只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

実践、実践で目覚めるときが必ず来るのです。

2018-04-06 08:51:56 | 日記
家の駐車場のところにある、ぶどうの木巨峰に若葉が
付き始めました。初めての栽培ですので楽しみです。




私(自我)と遠く離れて、「思考自我」を“只、見る!”のが
“只なる実践”の持続です。

私(自我)と離れないで、「思考自我」が実践するのが
二人三脚といい、いつまでたっても苦悩が襲い掛かるのです。

ですからこの苦悩と“おさらば~する!”ために、また
私(自我)を断ち切るために、弛まぬ“只なる実践”の
持続をしているのです。

何も私(自我)が悪いということではなく、
また善いことでもなく苦悩を創り上げるからですね。

そんな私(自我)が人生上で必要性は“何も無い”のです。

事実の人生はすべてが只、淡々と流れていく自然であり、
それが穏やかな安らぎのある“絶対安心”の境地です。

これ以上、言うことはありませんが、残念ながら
私(思考)が人生を支配している限りはどうすることも
できません。

繰り返し述べている通り、私(思考)は強大なエネルギーで
あり一筋縄ではいかないのですね。

地道に、コツコツと、絶え間なく幻想を落として
いかなくては目覚めることはできません。

しかし「思考自我」に“心”が振り回され、一時も早く救われる
のを待っているのです。

つまり支配されている状態から、逆に「思考自我」を
コントロール化に置くということです。

他人から何かをきつく言われ、それに反応するのではなく、
『あっ、そう』と受け流しそれでお終いとなるのです。

これに反応したら、どこまでいっても結論は着かないで、
恨み辛みを創るだけが幻想世界ということです。

常に、事実の世界という“これはこれ、あれはあれ” 
の“今この瞬間・無思考”だけです。


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