只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

畑を作る場所の、木や枝のてんこ盛りを日々整理です 笑

2016-07-27 08:34:03 | 日記
彫り上げた案内板です。
何とも言えない情緒がありますね。


屋久島の約三千年たった紀元杉です。




私と言う「自我」も、すべて実体というものがありません。
雲のように現れては、また消えていくものです。

身体も、思考も、感情も、感覚もすべて実体がなく、
雲と同じく一時的な現象でしかありません。

“真の自分”は“只、観ている”空なる存在で
何ひとつ影響はありません。

実体というものが「在る」ように見えるのは
様々な縁が重なり合って“今この瞬間”に
起こっているだけであるのです。

そして消えてゆく、実体というものがない
すべて「空」なのです。

例えば「雑草」ですが様々な縁で永遠に生えてきます。
枯れては新たに芽生え、芽生えては枯れの
永遠の繰り返しです。

同じ地球に現れる人間もしかり、
生死の繰り返しですから、真実から観れば
『生死』は無いということですね。

残念ながら私(思考)は「在る」として
理解しないのです。

繰り返し述べますが、妄想する思考癖が
理解しないまま「悩み苦しみ」を生み出すのです。

世界中を見渡せば、妄想する思考癖で残虐非道な
ことが起こっているのです。

この世に現れた人間の目的は、
過去世から引き付いている「妄想する思考癖」を落とすことです。

それが弛まぬ“只なる実践”ということです。



只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

・・全て人として生まれた時には知らずして
その諸条件を持った存在であったのです。…前回まで

   『こうした人智や人為を超えた私達であり心ですから、
  一筋縄で日常を思うような平安と満足を得ることなど不可能なのです。
   この間違いを根元的に解決し、本来の真相を体得するのが
    仏道修行であり参禅弁道です。非常に分かりにくいようですが、
      他に向かって探さぬように、求めぬようにすることです
。』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
人智や人為を超えたのが“心”ですから
わかりようがないのですね。

では「わかりようがない」からどうしょうもないでは
済まされないのです。

奇跡に近い人間としてせっかく誕生したものを、
苦悩の人生で過ごすことは“真の自分”を
知らないからです。

そして、まやかしの私(自我)で生きることは
寂しいかぎりです。

ですから、空から浮かんで来る念に取り付かない
只なる実践”をやるだけです。

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