只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

野菜類が豊富に収穫できますので日々料理に出てきます。

2017-02-26 09:17:32 | 日記
ここも大宰府天満宮で、牛さんを奉ってあります。
とても見事な牛さんの創りで感心しましたよ。





何かを信じるというのは、常に疑いが裏側にあります。

そして何時か、その疑いが現実となり騙されたと
いうことになるのです。

ですから「思考自我」とはそのようなものですね。

自分のものではない他人から刷り込まれた常識や観念が、
苦悩の原因だということです。

信じなければ“只そのもの”といえるのです。
“只そのもの”であれば、それをやってみれば
“只”ということがわかるのです。

その様なことで、信ずることなく只やることが
“只なる実践”ということです。

これは難しいことも容易いことでもなく、
繰り返し述べていますが“只、やる!”ということで、
「何を?」が無いということです。

信じる、信じないは「何を?」が在るということで
苦悩になってくるのです。

この事は大学院で勉学しても遠く及ばないということです。
ですから“実践”の道を“只の道”というのですね。




只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
私(思考)の戯言は信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


自己を忘ずるとはこのことであり、徹するとも言うのです。
 これが本当の只管打坐です。要するに自己を忘じて
 身心一如に目覚めることです。すると自分というものが、
 本来は無かったと気が付くのです。
 その時からすっかり楽になるのです
。』



いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
執着を持っているいる以上、「思考自我」は
忘ずることはできませんと仰っています。

なぜなら真実は“今この瞬間・無思考”だからです。

このことを理解して只、実践するのです。
今、目の前のことに没頭するのです。

つまり没頭するということは、その時その場に
思考無し!”ということですね。

その“思考無し!”が「思考自我」を忘ずるということで、
身体と心がひとつに成り、
真実に“目覚める”ということです。

そのためには弛まぬ“只なる実践”の継続です。

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