然うまくいかない」に変ることがあるのです。

「そんな夢も期待もないこと言うなよ…」と言われそうな気がしますが、
事実がそうなるようになっていますから仕方ありません。

ですから、いい人も悪い人も存在しませんから思い込みしないことです。
いいことも悪いこともありません。
うまくいくことも、うまくいかないこともありません。
このことがわかるように、記憶を甦らせない“只観る”レッスンが必要です。

そうでないと、いつまでも私(思考)から支配される人生になりかねません。
記憶のまま、思い込みのまま、幻想のままということになりますね。
もちろん、逆の「悪い思い込み」も持たないことです。

中立のところにいて、心を無闇に動かさないことですね。


只の道…淡々と歩く

2回目となる僧璨鑑智禅師の「信心銘」の一節ずつを、
私(思考)が観てみましょう。

あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

すべてを放てば自然となり
来ることも去ることもなくなる
あるがままにまかせなさい
  そうすれば悠々自適に生きていける… 前回

   『想いを働かせれば、真理は隠され 想いを止めれば、暗く澱んでしまう

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
真実は思考の無いところにあります。
思考しているところには存在しません。

想いを止めるということは思考力が働くのです。
例えば嫌な出来事の思いを、思いだしたくないとすれば
思考が相対を創るのです。

ですから浮かんできた今の心をまったく相手にしないのです。
無視するのです。
放ったらかすのです。
触らないことです。
浮かんで来ても知らん顔してくださいね。
そのまま、そのままにしておけば自然と消えていきます。

だが、0,001秒の速度で念に取り付きますので
そのままにしておくには、刃物の上を歩くがごとく
最深の注意が要求されます。



今日はお客様に商品配達です

2015-12-23 10:59:05 | 日記
繰り返しですが私(思考)は相対世界にいます。

私(思考)が居るからあなた(思考)が居るのです。
私(思考)が居なければあなた(思考)も居ませんね。
この例えはわかるでしょうか?
今はわからなくていいのですよ、
たゆまない“実践”で次第にわかってきますので…。

善い事だけを望むのが私(思考)です。
悪い事は排除したがるのです。

好きな食べ物があれば嫌いな食べ物もあるのです。
好きな食べ物だけを望むのが私(思考)です。
嫌いな食べ物は排除したがるのです。
東の方向があれば西の方向があります。
登りがあれば必ず下りがあります。
繁栄があれば衰退があるのです。
儲けるがあれば損するが必ずあります。

この様に何かが在るとその逆が間違いなくあるのです。
しかし事実には“それ”しかないのです。
ですから善い事や悪い事のふたつは無いのです。
好き嫌い、上下、東西、繁栄衰退、儲ける損する等の
相対観念があると苦悩も出てくるのです。

それが完全に理解されれば悩みは吹っ飛んでいきます。
苦悩は思考が創作していることがわかるからです。

「でも?」がある以上は、理解は到底無理と言えますね。
「でも?」が思考だからです。(笑)


只の道…淡々と歩く
2回目となる僧璨鑑智禅師の「信心銘」の一節ずつを、
私(思考)が観てみましょう。

あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

真理に執着すれば度を失い
悟りという概念にさえ囚われて道に迷う… 前回

『すべてを放てば自然となり
  来ることも去ることもなくなる
      あるがままにまかせなさい
       そうすれば悠々自適に生きていける』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
頭の中の思考が“空っぽ”であれば自由自在です。
自然に、そのままに、あるがままに
本来が流れています。

それに乗っていれば悠々自適に生きていけますね。


今日は木の根っこ堀上です、汗ビッショリ・・(笑)

2015-12-22 11:17:35 | 日記
このブログには私(思考)と書いています。
これは思いであって実体のことを言っているのではありません。
ですから私と思っているのは思考だからです。

本当の自分(すべての人等)は例えで言いますと、
“無”であり“空”とも言えます。
その純粋意識では何も表わす事はできないのです。

ですから思考という与えられた道具を使って表わすのです。
表現するにはすべて『例え』を使っているのです。
この思考は念に取り付いた思考ではありません。
今、必要な道具です。

使ったらすぐ記憶箱に直して忘れておくのです。
また必要なときは記憶箱から引き出し、使ったら記憶箱に直して忘れておくのです。
無闇に使わないということですね。

しかし残念ながら、念に取り付いた思考は記憶箱から年から年中、
勝手に出てきて暴れまくるから問題を起こすのです。
こんなことを言うと「何言っているんだ!」と
怒り出します。(笑)

ですから念に取り付く思考力を完全に弱めるのです。
例えばニュースを聞くとき、『聞いて聞かない』のです。
それは今、今の音で過去です。

今この瞬間”には何も無いのです。
無思考”で、事実だけです。


只の道…淡々と歩く

2回目となる僧璨鑑智禅師の「信心銘」の一節ずつを、
私(思考)が観てみましょう。

あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。
 
大いなる道に生きるとは 易しくも難しくもない
だが視野の狭い人は恐れ疑い 急げば急ぐほど遅れてしまう… 前回

  『真理に執着すれば度を失い
     悟りという概念にさえ囚われて道に迷う


いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
何事も執着すれば真の今がわからなくなるのです。

例えば金儲けに執着すると
「お金の本来」がわからなくなるということです。
お金は物事の代償等に必要なだけです。

ですから、それに執着するといろいろ変化してきて
最終的には苦悩に陥ることになります。

真理は真理です。
悟りは悟りです。
それらは“無い”とすれば“無い”のです。

意味など“無い”のです。

常に実践!実践!ですね

2015-12-21 08:59:32 | 日記
私(思考)は、一生懸命に仕事をすれば多くの事を得る事ができると思っています。
はたしてそうでしょうか?

私(思考)があるかぎり、相対が在るということを忘れてはなりません。
一生懸命に仕事をすればするほど、身体を蝕むことにもなるのです。

ではどうすればいいのか?
それは私(思考)を極力、忘れ去ることです。

例えば、金持ちになりたい私(思考)を忘れ去ることです。
楽になりたい  〃
遊びたい    〃
信頼されたい   〃
頑張りたい    〃
有名になりたい    〃
豪華な家を持ちたい     〃
このような思い込みを持つ私(思考)を忘れ去ることです。

そんなことしたら夢も希望もないじゃないかと怒られるかもしれませんね。(笑)
でも夢とか希望は存在が無く幻想です。

ですから「どうぞ諦めて下さい」と言うしかありません。(笑)
この在りもしない幻想を、しっかり握り締めているものを
離さないかぎり、苦悩を背負う事になります。

「そんなことは無い!でたらめだ!」と、どうしても言う
私(思考)がいるのです。
自分としている私(思考)ですので消えていく訳にはいきません。
消えていくのが怖いのです。

長年、勤しんできた私(思考)ですので、幻想を真実としているのです。
しかし、どうやっても幻想は幻想なのです。(笑)

幻想を見破っていくのが“実践”です。


只の道…淡々と歩く

2回目となる僧璨鑑智禅師の「信心銘」の一節ずつを、
私(思考)が観てみましょう。

あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。
 
粗雑と精妙を区別せずにいなさい そうすれば偏見に陥ることはない… 前回

 『大いなる道に生きるとは 易しくも難しくもない
    だが視野の狭い人は恐れ疑い 急げば急ぐほど遅れてしまう


いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
大いなる道は“思考を相手にしない”ということです。
私(思考)を忘ずる生き方です。

この生き方に恐れ疑う人はなかなか幻想から
脱却できないということです。
大いなる道は“只の道”です。

その道は、私(思考)のいない“大安楽”に
辿り着くのです。
安心して、肝心な思考を入れず、一歩一歩と
確実に真剣に歩いていきましょう。