それでも永山則夫が好きだ(スピンオフ)

「ねっとわあく死刑廃止」や、無期懲役囚で「とらえなおし」で知られる飯田博久さんや、小松川事件の李珍宇のことを書いたり色々

『沈黙の声』準備号(1983年8月20日発行)「“死刑”をめぐる現在の状況について」

2017-01-16 18:39:12 | 会報『沈黙の声』(その1)

永山則夫元支援者の武田和夫さんが、永山から追放された後、発行された『沈黙の声』という会報を冊子にまとめたものです。(どうして追放されたかは、武田和夫著【死者はまた闘う】を読まれてください。)

『沈黙の声』準備号の記事を、以下に載せます。 

 


 

『沈黙の声』準備号(1983年8月20日発行)

「死刑」をめぐる現在の状況について

「35年ぶりの無罪!」―免田氏への再審判決に対するマスコミの心情的な報道は、権力による一個人への修復しがたい侵害行為の重大性をあいまいにすると共に、その一週間前に意図的に設定された「永山裁判」上告審判決の強権性から世論の目をそらせるものとして機能した。

元々、「永山裁判」上告審に対するそれまでの報道は、下層「犯罪」者としての自主解放の斗いであったこの裁判を、「永山の獄中結婚」に対する温情判決だとしてその政治的性格を奪った上で、「死刑廃止か存続か」という問題に切りつめ、そこに世論の関心を集中させ、「他の事件とのバランス」を名目に「やはり存続」という判決を下しやすくしたものであった。

この上告審判決は、その内容自体、①一国の司法機関が厳正な審理をへて死刑から減刑したものをただ一回の形式的「弁論」で破棄するという、無謀かつ理不尽なものであり、②犯罪学者によって「犯罪」の環境決定論(遺伝説を否定する)の根拠の一つとされている”同一家族の兄弟間で犯罪者と非犯罪者が出る 事実を、環境的素因を否定する根拠に用いているなど科学性に欠け、③事実をわい曲・誇張してまで「事件」の凶悪性を強調し、④少年犯罪への量刑的配慮がI切なく、⑤被告人の政治的発言を(わい曲した上で)「無反省」の理由とする階級的報復の性格をもつものであり、一口に言って極めて主観的、非科学的、逎的なものである。

然しながら、下層「犯罪」者の仲間全体にとってのこの判決の意味を知るにはこの外形的事実に抗議するだけでなく、一審―二審―上告審の一連の、司法権力の対応をより深く吟味しなければならない。

永山裁判斗争は、市民が下層「犯罪」者との現社会での具体的な関係を問い直すなかで、一方的な「思い入れ」や「救援」ではなく、具体的実践による共斗をつうじて、両者の疎外関係を回復せんとする斗いであった。そして、市民の偏見を利用した、権力による下層「犯罪に者に対する違法捜査(それは多かれ少なかれ、全ての刑事事件に普遍的に存在する)を追及する、「静岡事件公開糾明」の斗いに対し、一審の裁判長簑原茂広を先兵とする司法当局内部「タカ派」の強硬路線は、かえって法務省の「弁護人ぬき裁判」策動という社会的問題を生じ、弁護士会が三名の国選弁護人に各三千万円の生命保険を付して協力したこの「国選」ゴリ押しの為に、裁判を更に一年三ヵ月空転させるという事態を生ずるに至った。

これをうけて、高裁の船田「ハト派」裁判長の登場となったのである。この裁判官が本当にハ卜派なのであるかどうかは疑わしい。彼らは法廷前の廊下に厚板でバリケードを作り、弁護団に「支援は何人いるのか」と尋ねる中で、「静岡事件について争えば結果は明白」と言う他方で減刑をほのめかし、「取り引き」を求めた。

元々、この様な背景のなかで、「結婚による人変わり」→「減刑」という筋書きが出て来たのである事を見のがしてはならない。

これらが、減刑以降、永山側でどの様に自覚され、その動向に反映されたであろうか。「結婚による人変わり」を永山の周囲が強調すると共に、永山の不当な、言いがかり的「自己批判要求]により武田が脱退した。そして、苦しい斗いの時期には見向きもしなかった文化人が永山に、「文学賞」を与える事とひきかえに近づき「永山は減刑で素直になった」「以前の政治的発言は共感できない。鼻白む思い」などと発言し、マスコミの「斗争放棄」キャンぺーンに手を貸す中での今回の上告審判決となったのである。

これらは、ただ周囲の者が宜伝していただけといってすませる事は出来ない。永山則夫自身が、市民のどのような部分とつながり、彼らに対してどの様な言動をとっているのか、という事がこれらに密接に関係しており、結局は永山自身の在り方の問題といえるのである。一審の[死刑]判決、斗う中での戦術的敗北は本当のいみでの敗北とはいえない。然し今回のそれは、一審からの一連の経過のなかで、問題をそらされ、[死刑存廃]問題に一般化され(最近の永山が判決前に書いたという文章(「キケ人ヤ35号」一面Iこのデマ紙の問題性については別途、批判する)でも、永山自身が、如何なる口調で語ろうと、「死刑存廃」という設定された土俵でしか裁判の政治状況を展開できていない事が分る)、「人変わり」「斗争放棄」とされた上で過去の斗いの成果をことごとく「破棄」される、というものであり、下層「犯罪」者、死刑囚全体に対するその責任は大きいものである。

下層「犯罪」者の仲間遠にとって、とりわけ死刑囚の仲間達にとって、状況は厳しいものとなっている。権力の動きは、「えん罪の死刑囚には再審を(それはごく一部分にすぎない)」という宜伝によって、「死刑廃止」の斗いを分断し、市民・の合意のもとに「犯罪」者抹殺を強化せんとしている。これに対抗するには、一般論だけでなく、各個別の一つでも多くの死刑裁判に於て、被告との共斗をかちとり、具体的に「死刑」を問い、「犯罪」を問うてゆく力をつくり、それを結集させていくことが必要である。それがこのかんの動向から得られる教訓である。

(抜粋以上)

 

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。